第七話 伯爵家の次の話
婚約を解消した翌朝も、朝食はいつも通りでした。
パンと卵料理、それに温かいスープ。
お父様は新聞を読み、お母様は今日の予定を侍女に確認しています。
私もいつもの席に座りました。
トルナド様との婚約がなくなったからといって、食卓の椅子が一つ減るわけではありません。
それなのに、何となく昨日までとは違うような気がしました。
たぶん、私の方が違うのでしょう。
「眠れた?」
お母様に尋ねられました。
「それなりに」
「それなり、というのは?」
「一度、夜中に起きました」
そのあと少し本を読み、もう一度眠りました。
よく眠れたとは言えませんが、朝食が食べられないほどでもありません。
「今日は学院を休んでもいいぞ」
新聞の向こうから、お父様が言いました。
「行きます」
「無理をしなくても」
「試験も近いですし」
そう答えると、お父様が新聞を少し下げました。
「……あいつのために試験を頑張る必要はないぞ」
「もともとトルナド様のために勉強していたわけではありません」
「そうだったな」
お父様は新聞を戻しました。
少しだけ、声が満足そうでした。
私はフライエ家を継ぐために勉強しています。そこは婚約がなくなっても変わりません。
むしろ、つい先日トルナド様に成績のことまで言われたせいで、余計にそう思いました。
私の試験は私のものです。
*
その日の夕方、学院から戻ると、お父様から書斎へ来るよう言われました。
お母様もいます。
また婚約の後始末でしょうか。
そう思って入ると、机の上には書類が何枚か広げられていました。
「座りなさい」
「はい」
向かいの椅子へ座りました。
お父様は少し考えるように指を組みました。
「昨日の今日で話すのもどうかとは思ったんだが」
その前置きで、だいたい分かりました。
「次の婚約者ですか?」
「……話が早いな」
「伯爵家を継ぐのは変わりませんので」
「そうなんだが」
お父様はお母様を見ました。お母様が代わって続けます。
「今すぐ次を決める、という話ではないのよ」
「はい」
「候補を探し始める、というだけ」
それでも十分早いと思います。
昨日、婚約を解消したばかりです。
私が黙っていると、お父様が困ったように咳をしました。
「嫌なら、少し間を置いてもいい」
「どのくらいですか?」
「半年でも、一年でも」
「卒業してしまいますね」
「卒業してからでも構わん」
「ですが、領地へ戻る時間も増えますし、学院にいる間の方が候補の方とも顔を合わせやすいのでは?」
お父様とお母様がそろって私を見ました。
「マロン」
「はい」
「お前、本当に大丈夫か?」
また聞かれました。ですが自分でもよく分かりません。
「大丈夫かどうかは、まだ」
正直に答えました。
「ただ、次の婚約を一生しないというわけにもいきません」
伯爵家を継ぐ以上、結婚はかなり現実的な問題です。
もちろん、絶対に結婚しなければならないわけではありません。
けれど、家を続けることまで考えるなら、相手を探すのは自然でしょう。
「だからといって、急ぐ必要はないわ」
お母様が言いました。
「ええ。それは分かっています」
私は机の上の書類を見ました。
まだ名前までは書かれていません。
年齢や家格、次男三男かどうか、王都にいるかどうか。そんな条件だけが並んでいました。
「もうここまで?」
「条件を整理しただけだ」
お父様が少しばつの悪そうな顔をしました。
「昨日の夜に?」
「眠れなかったのでな」
私だけではなかったようです。
少しおかしくなりました。
「お父様」
「何だ」
「私より気にしていませんか?」
「当たり前だろう」
「そうなのですか?」
「娘が長年の婚約者に、いきなり好きな女ができたから別れてくれと言われたんだぞ」
言葉にすると、なかなかひどい話です。
お父様はさらに続けました。
「しかも相手の女にも婚約者がいる。話もついていない。本人は『婚約一つ』だと言う」
「そこまでお話ししましたっけ」
「した」
どうやら全部覚えていたようです。
「私は腹が立っている」
「あなた」
お母様が止めます。
「本人の前であまり言わないの」
「しかし」
