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「婚約一つだろう?」と言って私を捨てた元婚約者が、卒業式で振られているようです。  作者: さんけい


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第十五話 二つの婚約

 我が家の馬車は、まだ来ませんでした。

 正門前の列は少しずつ進んでいますが、卒業生の数が多いので仕方ありません。

 その間にも、トルナド様とアプフェル様の話は続いていました。


「そんなの、本気だと思うわけないだろ!」

「どうして?」


 先ほどと同じところを回っています。アプフェル様は、本当に分からないようです。


「学院にいる間だけって書いたのよ?」

「だから、それは最初だけの言い方だろう!」

「違うわよ」

「違うって何が!」

「そのままの意味よ」


 トルナド様の声が、また大きくなりました。

 正門の近くにいた先生が一度こちらを見ましたが、卒業式直後ということもあり、すぐには近づいてきません。

 たぶん、家族同士の話だと思われているのでしょう。

 実際、婚約が二つ関係しています。

 かなり家族向けの話です。


「俺は君のために婚約まで解消したんだぞ!」

「だから、それは頼んでないでしょう?」

「でも君が俺に手紙を」

「付き合ってほしいとは書いたわ」

「だったら!」

「卒業までって書いたでしょう!」


 アプフェル様の方も、さすがに声が大きくなりました。

 周囲にいた卒業生たちが少しずつ距離を取ります。

 聞きたいけれど、近くにいると思われたくない。そういう動きに見えました。

 気持ちは分かります。


「マロン」


 隣でルドラン様が小声で呼びました。


「はい?」

「移動しますか?」

「今動くと、あちらから見つかりそうです」

「なるほど」


 半年前の婚約者が、現在の婚約者と一緒にこの場面を見ている。

 トルナド様が気づけば、話が一つ増えそうです。

 できれば今は増やしたくありません。


「私は最初から、クライドとの婚約を解消するつもりなんてなかったのよ」


 アプフェル様が言いました。

 そこで、今度はトルナド様が止まりました。


「……何?」

「だから」


 アプフェル様は少し苛立ったように髪を耳へかけました。


「クライドとの婚約はそのままよ。あなたとは学院にいる間だけ」

「待てよ」

「何?」

「それじゃ俺は何なんだ?」


 その質問は、半年ほど早くしておいた方がよかったのではないでしょうか。


「何って」


 アプフェル様も困っています。


「学院で付き合っていた人でしょう?」

「それだけ?」

「それだけって」

「俺はマロンとの婚約を解消したんだぞ!」

「それはあなたが勝手にしたんでしょう!」


 ついに、はっきり言いました。私も少しだけ息を止めました。

 トルナド様の顔が強張ります。


「勝手って……」

「私、一度でも『マロン様との婚約を解消して』って言った?」

「でも普通そうなるだろ!」

「ならないわよ!」


 ――普通。


 また出ました。

 私は半年間で、この言葉をずいぶん聞いた気がします。

 トルナド様の普通。アプフェル様の普通。

 たぶん、私の普通もあります。

 困るのは、皆が同じ中身だと思っている時なのでしょう。


「婚約者がいる女が他の男に手紙を出したら!」

「少し遊びたかっただけよ!」


 アプフェル様が言い切りました。

 周囲が少し静かになりました。

 いえ。

 正確には、周囲の人たちが声を抑えたのでしょう。

 聞こえてしまったのだと思います。


「遊び……?」


 トルナド様は、ずいぶんゆっくり聞き返しました。


「だって学院生活も最後だったし」

「俺は本気だったんだぞ」

「そんなの知らないわよ」

「知らないって……」

「手紙に書いたでしょう?」


 またそこへ戻りました。

 けれど今回は、もう逃げ道がありません。

 手紙には本当に書いてありました。

 私は読んでいます。トルナド様も読んでいます。

 何度も読んでいました。

 ただ、書いてある通りには読まなかっただけです。


「じゃあ、クライドとは」


 トルナド様が言いました。


「結婚するつもりなのか?」

「その予定よ」


 アプフェル様は当然のように答えました。

 そして、少し横へ向きます。


「ねえ、クライド」


 クライド様は、ずっとそこにいました。

 先ほどからほとんど口を挟んでいません。

 ただ時々、いつものように眼鏡の位置を直しながら、二人の話を聞いていました。


「何です?」

「もういいでしょう?」

「何がですか」

「この話」


 アプフェル様は少し疲れたように肩を落としました。


「卒業したんだし、もう終わりよ。私たちは今まで通りでいいでしょう?」


 クライド様の指が眼鏡へ上がりました。

 一度また、くいっと押し上げてから、手を下ろします。


「今まで通り、とは?」

「婚約のことよ」

「それは無理です」


 声は大きくありませんでした。

 けれど、今度はアプフェル様が止まりました。


「え?」

「あなたのアドランテ子爵家と、ステイン家の婚約は、解消されます」

「……何を言ってるの?」

「そのままです」


 アプフェル様は笑いかけました。冗談だと思ったのでしょう。

 ですが、クライド様は笑いませんでした。


「待って」


 アプフェル様の声が少し変わります。


「そんな話、聞いてないわ」

「ご両親から、卒業後に話す予定だったそうです」

「何で?」

「卒業式を荒らしたくなかったのでしょう」


 結果としては、別の理由で十分荒れています。


