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54.ムルムル

「……っ」

 作戦開始と同時、私は天草さんの元へと走っていた。……今の彼女はバアルだけど、天草さんには違いない。だから、他の人たちに傷つけさせるわけには行かなかった。

「天草さん……!」

 他の前衛メンバーよりも先行して、天草さんのところへ向かう。彼女が変化したのは強力なバアルだし、みんな彼女を倒すつもりはないと分かっている。けれど、天草さんを傷つけるような真似はしたくないし、させたくない。だから、私が彼女を守るんだ。

「雛山……! 先行しすぎだ……!」

 後方から織部君の声が聞こえてくる。けど、私は立ち止まるどころか、振り返ることすらなく、目的地へ駆けていく。……例え織部君でも、邪魔をするなら容赦はしない。幸い、私は学園の誰にも負けたことがない。望月先生にも勝てたから、前衛メンバーくらいなら倒せる―――までは行かなくても、相打ちくらいにはなるだろう。いや、最低でもそれくらいにはしなければならない。

「あっ……!」

 すると、目的地が見えてきた。その真っ黒なフォルムは、八つ脚の丸い下半身と、三つの上半身で構成されている。蛙や猫の頭にも、下半身にも、彼女の面影はない。ただ一つだけ、未だに人間の形を保った上半身だけが、天草さんの名残であった。

「天草さんっ……!」

「待て……!」

 彼女に駆け寄ろうとしたら、誰かに腕を掴まれた。振り返ると、そこには織部君がいた。どうやら、相当無理をして追いついたらしい。息を切らしている。

「……お前、馬鹿なことを考えてないか?」

「放して……天草さんを助けないと」

「今のあいつを守っても、あいつは救われない。それくらい、分かるだろ?」

 その手を振り払おうとしたけれど、出来ない。力は織部君より私のほうが上のはずなのに、まるで双葉ちゃんに手錠で拘束されたときのように、びくともしなかった。

「今のあいつを救うには、作戦を遂行するしかない。今のあいつを守っても、バアル化が進行して、本当に助からなくなるぞ。それが分からないのか?」

「……」

 織部君の言い分は理解できる。けど、天草さんを攻撃することなんて出来ない。だからこそ、彼女を守るためにここまで来たのに。

「お兄ちゃん……! うーたん……!」

 そうこうしているうちに、双葉ちゃんも追いついてきた。この分だと、他の人たちもすぐに来るだろう。

「双葉、こいつを縛っておけ。作戦の邪魔だ」

「で、でも……」

「こいつを野放しにすると、天草を助けられない。それでもいいなら好きにしろ」

「……っ! うーたんごめん……!」

 織部君に言われて、双葉ちゃんは私を拘束しようとする。……まずい。双葉ちゃんの手錠は簡単には抜け出せない。一度掛かったら、もう天草さんを守れない。

「放して……!」

「あっ、おい……!」

 だから私は、織部君の手を強引に振り払った。さっきまでは全然振り解けなかったのに、今度はあっさりと抜けられた。

「天草さん……!」

 そうして私は、再び天草さんの元へ向かうのだった。



「お兄ちゃん……!」

「……ったく、あの馬鹿が」

 雛山に振り払われた手を握り締め、俺はそう呟いた。……雛山が天草に向かう姿を見て、俺はあいつが天草を守ろうとしているのだと察した。だから雛山を止めたのだが、結局あいつは行ってしまった。

「双葉、お前は天草のことを頼む。……あの馬鹿は、俺がしばいてくる」

「でも、お兄ちゃんは人間には……!」

「いや、今なら大丈夫だ。……今の天草は、俺の因子を宿している。その影響を敢えて受ければ、部分的に元に戻れるはずだからな」

 俺や双葉は、人間に討伐されたバアルだ。故に、今の俺たちでは人間には勝てない。俺が最弱なのも、人間に滅ぼされたバアルだからなのだ。―――だが、俺が元の状態に、人間に討伐される前の状態に戻れれば、人間相手に無条件で負けることはなくなる。

「だ、だけど……!」

「霜月だっているから、取り返しがつかないなんてことにはならない。いざとなったら、俺を始末したっていいさ。……最悪なのは、雛山のせいで全滅することだ。それだけは本当に洒落にならない」

 雛山に足止めされてる間に天草のバアル化が完了して、そのまま総崩れなんてことになれば、どの道俺たちに未来なんてない。だからこそ、ここは取れる限りの最善を尽くすしかないんだ。……俺だって、こんなのは不本意さ。だが、背に腹は代えられない。

「……分かった。気をつけてね、お兄ちゃん」

 納得したのか、双葉は天草のほうへ向かった。

「となれば……行くか」

 俺は目を閉じ、神経を集中させた。……思い出せ、俺がバアルだったときのことを。信仰を失い、人々の中で作り上げられたイメージが行き場を失って、現実世界に漏れ出した日のことを。本物の悪魔となり果て、その忌まわしき姿で、人々を虐殺した日々を。人間の手に落ち、人間に身を落としたときのことを。

「……我が名はバアル」

 その黒さは、人々の思念が混ざり合って生じたものだ。怨念にも似たドロドロの思いが形を持ったのがバアルで、その因子は強い思いに引かれやすい。であるならば、俺が強く念じれば、因子も引かれて俺の体に定着するはずだ。雛山を止める、天草を助ける。その気持ちが、俺の因子を取り戻す切欠になるだろう。

「忘却より呼び起こされし信仰を纏い、我、在るべきモノへと姿を変えん」

 天草は、俺のせいでバアルになった。雛山は、そんな天草を守るために行動している。―――ならば、ここは俺がやるのが筋というものだろう。そうでなくとも、二人をこのまま放っては置けない。

「黒き信仰に、我が身を染める」

 そんな俺の思いに反応したのか、左腕が仄かに黒く染まり始めた。そうして黒い瘴気は徐々に広がっていき、やがて左半身全てを覆い尽くしていく。……本来の状態に比べれば薄いものだが、それでもこれはバアルの因子で、並の人間ならば簡単に殺せるほどの濃度だ。

「……こんなもんか」

 因子が完全に定着して。俺は自分の体を見下ろした。……俺の左半身は完全に黒く染まっていた。腕も、足も、胴体も、左側だけが真っ黒だ。しかし、右半身だけは今まで通り。右手にはミカエルの名を与えた剣があるから、バアル化の影響を受けないのか。

「……待ってろよ、雛山、天草」

 聖なる天使の力と、悪しきバアルの力。その両方を宿した今の俺なら、雛山を止められるはずだ。

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