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第79話 強者の領域

 森の奥で、太い枝が折れる音が響いた。


 黒震狼との死闘によって荒れ果てた草地には、抉れた土と砕けた岩が散乱している。北側の土手は大きく崩れ、その麓にできた浅い溝には泥水と血が入り混じっていた。


 その傍らに、黒震狼(グラウンドウルフ)の巨体が横たわっている。


 つい先ほどまでネクシアの4人を追い詰めていた上位魔物は、もう動かない。黒褐色の体毛は血と泥で固まり、鋭い光を宿していた黄色い瞳も、今では何も映していなかった。


 ユウキは剣を握ったまま、荒い呼吸を繰り返していた。


 勝った。


 頭では理解しているのに、身体はまだ戦闘が終わったことを受け入れられずにいる。


 右手には剣を振り続けた痺れが残り、脇腹には黒震狼の尾を受けた鈍い痛みがあった。足を少し動かすだけでも膝が震え、胸の奥では心臓が激しく脈打っている。


 仲間たちも同じだった。


 トーマは双短剣を下ろしているものの、肩が大きく上下している。バルドは盾を支える左肩を庇い、ドランは技工鎚を杖代わりにして立っていた。


 それでも、誰一人欠けることなく生き残った。


 その事実に安堵しかけたところで、森の奥から再び重い音が届いた。


「ユウキ、何か近づいてきてるよ」


 トーマの声に、ユウキは顔を上げた。


 雑木林の向こうでは、風とは関係なく枝葉が揺れていた。揺れは森の奥から外側へ向かって移動しており、時折、幹そのものが大きく傾いている。


「ここを離れるぞ。今のわしらに、次の魔物と戦う余力はない」


 バルドが盾を持ち直しながら言った。


「南西の丘を越えれば街道へ出られる。そこまで行けば、少なくとも森からは距離を取れるはずだ」


 ドランも頷く。


 ユウキは返事をしようとして、視界の端に浮かんだ文字に気づいた。


【経験値を獲得しました】


【レベルアップしました】


 黒震狼を倒した直後にも現れた通知だった。


 戦闘の緊張が続いていたため、内容を確かめる余裕はなかった。しかし、今あらためて意識を向けると、より詳しい情報が視界へ開かれていく。


「みんな、少しだけ待って」


「どうした?」


「レベルが上がってる。どれくらい成長したのか、確認したいんだ」


 バルドは森へ視線を向けたまま頷いた。


「手短にな。何が来るかわからん」


「うん」


 ユウキは自分の状態へ意識を集中した。


【ステータス】


 名称:ユウキ・コバヤシ

 種族:人族

 職業:剣士

 レベル:10


 最大HP:96

 最大MP:28


 STR:25

 VIT:21

 AGI:25

 MAG:11

 MND:26

 DEX:27


【習得技能】


 剣術 Lv.4

 身体強化 Lv.3

 治癒魔法 Lv.4

 鑑定 Lv.3

 採掘 Lv.1

 掘削 Lv.2

 振動感知 Lv.2

 嗅覚強化 Lv.2

 聴覚強化 Lv.1

 霧中感知 Lv.1


【固有権能】


 略奪 Lv.2


 レベル10。


 黒震狼との戦闘前はレベル4だったため、一度の戦闘で6も上昇したことになる。


 能力値の伸びも大きかった。


 最大HPは96、最大MPは28へ増加している。筋力と敏捷性はどちらも25に達し、精神力や器用さも以前より大きく伸びていた。


 ただし、ユウキの身体に残る傷が癒えたわけではない。脇腹の痛みは変わらず、戦闘で消耗した魔力も戻っていなかった。


 成長した数値は、これから発揮できる力の大きさを示しているのだ。


 ユウキは技能一覧へ視線を移した。


 剣術Lv.4。


 身体強化Lv.3。


 治癒魔法Lv.4。


 そして、鑑定Lv.3。


 その下には、略奪Lv.2という文字もある。


 これまで変化のなかった固有権能まで成長していることに、胸が高鳴った。


 だが、喜びに浸るより先に確かめたいことがあった。


 ユウキは横たわる黒震狼へ目を向けた。


 戦闘中は、鑑定を使っても相手の情報を読み取ることができなかった。


 しかし、今なら違うかもしれない。


 ――鑑定。


 視界に淡い光が広がった。


 以前は何も表示されなかった対象に、今度は明瞭な文字が次々と浮かび上がっていく。


【鑑定結果】


 名称:黒震狼(グラウンドウルフ)

 種族:魔獣種

 魔物ランク:3(上位魔物)

