番外二 トルナド②――女子部は簡単
北部の朝は早い。……というより、管理所の朝が早い。
俺がここへ来て最初に覚えたのは、それだった。
「トルナド、起きろ」
「……起きてます」
「扉を開けてから言え」
言われて、扉を開ける。廊下には管理官の補佐をしている男が立っていた。名はベイル。二十八歳。
俺より十も上ではないくせに、ここでは俺の指導役らしい。
「十分後に裏庭に来い」
「朝食は?」
「そのあとだ」
「先に食べないんですか?」
「今日は荷馬車が来る」
それだけ言うと、彼は行ってしまった。
窓を見るとまだ暗い。王都なら、こんな時間に起きているのは使用人くらいだろう。
*
父上が紹介してくれた二つのうち、俺は結局、北部の領地管理見習いを選ぶこととなった。
理由は簡単だ。役所の方は試験があったからだ。
卒業したばかりなのに、また試験なんてやっていられない。
こちらなら、管理所で仕事を覚えればいい、ということだったからだ。
その時は、それほど大変だとは思わなかった。
フライエ家へ行っても領地経営を学ぶ予定だったのだから、似たようなものだろうと思ったのだ。
ところが大違いだった。
まず、自分で起きなければならない。母上の屋敷なら、朝になれば使用人が起こしに来るのに!
ここでも最初の三日は、誰かしら来たけど、四日目から来なくなった。
「見習いは使用人を使う身分ではない」
その日、管理官にそう言われた。
すぐには意味が分からなかったのだが、要するに自分のことは自分でやれという意味だった。
*
着替えて裏庭へ出るが、まだ眠い。荷馬車が三台入ってきた。
「何です、これ」
「麦だ」
ベイルが答えた。
「……見れば分かります」
「なら聞くな」
可愛げがない!
そんな間にも、荷台から袋が下ろされていく。
「お前はこれを数えろ」
「何を?」
「袋だ」
「袋の数なら、帳面に書いてあるでしょう?」
「だから、書いてある数と来た数が同じか確認するんだ」
何を今更、という顔を向けてくる。
馬鹿にするな、それくらいなら分かる!
俺は仕方なく数えだした。十九、二十、二十一――
「三十八」
「もう一度」
「三十八ですよ」
「四十のはずだ」
また数えても、三十八だった。
「二袋足りませんよ」
「そうだな」
そう言ってうなずくと、ベイルは御者のところへ行き、しばらく話して、一台目の荷台の奥を確認する。
すると袋が二つ出てきた。
「あるじゃないですか」
「だから、確認したんだ」
……朝っぱらから疲れさせやがって。
全部倉庫へ入れ終わった頃にはすきっ腹が鳴り出していた。
「今度こそ朝食ですよね」
「いや、今度は倉庫を見るぞ」
「今入れたばかりでしょう?」
「だから見るんだ」
何なんだ一体。
それでも言われるままに、倉庫へ入ると麦袋が積まれている。それだけだ。
「何かおかしいか」
管理官まで来た。この人はバーゼルという。父上の知人である領主に長く仕えているらしい。
「特に、何も?」
答えると、ベイルが鼻で息を吐いた。
「床を見ろ」
何だよ! と思ったがそれでもしぶしぶ床を見る。
「板ですね」
「……そこじゃない」
さらにじっと見ると、少し色が違う場所があった。
「あ、濡れてる」
「そう、昨夜の雨だ」
「え、じゃ、屋根が漏ったんですか?」
「そのようだな」
バーゼルが麦袋を指した。
「だからこの麦袋はここへ置く訳にはいかない」
「え…… 少しくらいなら大丈夫でしょう」
二人とも目を眇めて俺を見た。
「……何です?」
「おい、麦は湿気るんだぞ」
ベイルが言った。
「知ってますよ」
「じゃあ言ってみろ。どの程度でまずいんだ?」
「どの程度って」
……考えたことがない。
「濡れたら、ですか?」
目を瞬かせる俺に、二人は代わる代わる、噛んで含めるように言う。
「今はな。床が少し湿っているだけだ。だがこのままでは」
「そう、かなり濡れることにもなりかねない」
「そして腐る前に黴びる」
バーゼルが言った。
「湿った床から袋の下へな。上だけ見ていると気づかん」
結局それで、袋を移動することになった。
重い。ものすごく重い。
俺は三袋目で腕が痛くなった。
「これ、俺がやる仕事ですか?」
「今はな」
「見習いですよね?」
「だからだ」
「何で?」
「お前はどれだけ重いか知らずに、十袋移せと指示するのか?」
言い返せなかった。
結局、朝食はかなり遅くなった。その日は、パンと豆の煮込みだった。
王都の家なら文句を言っていたと思うが、今はもう、腹に入れば何でもよかった。
*
昼からは帳面付けだった。
当初はこれなら座ってできる作業だから楽だと思った。朝のせいで腕と肩と腰に来ているんだから。
そして麦の入荷量と、各村へ回す種籾の量を確認する。
「ここ、数字が合いません」
俺が言うと、ベイルが帳面を覗いた。
「どこだ?」
「合計です」
「これは合ってる」
「え……」
指で追うと、本当に合っていた。
「……すみません、一行飛ばしてました」
「そうか」
何でこいつはいちいち淡々としてるんだ。
「学院では成績、悪くなかったんですけど」
「今はそんなことは聞いてない」
「今のはちょっと見落としただけです」
「そうか」
……腹が立つ。
*
しばらくして、別の書類を渡された。
「これは?」
「倉庫管理の報告だ」
「また麦ですが?」
「豆と乾燥肉もある」
それも手に取ると、今度は数字だけではない。
保管場所――換気――鼠害――虫――温度。
……妙に細かい。
「こんなのまで覚えるんですか?」
「当然だろう?」
「管理官って、もっと全体を見る仕事じゃないんですか?」
「全体を見るには、中身を知らないと無理だ。当然だろう」
……俺にはまた、言い返す言葉が見つからない。
鼠害のところを読んでいると、妙なことを思い出した。
学院の順位表。マロンが女子部で十二位だった時だ。
俺は言った。女子部は簡単でいいよな、と。
女子部では領地経営だけでなく、家政や使用人管理まで習うと聞いたことがあった。
俺は、そんなのは女子がやることだと思っていた。
「女子部では、こういうの習うんですかね」
ぽろっと口に出た。
「何を?」
「倉庫とか。食料の保管とか」
「さあ」
ベイルは別の書類を書いている。
「家を継ぐ女性なら習うんじゃないか」
「男子部では、こんな細かいことまでやりませんよ」
「だから今やってるんだろう? それだけだ」
何か、もう少し言い方があるだろう? 言い方ってものが!
