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56.グレモリー


「双葉……! 如月……!」

「お兄ちゃん……!」

「夫婦喧嘩はもう終わったんですか?」

「冗談言ってる場合か?」

 俺は雛山を倒して、双葉たちに追いついた。双葉たちはバアルと戦いながら、俺に声を掛けてくる。如月はいつも通りジョークを飛ばしてくるし、苦戦していないのだろうか?

「天草……」

 バアルは相変わらずの姿で、メンバーからの攻撃に晒されていた。だが、炎と遠吠えのせいで、まともに近づけず、大したダメージも与えられていないようだ。炎は瓦礫を融かしているほどだから熱気に触れるだけで死ぬかもしれないし、遠吠えはまともに聞くと鼓膜が破れる。接近戦タイプだとかなり不利な状況を強いられる。

「これは、思ったより大変かも……」

「そうですね……蜘蛛切っ!」

 如月が刀を振るうが、その衝撃は遠吠えに掻き消される。―――蜘蛛切は、かつて土蜘蛛を切ったとされる刀の名前だ。元々は膝丸という名前だったらしいが、それがころころと名前を変えていったらしい。蜘蛛切もその一つだ。このバアルは下半身が蜘蛛だから効果があるのだろうが、打ち消されれば意味がない。

「あたしのサリエルも近づかないと意味ないし……どうしよう?」

 近接攻撃は使えず、遠距離攻撃も防がれる。背後から回り込もうにも、頭の数が多いから無理。それでも切り込もうとすれば危険が大きすぎる。このままではジリ貧になるのが見えている。

「ったく……俺が行く。俺に火力が集中すれば、隙も出来るだろ」

「ですが、それでは織部君が―――」

「今の俺なら、多少のゴリ押しは寧ろ楽な戦法だ。……行くぞ」

 俺は片手剣を構え、バアルへと突っ込んでいく。遠吠えも炎も、片手剣で切り裂いていった。……通常状態では力負けしていただろうが、今の俺にはバアル化による身体能力がある。強引に押し込むのに問題はない。

「天草……!」

 バアルの攻撃を切り抜け接近すると、片手剣を振るう。だが、蛙頭が吐く炎に受け止められた。

「……っ!」

 俺は即座に持ち方を変え、片手剣を蛙の口に、炎を突き破るようにして突っ込む。同時、左手で猫の頭を掴んで、遠吠えを止めた。

「ぐっ……!」

 二つの頭を封じたが、奴にはまだ人間の頭が残っていた。上半身が健在の体で、俺の首へと手を伸ばしてくる。今の俺に、それを躱す術はない。あっさりと首を掴まれ、力を込められる。

「お兄ちゃん……!」

「織部君……!」

「がっ……!」

 双葉たちの声が聞こえてくるが、今重要なのは俺の心配ではない。バアル化で体は強化されているから、この程度で命に別状はない。それより、奴の行動が封じられている今の内にダメージを与えなくては、作戦成功が危ういのだから。

「ぅっ……!」

 だが、今の俺にそれを伝える術はない。ダメージそのものは大したことないのだが、さすがに声を出すのは無理だ。

「織部君……!」

 けれども、直後に左手の猫が抵抗を止めた。俺は左手を離すと、バアルの手を掴んで首元を緩める。

「織部君……」

「雛山……」

 バアルの向こう側には雛山が立っていた。雛山が猫の頭を屠ったようだ。……さっき倒したのに、もう復活したのか。

「ったく……!」

 俺は片手剣を蛙頭の中へ強引に押し込む。蛙頭が爆ぜ、バアルの手も完全に止まる。

「天草ぁーーー……!」

 バアルの手から抜け出して、その本体を軽く切りつける。バアルは悲鳴を上げるように口を開き、体勢を崩すが、ダメージ自体は大したことないだろう。

「織部君……!」

 俺に合わせたのか、雛山もバアルの背中に木刀を叩きつける。隙が出来たので、一度離れて雛山と合流する。

「お前……どうして来たんだ?」

「……」

 俺の問いに、雛山は即答しなかった。……こいつは天草を守ろうとして、俺に倒された。無論、大したダメージではなかっただろうから、復帰自体は容易だ。だが、こいつがここにいるということは―――覚悟は、出来たのだろうか?

「……天草さんを、助けたいの」

 雛山はそう言って、俺に覚悟を示してきた。……バアルのほうを見やると、そちらは他のメンバーが対処していた。失った二つの頭は再生しかかっていて、それを相殺するので手一杯のようだが。

「……なら、行くか」

「……うん」

 邪魔をしないなら、問題ない。俺は雛山を連れて、もう一度バアルの元へと向かった。



  ◇◆◇



 ……闇。ううん、これはそんなものじゃない。色なんて概念はなくて、虚無だけが広がっていた。けれど、それは矛盾した表現だった。色がないなんてあり得ないし、本当の虚無なら私という存在があるのはおかしい。

「……」

 沈黙、という言葉さえ、ここでは意味を持たない。そもそも、ここには音という概念がない。いや、言葉というものにすら意味を持たない。ここにいるのは私だけだし、人が一人だけでは、言葉の存在意義なんてないから。

「……」

 というか、私は人なのか。人間なんて枠組みからは弾かれているし、体も既に溶けて消えている。何を以って人とするのか。とても哲学的な命題だ。

「……」

 哲学といえば、「我思う、故に我あり」という言葉がある。つまり、今の私は確かに存在しているんだろうか? でも、今の私はどこにいるんだろうか? 少なくとも、人として存在しているわけではない。もしかしたら、意識が集う領域があって、そこに集められたのかもしれない。

「……ぁ」

 哲学の知識をどこから得たのか。いやそれ以前に、そもそも私は人だったのか。それを考えていたら、一つだけ思い出したことがある。それは、人の顔だった。……私が人間だった頃、最後に見たのは彼女だった。人という存在を捨てる直前、私を見届けてくれたのが彼女だったのだ。

「……ん」

 彼女の名前を、思い出そうとする。記憶なんて残っていないはずなのに、それは見つかりそうなのだ。

「……さん」

 彼女は、私が人間だった頃、最後に一番長い時間を過ごした人だ。だからこそ、記憶が消え失せようと、その顔も、名前も、完全に消えたりはしない。

「……山さん」

 聞こえる。彼女の声が、この世界を超えた、遥か遠くの違う場所から。だから、行かなくてはいけない。彼女の元へと、今すぐに。

「雛山さん……!」

 私はその名前と共に、自分の全てを取り戻した。虚無は色を持ち、沈黙は音となり、熱も感触も姿を見せる。

「―――帰ろう」

 肉体を取り戻し、記憶を取り戻し、自分を取り戻す。そして、帰るのだ。私の居場所に。

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