番外一 トルナド①――卒業したら
卒業式から帰ったあと、俺はろくに夕食を食べられなかった。食欲がなかった。
当たり前だろう?
半年も付き合っていたアプフェルには、卒業までのつもりだったと言われた。マロンとやり直そうとしたら、もう別の男と婚約していた。
しかもルドランだ!
同じ男子部だったから、俺ももちろん知っているさ。順位表の上の方にいつも名前があった男だ。
俺が知らないうちに、あいつがマロンの婚約者になっていたなんて!
何でそんなことになったんだよ。少しくらい待っていてもよかったんじゃないか? 俺は騙されていたんだから。
アプフェルが最初から卒業までのつもりだったと分かっていれば、婚約なんか解消しなかった。
……いや。
解消した時には本当にアプフェルが好きだったし、向こうも俺を好きだった。そこは間違っていない。
ただ、卒業したら終わりだなんて思っていなかっただけだ!
そんなことを考えていたら、夕食の肉はほとんど残してしまった。
「食べないの?」
母上に聞かれた。
「いらない」
「具合でも悪いの?」
「別に……」
父上は向かいで黙々と食べていた。
卒業式で何があったかは、もう話した。
俺からではない。学院から帰ってすぐ、父上に今日のことを聞かれたから、仕方なく話したのだ。
――アプフェルとは終わったし、マロンには別の婚約者がいた。
それだけでいいと思ったのに、父上は細かく聞いてきた。
――アプフェルはいつから卒業までのつもりだったのか。
――手紙には何と書いてあったのか。
――俺はその手紙を読んだのか。
――マロンから何か言われなかったのか。
全部話したら、父上はしばらく額を押さえていた。……何だよ。俺だって好きでこんなことになったわけじゃない。むしろ被害に遭った方だ。
夕食を終えると、父上がナプキンを置いた。
「トルナド」
「何です?」
「明日、予定はあるか?」
変なことを聞く。
「ありませんよ」
学院は今日で卒業したから、明日から行く必要はない。
「では、午前中に書斎へ来なさい」
「何の話です?」
「卒業後のことだ」
「ああ」
それなら急ぐ話でもないだろう。
「分かりました」
答えると、父上がこちらを見た。
「十時だ」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
父上は機嫌が悪い。
まだ婚約のことで怒っているのだろうか? もう終わった話なのに。
俺は先に食堂を出た。
*
翌朝、目が覚めた時には十時を少し過ぎていた。
卒業式で疲れていたのだから仕方ない。
慌てて服を着替えて書斎へ行くと、父上はもう机に向かっていた。
「遅いぞ」
「……すみません」
「ともかく座れ」
言われた通りに座ると、机の上には何枚か書類が置いてあった。
また婚約の後始末かと思ったが、違うらしい。
「昨日言った通り、お前の今後についての話をする」
「はい」
「お前はこれからどうするつもりだ」
「……どうするって?」
何の話だ? と父上を見たら、眉を寄せている。
「お前は昨日学院を卒業したんだ。これから何をするつもりだ?」
「それは……」
……言われてみると、考えていなかった。
というより、考える必要がなかった。卒業したらマロンの家へ行く予定だったからだ。
まず伯爵について領地へ行って、仕事を覚える――そういう話だった。
何年かしたら結婚して、マロンが伯爵家を継いで、俺はその夫になる。
ずっとそう決まっていたから。
「フライエ家へ行く予定だったので……」
「それはもうかなり前になくなっただろう」
「分かってますよ」
「では、その代わりをどうするつもりだ?」
「代わり?」
「仕事だ」
――仕事。
改めて言われると妙な感じがした。
「……まだ卒業したばかりですよ」
「だから何だ?」
「少しくらい休んでもいいでしょう」
「休んだあと、何をする?」
「それはこれから考えます」
父上は何も言わず、机を指で二度叩いた。
「何かあります?」
「何か、ではない」
苛立っているらしい。
「お前は長男ではない」
「それは、知っています」
「この家を継ぐのはお前の兄だ」
「それも知っています」
すると、まだわからんのか、という顔で、
「お前のためにわざわざ領地の役職を空けてあるわけではないんだ」
そこまで言われて、少しむっとした。
「ちょっと待ってくださいよ、じゃあ俺を追い出すんですか?」
「誰がそんなことを言った?」
「今の言い方ならそう聞こえるでしょう」
「普通はそうは取らない」
父上は即答した。
「家に置くことと、一生何もせず食わせることは別だ」
「一生なんて言ってませんよ……」
「では何をするつもりだ?」
……またそこへ戻った。
「だから、これから考えるって」
「そういうことは、学院にいる間に考えるものだ」
「俺は婿に行く予定だったんだから仕方ないでしょう!」
声が大きくなってしまったが、父上は少しも驚かなかった。
「そうだな」
あっさり言われた。
