第8話 観察記録
第七研究施設・生体観察病棟。
午前六時三十分。
病棟は静かだった。
機械音だけが響いている。
心電図。
輸液ポンプ。
人工循環補助。
その中で、
一室だけ異様なモニタ波形を示していた。
「……また上がってる」
橘医師はモニタを見て顔をしかめた。
Case-09。
御堂澪。
体温――三十九・八度。
安静時。
普通なら重度感染症レベル。
だが。
「炎症反応、低値……?」
CRP正常域。
白血球数も異常ではない。
なのに高熱だけが続いている。
さらに。
「酸素飽和度九十三で平然としてる……」
普通なら息苦しさを訴える値だ。
だが澪は、
ベッド上で普通に起き上がっていた。
点滴ラインを眺めながら、
ぼんやり窓の外を見ている。
まるで、
身体だけ別生物になったみたいに。
橘はカルテを閉じた。
寒気がする。
これは回復ではない。
適応だ。
「朝の問診を行う」
橘は努めて平静に言った。
澪がゆっくり視線を向ける。
黒い瞳。
感情が薄い。
術前写真と違う。
表情筋の動きが少ない。
「名前は?」
「……みお」
「苗字は?」
沈黙。
数秒。
「……わからない」
橘は記録端末へ入力する。
《逆行性記憶障害継続》
「年齢は?」
「……十六?」
「自分がどこにいたか覚えてる?」
「……」
澪は少し眉を寄せた。
頭痛。
記憶を掘ろうとすると、
強いノイズが入る。
「灰色……だった気がする」
橘の指が止まる。
完全消去ではない。
断片は残っている。
「他には?」
澪はしばらく黙っていた。
それから。
「……誰かいた」
「誰?」
「……わからない」
その時。
モニタ波形が乱れた。
心拍上昇。
脳波活動増加。
澪が無意識に胸元を掴む。
「苦しい?」
「……違う」
「じゃあ何?」
澪は答えなかった。
ただ。
泣きそうな顔だけ、
一瞬した。
隣室。
Case-07。
神代朔真。
「握って」
橘は右手を差し出した。
朔真が握る。
強い。
術前データより明らかに出力が高い。
筋力補助無しで、
成人男性平均を超えている。
「離して」
朔真は即座に力を抜いた。
制御性も高い。
異常だった。
「痛みは?」
「……少し」
「どこが」
「背中」
当然だ。
脊椎神経へ人工接続端子を埋め込んでいる。
本来なら起き上がるだけで激痛のはず。
だが。
「歩けるか」
「多分」
橘は眉を寄せる。
「立ってみて」
普通なら術後数日は安静。
だが白峰が許可した。
“観察したい”から。
朔真はベッド端へ足を下ろした。
ふらつきなし。
起立。
安定。
橘は思わずモニタを見た。
心拍五十二。
低い。
妙に低い。
なのに血圧安定。
自律神経応答が機械みたいだった。
「……気分悪くない?」
「別に」
「痺れは」
「ある」
「どこ」
朔真は少し考える。
「肩から腕」
橘は頷いた。
神経接続ライン。
想定内。
「幻覚は?」
「……ない」
嘘だった。
朔真は昨夜、
自分の身体じゃない感覚で目を覚ました。
背中の冷却音。
人工筋肉の駆動感。
眠っているのに、
シェルを装着している感覚。
だが言わなかった。
なぜか。
言うべきじゃない気がした。
「歩行テストを行う」
リハビリ室。
白い床。
補助バー。
医療用外骨格。
朔真と澪が並ぶ。
橘は少し離れて観察していた。
「足を前へ」
理学療法士が指示する。
澪が歩く。
裸足。
細い。
だが。
「……綺麗すぎる」
療法士が呟いた。
術後患者特有の不安定さがない。
重心制御が異常に正確。
筋出力のブレも少ない。
むしろ。
普通の人間より効率的だった。
澪自身も違和感を覚えているらしい。
足裏感覚を何度も確認している。
「痛みは?」
「……ない」
「筋肉痛とか」
「ない」
高熱なのに。
大手術直後なのに。
身体が正常に動きすぎている。
橘は背筋が寒くなった。
生物として、
何かが変わっている。
一方。
朔真は違った。
「止まって」
療法士が言う。
だが。
朔真の身体は、
指示より先に止まっていた。
反応速度が速い。
いや。
速すぎる。
視線移動と身体制御のラグが異常に少ない。
「……神経伝達速度が上がってる?」
橘は低く呟く。
人工神経補助が、
生体側へ馴染み始めている。
本来あり得ない。
拒絶反応が起きるはずだ。
なのに。
朔真は適応している。
まるで最初から、
そういう身体だったみたいに。
その様子を、
ガラス越しに白峰が見ていた。
「素晴らしい」
心底嬉しそうだった。
「見ろ、橘医師」
白峰は笑う。
「彼は“機械側”へ適応している」
「……」
「彼女は“生物側”へ適応している」
モニタへ並ぶ二人のバイタル。
普通じゃない。
なのに生きている。
いや。
生きているどころか、
順応している。
「これが灰域適応だ」
白峰は静かに言う。
「環境が人を壊すなら、人を変えればいい」
橘は返せなかった。
目の前の二人は、
確かに生き延びている。
だが。
この先、
どこへ行くのか分からない。
その時。
澪がふと顔を上げた。
視線。
ガラス越し。
真っ直ぐ、
朔真を見る。
朔真も振り向く。
二人の目が合う。
数秒。
互いに知らない顔をしている。
記憶はない。
なのに。
どこか苦しそうな顔だけが、
同時に浮かんだ。




