第1話 灰の街
空は、今日も灰色だった。
晴れているのか、曇っているのか、もう誰にも分からない。
川崎沿岸区画の空は、いつだって重たい灰に覆われている。太陽は輪郭のぼやけた白い染みになり、地平線の向こうでは、死にかけの工場群が赤い煙を吐き続けていた。
風が吹くたび、鉄の匂いがした。
錆びた鉄。
焼けた樹脂。
腐った海。
そして、肺の奥に引っかかるような、甘くて嫌な化学臭。
「……今日も最悪だな」
神代朔真は、防塵マスク越しに呟いた。
十六歳。
痩せているが、腕と背中には年齢に似合わない筋肉がついている。黒い作業着は油と煤で汚れ、右肩には工具袋。左腕には旧式端末を巻きつけていた。
彼の前には、膝をついたまま動かない作業用シェルがあった。
軍用ではない。
工場の重量物運搬用に使われていた、第二世代以前の古い外骨格だ。装甲というより補強フレームに近く、表面には何度も溶接した跡がある。
朔真は背部カバーを開け、配線の束を引き出した。
「駆動系は生きてる。バッテリーもギリ。問題は制御OSか」
端末を接続すると、ひび割れた画面にエラーコードが並んだ。
読める者は少ない。
だが朔真には分かる。
どこが壊れ、どこを騙せばまだ動くのか。
「お前、まだ働けるよな」
朔真はシェルの肩を軽く叩いた。
返事はない。
だが、駆動音が一瞬だけ低く鳴った。
まるで、死にかけの獣が喉を鳴らしたようだった。
朔真は笑った。
「よし。じゃあ今日も稼ぐぞ」
シェルに身体を滑り込ませる。
背中の固定具が閉まり、腰、膝、肩の補助フレームが順番に噛み合う。古い機体特有の重い遅延があった。動かそうとしてから、半拍遅れて機械がついてくる。
普通なら扱いづらい。
だが朔真は慣れていた。
足を踏み出す。
錆びた地面が軋む。
目の前には、崩れた倉庫、倒れた配管、折れたクレーン、焼け焦げたコンテナが広がっていた。
ここは旧工業区画。
正式には立入禁止区域。
だが、誰も守っていない。
軍も企業も政府も、こんな場所の廃材まで管理している余裕はない。だから朔真のような連中が入り込み、使えるものを拾い、直し、売る。
生きるために。
シェルの腕で、朔真は鉄骨を持ち上げた。
重量は百キロ近い。
生身なら無理だ。
だがシェルなら持てる。
もっとも、持てるだけだ。
速くは動けない。
戦えもしない。
熱にも弱い。
所詮は、労働のための殻。
それでも朔真にとっては飯の種だった。
数時間後。
回収した金属材を台車に積み終えた頃、空から黒い粒が落ち始めた。
「灰雨か」
朔真は舌打ちした。
灰雨。
灰域で降る、汚れた雨。
肌に触れれば爛れるほどではないが、長く浴びれば服も機械も傷む。古いシェルには最悪だった。
朔真は台車を押し、作業用シェルをぎしぎし鳴らしながら走った。
いや、走ったというには遅い。
重い機体が、鉄屑を踏み潰しながら前へ進む。
その時だった。
「朔真!」
灰の向こうから声がした。
振り向く。
廃工場のフェンスの向こう、傘を差した少女が立っていた。
黒い髪。
白い頬。
赤い紐で結ばれた竹刀袋。
雨に煙る灰色の街の中で、その姿だけが妙にはっきり見えた。
「澪」
朔真はシェルを止めた。
少女――澪は、呆れたように眉を寄せる。
「また立入禁止区画に入ってたの?」
「仕事だよ」
「犯罪って言うんだよ、そういうの」
「拾っただけだ。落とし物だろ」
「鉄骨は落とし物じゃない」
澪はため息をついた。
その顔は怒っているようで、本気ではない。
いつものことだった。
「道場、来るんでしょ?」
「行く。これ売ったら」
「また油くさいまま来たら、お父さんに怒られるよ」
「いつも怒られてる」
「反省しなよ」
「してる」
「嘘」
澪は小さく笑った。
その笑顔を見ると、朔真は少しだけ息がしやすくなる気がした。
灰だらけの街。
壊れた工場。
遠くで鳴る砲声。
そんな世界でも、彼女が笑うと、まだ終わっていないと思えた。
朔真はシェルを降り、工具袋を担ぎ直した。
「送る」
「いいよ、近いし」
「灰雨だぞ」
「傘あるし」
