番外六 クライド②――嫌いではありません
最初に話してから一週間ほど経っても、アプフェルとトルナド君の付き合いは続いていました。
一週間というのは、長いようで短い期間です。
人の考えが変わるには十分なこともありますし、何も変わらないまま過ぎることもあります。今回は後者でした。
昼休みに二人でいるし、放課後にも一緒にいる。共用庭のベンチで話していたという話も聞きました。
わざわざ探して見に行ったわけではありません。そこまでする気はありませんでしたし、したくもありません。
ただ、学院という場所はそれほど広くありません。一緒にいれば、見かけます。見かけなくても、誰かが知っています。
そして私は、アプフェルの婚約者です。何も聞かない方が難しい立場でした。
「また一緒だったぞ」
「そうですか」
「……お前、本当にそれでいいのか?」
例の友人にまた聞かれました。
「よくはありません」
「なら何とかしろよ」
「一度、本人には言いました」
「一度?」
「やめた方がいいと」
「それだけか?」
「それだけです」
友人はしばらくこちらを見ました。
「お前、変なところで気が長いな」
「そうでしょうか」
「普通はもっと怒るだろ」
「怒っていますよ」
「見えない」
「それは困りましたね」
別に見せる必要もありません。私は眼鏡を押し上げました。
「で、どうするんだ?」
「まだ考えています」
「結婚するのか?」
そこは、すぐには答えられませんでした。
以前なら、はいと答えたでしょう。
子供の頃から決まっていた婚約です。アプフェルとの結婚について、改めて毎日考えることなどありませんでした。
卒業し、商会へ入り、仕事を覚え、アプフェルと結婚する。
どれも同じくらい、先にある予定でした。
ところが今は、その一つだけを何度も考えています。
「まだ分かりません」
「そうか」
友人はそれ以上聞きませんでした。
ありがたいことです。
私にもまだ分からないのですから、説明のしようがありません。
*
二度目にアプフェルへ言ったのは、図書室でした。
この時にはマロン・フライエ嬢が一緒にいました。
正確には、私が図書室へ行った時にはすでに二人が話していて、そこへ私が加わった形です。
アプフェルは相変わらずでした。
――学院にいる間だけ。
――卒業したら終わり。
――その後は私と結婚する。
本人の中では、今でも何一つ矛盾していません。
「今も同じ意見です」
「また?」
「変わっていませんから」
「堅いのよねえ」
「婚約者がいる状態で、別の男性と付き合うことを勧める方が珍しいと思いますよ」
「でも、学院にいる間だけよ?」
「期間の問題ではありません」
前とほぼ同じ話です。それでも念のため、もう一度言いました。
「やはり、やめた方がいいと思いますよ」
「またそれ?」
「はい」
「私は楽しいのよ」
「それは分かっています」
「トルナドも楽しそうよ」
「それも分かっています」
「ならいいじゃない」
よくはありません。
ただ、ここまで聞けば十分でした。
アプフェルは、私の意見を理解できなかったわけではないのです。
聞いたうえで、自分の楽しさを優先している、そういうことです。
返却期限の切れかけた教本を指摘すると、アプフェルはそちらに気を取られ、そのまま友人を待たせていると言って出ていきました。
あっさりしたものです。
姿が見えなくなってから、フライエ嬢に聞かれました。
「……よろしいのですか?」
「何がでしょう」
「止めなくて」
「止めましたよ」
「今の一度だけで?」
「以前にも一度」
そこで初めて、私は自分が二度言ったのだと彼女に数えました。
一度目は、まだ事情を聞いたばかりでしたが、二度目は、一週間以上経ってからです。
その間もアプフェルは続けていました。
もう、思いつきで一日二日浮かれているという話ではありません。
「それ以上は、私が決めることではありません」
そう答えると、フライエ嬢は少し不思議そうでした。
「ですが、婚約者ですよね」
「ええ」
「嫌では?」
「嫌ですよ」
これは考えるまでもありません。
無論嫌です。腹も立っています。自分でも意外なくらい。
「でしたら」
「嫌だからやめてくれと言って、私が見ているところだけやめてもらっても仕方ありません」
言葉にしてから、やはりそうだと思いました。
「本人が、婚約者がいても他の男性と付き合いたいと思った。そのことはもう分かりましたから」
私が命じればやめるかもしれません。もしくは両親から叱られればやめるでしょう。
学院で問題になれば、少なくとも表立っては会わなくなるはずです。
ですが、私が知りたいのは、アプフェルが「規則に従うかどうか」ではありません。
私と結婚したあと、私はこの人を信用できるのか、ということです。
フライエ嬢には、商会では相手の言葉より行動を見ることがある、と説明しました。
少し仕事に寄せすぎたかもしれませんね。
無論婚約まで取引と同じに考えているわけではありません。むしろ逆です。
取引なら、条件が合わなければ終わればいいのですが、結婚は、そう簡単には終われません。
