第十二話 こちらは本当に婚約します
ルドラン様のお父上が我が家へいらしたのは、その翌週でした。
学院で何度かお話ししたあと、家同士でも一度きちんと顔を合わせましょうということになったのです。
最初から婚約を決めるための席ではありませんでした。
少なくとも、私はそう聞いていました。
ところが当日になると、お父様は朝から落ち着きません。
「花はそれでいいのか」
「お父様」
「何だ」
「お客様がいらっしゃるたびに花を確認するのですか?」
「今日は少し違うだろう」
違うのでしょうか。
応接室へ飾る花は、いつもの客人を迎える時と同じように見えます。
お母様は朝食の席で何も言わず、お茶を飲んでいましたが、口元が少し笑っています。
「あなた、昨日も見ていたでしょう」
「昨日と今日では違う」
「花は一晩でそんなに変わらないわ」
「萎れることはある」
「使用人が替えてくれるでしょう」
お父様は反論できなくなったようで、新聞を広げました。
私はパンへバターを塗りました。
前の婚約が決まった時のことは、よく覚えていません。まだ子供でしたし。
両家の大人が話をして、少し経った頃に「トルナド君がお前の婚約者になる」と聞かされたのです。
だから、自分が相手を見て、そのあと家同士で話すというのは初めてでした。
こちらの方が普通なのかもしれません。
少なくとも、今の私には合っています。
*
午後になり、フォームル家の方々がいらっしゃいました。
ルドラン様と、そのご両親です。
フォームル伯爵はお父様より少し年上で、学院の話より先に領地の秋作について話し始めました。
どうやら以前から面識があるようです。
「今年は雨が少なかったでしょう」
「こちらも少し心配したが、収穫そのものは悪くなかった」
「では、南側は?」
「むしろそちらの方が出来がよかった」
私はお母様と顔を見合わせました。
婚約候補同士の顔合わせではなかったのでしょうか。
隣に座るルドラン様も少し困ったようです。
「父上」
「何だ」
「その話はあとでもできます」
「ああ、そうだったな」
忘れていたらしいです。
お父様も咳をしました。
「こちらもつい話し込んでしまった」
ようやく本題へ戻りました。最初は簡単な確認からです。
――私がフライエ家を継ぐこと。
――夫になる方にはこちらへ入っていただくこと。
――卒業後、すぐに結婚するわけではなく、まずはそれぞれ家の仕事を覚える期間を取ること。
ルドラン様がその間、どのような形で我が家の仕事へ関わるかは、まだ決めていません。
「本人は法務か財務を学びたいと言っております」
フォームル伯爵が言いました。
「こちらとしてはありがたい」
お父様がうなずきます。
「マロンには領地全体を覚えさせるつもりですが、一人ですべてを見る必要はありませんから」
「私もそう思っています」
ルドラン様が言ったので、私は少しだけそちらを見ました。
学院で話した時と同じです。
婿に入るからといって、私と同じことを全部する必要はない。
できることを分ければいい。それだけです。
「マロンは?」
お父様に呼ばれました。
「はい」
「何か聞いておきたいことはあるか」
急にこちらへ来ました。
考えていなかったわけではありません。
むしろ学院で何度も話した分、聞きたいことのいくつかはすでに聞いています。
「ルドラン様は、卒業後しばらくご実家で学ばれる予定なのですよね」
「はい」
「そのあと、こちらへ?」
ルドラン様はすぐには答えず、父親を見ました。
「そのあたりは、両家で相談して決めることになると思います」
フォームル伯爵が先に答えます。
「こちらとしては、一年ほどは家の仕事を見せたいと思っています。ただ、フライエ家の方で必要なら行き来しても構わない」
「それなら問題ないと思います」
私も一年ほどは、お父様について領地を回る予定です。
最初からずっと一緒にいる必要はありません。
むしろ別々に覚えた方が、あとで役に立つこともあるでしょう。
「他には?」
お父様が聞きます。私は少し考えました。
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「何か遠慮しているなら」
「していません」
お父様はまだ何か言いたそうですが、お母様が横から袖を軽く引きました。
