番外五 クライド①――見ているところだけ
アプフェルがトルナド・クライン君と付き合っているらしい、と聞いた時、最初は何かの間違いだと思いました。
私とアプフェルは婚約していました。
子供の頃に両家で決められた婚約ですから、互いに熱烈に望んで決まったわけではありません。それでも、卒業後はいずれ結婚する。そういう前提で十年近く付き合ってきました。
ですから、婚約者が別の男性と付き合い始めたと聞けば、まず事情を確認するのが普通でしょう。
少なくとも私はそう考えたのです。
「最近、アプフェル嬢とトルネドがよく一緒にいるそうだな」
昼休み、男子部の教室で友人からそう言われました。
「そうなのですか?」
「知らなかったのか?」
「ええ」
「……そうか」
そこで妙な顔をされました。
どういう顔だったのかを説明するのは難しいのですが、少なくとも、話題を続けてよいものか迷っているのは分かりました。
「どこでです?」
「柵のところとか、共用廊下とか。昨日は庭にもいたぞ」
「二人で?」
「ああ」
なるほど。それだけなら、まだ何とも言えません。
学院には男女が一緒に使う場所がありますし、話をするくらいなら珍しくもありません。私だって女子部の生徒と話すことはあります。
ただし、わざわざ私へ教える人がいる程度には目立っている。
そこは覚えておいた方がよさそうでした。
「教えてくださってありがとうございます」
「いや。……いいのか?」
「何がでしょう」
「何がって」
友人はそこで困ったように頭を掻きました。
「まあ、本人に聞けよ」
「そうします」
それが一番早いでしょう。私は眼鏡を直し、午後の授業用の教本を開きました。
ただ、その日は最初の頁をいつもより長く読むことになりました。
読んでいるのに、内容があまり入ってきません。
仕方がないので一度閉じました。
腹が立っているのでしょう。自分のことですから、そのくらいは分かります。
*
アプフェルを見つけたのは、その日の放課後でした。
共用廊下の窓際で友人と話していたので、少し待ちます。こちらに気づいたアプフェルが手を上げました。
「あ、クライド」
「少しよろしいですか」
「いいわよ」
友人たちは先に帰りました。私たちも廊下の端へ寄ります。
「何?」
「あなたは、クライン君とお付き合いしているのですか?」
回りくどく聞く必要もないでしょう。
アプフェルは一度瞬きをして、それから笑いました。
「え、もう知ってるの?」
「今日、聞きました」
「誰から?」
「それは別にいいでしょう」
「そう?」
あっさり引きました。否定はしてきません。
「では、本当なのですね?」
「ええそうよ」
「いつからです?」
「少し前」
「どのくらいですか」
「三週間くらい?」
思っていたより前でした。
――三週間。
その間、私は何度もアプフェルと話しています。一緒に昼食を取った日もありました。
アプフェルは一度もこの話をしませんでした。
「どうして黙っていたのです?」
「別に隠してないわよ」
「私は知りませんでしたが」
「聞かれなかったもの」
……そう来ますか。
確かに聞いていません。婚約者へ毎週、「今週から他の男性と付き合っていませんか」と確認する習慣もありませんでした。
「学院にいる間だけよ」
「何がです?」
「トルナドとは」
アプフェルは、本当に簡単なことを説明する調子で言いました。
「卒業まで、ちょっと楽しく過ごしたいの。彼にも最初からそう書いたわ」
「書いた?」
「手紙でお付き合いしてくださいって」
そこまで聞いて、思わず私は眼鏡へ指を添えました。少しずれていました。
たぶん、朝から何度も触っているのでしょう。
「その手紙に、卒業までと書いたのですか」
「ええ。学院にいる間だけって」
「クライン君は、それで納得したのですか?」
「もちろんでしょう。だって付き合ってるもの」
そこは少し意味が違う気がします。
「卒業後は?」
「あなたと結婚するわよ」
迷いのない返事です。さすがに今度は私の方が少し黙りました。
アプフェルにとっては、おかしなことではないらしいようです。
――学院にいる間はトルナド君と付き合う。
――卒業したら終わる。
――その後は、今までの予定通り私と結婚する。
本人の中では、きれいに三つ並んでいます。
「私は、それを承知した覚えがありません」
「今言ったじゃない」
「聞いたことと、承知したことは同じではありませんよ」
「何が違うの?」
「かなり違います」
アプフェルが少し眉を寄せました。
「でも、隠してないでしょう?」
「そうですね」
「じゃあいいじゃない」
いい訳ないです。……ただ、どこから説明すればいいのか少し迷いました。
「やめた方がいいと思います」
結局、一番短く言いました。
「トルナドと?」
「はい」
「どうして?」
だから、それを聞きますか?