だからこそ、始める前に考えておく必要があります。
図書室を出て男子部へ戻りながら、そのことを何度も考えました。
そして、その日の帰宅後、私は父上の書斎へ行きました。
*
「話があります」
父上は商会から戻ったばかりで、上着もまだ替えていませんでした。
「急ぎか?」
「今日でなくても構いません」
「なら今でいい。座れ」
そういう方です。私は向かいの椅子へ座りました。
机の上には、港から届いた荷の一覧がありました。横に封の切られた書状が三通。今日は忙しかったのでしょう。
「アプフェルのことです」
父上の手が止まりました。
「何かあったのか」
「他の男性と付き合っています」
父上は一度、目を大きく見開いて私の顔を見ました。
「いつからだ」
「一か月ほど前からだと思います」
「思います?」
「私が知ったのがその頃です。実際には少し前からかもしれません」
「相手は」
「クライン子爵家の次男です。同じ学院の男子部にいます」
父上は椅子へ深く座りました。
「アドランテ家は知っているのか」
「おそらく知りません」
「お前は?」
「本人から確認しました」
「それで?」
「一度、やめた方がいいと言いました」
「一度?」
「今日、もう一度言いました」
父上は眼鏡を外しました。私と違って、書類を読む時だけ掛けます。
「お前はどうしたい」
来ると思っていた質問です。それでも、この時はすぐに答えられませんでした。
「婚約を続けるかどうか、という意味ですか」
「他に何がある?」
「そうですね……」
机の端にある封書を見ました。一番上は南部の取引先からです。
考える時間を取るために見たわけではありません。でも、たぶん取ったのでしょう。
「分かりませんでした」
「過去形か」
「今日までは」
父上が待っています。急かしはしません。
「アプフェルを嫌いになったわけではありません」
「好きだったのか」
その聞き方には少し困りました。
「好きだった、というほど考えたことがありません」
「そうか」
「ですが、嫌ではありませんでした。結婚するつもりでしたし、一緒に暮らすことも普通に考えていました」
父上はうなずきました。
「今は?」
「結婚はしたくありません」
言ってみると、ずいぶんはっきりします。自分でも少し驚きました。
ですが、撤回する気にはなりません。
「嫌いではありません。でも、結婚はしたくありません」
「理由は、その男か」
「少し違います」
「では?」
「信用できなくなりました」
父上の指が机を一度叩きました。
「他の男と付き合ったから?」
「それもあります。ただ」
そこだけなら、まだ迷ったと思います。
一度の失敗――気の迷い。
そう考えることもできたでしょう。
「本人は、それを悪いと思っていません」
「ほう……?」
「学院にいる間だけだから構わない。卒業したら私と結婚するのだから問題ない。そう考えています」
「お前が嫌だと言っても?」
「私は二度言いました」
「それでも続けている、と」
「はい」
父上はしばらく机の上の書類を見ていました。
「それで信用できない、と」
「はい」
「結婚したあとも同じことをすると思うのか」
「するとは断定しません」
そこは違います。
「ただ、しないと信じる理由がなくなりました」
父上がこちらを見ました。
「アプフェルは、卒業したらしないと言っています」
「なぜだ」
「卒業したらちゃんとするそうです」
「……そうか」
「私も同じところが分かりませんでした」
父上は額を押さえました。少しだけ、そこは親子だと思いました。
「クライド」
「はい」
「婚約を解消したいのか」
今度は答えられました。
「はい」
父上がうなずきます。
「分かった」
「すぐですか」
「何が」
「話を進めるのは」
「お前は待ちたいのか」
考えました。
「いいえ」
「なら進める」
「アプフェル本人には」
「こちらからアドランテ家へ話す。まず親同士だ」
当然でしょう。私たちだけで決めた婚約ではありません。
「ただし」
父上が続けました。
「卒業式までは大きく動かさない方がいいだろう」
「なぜです?」
「あと少しだ。学院で騒ぎになれば、お前もアプフェル嬢も面倒だ」
それはそうです。
「先方の父親にもそう話す。正式に本人へ伝えるのは卒業後でいい」
「分かりました」
「お前はそれまで、余計なことをするな」
「余計なこととは?」
「クライン君に喧嘩を売るとか」
「しませんよ」
「ならいい」
父上は眼鏡を掛け直しました。話は終わりらしいです。
私も立ちました。
「……クライド」
扉へ向かったところで呼ばれました。
「はい」
「残念だったな」
何と答えるべきか少し迷いました。
「……そうですね」
結局、それだけにして、書斎を出て自分の部屋へ戻りました。
机には学院の課題が残っています。
卒業まで、あと少しでした。
教本を開き、いつも通り読めました。
三頁ほど進んだところで、眼鏡を直しました。
今日はたぶん、これで五回目です。
数えていたわけではありません。
ただ、図書室でフライエ嬢が少し変な顔をしていたので、何となく気になっただけです。




