第二話 婚約を解消してくれ
「マロン。婚約を解消してくれ」
そう言われたのは、半年前のことでした。
場所は学院の共用談話室です。
男子部と女子部の生徒が使える場所はいくつかありますが、ここはその中でも比較的静かで、放課後になると課題を片づける生徒がよく集まります。
私もその日、女子部で出された課題を一つ終わらせるつもりでいました。
ところが、向かいに座ったトルナド様は、私が教本を開くより先にそう言ったのです。
「……婚約を、ですか?」
「ああ」
聞き間違いかと思いました。
ですが、トルナド様はいつもの顔をしています。冗談を言っている様子でもありません。
私は膝の上に置いていた教本を机へ戻しました。
「理由を伺っても?」
「好きな女性ができた」
ずいぶん簡単でした。
婚約を解消するという話も、それを説明する言葉も。
私たちの婚約は、子供の頃から決まっていたものです。
フライエ伯爵家は私が継ぐことになっていますから、いずれ夫となる人には家へ入ってもらう必要があります。トルナド様はクライン子爵家の次男で、家を継ぐ予定もありません。
年齢も近く、家同士の付き合いもありました。
ですから、お父様たちが相談して婚約が決まりました。
恋物語のような始まりではありません。
けれど私は、それを嫌だと思ったこともありませんでした。
いずれ夫婦になるのだと思ってきましたし、トルナド様とも、そのつもりで付き合ってきたのです。
「どなたですか?」
「それは今はいいだろう」
「今は?」
「そのうち分かる」
ずいぶん得意そうです。
私は少し考えました。
婚約を解消したいほど好きな人ができたのなら、それ自体は仕方のないことかもしれません。
気持ちまで契約で縛ることはできませんし、結婚してから言われるよりは今の方がいいでしょう。
ただし。
「では、ご両親にはもうお話しになったのですか?」
「いや」
「まだなのですか?」
「先に君に言った方がいいと思ったんだ」
それはそうかもしれません。
私も、何も知らないうちに両家の話だけが進んでいたら嫌です。
「分かりました。では今日中にお父様へお話しします」
そう言って教本を閉じると、トルナド様が眉を寄せました。
「どうして伯爵に話すんだ?」
今度は私が聞き間違えたのかと思いました。
「婚約を解消するのでしょう?」
「だからって、すぐ親に言わなくてもいいだろう」
「では、いつ言うのです?」
「もっと後でいい」
「もっと後とは?」
トルナド様は少し面倒そうに椅子へもたれました。
「マロンは何でも大げさなんだよ」
「大げさ?」
「婚約一つだろう」
しばらく、返事が出ませんでした。
机の上には、私の教本と筆記具があります。つい先ほどまで、課題を終わらせて帰るつもりでした。
今日の予定の中に、婚約解消は入っていません。
当然です。
「婚約一つ、ですか」
「ああ。別に結婚したわけじゃない」
「それはそうですが」
「君だって伯爵家の跡取りなんだから、困らないだろう」
何の話をしているのでしょう。
「何に困らないのですか?」
「次の婚約者だよ」
トルナド様は、私が本当に分かっていないと思ったらしく、少し身を乗り出しました。
「フライエ伯爵家なら、婿に入りたい男なんていくらでもいる。君だって成績はいいし、別に見た目が悪いわけでもないし」
褒められているのでしょうか。
今まで聞いた中では、かなり判断の難しい褒め方でした。
「だから、そんなに深刻に考える必要はないって言ってるんだ」
「私は、まだ深刻だとも何とも申し上げていませんが」
「そういう顔をしてる」
どのような顔でしょう。
自分では分かりません。
ただ、胸のあたりが妙に詰まって、すぐには次の言葉が出てきませんでした。
私はトルナド様と結婚するものだと思っていました。
伯爵家を継いだあと、どの仕事を私が受け持ち、どのあたりを夫に任せるのか。学院を卒業したら、少しずつ領地のことも覚えてもらった方がいいのではないか。
そんなことまで考えていました。
その相手が、目の前で「婚約一つ」と言っています。
「……私が傷ついていると思っていらっしゃるのですか?」
「ほら、やっぱり」
「まだ何も言っていません」
「でもそうなんだろう?」
トルナド様は、なぜか少し安心したようでした。
そこで私は、ようやく気づきました。
この方は、私が引き止めると思っているのです。
「安心しろよ。君が悪いわけじゃない」
「はい」
「ただ、俺にも選ぶ権利はあるだろう?」
「ありますね」
「そうだろう?」
返事をすると、トルナド様の機嫌が少し良くなりました。
話が通じたと思ったのでしょう。
私には、何の話が通じたのかよく分かりませんでした。
「ですから、正式なお話はご両親とお父様、お母様の間で進めていただきましょう」
「またそれか」
「婚約ですから」
「だから大げさなんだよ」
トルナド様は額を押さえました。
「俺と君の話だろう?」
「いいえ」
「いいえ?」
「婚約は、私たち二人だけで決めたことではありません」
私が幼い頃、お父様とクライン子爵が話をまとめました。
条件もあります。
トルナド様が将来フライエ伯爵家へ入ること。そのために必要な教育を受けること。卒業後は一定期間、お父様のもとで領地経営について学ぶこと。
これは単に「好きだから付き合っています」という話ではありません。
「ですが、トルナド様が解消を望んでいらっしゃることは分かりました」
「そう。それでいいんだよ」
「私からもお父様へ申し上げます」
また顔をしかめられました。
ですが、ここは譲るところではないでしょう。
「それと」
「まだ何かあるのか?」
「お相手の方にも婚約者がいらっしゃるのですか?」
トルナド様の動きが止まりました。
分かりやすい方です。
「……なぜそう思う?」
「今の反応で」
「いや、それは」
「いらっしゃるのですね」
否定はありませんでした。
私は教本の端をそろえ、筆記具をしまいました。
今日はもう課題をする気にはなれそうにありません。
「その方の婚約についても、当然ご本人とご家族のお話になるのでしょうね」
「そこは大丈夫だ」
「もうお話が済んでいるのですか?」
「いや」
「では、何が大丈夫なのです?」
トルナド様は少し笑いました。
今思い返しても、あの自信がどこから来ていたのか分かりません。
「彼女は俺を選んだんだから」
そう言いました。
ずいぶん嬉しそうでした。
私は鞄を閉じました。
「そうですか」
「何だよ、その言い方」
「いえ」
その時の私は、まだアプフェル様の手紙を見ていません。
ですから本当に、それ以上のことは何も分かりませんでした。
ただ一つだけ。
婚約を解消したいと言い出した本人より、なぜ私の方が後始末の手順を考えているのでしょう。
そこだけは、少し不思議でした。




