番外四 アプフェル②――どうして向こうから?
卒業して最初のひと月は、悪くなかったわ。
朝早く起きなくていいし、授業も、試験もない。教本を抱えて歩く必要もない。
クライドとの婚約がなくなったことは腹が立ったけれど、それだって、しばらくすれば何とかなると思っていたの。
お父様も言っていたじゃないの、しばらく縁談はない、と。
しばらく…… つまり、そのうちあるってことよね。
だから最初のうちは、それほど気にしていなかったのよ。
「今日、買い物へ行ってくるわ」
朝食の席で言うと、お母様が顔を上げた。
「誰と?」
「一人よ」
「侍女を連れていきなさい」
「どうして?」
「どうしても何も、ないでしょう」
「今まで一人で行ってたわよ」
「学院に通っていた頃でしょう」
「だから何?」
「あなたもう、卒業したのよ?」
またそれだ。
私は卒業したから自由になるのだと思っていた。
なのにお母様の中では、卒業したから今までより気をつけろということらしい。
「じゃあ侍女を連れていくわ。それでいい?」
「馬車で行きなさい」
「歩いて行けるわよ」
「馬車で!」
「どうして!」
「アプフェル!」
「分かったわよ!」
ああ、面倒くさい。もうこんなことばかりだわ。
*
その日は結局、馬車で王都の店へ行くことになった。侍女も一緒。
それで買いたかったリボンを三本選び、手袋を一組買おうとしたら、侍女が言った。
「……あの、お嬢様、今月のお小遣いですと、どちらかにされた方が」
「まだあるでしょう?」
「あとはこちらです」
財布を見せられた。
「え、これだけ?」
「はい」
「どうして?」
前より少ないじゃない!
*
屋敷へ戻ってお母様に聞くと、あっさり答えられた。
「ええ、減らしたわよ」
「何で勝手に?!」
「だってあなた、しばらく社交の予定も少ないでしょう?」
「だからって!」
「必要なものは家で用意します。それで充分だわ」
「そういう話じゃないでしょう!」
私は、好きに使えるお金の話をしているのよ。
「今までと同じだけ必要って言うの?」
「必要よ!」
「じゃあそれ、何に?」
「何って……」
服とか、菓子とか、友人と出かけた時とか……
そう言うと、お母様は首を傾げた。
「友人と出かける予定が決まったら、その時に考えましょう」
また! 何なのよ!
*
二か月目には、学院の友人から招待状が来た。結婚祝いの茶会だった。
「え、もう結婚するの?」
つい声が出た。
婚約者がいることは知っていたし、卒業したら式を挙げるとも聞いていた。
でも、本当にこんなにすぐだとは思わなかった。
茶会には、学院の友人が何人も来ていた。
「来月から領地へ行くの」
「私は式の日が決まったわ」
「衣装合わせが大変で」
皆、口々にそんな話ばかりしていた。そして私にも聞いてくる。
「アプフェルは?」
「何が?」
「これからのことよ」
「ああ」
……何と答えればいいの。
「まだ決まってないわ」
「そうなの?」
「少しのんびりするつもりなの」
ともかく、そう言った。
別にのんびりすると決めたわけではないわ。でも、他に言いようがなかったし。
「いいわねえ。私なんて卒業してからずっと準備ばかりよ」
「でしょう?」
だから笑った。
……そうよ、別に急ぐことないじゃない。私は自由なのだから。
*
ところが帰りの馬車で、お母様が言った。
「あまり『のんびりするつもり』とは言わない方がいいわね」
「何で?」
「あなたの場合、こちらが望んで婚約を遅らせているわけではないもの」
「同じでしょう?」
「違うわよ」
「何が違うのよ」
お母様からははあ、とため息をつき、首を横に振る。またそれ。最近そんなことばかり!
*
それから三か月経ち――四か月経っても、縁談は一つとして来なかった。
さすがに私もお父様に聞きに行った。
「お父様」
「何だ?」
「私の縁談って、どうなってるの?」
「特に何も」
「誰からも?」
「ああ」
「探してないの?」
「話はしている」
「だったらどうして来ないのよ!」
お父様が新聞を畳んだ。
「先方にも選ぶ権利があるからだ」
「……何よ、それ」
選ぶ権利? 私は避けられてるってこと?
