第2話 道場の少女
翌朝。
灰の街は、まだ眠っていた。
いや、正確には違う。
この街には、“朝”という感覚そのものが薄い。
空は常に灰色で、太陽は滲んだ光の塊にしか見えない。昼も夜も曖昧で、人々は工場のサイレンと配給時間で一日を判断していた。
神代朔真は、狭い作業小屋の天井を見上げたまま目を覚ました。
耳の奥で、まだ駆動音が鳴っている気がした。
昨日動かした作業用シェルの音だ。
ギィ、という古い関節音。
液圧の抜ける低い唸り。
長時間乗っていると、機械の感覚が身体に残る。
朔真はゆっくり起き上がった。
床に散乱する工具。
剥き出しの配線。
分解途中のバッテリー。
壁に立て掛けられた旧式ライフル。
まともな部屋ではない。
だが、落ち着く。
「……腹減ったな」
配給用乾燥バーを齧る。
味はない。
粘土みたいな食感だけが口に残る。
その時。
外から金属を叩く音がした。
カン、カン、カン。
「朔真ー!」
聞き慣れた声。
朔真はため息をつき、扉を開けた。
澪が立っていた。
「朝からうるさい」
「三回しか叩いてない」
「十分うるさい」
「起きてたじゃん」
「今起きた」
「じゃあ正解」
澪は勝ち誇ったように笑った。
今日は道着ではなく、灰色の作業服姿だった。肩まで伸びた黒髪を後ろで束ね、防塵マスクを首に引っ掛けている。
その格好でも、妙に目を引く。
灰色の街の中で、彼女だけが輪郭を持っているみたいだった。
「おじさんが呼んでる」
「玄斎さん?」
「屋根また割れたって」
「また?」
「昨日の振動で」
朔真は空を見た。
遠くの工場地帯から、まだ黒煙が上がっている。
昨夜の爆発。
あれから一晩経っても、火は消えていないらしい。
「軍、動いてる?」
「朝から検問増えてる」
「面倒だな」
「また変なことする気?」
「しない」
「信用ないなあ」
澪は呆れたように言った。
実際、朔真は何度も検問に引っ掛かっている。
理由の半分は立入禁止区域侵入。
残り半分は軍用パーツの不法所持だった。
「行くぞ」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
旧住宅区。
崩れかけた建物の間を、細い通路が迷路みたいに伸びている。
道端では、廃材を燃やして暖を取る老人達がいた。
灰域では夏でも寒暖差が激しい。
昼は灼熱。
夜は骨まで冷える。
子供達がガスマスクをつけたままボールを蹴っている。
壁には企業連合の配給広告。
その横には、レジスタンスの落書き。
“政府は人を捨てた”
黒い文字が、煤で汚れたコンクリートに書かれていた。
「また増えてる」
澪が小さく言った。
「何が」
「落書き」
「暇なんだろ」
「そういう問題かな」
朔真は肩を竦めた。
「戦争なんて今さらだろ」
「……そうだけど」
澪は少しだけ顔を曇らせた。
朔真は気づかないふりをした。
この街では、
戦争は日常だ。
遠くで砲声が鳴る。
誰かが死ぬ。
配給が減る。
それを繰り返しているだけ。
今さら恐れることでもない。
少なくとも朔真は、そう思っていた。
道場に着くと、玄斎が脚立の上にいた。
「遅い」
「十分早いと思いますけど」
「屋根が落ちる前に直せ」
「それは急ぎですね」
朔真は工具袋を開いた。
屋根板は爆発の振動でズレていた。古い建物だから、一度歪むと連鎖的に崩れる。
「支え持ってろ」
「はいはい」
澪が脚立を押さえる。
朔真は屋根へ登った。
灰色の街が見渡せる。
遠く。
工場地帯。
黒煙。
そして――軍用輸送機。
「……増えてるな」
昨日より明らかに数が多い。
輸送機だけじゃない。
武装ヘリ。
大型輸送車両。
シェル運搬コンテナ。
嫌な動きだった。
「朔真」
下から澪が呼ぶ。
「落ちるよ」
「落ちない」
「昨日も落ちた」
「あれは床が悪い」
「床のせいにするんだ」
澪は笑った。
その時だった。
遠くでサイレンが鳴った。
低く長い警報音。
街の空気が変わる。
道端を歩いていた人々が足を止めた。
ざわめき。
「……避難警報?」
澪が呟く。
玄斎の表情が険しくなる。
「違う」
「え?」
「軍警戒級だ」
朔真は屋根から工場地帯を見た。
煙。
炎。
その中で、何かが爆ぜた。
赤ではない。
青白い閃光。
一拍遅れて、轟音。
地面が揺れた。
朔真は咄嗟に屋根へ手をつく。
空気が熱い。
風向きが変わった。
そして。
鼻を刺す臭い。
「……薬品?」
朔真の顔色が変わる。
これはただの工場火災じゃない。
化学プラント事故の臭いだ。
澪も気づいたらしい。
「まずいよね、これ」
玄斎が即座に叫ぶ。
「窓閉めろ! フィルター回せ!」
澪が走る。
朔真も屋根から飛び降りた。
その瞬間。
空が光った。
轟音。
工場地帯の一角から、巨大な火柱が立ち上がる。
誰かが外で叫んだ。
「爆発だ!!」
「灰海側が吹き飛んだ!!」
街が騒然となる。
サイレン。
怒号。
走る人々。
そして。
低空を軍用輸送機が横切った。
腹部ハッチが開く。
黒い影が次々落下する。
軍用シェル部隊。
朔真は息を呑んだ。
「……なんだよ、これ」
嫌な予感がした。
本能的に。
今までの小競り合いとは違う。
街全体が、何かに呑まれ始めている。
その時。
朔真の端末がノイズを吐いた。
ザーッという不快音。
通信障害。
周囲の照明が一瞬明滅する。
玄斎が低く呟いた。
「電磁障害……?」
次の瞬間。
遠くで、
何か巨大なものが崩れる音がした。
川崎沿岸の空へ、黒煙が噴き上がる。
灰色の空が、
さらに暗く染まっていく。
そして。
誰もまだ知らなかった。
この日を境に、
川崎という街そのものが、
灰域へ沈むことを。