「だからフライエ伯爵は、お前が卒業したら自分のもとで領地経営を学ばせるつもりだった」
「知ってます」
「王都で必要なことも、領地で必要なことも、何年かかけて教える予定だった」
「だから知ってますって」
「その道を半年前にお前自身が断ち切ったんだ」
「断ち切ったっていうか――」
「婚約を解消すれば、当然その話もなくなると確認したはずだぞ」
……覚えている。
あの日、マロンの家で伯爵に聞かれた。
婿入りも、卒業後の予定もなくなる。そして後で話が違うと言われても困ると。
だから、分かっていると答えた。その時の俺はアプフェルと一緒になると思っていたからだ。
「でも、事情が変わったんですよ」
「フライエ家の事情は変わっていない」
「俺の方がですよ」
「だから何だ?」
「俺は、騙されてたんです!」
父上が椅子の背にもたれた。
「その話は昨日聞いた」
「だったら……!」
「だが、アプフェル嬢が、お前にフライエ嬢との婚約を解消しろと言ったのか?」
……言っていない。
「でも、普通は」
「言ったのかどうだ?」
「……言ってません」
「では、お前が決めたんだな」
「そうですけど……」
「なら、その結果もお前のものだ」
何だよ、それ。
「父上までマロンと同じこと言うんですね」
「普通はそういうだろう」
「俺だって被害に遭ってるんですよ!」
「それと仕事がないことに何の関係がある」
ひゅっと俺は息を吸い込んだ。
「アプフェル嬢に騙されたから、誰かがお前の就職先を用意しなければならんのか?」
「そういう意味じゃ……」
「では何だと言いたい?」
父上は机の引き出しを開け、一通の封書を出した。
「昨日の夜、連絡を入れた」
「誰に?」
「私の知人だ。一人は北部に領地を持っている。もう一人は王都で役所勤めをしている」
俺は封書を見た。
「仕事を探してくれたんですか?」
「話を聞いてくれるかもしれん、と頼んだだけだ」
「だったら……!」
「喜ぶのはまだ早い」
父上は封書をこちらへ寄せた。
「北部の方は、領地管理の見習いを一人探している。ただし住み込みだ」
「住み込み?」
「ああ」
「屋敷に?」
「管理所だ」
「管理所って……」
「領都から馬車で半日ほど離れた場所だそうだ」
それって…… 思っていたものと違う。
「そこに住むんですか?」
「採用されればな」
「使用人は?」
「知らん」
「部屋は?」
「知らん」
「給金は?」
「見習い相応だろう」
父上は、俺を何でそんなところへ。
「役所の方は?」
「役人になりたいなら試験を受けろとのことだ」
「試験?」
「採用試験だ」
「学院を卒業したのに?」
父上が俺を呆れたように見た。
「学院を卒業した者が受ける試験だ」
そういう意味じゃない。
「……どっちも、すぐ決まるわけじゃないんですか」
「当たり前だ」
「父上から頼めば」
「頼んだから、話を聞いてもらえるんだ」
そこで初めて気づいた。
フライエ家との約束がそのままなら、こんなことはなかった。
面接も、試験も、住む場所を探す必要もなく、卒業すれば、そのまま行けばよかった。
伯爵家の屋敷に部屋もあっただろうし、マロンと結婚すれば、そこが自分の家になる。
「……他にはないんですか?」
「嫌なら、自分でも探せ」
「俺が?」
「お前の仕事だろう」
父上はそう言って、机の端に置いてあった新聞を一部こちらへよこした。
「求人が出ている」
「新聞で探すんですか?」
「嫌なら知人に手紙を書け。学院の友人でもいい。教師に相談してもいい」
――何で俺がそこまで。
そう言いかけて、やめた。父上の顔を見る限り、言っても無駄だ。
「とにかく、今日はその二つを考えろ。明日、どちらに返事をするか聞く」
「今日中に?」
「半年あっただろう」
「半年って」
「婚約を解消してからだ」
いやいや、それは違う。俺はその半年はアプフェルと付き合っていたんだ。
卒業したら二人でどうするか、それを考えていた。劇場へ行くとか、家へ会いに行くとか。
だから仕事のことまで考える暇がなかったんだ。
……いや、暇はあった。でも、必要だと思っていなかった。
「話は以上だ」
父上は書類へ目を戻す。
俺は新聞と封書を持って立ち上がり、扉へ向かう途中で、もう一度振り返る。
「父上」
「何だ」
「少しくらい、休んでからでもいいですよね」
「採用されるまでに休める」
それで終わりだった。
*
俺は部屋へ戻って、新聞を机に置いて求人欄を開いた。文字が細かい。
官吏見習い――商会事務員――領地管理補佐――家庭教師――地方代官所書記。
どれも、自分で申し込むらしい。
当然なのだろうか? 今までそんなことをしたことがないぞ?
机の脇には、昨日持ち帰った卒業証書がまだ筒に入ったまま置いてある。
卒業したら、もっと自由になると思っていた。
学院へ行かなくていいし、試験もない。アプフェルと好きな時に会える。
……そのはずだった。
新聞を一度閉じ、少しして、また開いた。
父上は明日聞くと言った。
……仕方ない、とりあえず、住み込みではない方からにしよう。




