第十一話 眼鏡を直す男
試験が終わると、学院の中が少しだけのんびりします。
結果が張り出されるまでは気になるものの、少なくとも教本を何冊も抱えて歩く必要はありません。
女子部でも、昼休みになると中庭へ出る者が増えました。
私は友人たちと昼食を済ませたあと、図書室へ向かいました。
試験前に借りた本を、まとめて返すためです。
「それ、全部借りてたの?」
友人に呆れられました。
「三冊だけです」
「三冊もよ」
「一冊は薄いですよ」
「厚さの問題じゃないわ」
そうでしょうか。
試験前なのですから、そのくらいは普通だと思います。
*
友人とは途中で別れました。彼女は中庭へ行き、私は共用区域の図書室へ向かいます。
昼休みの図書室は、それなりに人がいました。
男子部と女子部のどちらからも来られるため、試験前ほどではありませんが席は半分ほど埋まっています。
返却台には先客がいました。眼鏡をかけた男子生徒、クライド・ステイン様でした。
以前なら、男子部の順位表によく名前が載っている方、という認識だけだったでしょう。
今はもう一つあります。アプフェル様の婚約者。
そして、トルナド様が勝手に競争相手のように思っているらしい方です。
最後の部分は、クライド様本人が知っているのか分かりません。
たぶん知らないでしょう。
「こんにちは」
近くまで来たので挨拶をしました。クライド様もこちらを見ます。
「こんにちは、フライエ嬢」
名前を知られていました。
少し意外でしたが、考えてみれば同学年ですし、私もクライド様の名前を知っています。
「ずいぶん借りていましたね」
「三冊です」
「私も三冊です」
返却台を見ると、本当に三冊ありました。
少し安心しました。
「では普通ですね」
「何がです?」
「いえ。友人に借りすぎだと言われましたので」
「試験前なら、そのくらいでは」
「そうですよね」
よかったです。
ルドラン様に続き、ここにも話の通じる方がいました。
もっとも、本を三冊借りることについて話が通じても、それほど大きな意味はありません。
係の方が返却を確認している間、クライド様は持っていた眼鏡の中央を指で押し上げました。
少しずれていたようです。
何となく、その動きが印象に残りました。
「クライド」
そこへ明るい声がしました。
振り返らなくても誰か分かります。アプフェル様です。
「あら、マロン様も」
「こんにちは」
「こんにちは。試験、お疲れさま」
「アプフェル様も」
アプフェル様は教本を一冊抱えていました。
返却に来たのでしょう。
「クライド、これも一緒に返しておいてくれない?」
「自分で持ってきたのですから、そこへ置けばいいでしょう」
「だって今あなたがいるじゃない」
「目の前まで来ていますよ」
「それもそうね」
アプフェル様は笑って、私の本の隣へ教本を置きました。
こうして二人だけで話しているところを見るのは、思えば珍しいです。
婚約者同士なのですから何もおかしくありません。
けれど、この頃のアプフェル様はトルナド様と一緒にいることの方が多く、そちらの印象が強くなっていました。
「そうだ。クライド」
「何です?」
「来週の休日、うちに来るんでしょう?」
「父上と伺う予定です」
「お父様同士のお話?」
「商会の件です」
「ふうん」
アプフェル様はあまり興味がなさそうでした。
家同士の婚約ですから、両家の付き合いもあるのでしょう。
私は返却済みの印を受け取り、その場を離れようとしました。
「マロン様」
アプフェル様に呼び止められます。
「はい?」
「もう次の方とお話ししているって本当?」
一瞬、何のことか分かりませんでした。
すぐルドラン様のことだと気づきます。
「どこで聞いたのですか?」
「見たのよ。共用談話室で何度か一緒にいたでしょう?」
「ああ」
それなら隠すことでもありません。
「まだ何度かお話ししているだけです」
「でも候補なんでしょう?」
「そうですね」
「早いのねえ」
アプフェル様は純粋に驚いているようでした。
「婚約を解消したばかりなのに」
少し引っかかりました。
言われていること自体は間違っていません。
ただ、その婚約を解消する原因になった方から言われると、何となく返事が難しくなります。
「家を継ぎますので」
結局、そう答えました。
「婿に来てくださる方は、いずれ必要になります」
「そうなのね」
アプフェル様はあっさり納得しました。
こちらもこちらで、深く考えて言ったわけではないのでしょう。
「でも、せっかく自由になったのに」
「自由?」
「婚約者がいないのでしょう?」
「今はそうですね」
「だったら、しばらく好きに過ごせばいいのに」
楽しそうに言われました。
アプフェル様らしい考え方なのかもしれません。
「アプフェル」
それまで聞いていたクライド様が呼びました。
「何?」
「そういう話は、あまりフライエ嬢にするものではないと思いますよ」
「どうして?」
「どうしてと言われても」
クライド様の指が眼鏡へ行きました。また少し、くいっと押し上げます。
「別に悪く言ったわけじゃないわ」
「そういう問題ではありません」
「マロン様、嫌だった?」
急にこちらへ来ました。
「少し答えに困りました」
「ごめんなさい」
そこは素直です。
「私、自分がそうだから」
「そう?」
「学院にいる間くらい、少し自由にしたいの」
なるほど。
そこでトルナド様につながるのですね。
「卒業したら、家のこともあるでしょう? クライドとも結婚するだろうし」
私は思わず、クライド様を見ました。
本人もアプフェル様を見ています。
「結婚するのですか?」
尋ねたのは私ではありません。クライド様でした。
アプフェル様がきょとんとします。
