番外七 クライド③――まずは、もう一度
卒業式の日、私はいつもより少し早く学院へ行きました。
早く行く必要があったわけではありません。
式の開始時刻は決まっていますし、席も決まっています。卒業証書も、早く行ったから先にもらえるものではありません。
ただ、家にいても落ち着かなかったのです。
六年間通った学院を卒業する日だから、と言えば聞こえはよいでしょうが、実際には、今日でアプフェルとの婚約についても一区切りつくからでした。
両家の話はすでに進んでいます。父上とアドランテ子爵の間でも、おおむね決まっていました。
――婚約は解消する。
――必要な書面も整える。
――ただし、アプフェル本人には卒業式が終わるまで知らせない。
父上たちが決めたことです。
私は賛成しました。卒業まであとわずかなところで騒ぎにする必要もないでしょう。
婚約解消は、卒業証書を取り上げるような話ではありません。
彼女は彼女で、六年間通った学院をきちんと卒業すればいい。そう考えていました。
……ですから、まさか正門前で別の騒ぎが始まるとは思っていませんでした。
*
「話が違うだろう!」
よく通る声でした。トルナド君です。
私は少し離れたところにいましたが、聞き間違えようがありません。
卒業式を終えた生徒たちが馬車を待っています。家族と話している者、友人と別れを惜しんでいる者、記念に写真師を呼んでいる家もありました。
その中で怒鳴れば、当然目立ちます。
見ると、トルナド君の前にアプフェルがいました。
そして二人は、卒業後の話をしていました。
「だから、今日で終わりでしょう?」
「終わりって、学院がだろう?」
「学院もよ。私たちのお付き合いも」
……なるほど。
私は眼鏡を押し上げました。ついに、そこまで来ましたか。
半年前からアプフェルは、一度も話を変えていません。
――学院にいる間だけ。
――卒業するまで。
――その後は私と結婚する。
私には理解できない考えでしたが、本人の中ではずっと同じでしたね。
ところが一方で、トルネド君は違ったようです。
「俺は君のために婚約まで解消したんだぞ!」
……それをここで言いますか。
周囲の視線が一斉に集まりましたよ。私まで少し居心地が悪くなりました。
もっとも、私が居心地の悪さを感じる必要もないのですが。
「私、そんなこと頼んでないわよ?」
「何だって?」
「婚約を解消してなんて、一度も言ってないでしょう?」
「でも君は俺を選んだじゃないか!」
その時、アプフェルが私を見ました。
「クライドだって知ってたわよ?」
とうとう来ましたか。
半年前なら、もう少し困ったかもしれませんが、今は答えが決まっています。
眼鏡をしっかりと押し上げました。
「知っています」
「ほら」
「ですから、やめた方がいいと思います、と申し上げました」
アプフェルの口が少し開きました。
「でも、あなた」
「知っていることと、賛成していることは別です」
前にも似た話をしました。
聞いていること――認めること――許容できること――結婚相手として受け入れられること。
私にとっては、それぞれ別です。
アプフェルには、どうも全部が一緒だったようですが。
二人の話はその後もしばらく続きました。
クライン君は卒業後も付き合うつもりだったし、アプフェルは最初から今日で終わるつもりだった。
なんと、互いに半年も一緒にいながら、その一点を確認していなかったらしいです。
驚きはしましたが、それ以上に納得もしました。
二人とも、自分がそう思っているなら相手もそう思っているはずだ、と考えるところが少し似ていたのですね。だから半年続いたのでしょう。
そして、だから今日こうなっている。
――結婚する前に分かってよかった。
人のことながら、そんなことを考えていたら、アプフェルは今度はこちらへ話を戻しました。
――自分は卒業した。
――トルナド君とは終わった。
――だから今まで通りでいい。
やはり、そう考えていましたか。ならもうこう言うしかありませんね。
「それは無理です」
「え?」
「あなたのアドランテ子爵家と、ステイン家の婚約は解消されます」
初めて、アプフェルの顔から勢いがなくなりました。
「そんな話、聞いてないわ」
「ご両親から、卒業後に話す予定だったそうです」
「何で?」
「卒業式を荒らしたくなかったのでしょう」
