知の決闘(後編)
演習場北側の狭い通路。
アルフレッドは腰の青い科導具へ静かに手を添えた。
これはまだ未完成の試作品だった。
理論は成立している。
しかし実戦で使ったことは一度もない。
研究室で安全性を確認しただけである。
エゼキエルは何度も念を押していた。
「完成していない術式を戦場で使うな。」
だが同時に、こうも言っていた。
「どうしても使うなら。」
「理論上、安全性を説明できる時だけにしろ。」
アルフレッドは深く息を吸う。
頭の中で理論を確認する。
水科導は水魔導ではない。
大気中の魔素を利用して魔石内部で真素を励起し、術式に従って水を生成する。
生成した水をさらに熱科導術式へ通すことで、一部を瞬時に高温蒸気へ変える。
ここで重要なのは爆発ではない。
急激な体積変化である。
水が蒸気へ変わることで周囲の空気が押し広げられ、局所的な圧力変化が生じる。
研究室で確認された現象だった。
アルフレッドはその記録を思い出す。
> 「衝撃そのものではなく、押し返す力として利用できる。」◇
彼は科導具を起動した。
淡い青い光が足元へ広がる。
術式が静かに動き始める。
魔石が大気中の魔素を取り込み、内部術式が真素へ変換する。
その直後。
掌ほどの水球が現れた。
観客席がざわめく。
「水魔導?」
「違う。」
「詠唱していない。」
教授たちも身を乗り出す。
アルフレッドは水球を地面へ落とした。
そして。熱科導術式を起動する。
シュッ!
水が一瞬で白い蒸気へ変わる。
狭い通路が濃い蒸気で満たされた。
次の瞬間。
ドンッ!
小さな衝撃が生じる。
爆発ではない。急激に膨張した蒸気が空気を押し広げただけだった。
その圧力で蒸気が一気に通路の外へ噴き出す。
白い霧が演習場へ広がった。
視界が消える。
「煙幕!」
観客席から声が上がる。
アルフレッドは首を振る。
違う。
これは煙ではない。水蒸気だ。
レオンハルトはすぐに気付いた。
「視界を奪う。」
そういう狙いではない。
蒸気はすぐ薄くなる。
問題は、その一瞬だった。
火球との視線が切れた。
追尾術式は術者の補助制御も利用している。
視界を失えば追尾精度が落ちる。
「なるほど。」
レオンハルトは思わず笑った。
面白い。
本当に面白い。
火球を爆発させるのではない。
火を消すのでもない。
環境そのものを変えてしまう。
蒸気が晴れる。
アルフレッドの姿は消えていた。
次の瞬間。西側の柱の陰から彼が現れる。
予定通りだった。
防御の薄い方向へ移動していたのである。
「やられた。」
レオンハルトはすぐに術式を書き換える。
だが一歩遅い。
アルフレッドは既に二本目の柱まで到達していた。
障害物が増える。包囲は崩れた。
試合は振り出しへ戻る。
観客席では拍手が起こった。
派手な魔導ではない。
巨大な爆発でもない。
だが、全員が理解した。
今の一手は偶然ではない。
演習場の構造。蒸気の膨張。火球の追尾性能。
すべてを計算した上での行動だった。
教授の一人が静かに呟く。
「知識で包囲を破った。」
エゼキエルは腕を組んだまま小さく笑う。
「ようやく。」
「研究成果を戦術へ変え始めたな。」
一方、レオンハルトも笑っていた。
負けそうだからではない。
予想以上だったからだ。
「まだ終わらない。」
彼は静かに魔力を高める。
「ここからが本番だ。」
火球が一つ、また一つと空へ浮かぶ。
しかし今度は配置が違う。
これまでより高く。より広く。
明らかに別の術式へ繋がる布陣だった。
アルフレッドもその変化に気付く。
「術式を切り替えた……。」
測定器の針が大きく動く。
魔素の流れが変わる。
これまでとは異なる大規模術式。
そしてレオンハルトは静かに宣言した。
「ここからは。私の切り札だ。」
演習場上空に浮かぶ火球が共鳴を始める。
赤い光が一本、また一本と結ばれていく。
まだ形はない。
しかし誰もが感じていた。
巨大な術式が完成しようとしていることを。
アルフレッドは科導具を握り締める。
「先生。」
心の中で呟く。
「研究は。ここからです。」