「私たちは婚約していますから」
「だから卒業したらちゃんとするって」
「今は、ちゃんとしていなくてもいいのですか?」
アプフェルが口を尖らせました。
「そういう言い方、嫌」
「では、どう言えばいいでしょう」
「遊びよ」
「遊び」
「そう。学院にいる間だけの」
またそこへ戻りました。
「遊びなら構わない、という考えですか」
「だって本気じゃないもの」
「トルナド君も?」
「そうじゃない?」
「本人に聞きました?」
「聞いてないけど」
何とも判断しづらい返事です。
「では、聞いた方がいいと思います」
「どうして?」
「相手も同じつもりか確認した方がいいでしょう」
「手紙に書いたって言ったでしょう?」
「そうでしたね」
話が一周しました。
ここでさらに同じことを言っても、たぶんまた同じ返事が来ます。
「ともかく、私はやめた方がいいと思います」
「クライドって堅いのよねえ」
「そうかもしれません」
「別に結婚するわけじゃないのよ?」
「私とは結婚する予定ですよね」
「だから大丈夫じゃない」
どうやら、そこで安心しなければならないらしい。
でも私には、できませんでした。
「私は大丈夫だとは思いません」
「何でよ」
「婚約者がいる間に別の男性と付き合うことを、私は結婚前の遊びとは考えないからです」
「でも私はそうなの」
「そこは分かりました」
「だったら」
「私が同じように考えるとは限りません」
アプフェルは少し考えたようです。しかし、あまり長くは続きませんでした。
「まあ、いいわ」
「いいのですか」
「だって私、楽しいもの」
そう言って笑いました。
知っています。最近よく笑っているのも知っていました。
理由までは知りませんでしたが。
「では、また明日ね」
「アプフェル」
「何?」
「私は本当に、やめた方がいいと思っていますよ」
「分かったわ」
返事だけは素直でした。
そして翌日も、アプフェルはトルナド君と一緒にいました。
*
その晩、商会の帳面を一冊、父上から預かりました。
学院を卒業すれば私も商会へ入りますので、今のうちから簡単なものは見せてもらっています。
今日は北倉庫へ入った商品の控えでした。
油――乾燥果実――布――染料。
数字を足し、もう一度足し―― 合っています。次の頁へ進みました。
しばらくして、さきほど確認した頁へ戻り、また足します。やはり合っています。
「……何をしているんですか、私は」
さすがに口に出ました。
数字が違うのではありません。気が散っているだけです。
その時はもう、帳面を閉じました。
アプフェルに、もう会うなと言うことはできます。私は婚約者ですから。
両家へ話せば、アドランテ子爵家からも止めるでしょうし、学院内で教師へ相談することもできます。
やめさせるだけなら、方法はいくつもあります。
しかし、それで彼女に何が分かるというのでしょう?
――相手から嫌だと言ったからやめた。
――父親に叱られたからやめた。
――教師に見つかったからやめた。
それなら、私の見ていないところでは? 結婚したあとなら? 私が商会の仕事で数日家を空けたら?
そこまで考えて、眼鏡を外しました。
考えすぎでしょうか? まだ一度話しただけです。
長く婚約してきた相手です。アプフェルを嫌いになったわけでもありません。
今日の昼までは、卒業したら普通に結婚するのだと思っていました。
だから、すぐに婚約をやめるというのも違う気がします。
――もう少し見た方がいい。
その時の私は、とりあえず考えました。
これは試すという意味ではありません。
私から言うことはもう言っています。
そのうえで、アプフェルが何をするのか? それを見なければ、結婚相手として判断できません。
眼鏡を掛け直し、帳面を開きます。同じ頁でした。
今度こそ次へ進みます。
ところが三行目で、さきほどまで二度とも見落としていた数字の写し間違いを見つけました。
「……ありましたか」
赤い印をつけます。
どうやら今日は、確認を重ねたこと自体は無駄ではなかったようです。




