最初の科導具(前編)
「理論だけでは、世界は変わらない。」
ある朝、エゼキエルはそう言って、一冊のノートを閉じた。
机の上には完成した『科導理論』の初稿が積み上げられている。
魔素現象論。
魔石循環理論。
術式制御理論。
まだ仮説を含む未完成の理論ではあるが、半年以上の研究成果が一冊へまとめられていた。
アルフレッドはその表紙を見つめる。
「先生。」
「何だ。」
「ようやく形になりましたね。」
「ああ。」
老人は頷く。
「だが。」「ここからが本番だ。」
アルフレッドは少し首を傾げる。
「本番?」
「学問が正しいかどうかは。」
老人は窓の外を指差した。
「社会で役に立つかで決まる。」
その一言に、アルフレッドは考え込んだ。
確かに理論は完成しつつある。
しかし、それを使えるのは研究者だけだ。
誰も使えない学問なら、文明は変わらない。
老人は机の引き出しから古びた魔導灯を取り出した。
王都ではどこにでもある、ごく普通の照明器具である。
中央へ小さな魔石をはめ込み、術式を刻んだ金属板が取り付けられている。
「これを見ろ。」
アルフレッドは何度も見たことがある。
「一般的な魔導灯ですね。」
「ああ。」
「何が問題でしょう。」
老人は魔導灯を分解し始めた。
外板を外す。魔石を取り出す。術式板を抜く。
十分ほどで部品が机いっぱいに並んだ。
「部品は何個ある。」
アルフレッドは数える。
「三十二。」
「これだけ必要だ。」
「……確かに多いですね。」
「しかも。」
老人は魔石を持ち上げる。
「魔導士が定期的に魔力を補充しなければ使えない。」
「一般人だけでは維持できません。」
アルフレッドは頷く。
それは当たり前だと思っていた。
魔導とはそういうものだからだ。
しかし老人は違う。
「当たり前を疑え。」
「なぜ魔導士が必要なんだ。」
「魔石が勝手に魔素を集めるなら。」
アルフレッドは目を見開いた。
「……補充はいりません。」
「そうだ。」
老人は笑った。
「では作ろう。」
二人は最初の科導具の設計を始めた。
科導具とは魔石に大気中の魔素を取り込み魔経路により発動する道具である。
ゆえに魔力を持たないアルフレッドでも扱える。魔力を扱うための器官、魔経路は存在するからだ。
もっとも最初から便利な道具を作ろうとはしなかった。
研究で最も重要なのは、単純な構造で理論を証明することである。
そこで選んだのは照明だった。
「火を出す必要はない。」
アルフレッドは設計図へ線を引く。
「熱も不要です。」
「光だけで十分ですね。」
老人は頷く。
「失敗した時も安全だ。」
設計図は何枚も描き直された。
魔石の位置。魔素流入口。術式の配置。放熱構造。
どれも魔導灯とは異なる。
魔力ではなく、大気中の魔素を循環させる構造だからである。
アルフレッドは設計図を眺めながら考え込んだ。
「先生。」
「何だ。」
「問題があります。」
「言ってみろ。」
「魔素は集められます。」
「ですが。」「魔素量が天候で変わります。」
老人は目を細めた。
「続けろ。」
「晴天と雨の日では。大気中の魔素濃度が違います。」
「供給量が一定ではありません。」
「そのままでは光が強くなったり、弱くなったりします。」
老人は満足そうに笑う。
「良い。その問題に気付いたか。」
アルフレッドは少し驚いた。
「先生はご存じだったのですか。」
「予想していた。」
「だから。」
老人は紙へ新しい四角を書いた。
魔石。その前へ、小さな術式を追加する。
「調整機構を入れる。」
「調整?」
「魔素を一定量だけ流す。」
「余れば逃がす。」
「不足すれば蓄積分を使う。」
アルフレッドは図面を書き直し始めた。
「つまり。魔素の流れを均一化するのですね。」
「そうだ。」
「現象を安定させるには。」
「まず供給を安定させろ。」
その考え方は、後にあらゆる科導具の基本設計思想となる。
性能を上げる前に、まず安定性を確保する。派手さはない。
しかし、量産される道具には欠かせない発想だった。
夕方。
設計図はようやく完成した。
アルフレッドは大きく息を吐く。
「できました。」
老人は図面を眺める。
しばらく沈黙した後、静かに頷いた。
「設計としては悪くない。」
「ですが。」
「これで動く保証はありません。」
「もちろんだ。」
老人は笑う。
「図面は理想だ。現実は、もっと意地が悪い。」
二人は顔を見合わせて笑った。
設計図が完成しただけで、道具は完成しない。
むしろ、本当の苦労はこれから始まる。
材料を加工し、組み立て、試験を繰り返す。
そして何度も失敗する。
それでも改良を続ける。
それが研究者であり、技術者の仕事なのだから。
翌日から、二人は最初の科導具の製作へ取り掛かることになる。