 レベル:28

 状態:死亡


 HP:0 / 385

 MP:0 / 92


 STR:63

 VIT:57

 AGI:76

 MAG:34

 MND:45

 DEX:48


【習得技能】


 爪術 Lv.4

 噛砕 Lv.3

 身体強化 Lv.4

 瞬速 Lv.3

 震撃 Lv.3

 嗅覚強化 Lv.4

 聴覚強化 Lv.3

 危険感知 Lv.2


【固有権能】


 成長促進 Lv.1


 ユウキは言葉を失った。


 レベル28。


 自分のレベルを遥かに上回っている。


 しかも、能力値にはさらに大きな開きがあった。


 特に敏捷性は76。


 現在のユウキの25と比べても、3倍以上に近い数値だ。


 黒震狼が傷ついた状態でさえ、自分たちの反応を上回る速さで動いていた理由が、ようやく数字として示された。


 技能一覧にも、見覚えのある能力が並んでいる。


 瞬速Lv.3。


 赤い光を伴う、爆発的な短距離加速。


 震撃Lv.3。


 灰色の光とともに地面へ衝撃を伝え、相手の体勢を崩す能力。


 これまで正体のわからなかった攻撃が、明確な技能として表示されていた。


 鑑定Lv.3への成長を実感すると同時に、ユウキは黒震狼の巨体を見下ろした。


 この魔物は、最初から重傷を負っていた。


 Cランク冒険者たちが何度も命懸けで攻撃し、左前脚や胸元、脇腹へ深い傷を刻んでくれていた。


 その傷がなければ、ネクシアは最初の突進を防ぐことさえ難しかっただろう。


 自分たちだけの力で勝ったわけではない。


 その事実を、ユウキは忘れないようにしようと思った。


 やがて、視線は技能一覧の最後へ移った。


 成長促進Lv.1。


 固有権能。


 黒震狼が異常な速度で成長していた理由の一端が、ここにあるのかもしれない。


 ユウキは自分の右手を見つめた。


 略奪。


 自分だけが持つ、他者の技能を奪う力。


 この権能がLv.2へ成長した今なら、黒震狼の持っていた固有権能を獲得できる可能性がある。


 ユウキは少しためらった。


 目の前にあるのは、つい先ほどまで生きていた魔物の身体だ。敵として戦った相手でも、最後まで必死に生きようとしていたことを覚えている。


 それでも、強さが必要だった。


 仲間を守るために。


 そして、いつかリナを救うために。


「……ごめん」


 誰にも聞こえないほど小さく呟き、ユウキは黒震狼の傍らへ片膝をついた。


 血に濡れた体毛へ右手を触れる。


 仲間たちは森の方向を警戒しており、こちらの手元までは見ていない。


 ユウキは静かに意識を集中した。


 ――略奪。


 その瞬間、胸の奥で何かが脈打った。


 右手から腕へ冷たい感覚が広がり、頭の中に断片的な光景が流れ込んできた。


 湿った森を走る四肢。


 獲物を追いかける本能。


 傷つきながらも生き延びようとする執念。


 そして最後に、暗い森の奥から迫る、何か巨大な存在への恐怖。


 ユウキは思わず歯を食いしばった。


 これは黒震狼が見ていた記憶なのだろうか。


 そう考えた瞬間、視界へ新しい文字が浮かび上がった。


【固有権能・略奪 Lv.2】


 対象から固有権能を獲得しました。


【獲得権能】


 成長促進 Lv.1


【固有権能:成長促進 Lv.1】


 戦闘や訓練による経験の蓄積を促進する。


 技能の習熟速度にも影響を与える。


 効果の詳細:未解析


 成功した。


 ユウキはゆっくり息を吐いた。


 黒震狼が持っていた固有権能が、今は自分の中にある。