ようやく止まります。
「では」
フォームル伯爵夫人が、今度はこちらを見ました。
「私から一つ、伺っても?」
「はい」
「前の婚約を解消されて、まだそれほど時間が経っていませんでしょう」
「そうですね」
来ると思っていました。
嫌な質問ではありません。むしろ、相手方なら知っておきたいところだと思います。
「それでも、今この話を進めてよろしいのですか」
お父様が動きかけました。
たぶん、代わりに答えようとしたのでしょう。
ですが、私は先に口を開きました。
「はい」
これは私へ聞かれたことです。
「すぐ次の婚約を決めたいと思っていたわけではありません。ただ、ルドラン様と何度かお話しして、この方ならもう少しお話ししてみたいと思いました」
ルドラン様が少しこちらを見ます。
続けました。
「それに、前の婚約へ戻りたいとも思っていません」
そこはもう迷いません。
婚約がなくなった直後は傷つきました。
寂しかったですし、長く決まっていた将来が急になくなるのは落ち着きませんでした。
けれど、あれから時間が経ちました。
その間に、考えたこともあります。
「ですから、前の婚約があったからといって、今のお話を断る理由にはならないと思っています」
フォームル伯爵夫人はしばらく私を見たあと、静かにうなずきました。
「分かりました」
それ以上は聞かれませんでした。
少し肩の力が抜けます。
「では、こちらからも一つよろしいですか」
ルドラン様が言いました。今度は全員がそちらを見ます。
「フライエ嬢が、今の段階で婚約を決めることに不安があるなら、もう少し時間を置いても構いません」
「あなたまでそれを言うのですか」
つい言ってしまいました。
「え?」
「お父様もお母様も、何度も同じことをおっしゃるので」
「マロン」
「本当でしょう?」
お父様は黙りました。お母様は笑っています。
フォームル伯爵まで少し笑いました。
「ずいぶん大切にされているようだ」
「少し心配しすぎなのです」
「娘だからな」
お父様がすぐ返しました。そこは譲らないようです。
私はルドラン様へ向き直りました。
「不安がないとは申し上げません」
今度は少し考えてから続けました。
「ですが、それはルドラン様だからではありません。婚約そのものについて、以前より慎重になっているだけです」
「それなら分かります」
「ですから、その上で」
息を整えました。
「私は、このお話を進めていただいて構いません」
ルドラン様もうなずきました。
「私もです」
それで、大きなところは決まりました。
書面の準備や細かな条件は、これから両家で詰めることになります。
けれど、本人同士が了承したのなら、もう「候補」ではありません。
帰り際、玄関まで見送ったところで、ルドラン様が少し足を止めました。
「では、次に学院で会う時には」
「はい」
「婚約者ですね」
「そうなりますね」
「何か変わりますか?」
考えました。
「呼び方は同じです」
「そうですね」
「学院で会う場所も、たぶん同じです」
「はい」
「……あまり変わりませんね」
「それでいいのでは?」
「そうですね」
馬車が来ました。
ルドラン様は両親と一緒に乗り込みます。
見送って屋敷へ戻ると、お父様が玄関広間に立っていました。
「何を話していた」
「お父様」
「何だ」
「そこまで聞かなくてもいいと思います」
「そうか」
少し残念そうです。
婚約相手が変わっても、お父様は変わりません。
*
学院へ話が広まるまで、それほど時間はかかりませんでした。
正式な書面が整う前でも、家同士が婚約へ向けて話をまとめたとなれば、どこかから伝わります。
私自身、隠すつもりもありませんでした。
ある日の昼休み、友人から聞かれました。
「本当にフォームル様と婚約するの?」
「その予定です」
「おめでとう!」
「ありがとうございます」
まだ少し照れます。
前の婚約は幼い頃からありましたので、「婚約が決まった」と友人から祝われる経験はほとんどありません。
「いつ決まったの?」
「先週です」
「早かったわね」
「何度かお話ししていましたので」
「それでもよ。半年前にはまだクライン様と」
そこまで言って、友人は口を押さえました。
「ごめんなさい」
「大丈夫です」
