第十六話 婚約一つでしょう?
「マロン」
呼ばれたので、仕方なく足を止めました。
我が家の馬車はもう正門前まで来ています。御者もこちらに気づきました。
……あと少しだったのですが。
「何でしょう」
振り返ると、トルナド様がこちらへ歩いてきます。
アプフェル様は少し離れたところに残っていました。
クライド様が去った方向を見たり、こちらを見たりしています。
どうやら、まだ何が起きたのか全部は飲み込めていないようでした。
トルナド様も似たようなものかもしれません。
「少し話したい」
「今ですか?」
「ああ」
私は正門の方を見ました。馬車が待っています。
屋敷では、お父様が待っています。
卒業祝いまで待っています。
今日はすでに十分長い一日でした。
「手短にお願いします」
「そんな言い方しなくてもいいだろ」
さっそく長くなりそうです。
隣にいたルドラン様は、特に口を挟みませんでした。
ただ私の少し横に立っています。
トルナド様は一度そちらを見ましたが、今はそれどころではないらしく、すぐ私へ向き直りました。
「聞いてただろ」
「何をです?」
「アプフェルの話だよ!」
「かなり聞こえました」
聞くつもりがなくても聞こえる声でした。
「俺は騙されてたんだ」
いきなりそう言われました。
「そうなのですか?」
「そうだろ!」
トルナド様は声を上げかけ、周囲の視線に気づいたらしく少し抑えました。
「在学中だけだなんて、普通あんなの本気だと思わないだろ」
普通。
今日また何回目でしょう。
「私は本気だと思いましたよ」
「君はそういうところが堅いんだよ」
「そうですか」
「半年も付き合ったんだぞ。卒業したから終わりなんて、おかしいだろ」
おかしいのでしょうか。
私には判断できません。
ただ、アプフェル様は最初からそう書いていました。
「でも、手紙には在学中だけと書いてありましたよね」
「だから、それは!」
「私、半年前にも同じことを申し上げました」
トルナド様が止まりました。
覚えているでしょうか。桃色の便箋を持って、共用廊下で話した日のことです。
――学院にいる間だけ。
――卒業するまで。
私は読んで、そのままの意味ではないかと尋ねました。
トルナド様は違うと言いました。照れているだけだと。
「それでもトルナド様は、ご自分の考えでお付き合いを始めたのでしょう?」
「だって、あの時は」
「はい」
「あいつが俺を好きだと思ったから」
「好きだったのではないですか?」
今度はトルナド様が言葉に詰まりました。
「学院にいる間は」
付け加えると、嫌そうな顔をされました。
ですが、たぶんそういうことだったのでしょう。
アプフェル様は、楽しく過ごしたかったし、トルナド様も楽しかった。
ただ、期間についてだけ、二人の考えが違った。
「そんな簡単な話じゃない」
「そうでしょうか」
「俺は婚約まで解消したんだ」
「それも半年前から知っています」
「そうじゃなくて!」
また声が大きくなりました。
私は証書の筒を持ち直しました。
卒業式用の筒は、朝より重くなった気がします。
たぶん疲れているだけでしょう。
「だから」
トルナド様が少し近づきました。
「やり直そう」
今度は、私が止まりました。
「何をです?」
「婚約だよ」
分からなかったわけではありません。
ただ、本当に言うとは思わなかったのです。
「俺は騙されてたんだ。アプフェルが卒業後も一緒にいるつもりなら、こんなことにはならなかった」
「はい」
「だったら、元に戻せばいいだろ」
ずいぶん簡単です。
半年前にも似たようなことを思いました。
婚約を始めることも、終わらせることも、トルナド様の中では本人同士が言えば済むことなのでしょう。
「戻しませんよ」
「何でだよ」
すぐ返ってきました。
「何で、と言われましても」
「俺は悪くないだろ」
「そういう話はしていません」
「騙されてたんだぞ?」
「それも伺いました」
「だったら」
トルナド様は、そこで少し苛立ったように息を吐きました。
「君だって待ってただろ」
「何をです?」
「俺を」
今度こそ、本当に分かりませんでした。
「待っていませんが」
「強がらなくていいって」
「強がっていません」
