第三話 柵の向こう
婚約を解消したいと言われた翌日からといって、トルナド様とまったく顔を合わせなくなった、ということはありませんでした。
同じ学院に通っているのですから、当然です。
男子部と女子部は校舎も授業も分かれていますが、講堂や図書室の一部、食堂の別室など、共用する場所はいくつかあります。婚約者だった頃は、そういう場所で待ち合わせることもありました。
婚約解消の話が出たからといって、学院そのものが広くなるわけではありません。
もっとも、私は積極的に会おうとは思いませんでした。
*
あの日の帰宅後、すぐにお父様とお母様へ話をしました。
お母様はしばらく何もおっしゃらず、お父様は二度ほど聞き返しました。
「クライン家には、まだ話していないのか」
「そのようです」
「では、トルナド君は何をしにお前へ話したんだ?」
「私もそこがよく分かりません」
お父様は額を押さえました。
私も同じ気持ちでしたので、何も申し上げませんでした。
ともかく、こちらからクライン子爵家へ連絡を入れることになりました。婚約を続けるかどうかは、それからです。
私自身は、もうかなり難しいと思っていました。好きな方ができた、までは仕方ありません。
けれど、そのあとに「婚約一つ」と言われてしまうと、ではこれまで私は何だと思われていたのだろう、という話になります。
少し考える時間が欲しかったのです。
ところが翌々日、昼休みに共用廊下を歩いていると、向こうからトルナド様がやってきました。
「マロン」
「こんにちは」
「ちょうどよかった」
何がちょうどよいのでしょう。
私は友人と一緒でしたので、彼女を見ると、察しよく「先に行っていますね」と離れてくれました。
ありがたいことです。
「お父様からクライン家へ連絡したそうです」
「ああ。父上に聞いた」
「では、あとはご両親同士でお話しになると思います」
「そのことなんだけど」
トルナド様は少し声を落としました。
「君、余計なこと言ってないよな?」
「余計なこと?」
「彼女のことだよ」
「どなたです?」
「だから、俺が好きになった人」
まだ名前を聞いていませんでした。
私はそう申し上げると、トルナド様は意外そうな顔をしました。
「言わなかったか?」
「聞いていません」
「そうだったか」
どうやら先日の本人の中では、かなり詳しく説明したことになっていたようです。
実際には、「好きな女性ができた」「彼女は俺を選んだ」としか聞いていません。
「アプフェルだよ」
「アプフェル様?」
「知ってるだろう?」
「もちろん、お名前とお顔は」
子爵家の三女です。
女子部では同学年ですし、授業が同じになったこともあります。
親しいわけではありませんが、知らない方ではありません。
そして婚約者がいたはずです。
「ステイン商会のご子息と婚約していらっしゃいますよね」
「クライドだろ」
やはりそうでした。
トルナド様は、その名前が気に入らないらしく、口元を少し曲げました。
「でも、あれは家が決めた婚約だ」
「私たちもそうですが」
「そういう意味じゃなくて」
何が違うのでしょう。
尋ねると長くなりそうでしたので、やめました。
「アプフェル様が、トルナド様をお好きなのですか?」
「そうだ」
今度は即答でした。そして、少し得意そうでした。
この顔には見覚えがあります。
剣術大会で男子部の組別試合に勝った時も、この顔をしていました。
「前から、俺のことを見てたらしい」
「そうなのですか」
「やっぱり分かるんだよな。視線って」
「はあ」
分かりません。
少なくとも私は、誰かに見られていても気づかないことがよくあります。
「柵のところでも、よく女子がこっちを見てただろ?」
柵。
そこでようやく、何の話なのか分かりました。
男子部と女子部の敷地の間には、低い鉄柵があります。
完全に行き来を禁じるためのものではありません。決められた場所には門もありますし、教師や使用人は普通に通ります。
ただ、生徒が勝手に相手側の校舎へ入らないよう、境目を分かりやすくしているのです。
その柵の近くには木陰があり、休み時間になると両側に生徒が集まります。
特に天気のよい日は、かなり賑やかです。
「女子が男子を見ることはあるでしょうね」
「だろう?」
「男子も女子を見ていますけれど」
「そうじゃなくて、俺を見てたんだよ」
「……そうなのですか」
その違いは私には分かりません。
「試合のあとなんか、もっとすごかったぞ」
トルナド様は嬉しそうに話し始めました。
春の競技会で活躍したあと、柵の向こうで女子生徒が何人かこちらを見ていたこと。
通りかかると話をやめたこと。
笑っていたこと。
そのうちの一人が、友人に何か耳打ちしていたこと。
聞いているうちに、私は少し困りました。
「それは、本当にトルナド様を見ていたのですか?」
「他に誰がいるんだよ」
「たくさんいらしたのでは?」
競技会のあとです。
男子部にはトルナド様以外にも生徒がいます。
むしろ、大勢いたでしょう。
「君はそうやって、すぐ俺を低く見るよな」
「え?」
「前からそうだ」
今度は何の話でしょう。
「成績だってそうだろう」
話が飛びました。
「私は今、成績のお話をしていませんが」
「君は自分の方が上だと思ってる」
「女子部と男子部では試験が違います」
「またそれだ」
また、と言われましても。
違うものは違います。
男子部では将来、官僚や軍務、家督を継ぐ者向けの授業が多く、女子部では領地経営や社交、家政管理などの比重が高くなります。共通科目もありますが、試験問題まで同じではありません。
ですから順位を並べても、あまり意味はありません。
「とにかく」
トルナド様は少し苛立ったようでしたが、すぐに話を戻しました。
「俺は別に、アプフェルに言われて初めて気づいたわけじゃない。前から女子には見られてたんだ」
「分かりました」
「……信じてないだろ」
「信じるも何も、私はその時そばにいませんでしたので」
「そういうところだよ」
何がでしょう。
また分からなくなりました。
トルナド様は私の反応をしばらく待っていたようですが、期待した言葉が出てこなかったらしく、小さく息を吐きました。
「まあいい。アプフェルは違うから」
「違う?」
「ちゃんと行動した」
「何をされたのです?」
すると、トルナド様の機嫌が戻りました。
「手紙をくれたんだ」
「手紙」
「ああ。柵越しに」
その場面を想像しました。
休み時間の境界の柵。男子部側にトルナド様。女子部側にアプフェル様。そして手紙。
なるほど。
それなら、少なくともアプフェル様の方から何かしら働きかけたのは間違いなさそうです。
「何と書いてあったのですか?」
「気になる?」
「婚約を解消する理由になった手紙なのでしょう?」
気になるというより、確認しておきたいだけです。
「見せてやってもいい」
そう言って、トルナド様は鞄へ手を入れました。
私は少し驚きました。
「持ち歩いていらっしゃるのですか?」
「大事なものだからな」
「そうですか」
それはまあ、ご本人がよければ構いません。
トルナド様は丁寧に折られた便箋を取り出しました。
淡い桃色の紙でした。
端に小さな花の模様があります。
「これだ」
ずいぶん嬉しそうに差し出されましたので、私は受け取りました。
まさかこの時は、その一枚の手紙を半年後の卒業式の日まで覚えていることになるとは思っていませんでした。