 ただし、突然身体能力が上昇したわけではない。


 傷も癒えていなければ、消耗した魔力も戻っていない。


 この力が真価を発揮するのは、これから経験を積み重ねるときなのだろう。


 そう理解したところで、トーマの切迫した声が飛んできた。


「ユウキ! 早く! 森の奥で何か動いてる!」


 ユウキは立ち上がった。


 足音が、先ほどより明らかに近づいていた。


     ◇◆◇


 黒震狼の死骸から離れたユウキへ、トーマが駆け寄ってきた。


「ねえ、僕もレベル10になってる!」


 その声には、驚きと喜びが入り混じっていた。


「僕も同じだよ」


「本当に? すごいね!」


 ユウキは頷き、成長した鑑定を使って仲間たちの状態を順番に確認した。


 まずはトーマ。


【鑑定結果】


 名称:トーマ

 種族:人族

 職業:斥候

 レベル:10


 最大HP:86

 最大MP:22


 STR:19

 VIT:18

 AGI:32

 MAG:7

 MND:17

 DEX:29


【習得技能】


 短剣術 Lv.3

 足捌き Lv.3

 気配遮断 Lv.2


 トーマの敏捷性は32。


 ユウキの25を上回っている。


 器用さも29まで上昇しており、斥候としての能力がさらに磨かれていた。


 黒震狼との戦いでは、危険な間合いへ何度も踏み込み、双短剣を使って攻撃を重ねてきた。その経験が確かな成長につながったのだろう。


 ただし、耐久力は18と4人の中では低めだった。


 トーマの強さは攻撃を正面から受け止めることではなく、素早い動きで相手の攻撃を避け、隙を見つけて踏み込むことにある。


 続いて、ユウキはバルドへ視線を向けた。


【鑑定結果】


 名称:バルド

 種族:人族

 職業:守護者

 レベル:14


 最大HP:145

 最大MP:30


 STR:34

 VIT:42

 AGI:16

 MAG:7

 MND:31

 DEX:21


【習得技能】


 盾術 Lv.4

 防御姿勢 Lv.3

 採掘 Lv.3

 斧術 Lv.1


 ユウキは目を見開いた。


 最大HP145。


 耐久力42。


 4人の中でも、明らかに防御に優れた能力値だった。


 筋力も34まで上昇している。


 バルドはもともと、仲間を守るために最前線へ立つことが多い。


 黒震狼との戦いでも、自分より遥かに巨大な相手を前にして盾を構え続けていた。あの防御がなければ、トーマもドランも無事では済まなかっただろう。


 そして、新しい技能が1つ加わっている。


 斧術Lv.1。


 盾術がLv.4へ上昇しただけでなく、片手斧を扱う技術も技能として身についたのだ。


 ユウキはバルドへ声をかけた。


「バルドさん、レベル14になってます。それに、斧術も覚えてますよ!」


「何?」


 バルドが驚いたように眉を上げた。


 自分の状態を確かめたあと、右手の斧へ視線を落とす。


「斧術か。長いこと斧は使ってきたが、こうして技能として身につくとはな」


 そう言って、少しだけ笑った。


「もっとも、今は試し斬りをする気にもなれん。肩が痛くてかなわんからな」


 普段どおりの口調に、ユウキも少しだけ緊張が和らいだ。


 最後に、ドランの状態を確認する。


【鑑定結果】


 名称:ドラン

 種族:人族

 職業:技工士

 レベル:12


 最大HP:112

 最大MP:35


 STR:24

 VIT:26

 AGI:15

 MAG:17

 MND:39

 DEX:49


【習得技能】


 修理 Lv.4