「するでしょう?」
「今のところは、その予定ですね」
「ほら」
何が「ほら」なのかは分かりません。
アプフェル様は私へ向き直りました。
「だから今だけなの。卒業したら、ちゃんとするもの」
「今だけ」
「ええ」
私は半年前に読んだ桃色の便箋を思い出しました。
――学院にいる間だけ。
――卒業するまで。
やはり、アプフェル様は最初からその意味で書いていたのです。
「トルナド様にも、そうお話ししているのですか?」
つい聞いてしまいました。
「手紙に書いたわ」
「その後に、改めては?」
「してないけど」
アプフェル様は不思議そうです。
「必要?」
「私は必要だと思います」
これはかなり自信を持って言えます。
あの方には、必要です。大いに必要です。
「だって最初に書いたのよ?」
「ええ」
「だったら分かっているでしょう」
いいえ分かっていません。
少なくとも半年前は、まったく分かっていませんでした。
けれど、今はどうなのか知りません。
「念のため、確認なさった方がいいのでは」
そう申し上げると、アプフェル様は少し首を傾げました。
「クライドと同じこと言うのね」
「クライド様も?」
「この前言われたの。やめた方がいいって」
クライド様は再び眼鏡を直しました。
「今も同じ意見です」
「また?」
「変わっていませんから」
「堅いのよねえ」
「婚約者がいる状態で、別の男性と付き合うことを勧める方が珍しいと思いますよ」
「でも、学院にいる間だけよ?」
「期間の問題ではありません」
「それに、隠してないじゃない」
アプフェル様は本当に不思議そうでした。
「クライドだって知ってるでしょう?」
「知っています」
「だったらいいじゃない」
「知っていることと、構わないと思っていることは別です」
今度はアプフェル様が少し黙りました。
私はそのやり取りを聞きながら、何とも妙な気分になりました。
トルナド様は、アプフェル様が自分を選んだと思っています。
アプフェル様は、クライド様との婚約をやめる気がありません。
クライド様は、その両方を知っているようです。
全員が同じ出来事の中にいるのに、考えていることがずいぶん違います。
「でも、私はクライドに婚約を解消してなんて言ってないでしょう?」
「言われていませんね」
「トルナド様にも、自分の婚約を解消してなんて言ってないわ」
「それも、私は聞いていません」
「だったら、二人が勝手に大げさに考えなければいいのよ」
私は返事ができませんでした。
つい最近まで、その「大げさに考えた」側の一人だったからです。
もっとも、私は勝手に考えたのではなく、実際に婚約を解消されました。
「アプフェル」
クライド様が呼びました。
「何?」
「やはり、やめた方がいいと思いますよ」
「またそれ?」
「はい」
「私は楽しいの」
「それは分かっています」
「トルナド様も楽しそうよ」
「それも分かっています」
「ならいいじゃない」
クライド様は返事をせず、少しずれた眼鏡をまた押し上げました。
それから返却台に置かれたアプフェル様の教本を指します。
「これは今日までですよ。返却が遅れるところでした」
「あ、本当?」
「札に書いてあります」
「危なかった。ありがとう」
アプフェル様は借用札を見て笑いました。
さきほどまでの話も、それで終わったらしいです。
「じゃあ私、友達を待たせてるから行くわね」
「分かりました」
「マロン様、またね」
「ええ」
アプフェル様は手を振り、そのまま図書室を出ていきました。
姿が見えなくなってから、私はクライド様を見ました。
「……よろしいのですか?」
「何がでしょう」
「止めなくて」
「止めましたよ」
「今の一度だけで?」
「以前にも一度」
二度でした。
クライド様は返却の確認が終わった本を受け取りました。
「それ以上は、私が決めることではありません」
「ですが、婚約者ですよね」
「ええ」
「嫌では?」
「嫌ですよ」
返事はすぐでした。
私は少し驚きました。
もっと淡々としている方だと思っていたのです。
「でしたら」
「嫌だからやめてくれと言って、私が見ているところだけやめてもらっても仕方ありません」
クライド様は本を鞄へ入れました。
「本人が、婚約者がいても他の男性と付き合いたいと思った。そのことはもう分かりましたから」
「……そういう考え方なのですね」
「商会では、相手が何を言ったかより、何をしたかを見ることがあります」
「婚約でも?」
「婚約だからこそ、ではありませんか」
そこまで言ってから、クライド様はまた眼鏡へ触れました。
「もっとも、これは私の考えです」
「はい」
「フライエ嬢が同じように考える必要はありません」
それもそうです。
けれど、何となく覚えておこうと思いました。
「では、私は男子部へ戻ります」
「はい。お話し中にすみませんでした」
「こちらこそ」
クライド様は一礼して出ていきました。
私はようやく図書室の奥へ向かいます。
返却するだけのつもりでしたが、次に借りたい本を思い出したのです。
書架の間を歩きながら、さきほどの会話が頭に残りました。
アプフェル様は、学院にいる間だけだから大したことではないと思っている。
トルナド様は、その学院生活が終わったあとまで続くつもりでいるらしい。
クライド様は、一度止めて、もう一度止めた。
それでもアプフェル様が続けるなら、そのこと自体を見る。
ずいぶん違う三人です。
目的の棚まで来て、私は背表紙を探しました。
その途中で、ふと思いました。
クライド様はよく眼鏡を直す方ですが、さきほどだけで、何度見たでしょう。
今度会ったら数えてみようかと思いましたが、さすがに失礼なのでやめました。




