社会を知る(前編)
模擬戦から一週間。
王立貴族院の研究棟は、かつてないほどの活気に包まれていた。
「科導」という新しい学問は、まだ理解されてはいなかった。
しかし、多くの研究者が興味を抱いていた。
アルフレッドの研究室には毎日のように訪問者が現れる。
「論文を読ませてほしい。」
「干渉結界の理論を教えてくれ。」
「共同研究をしないか。」
研究者としては名誉なことだった。
だが、その一方で研究は思うように進まなくなっていた。
応対に追われ、実験時間が削られていく。
そんなある日の夕方。
エゼキエルが机の上へ一枚の紙を置いた。
「今日の来訪者。」
そこには二十名以上の名前が並んでいた。
アルフレッドは苦笑する。
「増えましたね。」
「当然だ。」
老人は椅子へ腰掛ける。
「だが。」
「今のお前には。」
「もっと足りないものがある。」
アルフレッドは首を傾げた。
「研究ですか。」
「違う。」
「社会だ。」
「社会……ですか。」
エゼキエルは静かに頷く。
「お前は優秀だ。」
「理論も組める。」
「実験もできる。」
「だが。」
老人は工具箱から一本の金槌を取り出した。
使い込まれ、柄には細かな傷が刻まれている。
「これは誰が作ったと思う。」
「鍛冶職人でしょうか。」
「そうだ。」
老人は金槌を机へ置いた。
「では。」
「研究者だけで。」
「これを世の中へ広められるか。」
アルフレッドは少し考える。
「難しい……ですね。」
「なぜだ。」
「職人が必要です。」
「商人も。」「運ぶ人も。」「買う人も。」
老人は満足そうに頷いた。
「その通りだ。」
そして静かに続ける。
「研究室にいるだけでは。」
「人が何を求めているか分からん。」
「本当に必要な道具も分からん。」
アルフレッドは黙り込んだ。
確かにその通りだった。
自分は理論ばかり見てきた。
魔素の流れ。術式の効率。熱量。圧力。
だが、人々の生活は見ていない。
翌日。
エゼキエルは一枚の紹介状を書き始めた。
アルフレッドが驚く。
「どなた宛ですか。」
「冒険者ギルドだ。」
「……え?」
「冒険者になれ。」
アルフレッドは思わず立ち上がった。
「私がですか?」
「そうだ。」
「だが先生。」
「私は戦闘向きでは……。」
老人は笑った。
「誰が。戦うために行けと言った。」
アルフレッドは言葉を失う。
「依頼を受けろ。」
「街へ行け。森へ行け。職人と話せ。農民と話せ。商人と話せ。」
「困っている人間を見ろ。」
老人の声は静かだった。
しかし重みがあった。
「研究者が作るべきものは。」
「研究室では決まらん。社会が決める。」
三日後。
アルフレッドは王都冒険者ギルドの前に立っていた。
巨大な石造りの建物。
中からは笑い声や怒鳴り声が聞こえてくる。
貴族院とはまるで違う空気だった。
扉を開ける。酒の匂い。革鎧。
泥の付いた靴。
傷だらけの冒険者たち。
誰も公爵家の紋章など気にしていない。
受付嬢が微笑む。
「ようこそ。」
「ご依頼ですか?」
アルフレッドは首を振った。
「登録をお願いします。」
受付嬢は少し驚いた顔をする。
「学生さんですか?」
「はい。ですが紹介状があります。」
アルフレッドは紹介状を取り出した。
受付嬢は紹介状を見て書類へ記入する。
「登録できます。」
「ただし。最低ランク、銅級からになります。」
周囲の冒険者がちらりと見る。
「貴族様か。」
「すぐ辞めるだろ。」
「実戦は甘くないぞ。」
そんな声も聞こえる。
アルフレッドは反論しなかった。
彼らは間違っていない。
実戦経験はほとんどない。
研究だけでは依頼は達成できない。
受付嬢が木札を差し出した。
「これが冒険者証です。」
アルフレッドは静かに受け取る。
木札は軽かった。しかし、その重みは公爵家の紋章よりも大きく感じられた。
ここでは身分は通用しない。結果だけが評価される。
エゼキエルが送り出した理由を、少しだけ理解した気がした。
研究室では決して得られない経験が、ここにはある。
アルフレッドは木札を握りしめる。
「まずは。一つずつだ。」
彼は依頼掲示板へ向かって歩き出した。