 精密作業 Lv.4

 魔導具知識 Lv.4

 鎚術 Lv.3


 ドランはレベル12。


 特に目を引いたのは、器用さ49という数値だった。


 精神力も39まで上昇しており、技工士としての能力が大きく伸びている。


 ユウキは黒震狼との最後の戦闘を思い出した。


 土手の崩れやすい位置を見抜き、金属杭と技工鎚を使って地形を崩したのはドランだった。


 ただ強い武器を振るうのではなく、構造を理解し、必要な場所へ正確に力を加える。


 長年培ってきた経験と技術が、あの局面では何よりも頼りになった。


 修理Lv.4。


 精密作業Lv.4。


 魔導具知識Lv.4。


 さらに、鎚術Lv.3。


 戦闘と技術の両面で成長している。


「ドランさんもレベル12です。器用さが49になってます!」


「49か」


 ドランは驚いたように自分の手を見つめた。


「道具の扱いが良くなるならありがたいが……今はそれより、脚の痺れをどうにかしたいところだな」


 そう言って苦笑する。


 トーマも笑いかけたが、すぐに森へ視線を戻した。


 ユウキは4人を見渡した。


 全員が大きく成長している。


 ユウキとトーマはレベル10。


 バルドはレベル14。


 ドランはレベル12。


 それぞれの得意分野を伸ばしながら、確かに強くなっていた。


 しかし、誰も万全の状態ではない。


 レベルが上がっても、傷が治るわけではない。


 疲労も、魔力の消耗も、そのまま残っている。


 今、新しい敵と戦えば危険だった。


「みんな、急ごう」


 ユウキの声に、3人が頷いた。


 南西の丘へ向かって歩き始めた、そのときだった。


 森の奥から、太い木がへし折れる音が響いた。


 続いて、大地そのものが揺れるような振動が伝わってくる。


 ユウキは足を止めた。


 雑木林の向こうで、木々がゆっくりと左右へ傾いていた。


 何か巨大なものが、森を押し分けながら近づいている。


「……まさか」


 トーマが小さく呟く。


 次の瞬間、森の縁に生えていた低木が大きく倒れた。


 その奥から、巨大な影が姿を現した。


     ◇◆◇


 最初に見えたのは、岩のように分厚い前脚だった。


 黒灰色の皮膚には深い皺が刻まれ、その表面には硬い鱗に似た突起が並んでいる。


 続いて、巨大な頭部が木々の間から押し出された。


 左右へ伸びた角のような突起。


 口元から覗く、曲がった太い牙。


 背中には岩塊を積み重ねたような突起が連なり、胴体は黒震狼よりも遥かに大きい。


 肩の高さだけで成人男性の身長を超えており、四肢を動かすたびに地面が深く沈み込んだ。


 ユウキは息を呑んだ。


 黒震狼とは、威圧感の質が違う。


 黒震狼は鋭い速度と技能を組み合わせ、相手の隙を狙う魔物だった。


 しかし、目の前の存在は違う。


 ただ歩くだけで木々を押し倒し、地面へ重い振動を伝えている。


 魔物はゆっくりと顔を上げた。


 まず、黒震狼の死骸へ視線を向ける。


 巨大な鼻先が動き、血の匂いを確かめるように低く息を吐いた。


 そのあと、暗い琥珀色の瞳がユウキたちを捉えた。


 ユウキの背筋に冷たいものが走った。


 先ほど黒震狼から流れ込んできた、断片的な記憶。


 森の奥に潜む何かへの恐怖。


 その感覚が、目の前の魔物と重なった。


 ユウキは反射的に鑑定を発動した。


 ――鑑定。


 しかし、視界へ浮かび上がった文字は、すぐに乱れ始めた。


【鑑定結果】


 対象の詳細情報を取得できません。


 鑑定Lv.3では、対象を解析できません。