「じゃあ俺が濡れる」
「意味分かんない」
澪はそう言いながら、少しだけ傘を傾けた。
朔真はその下に入る。
二人分には小さい傘だった。
肩が触れる。
澪は何も言わなかった。
朔真も、何も言わなかった。
灰雨が傘を叩く音だけが、二人の間に落ちていた。
道場は、旧住宅区の端にあった。
周囲の建物はほとんど崩れかけているのに、その小さな剣道場だけは不思議と形を保っていた。板壁は古く、屋根には補修跡がいくつもある。それでも中に入ると、木の匂いがした。
灰と鉄と油ではない。
乾いた床板の匂い。
朔真はその匂いが好きだった。
「遅い」
奥から低い声が飛んだ。
澪の父、御堂玄斎。
この辺りでは珍しい剣道師範だった。片腕を戦争で失っているが、竹刀を持つと誰よりも怖い。
「すみません」
朔真は頭を下げる。
「また機械いじりか」
「仕事です」
「仕事と無茶は違う」
「はい」
「分かってない返事だな」
玄斎は鼻を鳴らした。
澪が横で笑いを堪えている。
「澪。相手をしてやれ」
「はい」
澪は竹刀袋を開けた。
朔真も道場の隅に置いてある竹刀を取る。
防具をつけ、向かい合う。
澪の構えは綺麗だった。
背筋が伸び、肩に無駄な力がない。
朔真は機械なら読める。
モーターの癖。
配線の劣化。
駆動音の違和感。
だが、澪の剣だけは読めない。
踏み込み。
一瞬だった。
「面」
乾いた音が響く。
朔真の面に竹刀が入った。
「……早い」
「朔真が遅い」
「シェルなら勝てる」
「道場にシェル持ち込んだら出禁」
「厳しいな」
「当たり前」
二本目。
朔真は距離を取った。
今度は澪の踏み込みに合わせて半歩ずれる。
竹刀が空を切る。
その瞬間、朔真は胴を打った。
だが浅い。
澪は身体を捻り、逆に小手を打ち返す。
「小手」
「今の避けたと思ったんだけど」
「避けただけ。勝ってない」
澪は面越しに言った。
その声が、なぜか嬉しそうだった。
何本も打ち合った。
朔真は一度も綺麗には勝てなかった。
ただ、致命的な一本だけは外す。
澪の剣を完全には見切れない。
それでも、最後の瞬間に身体が逃げる。
玄斎は腕を組んで見ていた。
「朔真」
「はい」
「お前は逃げるのが上手い」
「褒めてます?」
「半分はな」
「もう半分は?」
「逃げるだけでは守れん」
朔真は黙った。
澪も何も言わなかった。
外では、灰雨がまだ降っていた。
稽古の後、二人は道場の縁側に座った。
遠くの工場群が、灰の向こうで赤く光っている。
日暮れだった。
この街では夕焼けも灰色に濁る。
「ねえ、朔真」
「何」
「いつか、ここを出たい?」
唐突だった。
朔真は少し考えた。
「出てどうする?」
「普通の空を見る」
「普通の空って?」
「青いやつ」
「本当に青いのか?」
「昔の写真では青いよ」
「加工かもしれない」
「夢がない」
澪は膝を抱えた。
「私は見たいな。青い空」
「じゃあ見るか」
「簡単に言う」
「シェル直して、金貯めて、許可証買って、外縁都市まで行く」
「何年かかるの?」
「十年くらい?」
「遅い」
「じゃあ五年」
「雑」
澪は笑った。
朔真も少し笑った。
その時、遠くで低い音がした。
雷ではない。
爆発音。
二人は同時に顔を上げた。
灰の空を、軍用輸送機が三機、低く飛んでいく。
その腹から黒い影がいくつも落ちた。
シェル部隊だ。
朔真は目を細める。
「……また戦闘か」
澪の顔から笑みが消えた。
「近いね」
「ああ」
空の向こうで、赤い閃光が走った。
遅れて、地面が震える。
道場の窓がかすかに鳴った。
玄斎が奥から出てくる。
「二人とも、中に入れ」
朔真は立ち上がった。
灰雨は止んでいた。
だが、空気はさっきより重い。
焼けた薬品の匂いが、風に混じって流れてくる。
澪が小さく呟いた。
「嫌な匂い」
朔真は答えなかった。
遠くの工場地帯で、もう一度爆発が起きた。
赤い光が、灰色の空を裂いた。
その瞬間、朔真はなぜか思った。
この街はもう、長くない。
そして。
この夕暮れが、二人で過ごす最後の平穏になることを、まだ知らなかった。