少し皮肉な結果になりましたが、それはもう仕方ありません。
「いつから?」
「両家で話を始めたのは、少し前です」
「少し前って?」
「私が父上へ報告してからです」
「報告?」
「あなたがクライン君と付き合っていることを」
「どうしてそんなことしたの?」
その質問には、少し困りました。どうして、と言われても。
「婚約相手として信用できるかどうかに関わるからです」
「でも、あなた知ってたじゃない!」
「知っていました」
「だったら」
「知っていることと、受け入れていることは別です」
今度は言い方を少し変えてみました。内容は同じです。
アプフェルは、そこでようやく私が何を問題にしていたのか、の部分について説明し始めました。
――自分にとっては遊びだった。
――本気ではなかった。
――卒業したら元の通り結婚するつもりだった。
それなら問題ないでしょう、と。
半年前なら、そこまで聞けば迷ったかもしれませんが、今は逆でした。
むしろ、それを聞いて自分の判断が変わらないことを確認しました。
「私は、結婚したあとも同じようなことがないと信じられません」
「そんなことしないわ!」
「卒業したら、ですか?」
「そうよ!」
「なぜです?」
答えはありませんでした。
やはり、そこです。
卒業したら――結婚したら――大人になったら――
その日を境に自分は変わる、とアプフェルは考えています。
けれど、私にはその根拠が分かりません。
今日まで構わないと思っていたことを、明日からはしない。
そう言われても、私は信じられないのです。
「クライド。他に好きな人ができたの?」
「いいえ」
「では、新しい婚約者が?」
「いません」
これはすぐ答えられました。本当にいません。
アプフェルは、少し安心したようでした。
「だったら! じゃあまだ、やり直せるでしょう?」
そこでようやく、この半年で一番はっきり分かったことがありました。
アプフェルは、婚約を解消するには別の理由が必要だと思っているのです。
――次に好きな女性がいる。
――別の婚約者がいる。
――そうでなければ、私が彼女との婚約を終わらせる理由にはならない。
けれど、違います。誰もいないことは、アプフェルと結婚する理由にはなりません。
「ですが」
眼鏡を押し上げました。
「あなたと戻る理由にはなりません」
アプフェルの口が止まりました。
言いすぎたか、とほんの少し考えました。
ですがたぶん、これでいいのでしょう。ここで曖昧にした方が、あとで困ります。
「私たち、ずっと婚約してたのよ?」
「そうですね」
「家同士だって」
「ですから、家同士で話し合いました」
「そうじゃなくて! 私はそんなつもりじゃなかったの!」
「それは分かっています」
「なら」
「あなたにそのつもりがなかったことと、私が婚約を続けたいかどうかは別です」
半年間考えたことを、それ以上説明する必要はないと思いました。
父上たちが待っています。
「では、私はこれで」
「クライド!」
呼ばれて、一度だけ振り返りました。
「アドランテ子爵家へは、今日中に正式な書面が届くはずです」
「待ってよ!」
少しだけ足を止めました。
「卒業、おめでとうございます」
それだけ言って、今度こそ歩き出しました。
待つ理由は、もうありませんでした。
*
「済んだか」
馬車へ乗ると、父上が聞きました。
「はい」
「話したのか」
「話すことになりました」
「揉めたか」
少し考えました。
「かなり」
「そうか」
父上はそれ以上聞きませんでした。
馬車が動きだして、窓の外に学院の門が見えました。
六年間通った場所です。アプフェルとも、ここで何度も会いました。
一緒に昼食を取ったこともあります。試験の話をしたことも。
卒業後の予定を話したこともありました。
全部が嫌な記憶になったわけではありません。たぶん、これからもそうでしょう。
ただ、それと戻りたいかどうかは別です。
「父上」
「何だ」
「明日は商会へ行きます」
「卒業翌日からか?」
「はい」
「一日くらい休んでもいいぞ」
珍しいことを言われました。
「では、午前だけ休みます」
「午後は来るのか」
「そのつもりです」
「好きにしろ」
眼鏡を外して、布で拭きました。今日は何度も触ったせいか、少し汚れています。
明日からは、学院へ行く必要がありません。
今度は本当に商会の仕事を覚える番です。