 ユウキは息を詰めた。


 黒震狼の能力値も技能も、すべて確認できるようになったばかりの鑑定。


 その力が、目の前の魔物には通用しない。


 相手のレベルも、ランクもわからなかった。


 ただ、自分たちの手に負える存在ではないことだけは理解できた。


「みんな、逃げよう」


 ユウキは小さく言った。


 だが、誰もすぐには動けなかった。


 巨大な魔物が、一歩前へ踏み出したからだ。


 地面が揺れ、小石が跳ねた。


 バルドは盾を構えようとしたが、その腕が途中で止まった。


 黒震狼の突進ですら受け止めるのが難しかったのだ。あの巨体が本気で体当たりしてくれば、盾ごと押し潰されるかもしれない。


 トーマも双短剣を握り直したものの、顔色は青ざめている。


 ドランは技工鎚を構えたまま、魔物との距離を慎重に測っていた。


 ユウキは剣を握り直した。


 戦えば死ぬ。


 そんな確信に近い感覚が、胸の奥へ広がっていた。


 黒震狼との戦闘で得た新しい力。


 それは確かに大きな成長だった。


 だが、目の前の魔物には到底通用しない。


 ユウキは唇を噛んだ。


 まだ、こんなにも差があるのか。


 レベル10になり、新しい権能も手に入れた。


 それでも、この世界にはさらに恐ろしい存在がいる。


 巨大な魔物が低く唸った。


 次の瞬間、腹の底へ響くような咆哮が草地を震わせた。


 空気が重く揺れ、ユウキの胸へ圧力が伝わる。


 トーマが思わず膝を曲げた。


 バルドは盾を支えながら踏ん張り、ドランも後方へ一歩下がる。


 ユウキは歯を食いしばった。


 ここで倒れるわけにはいかない。


 リナを救いに行かなければならない。


 仲間たちを死なせるわけにもいかない。


 だが、剣を構える腕が震えていた。


 そのときだった。


「おいおい。ずいぶん派手にやってるじゃねえか」


 場違いなほど気楽な男の声が、背後から聞こえてきた。


     ◇◆◇


 ユウキが振り返ると、丘の斜面を1人の男が歩いてきていた。


 年齢は40代半ばほど。


 短く切った黒髪にはところどころ白いものが混じり、日に焼けた顔には無精髭が生えている。


 肩幅が広く、厚い胸板を持つ身体には、使い込まれた革鎧を身につけていた。


 腰には大ぶりの剣を下げているが、その鞘には細かな傷がいくつも刻まれている。


 高級そうな装備には見えなかった。


 むしろ、長年使い続けてきた道具を、必要な部分だけ丁寧に手入れしているような印象だった。


 男はユウキたちの様子を見ると、片眉を上げた。


「ん? お前ら、冒険者か?」


 ユウキは驚きながら頷いた。


「は、はい!」


「ランクは?」


「Eランクです」


 男は一瞬だけ黙った。


 そして、黒震狼の死骸と巨大な魔物を見比べる。


「Eランク?」


 もう一度、確認するように呟いた。


 そのあと、呆れたように頭を掻いた。


「お前ら、何でこんな場所にいるんだよ」


「採取依頼で来たんです。でも、黒震狼と遭遇して……」


「黒震狼?」


 男の視線が、地面へ横たわる巨大な狼へ向けられた。


 傷だらけの死骸をしばらく眺めたあと、低く口笛を吹く。


「なるほど。こいつを倒したのか」


「はい。でも、すでにかなり弱っていて……」


「それでも十分だ。Eランクがまともに相手するような魔物じゃねえからな」


 男はそう言うと、巨大な魔物へ視線を向けた。


 その表情から、わずかに笑みが消える。


「で、次はあいつか」


 ユウキは慌てて言った。