「だって半年だぞ」
「そうですね」
「そんなすぐ次に行けるわけないだろ」
私は隣を見ました。ルドラン様もこちらを見ました。
「……何か?」
「いえ」
今から説明してよいものか少し迷っただけです。
ですが、隠すことでもありません。
「トルナド様」
「何だよ」
「こちらは、ルドラン・フォームル様です」
「知ってるよ。同じ男子部なんだから」
「そうでしたね」
では話が早いです。
「私の婚約者です」
トルナド様の顔が止まりました。
「……何?」
「婚約者です」
「本当に?」
「はい」
以前にも同じことを聞かれました。
その時も答えたはずです。
「候補じゃなかったのか?」
「最初は」
「だって、まだ」
「正式に婚約することになりました」
ルドラン様が横から軽く頭を下げました。
「フォームルです」
「いや、知ってるって」
「そうでしたか」
それだけです。
ルドラン様は本当にそれ以上何も言いません。
煽ることも、勝ち誇ることもありませんでした。
そもそも勝ち負けの話ではないのでしょう。
「待てよ」
トルナド様は私とルドラン様を何度も見ました。
「そんな簡単に?」
「何がです?」
「次の男と婚約するなんて」
――男。
ルドラン様の眉が少しだけ動きました。
私はそこより、別のところに引っかかりました。
「簡単に、ですか」
「だってそうだろ。俺との婚約がなくなって、まだ半年だぞ」
「半年ですね」
「普通、もう少し」
そこまで聞いて、ようやく思い出しました。
いえ。ずっと覚えていました。
半年前の共用談話室。教本を開く前に婚約解消を告げられた日。
トルナド様は、私に言いました。
婚約一つだろう、と。
――伯爵家なら、次の相手くらいいくらでも見つかる。
――深刻に考える必要はない。
私はあの時、ずいぶん傷つきました。
今でも覚えています。
けれど不思議なもので、半年経って同じ言葉を思い出しても、もうあの時のようには痛みません。
「トルナド様」
「何だよ」
「でも」
少しだけ首を傾げました。
「婚約一つでしょう?」
トルナド様が黙りました。
私は続けました。
「別に結婚したわけではありませんし」
「……マロン」
「フライエ伯爵家なら、次の婚約者にも困らないとおっしゃったのは、トルナド様ですよ」
「それは」
「実際、困りませんでした」
ルドラン様が横で少しだけ咳をしました。
笑ったのでしょうか。
あとで聞いてみようと思います。
「同じじゃないだろ」
トルナド様が言いました。
「何がです?」
「俺は騙されたんだ」
「私は騙していませんよ」
「そうじゃなくて」
「それに、婚約を解消したいとおっしゃったのもトルナド様です」
「だから、それはアプフェルと」
「はい」
そのために解消しました。
私も知っています。
「そして私は、その時に確認しました」
「何を」
「本当に解消するのですね、と」
トルナド様は何も言いません。
「トルナド様は、はいとおっしゃいました」
「……ああって言った」
「では同じです」
そこは訂正されました。
確かに「ああ」でした。
半年も前のことなのに、妙なところをよく覚えています。
「でも俺は」
「マロン様」
後ろから声がしました。アプフェル様です。
こちらへ来ていました。
「マロン様までクライドの味方なの?」
「何のお話でしょう」
「婚約よ!」
どうして私へ来るのでしょう。
「クライド、本気で解消するっていうのよ」
「そのようですね」
「おかしいでしょう?」
「私に聞かれましても」
「ちょっと遊んだだけなのよ?」
トルナド様の顔が険しくなりました。
「ちょっとって言うなよ!」
「だってそうだったもの!」
「俺は本気だったんだぞ!」
「それはあなたの話でしょう!」
また始まりました。今度は私たちのすぐそばです。
「アプフェル様」
仕方なく呼びました。
「何?」
「クライド様は、やめた方がいいとおっしゃっていたのでしょう?」
「言ってたけど」
「それでも続けたのですよね」
「学院にいる間だけよ!」
「はい」
そこはよく分かっています。
「でしたら、クライド様がそれをどう受け取るかは、クライド様が決めることでは?」
「でも婚約一つで大げさでしょう!」