実際そうなのですから、謝らなくても構いません。
「でもよかった」
友人は今度こそ笑いました。
「フォームル様なら、評判もいいもの」
「そうなのですか?」
「知らないの?」
「順位表の名前くらいしか知りませんでした」
「あなた、本当に男子部に興味なかったのね」
なかったのだと思います。
婚約者がいましたし、それ以外の男子生徒をわざわざ知ろうともしていませんでした。
友人と別れたあと、私は講堂前を通りました。
次の授業まで少し時間があります。
そこで呼び止められました。
「マロン」
振り返ると、トルナド様でした。
久しぶりに、二人だけで話します。
「こんにちは」
「聞いたぞ」
「何をですか?」
「ルドランと婚約するって」
「ああ」
もう伝わったのですね。
「はい。その予定です」
トルナド様は私の返事を聞いて、しばらく何も言いませんでした。
以前なら、その沈黙の理由を考えたかもしれません。
今は次の授業の時間の方が気になります。
「ずいぶん早いな」
「そうでしょうか」
「だって、まだ半年も経ってないだろ」
「そうですね」
「やっぱり伯爵家も焦ったんだな」
何の話でしょう。
「焦る?」
「婿がいなくなったから」
なるほど。トルナド様の中では、そうなったようです。
「急場しのぎみたいなものだろ」
「違いますよ」
「でも、すぐ次を探したじゃないか」
「探してはいましたね」
「ほら」
なぜか得意そうです。私は少し困りました。
「ですが、誰でもよかったわけではありません」
「そう言うしかないだろ」
「誰にですか?」
「周りに」
また分からなくなりました。
私が何か隠している前提で話が進んでいます。
「フォームル家なら条件もいいし、成績もいい。伯爵も安心したんだろ」
「お父様は安心していました」
「やっぱり」
「ですが、それだけではありません」
「マロン」
トルナド様が少し笑いました。
「無理しなくていいって」
何をでしょう。
「俺との婚約がなくなって、急いで次を決めたんだろ?」
「いいえ」
「別に責めてないよ」
責められていたのでしょうか?
そこから分かっていませんでした。
「君は伯爵家を継ぐんだから、相手が必要なのは分かる」
「はい」
「だから仕方ないだろ」
また、私の返事が必要ないところまで話が進みました。
以前は、こうなるたびに説明しようとしていた気がします。
――男子部と女子部では試験が違うこと。
――婚約は本人たちだけの話ではないこと。
――手紙には在学中だけと書いてあること。
説明すれば分かってもらえると思っていました。
今は少し違います。
「トルナド様」
「何?」
「私はルドラン様と何度かお話しして、その上で婚約することにしました」
「うん」
「急場しのぎではありません」
「分かったって」
分かっていないと思います。
けれど、もう一度説明する必要もないのでしょう。
「では、授業がありますので」
「待てよ」
歩きかけると、また呼ばれました。
「何ですか?」
「本当に婚約するのか?」
「はい」
そこだけは、はっきり答えました。
「今回は、私も自分で決めました」
トルナド様の顔から、少しだけ笑いが消えました。
「……そう」
「はい」
今度こそ歩き出します。すると廊下の先にルドラン様がいました。
男子部の教本を一冊抱え、こちらに気づいて足を止めています。
「お話は終わりましたか」
「はい」
「では、図書室までご一緒しても?」
「もちろんです」
並んで歩き始めました。
「何の話だったのです?」
「婚約の話です」
「私たちの?」
「はい」
少し考えて、付け加えました。
「急場しのぎだと思われたようです」
ルドラン様が一度だけこちらを見ました。
「誰に?」
「トルナド様に」
「ああ」
それだけでした。
「気になりませんか?」
「なぜです?」
「自分が急場しのぎだと言われたのですよ」
「私がそうでないと分かっていれば、別に」
また普通です。
図書室の扉が見えてきました。
「それより、今日返す本があります」
「また三冊ですか?」
「二冊です」
「少ないですね」
「前回と比べないでください」
扉を開けます。そのまま二人で中へ入りました。
こちらは本当に婚約します。
そのことだけ、本人たちが分かっていれば十分でした。