それでも言い返せずに、報告書へ戻るしかない。
――鼠の被害――猫を入れる場合は、餌を与えすぎないこと。
そこまで書いてある。猫まで管理するのかよ!
マロンもこんなことを習っていたのか? お嬢様然とした連中が。
……いや、あいつは伯爵家を継ぐのだから、たぶん習っていたな。それで十二位だった。
俺は三十位にも入らなかった。
――別に、試験が違うのだから比べる意味はない。
マロンもそう言っていた。俺も今ならそう思う。
……今さらだ。
「トルナド」
「は、はい」
「手が止まってるぞ」
「今、読んでます」
「だったら今は、読むことに集中しろ」
……言われた通り、読むことに集中した。
*
この生活が三か月続いた。
朝は早いし、荷物は重い。帳面は多い。
村へ行けば道はぬかるんでいるし、雨が降れば外套が濡れる。
馬車に乗れる日はまだいいが、馬で行く日は尻が痛くなる。
しかも、管理所では俺が一番下だ。年齢ではなく、立場が。
「トルナド、これを領主館へ届けろ」
「またですか?」
「まただ」
「昨日も行きましたよ?」
「必要だからだ。今日も行け」
俺は配達人か。
*
そんなある日、領主館で若い男――まだ少年と言っていい程の――に呼び止められた。
「クライン君?」
「はい」
「いつもご苦労様」
にこやかな笑顔を見せたのは、領主の長男だった。
十五歳で、俺より三つ下だという。学院に編入予定のため、今は家庭教師について勉強しているということだ。
「この前の倉庫の件、バーゼルから聞いたよ」
「雨漏りですか」
「ああ。早く分かってよかったね」
「俺が見つけたわけじゃないですけど」
「そうなのか?」
「ベイルさんが」
「なら、次は君が見つけられるといいな」
悪気はない。たぶん本当にないのだ。
なのに妙に腹が立った。
「……俺、学院はもう卒業してますよ」
「知っているよ」
「あなたはまだですよね」
「うん」
「なのに、俺に指示するんですか?」
言ってから、少しまずかったかと思った。相手はきょとんとした。
「僕が?」
「さっき、次は見つけろって」
「指示じゃないよ? どうして?」
「じゃあ何です?」
「そうなればいい、と思っただけだってば」
俺はしばらく黙った。何となく、似た返事をどこかで聞いたことがある。
……いや、似ていない。俺が勝手に先を読んだだけだ。
「それに」
少年は続けた。
「僕が家を継ぐから、いずれは君たちへ指示することもあると思うし」
そうだった! こいつは跡取りだった! 三つ年下でも。
「でも、嫌なら父上に言ってくれないか? そうしたら僕からお願いするから」
「別に嫌とは……」
「そう?」
「……仕事ですから」
自分で言って、嫌になったが、少年は普通にうなずいた。
「じゃあ、よろしく」
俺は書類を渡して管理所へ戻った。
帰り道は雨だった。
*
その晩、父上から手紙が届いていた。
母上は元気だ、兄上も変わらない。
最後に、
――仕事は続いているようだな。
と書いてあった。
……何だその書き方! 父上は、俺がすぐ辞めると思っていたのか?!
いや。
最初の一か月は辞めたかったんだ。父上にも二度手紙を書いた。
――もう少し王都に近い仕事はないのか。
――ここでなくても経験は積めるだろう。
と。でも、返事は短かった。
――自分で探せ。
それだけ。
結局俺は、探していない。探す時間がないからだ。
朝から仕事があり、夜になれば疲れている。休日は寝ていたい。
俺は手紙を机へ置く。窓の外はまだ雨だ。
明日は早朝から東の倉庫へ行って、屋根の修理が終わったか確認するらしい。
それから種籾の数を確認して、午後は村へ行く――予定表にはそう書いてある。
……卒業したら、もっと楽になると思っていた。
そりゃ、マロンと結婚して伯爵家へ入っていたとしても、たぶん仕事はあっただろう。
ただ、少なくとも、最初から俺のための場所はあったし、教える人もいたはずだ。
暮らす屋敷もあったし、将来何になるかも決まっていた。
ただ俺が、それを窮屈だと思っていただけだ。
今は毎朝、今日何をするか予定表を見る。明日のことすら分からない。
机の端には、明日の倉庫確認表が置いてある。
湿気――床――壁――虫――鼠。
一つずつ項目が並んでいた。
――女子部は簡単でいいよな。
昔、自分が言った言葉を思い出した。
「……猫まであったな」
誰もいない部屋で、つい口に出た。
明日の確認表にも、最後に小さく書かれている。
――猫の餌の量。
……全く、何なんだよ!
そう思いながらも今の俺には、ただもう忘れないように、丸をつけるしかない。