またです。今日は本当によく似た言葉を聞きます。
「婚約一つ」
私が繰り返すと、アプフェル様はうなずきました。
「そうよ!」
トルナド様がこちらを見ました。
私はトルナド様を見ました。
今度は何となく、二人とも少し黙りました。
同じことを言っていると気づいたのでしょうか。
たぶん、まだ全部は気づいていないと思います。
「マロン」
ルドラン様が呼びました。
「はい」
「馬車を待たせています」
正門を見ると、御者がこちらを見ています。
そうでした。
「すみません」
「いえ。ですが伯爵の方が」
「あ」
もっと大変です。
今日のお父様は、卒業祝いを無事始めることにかなり力を入れています。
無事が第一のお父様ですから、遅れたとしても安全であれば良いのですが、そうでなければどうなさるのだか。
「では、私はこれで」
「待てよ、マロン!」
「まだ話は」
「トルナド様」
私は一度だけ振り返りました。
「半年前、私との婚約を解消する時、ご自分にも選ぶ権利があるとおっしゃいましたよね」
「ああ」
「私にもあります」
今度は返事がありませんでした。
「ですから、私はルドラン様と婚約しました」
それで十分でしょう。私はルドラン様と並んで馬車へ向かいます。
後ろでは、また声がしました。
「俺は騙されたんだぞ!」
「私だって急に婚約を解消されたのよ!」
「君は自分でやったんだろ!」
「あなたに言われたくないわよ!」
まだ続いています。
馬車へ乗り込むと、ようやく声が少し遠くなりました。
ルドラン様が向かいの席ではなく、私の隣へ座ります。
婚約者ですから。
いえ、婚約者でなくても座ることはありますが。
「ずいぶん大変な半年でしたね」
「そうですね」
「先ほどの手紙の話、あとで聞いても?」
「構いません。屋敷へ着くまでに話せると思います」
「ではお願いします」
馬車が動き出しました。
学院の正門が、窓の外をゆっくり後ろへ流れていきます。
六年間通った場所です。明日からはもう来ません。
「寂しいですか?」
ルドラン様に聞かれました。
「少し」
今度はすぐ答えられました。
「でも今日は、それより疲れました」
「それは分かります」
「帰ったら卒業祝いがあります」
「伯爵がお待ちですね」
「たぶん玄関まで出てきています」
「まさか」
「お父様ですよ?」
「……ありそうですね」
ルドラン様も、だいぶ分かってきました。
少し笑って、窓の外をもう一度見ます。
トルナド様との婚約がなくなった時、私は将来が一つ消えたように思いました。
実際には、空いたところへ急いで何かを詰める必要などなかったのでしょう。
学院へ通って――試験を受けて――家へ帰って――話の通じる人と何度か話して。
そのうち、また一つ先の予定ができました。
「マロン」
「はい?」
「本当に伯爵が玄関にいます」
「え?」
馬車の窓から前を見ると、屋敷の玄関前にお父様が立っています。
隣にはお母様もいました。
「……いましたね」
「いました」
馬車が止まる前から、お父様はこちらを見ています。
きっと最初に聞かれるでしょう。
なぜ少し遅れたのか、と。
何と説明すればいいのでしょう。
卒業式のあと、元婚約者が恋人に振られ、その恋人も婚約者に婚約を解消され、なぜか最後には二人とも私のところへ来ました。
そのまま話せばいいのでしょうか。
少し長いです。
「何と話します?」
ルドラン様まで聞いてきました。
「そのままでいいと思います」
「伯爵、怒りませんか」
「怒ると思います」
「では、少し短くしますか」
「そうですね」
馬車が止まりました。扉が開きます。
お父様がさっそくこちらへ来ました。
「遅かったな。何かあったのか?」
やはり聞かれました。
私は馬車を降りながら、少し考えます。
「トルナド様とアプフェル様が、卒業後の予定について初めてきちんと話し合ったようです」
お父様が眉を寄せました。
「今さら?」
「はい」
本当に今さらです。
後ろから降りてきたルドラン様と顔を見合わせました。
それから私は、お母様の待つ玄関へ向かいます。
今日は私の卒業祝いです。
もう、あの二人のことはあとでいいでしょう。
まったく。
半年もかけて、何をやっていたのでしょうねえ。