「そのままだ」
「……私の何が悪いのよ」
「お前、本気で聞いてるのか?」
お父様は顔をしかめた。
「お前は婚約中に別の男と半年付き合い、その相手に本気ではなかったと公言し、その結果、元の婚約者からも解消された娘だ」
「だから学院にいる間だけだったのよ!」
「それを説明しても、先方の反応はあまり変わらん」
「どうしてよ?!」
「……では、お前なら、どう説明するつもりだ?」
「卒業したらしないって言うわよ」
「それを信じる理由は?」
「するって言ってるでしょう!」
「相手がお前のその話を信じる理由だ」
「もう!」
苛々する。何で皆、そこばっかりなのよ。
「お父様は、私が悪いっていうの?」
「悪いかどうかの話ではない」
「じゃあ何!」
「結婚相手としてお前をどう判断するのか、だ」
またそれ!? クライドも同じことを言っていた。
――信用できない。
――結婚したあとも同じことをしないと信じられない。
しないって言ってるのに!
*
半年を過ぎた頃、ようやく縁談が一件だけ来た。
「本当に?」
さすがにその時は、お母様から聞いた時、思わず椅子から立ちあがったわ。
「どこの方?」
「バルハ伯爵家のご親戚」
「伯爵家?」
「伯爵の妹君の息子さんよ」
「爵位は?」
「ないわ」
何だ、と私はがっくりと座り直した。
「父方は地方の地主ですよ」
「どこ?」
お母様は地名を言うけど、知らない。
「どこ? それって」
「王都から馬車で三日ほどのところかしら」
「三日!」
「大きな葡萄園と醸造所を持っているそうよ」
「葡萄なんてどうでもいいわよ!」
「どうでもよくはないでしょう。家業なのだから」
「じゃ、その人は王都に住んでないの?」
「ええ」
「舞踏会は?」
「王都に来れば出ることもあるでしょうね」
「どのくらい来るの?」
「年に何度か」
「え、それだけ?」
それっきり? 冗談でしょう!
「ねえお母様、他の話は?」
「今はこれだけよ」
「これだけ?」
「会うのが嫌なら断って構わないわよ」
「え、じゃあ次は……?」
「さあ、来るかどうか、分からないわね」
「また半年とか?」
「一年かもしれないし、もっとかもしれないわよ」
「そんな!」
お母様は静かにこちらを見ている。
「会うだけでもいいのよ」
「……会ったら断れないとかない?」
「ありません」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ」
嫌だけど。本当に嫌だけど。
「会うだけ」
「ええ」
「会うだけだからね」
*
相手は思っていたより普通だった。
名はエルマー、二十五歳。背はクライドより少し低い。
髪は黒っぽいし、服も地味。
ただ、話してみると案外、変な人ではなかった。
「王都は久しぶりです。ずいぶん変わりましたね」
「そうなのですか」
「三年ぶりです」
「三年!」
「仕事がありますので」
「劇場とか行かないのですか?」
「領都にも小さいものならありますから」
「小さいの?」
「王都ほどではありませんね」
……嫌だ。
「冬は雪が多いです」
「雪?」
「葡萄畑は休みになりますが、醸造所の仕事があります」
……もっと嫌だ、と思った。
でも、話は続けた。そして私が学院で何を学んでいたかも聞かれた。
王都で何が好きなのか、どんな音楽を聴くのか、葡萄酒は飲むのか。
「お酒はあまり」
「では飲まなくても構いません」
「葡萄園なのに?」
「作る者が全員好きとは限りませんから」
そう言って彼は少し笑う。私も笑った。
*
顔合わせのあと、お母様に聞かれた。
「どうだった?」
「地味ね」
「他には?」
「やっぱり遠いわよ」
「他には?」
「葡萄ばっかり」
「他には?」
「……普通ね」
「嫌だった?」
そこは、少し考えた。
「最初に思ったほどじゃないわ」
「では、もう一度会う?」
「向こうが会いたいならね」
そうよ、向こうが会いたいなら。だからそう答えた。するとお母様がこちらを見る。
「何?」
「いいえ」
「別に気に入ったってわけじゃないから!」
「分かっています」
本当に。
ただ、まあ、三日もかかるのは本当に嫌だけど。
王都にあまり来ないのも嫌だけど。
話していて腹が立つ人ではなかったし、クライドほど頭が堅そうでもない。
次にもっといい縁談が来るか分からないなら、もう一度くらい話してもいい。
その程度だ。
*
二度目に会った時、エルマーから聞かれた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「何?」
「以前のご婚約のことです」
やっぱり。でも、お父様から話は聞いているはずよね。
「いいわ」
「婚約中に、別の方とお付き合いされていたと」
「ええ」
エルマーが少し待った。
「それは、ご結婚を考えてのお付き合いだったのでしょうか」
「違うわ」
「では」
「学院にいる間だけ、でした」
私は説明した。
「卒業したら終わりって、最初から言ってましたから」
「最初から?」
「手紙にも、そう書きました」