「マロンが困るでしょう」
確かに少し困ります。私が怒るより先に、お父様が怒っているのです。
「私は、もう大丈夫です」
言ってから、少し違うと思いました。
「いえ。大丈夫ではないですね」
二人がこちらを見ました。
「まだ嫌な気持ちはします」
昨日の廊下。可愛げがないと言われたこと。
順位表の前で、そういうところが嫌だと言われたこと。
それより前にも、思い当たることはいくつかあります。
今までは小さなことだと思っていました。
婚約者なのですから、このくらいはあるのだろうと。
「たぶん、しばらくは思い出すと思います」
「そうね」
お母様が静かに言いました。
「ですが、戻りたいとは思いません」
これははっきりしていました。
言葉にすると、自分でも少し驚くくらいです。
昨日までは、婚約がなくなることそのものが悲しかった。
今日はもう、戻ることの方が嫌でした。
また成績を気にされる。また私の言うことを大げさだと言われる。
私が何か言えば、「そういうところだ」と嫌そうな顔をされる。
そこまで考えて、私は手元の書類へ目を戻しました。
「候補探しは、していただいて構いません」
「本当に?」
「はい。ただし」
「ただし?」
「次は、もう少し話の通じる方がいいです」
お父様は一度だけ瞬きをし、お母様が口元を押さえました。
「笑いました?」
「少しだけ」
「お母様」
「ごめんなさい。でも、そうね。それは大事ね」
「非常に大事です」
私はかなり真面目に言いました。
成績がいい方でなくても構わない。容姿が特別整っていなくてもいい。
スポーツが得意でなくても困らない。
ですが、こちらが「婚約は両家の話です」と言った時に、「大げさだ」と返さない方がいい。
私が「男子部と女子部は試験が違います」と言った時に、その意味をそのまま受け取ってくださる方がいい。
「条件欄に『話が通じること』と書くか」
「お父様」
「大事なんだろう?」
「大事ですが、書類に書くことではないと思います」
「では会って確認だな」
お父様は真面目な顔でうなずきました。
どうも本当に確認するつもりのようです。
「それから」
お母様が書類を一枚持ち上げました。
「婿入りすることに抵抗がない方」
「それも大事ですね」
「トルナド様は、最初は問題ないと言っていたのだけれど」
私は少し考えました。
「本当は嫌だったのでしょうか」
「どうかしら」
「だから私の成績を気にしたのでしょうか」
そこまでは分かりません。
本人に聞いても、たぶん違う答えが返ってくるでしょう。
もう考えなくてもいいことなのかもしれません。
「ともかく」
お父様が書類をまとめました。
「すぐに婚約を決めることはしない。何人か候補を探す。会ってみて、嫌なら断る」
「分かりました」
「一人会ったからといって、決める必要もない」
「はい」
「二人でも三人でも」
「お父様」
「何だ」
「まだ誰の名前も出ていませんよね?」
「これからだ」
少し安心しました。
もう候補が十人くらい並んでいるのかと思いました。
「では、お願いします」
話が終わり、私は立ち上がりました。
扉へ向かいかけたところで、お母様に呼び止められます。
「マロン」
「はい?」
「次は、あなた自身もきちんと相手を見なさいね」
少しだけ胸に残る言葉でした。
「今までは見ていなかったでしょうか」
「見ていたと思うわ。でも、婚約者だからと受け入れすぎていたところはあったかもしれないわね」
すぐには返事ができませんでした。
思い当たることが、またいくつかありました。
「……そうかもしれません」
「だから今度は、あなたが一緒に暮らせると思う方を選びなさい」
「はい」
書斎を出ました。
廊下の窓から、夕方の庭が見えます。
庭師が片づけた枝はもうなく、花壇の土だけがきれいに均されていました。
昨日と同じ家です。私も同じです。
ただ、将来隣にいる予定だった人が、一人いなくなりました。
まだ少し寂しいです。
それでも、次に誰かを隣へ置くのなら。
せめて、私が言ったことを、そのまま聞いてくださる方がいい。
ずいぶん低い条件のような気もします。
ですが、その時の私はかなり真剣でした。