「いつから?」

「両家で話を始めたのは、少し前です」

「少し前って?」

「私が父上へ報告してからです」


 アプフェル様が、クライド様を見つめました。


「報告?」

「あなたがトルナド君と付き合っていることを」

「どうしてそんなことしたの?」


 その質問に、私は少し驚きました。

 アプフェル様の中では、本当に家へ伝えるほどの話ではなかったのでしょう。


「婚約相手として信用できるかどうかに関わるからです」


 クライド様は、淡々と答えました。


「でも、あなた知ってたじゃない!」

「知っていました」

「だったら」

「知っていることと、受け入れていることは別です」


 以前にも聞いた言葉です。

 今度はアプフェル様も覚えていたらしく、口を閉じました。


「やめた方がいいとも申し上げました」

「でも、本気じゃなかったのよ」

「はい」

「トルナド様とは遊びだったの!」

「それも、先ほど聞きました」

「なら分かるでしょう?」


 アプフェル様が一歩近づきます。


「私はクライドと結婚するつもりだったのよ?」

「そうでしょうね」

「だったら婚約を解消する必要なんてないじゃない」


 クライド様は少しだけ眉を寄せました。


「私にとっては、あります」


 アプフェル様の動きが止まりました。


「あなたは、婚約している間に他の男性と付き合いました」

「学院にいる間だけよ」

「期間の問題ではありません」

「でも」

「そして今、その相手にも本気ではなかったとおっしゃった」


 トルナド様が何か言いかけました。

 けれど、クライド様はそちらを見ません。


「私は、結婚したあとも同じようなことがないと信じられません」

「そんなことしないわ!」

「卒業したら、ですか?」

「そうよ!」

「なぜです?」


 アプフェル様が詰まりました。


「なぜって……卒業したら大人になるし」

「今も十分、婚約をする年齢でしょう」

「そういう意味じゃなくて」

「では、どういう意味ですか」


 今度はアプフェル様が答えられませんでした。

 私は半年前のトルナド様を少し思い出しました。

 自分の中では分かっている。だから相手にも分かるはず。けれど、言葉にしようとすると説明できない。

 少し似ています。


「クライド」


 アプフェル様の声が低くなりました。


「他に好きな人ができたの?」

「いいえ」


 即答でした。


「では、新しい婚約者が?」

「いません」

「だったら!」


 アプフェル様の顔に、少し希望が戻りました。


「じゃあまだ、やり直せるでしょう?」

「ですが」


 クライド様が眼鏡を押し上げました。


「あなたと戻る理由にはなりません」


 アプフェル様の口が止まりました。

 それだけでした。

 怒鳴り声も、責め立てもありません。

 けれど、たぶん一番はっきりした言葉でした。


「そんな……」


 アプフェル様はクライド様とトルナド様を交互に見ました。


「だって、私は何も」


 そこで止まります。


 ――何もしていない。


 そう言おうとしたのでしょうか。

 けれど実際には、トルナド様と半年付き合っています。それは本人も否定できません。


「……少し遊んだだけじゃない」


 ようやく出てきた言葉は、それでした。


「はい」

「それくらいで婚約まで解消するなんて、大げさよ」


 私は思わず、トルナド様を見ました。

 トルナド様も何か気づいたらしく、アプフェル様を見ています。


 ――大げさ。

 ――婚約一つ。


 半年ほど前、似た言葉を聞きました。


「クライド」


 アプフェル様はまだ納得できないようでした。


「私たち、ずっと婚約してたのよ?」

「そうですね」

「家同士だって」

「ですから、家同士で話し合いました」

「そうじゃなくて!」


 今度はアプフェル様の声が大きくなりました。


「私はそんなつもりじゃなかったの!」


 クライド様は少しだけ息をつきました。


「それは分かっています」

「なら」

「あなたにそのつもりがなかったことと、私が婚約を続けたいかどうかは別です」


 また、話が一つずつ分けられていきます。

 アプフェル様は、それが気に入らないようでした。

 けれどクライド様はもう説明を増やしませんでした。


「父上たちがお待ちですので、私はこれで」

「クライド!」

「アドランテ子爵家へは、今日中に正式な書面が届くはずです」

「待ってよ!」


 クライド様はそこで初めて少し足を止めました。

 振り返ります。


「卒業、おめでとうございます」


 それだけ言って、正門の向こうへ歩いていきました。

 アプフェル様は、その場に残りました。

 トルナド様も残っています。

 どちらも、少し前まで自分が一番傷つけられた側だと思っていたようです。

 今は二人とも、相手より自分の方がひどい目に遭ったと思っているように見えました。


「……アプフェル」


 トルナド様が呼びました。


「何よ」

「俺は」

「今あなたの話してないでしょう!」


 また始まりました。

 ルドラン様が私の隣で、正門の方を見ました。


「馬車、来ましたよ」

「あ」


 本当です。我が家の紋章が見えました。

 ようやく帰れます。

 けれど、トルナド様もこちらを見ました。


「マロン」


 聞こえてしまいました。

 ルドラン様も足を止めます。

 私は少しだけ目を閉じたくなりました。

 やはり。

 最後にこちらへ来ますか。

 卒業式の日は、まだ終わらないようです。



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