「では、お相手もご存じだったのですね? そういうことだと」
「そうよ。なのに勝手に本気にしちゃったんですのよ」
すると彼は少しだけ黙り、やがて探るような視線で問いかけた。
「元の婚約者の方は? ご存じでしたか?」
「知ってたいたわ」
「……ご存じだったのですか」
微かに首を振る。何となく、お母様のそれに似てる。
「何度も言われたもの。やめた方がいいって」
「それでも続けられたんですね?」
「だって遊びだもの」
これなら分かるでしょう。
「卒業したらちゃんとするつもりだったし」
「ちゃんとする、というのは」
「婚約者と結婚するつもりだったわ」
「……なるほど」
エルマーはそれ以上聞かなかった。
「何?」
「いえ。分かりました」
やっぱり分かる人は分かるのよ。クライドが大げさだっただけだわ。
「あなたは気にする?」
「今日伺った話も含めて、家族と相談します」
「そう」
……真面目なのね。
まあいいわ、こっちだって考える時間は欲しいもの。
*
帰宅してから、お母様に聞かれた。
「今日は?」
「前の婚約のこと聞かれたわよ」
「何と答えたの?」
「そのままよ」
「そのまま?!」
え、どうしたの、そんな大声。
「遊びだったって」
するとお母様が固まった。
「お母様?」
「……それで? エルマー様は?」
「分かりました、って」
「そう」
「だから、もう一回くらいなら会ってもいいかな」
今度は自分から言った。
「まあ、地方だけど」
王都から三日、それはまだ嫌だ。
でも領都には劇場もあるらしいし。
冬は雪、それも一度くらいなら面白いかもしれない。
葡萄園だって、毎日私が働くわけではないでしょう。
「この人なら、まあ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも、そこまで嫌じゃなかった。
*
そして返事は四日後に来た。お父様が部屋に来い、と言ってきた。
「何?」
入るなり聞く。たぶんエルマーの話だろう。
「先方から返事があった」
「でしょう?」
椅子に座った。
「次、いつだって?」
お父様がこちらを見た。
「……いや」
「何?」
「今回は、ここまでにしたいそうだ」
「……え?何が?」
「縁談を」
え? 意味が分からない。
「誰が?」
「エルマー君が」
「何で?」
「本人からだ」
「何でよ!」
立ち上がった。
「私、もう一回会ってもいいって言ったわよ!」
「先方が、もう会わないと言っている」
「だから何で!」
「手紙がある。お前も読みなさい」
お父様は封書を出したので、受け取って読む。
長くはないわ。
会って話ができたことへのお礼が書いてある。私が明るく、話していて楽しい人だった、ってことも。
……それから。
――しかし、婚姻についてのお考えは、私とは大きく異なるように思いました。
「……何これ」
続きを読む。
――今後のお話は、ここで辞退させていただきたく存じます。
「ちょっと! 何なのよ!」
手紙を机へ叩き付けた。
「考えが違う、って何なの!」
「だから、エルマー君本人がそう判断したのだろう」
「お父様が何か言ったんじゃないの?」
「言っていない」
「ステイン家から何か聞いたんでしょう!」
「先方は最初から経緯を知っていた」
「だったら何で会ったのよ!」
「お前本人と話してから判断したかったそうだ」
え、と私は止まった。
「……私と?」
「ああ」
「私と話して、断ったの?」
「そういうことだ」
「何でよ……」
またそれしか出ない。
「だって、ちゃんと説明したのよ?」
「聞いた」
「遊びだったって。卒業したら終わりだったって」
「その説明を聞いた上での返事だ」
「そんなのおかしいでしょう!」
「何がおかしいっていうんだ?」
「だって私、この人ならいいって思ったのよ!」
お父様が何とも言えない顔をした。
「アプフェル」
「何!」
「向こうにも選ぶ権利というものがあるんだ」
は? 言っている意味がわからない。
「お前が『この人ならいい』と思っても、相手がお前を選ぶとは限らん」
「でも」
だって、向こうから来た縁談でしょう?
わざわざ王都まで来て、二回も会って、ちゃんと話したのよ。
私だって、三日もかかる地方でも、この人ならいいかもしれないって思った。
それなのに。
「……お父様、じゃ、他の縁談は?」
「今はない」
「いつ来るの?」
「分からん」
「また半年?」
「分からん」
「一年?」
「それも分からん」
「そんな……」
力が抜けて、椅子へ座った。
机の上にはエルマーの手紙がある。
丁寧な字だわ。悪口なんて一つも書いていないのよね。
だから余計に腹が立つのよ!
「……みんなみんなよってたかって、何なのよ!」
私、ちゃんと会ったのに。
今度は誰とも遊んでないわ、何もしてないのよ! この人ならいいと思ったのに。
なのに――
どうして向こうから断るのよ。
「何だっていうのよ!」
お父様はもう、返事をしてくれない。
机の上で、エルマーからの手紙だけがきれいに畳まれていた。