「危険です! 鑑定しても情報が見えなくて、僕たちじゃ……!」


「わかってるよ」


 男は軽く手を振った。


「お前らは下がってろ」


 その言葉には、妙な落ち着きがあった。


 強がっているようには聞こえない。


 ただ、目の前の状況を確認し、必要なことを伝えているだけのようだった。


 バルドが口を開いた。


「あんた、何者だ?」


 男は少し考えたあと、腰の袋から冒険者証を取り出した。


 金属製の札には、ギルドの紋章と階級が刻まれている。


 Bランク。


 ユウキは目を見開いた。


「Bランク冒険者?」


「そうだ。今はな」


 男は冒険者証を袋へ戻し、腰の剣へ手を添えた。


「細かい話は後だ。まずは、あのでかいのを追っ払う」


 巨大な魔物が低く唸った。


 その視線が、男へ向けられる。


 男はまったく動じなかった。


 むしろ、相手の身体を観察するように、ゆっくりと目を細めている。


「ふむ。思ったよりでけえな」


 そう呟くと、男は腰の剣を抜いた。


 刃は幅広く、長さも通常の片手剣よりかなりある。


 しかし、装飾はほとんどなく、実用性だけを追求したような武器だった。


 男はその剣を片手で軽々と持ち上げ、肩へ担いだ。


「おい、坊主」


 突然呼ばれ、ユウキは身体を強張らせた。


「は、はい!」


「よく見とけ」


 男は巨大な魔物へ視線を向けたまま言った。


「強い相手と戦うってのが、どういうことか教えてやる」


 次の瞬間、男が地面を蹴った。


 あまりにも速い踏み込みだった。


 ユウキの目には、男の姿が一瞬で前方へ移動したように映った。


 地面を蹴る音が遅れて聞こえ、草が激しく揺れる。


 黒震狼の瞬速を見たときとも違う。


 男の動きには、余計な力みがまったくなかった。


 踏み込みから身体の移動まで、すべての動作が滑らかにつながっている。


 巨大な魔物が反応し、前脚を振り上げた。


 分厚い筋肉に覆われた脚が、唸りを上げながら振り下ろされる。


 その一撃は、地面を押し潰すほどの重さを持っているはずだった。


 しかし、男は真正面から受け止めようとしなかった。


 前脚が振り下ろされる直前、身体をわずかに横へずらす。


 巨大な爪が肩のすぐ横を通過し、地面へ深く突き刺さった。


 土が爆ぜ、石が飛び散る。


 男はその衝撃の中でも姿勢を崩さず、相手の前脚へ向かって剣を振り抜いた。


 銀色の軌跡が走る。


 次の瞬間、巨大な魔物の脚へ深い傷が刻まれた。


「グォォォッ!」


 魔物が怒りの咆哮を上げる。


 男はすでに後方へ移動していた。


 まるで、最初からそこにいたかのように自然な動きだった。


 ユウキは言葉を失った。


 自分たちは4人で命を懸け、ようやく黒震狼を倒した。


 しかも、相手はすでに深い傷を負っていた。


 それなのに、目の前の男は、黒震狼よりも巨大で恐ろしい魔物を相手にして、まったく怯む様子がない。


 あの速さ。


 あの剣の鋭さ。


 攻撃を避ける際のわずかな身体の動き。


 すべてが、ユウキの知る戦い方とは別の世界にあるように思えた。


 ――これが、Bランク冒険者の強さなのか。


 ユウキは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 これほど強くなれるのか。


 人間でも、あんな巨大な魔物を相手に戦えるのか。


 驚きと恐怖の中に、わずかな憧れが芽生えていた。


 トーマも同じだった。


「すごい……」


 双短剣を握ったまま、男の動きを必死に目で追っている。


「僕、あんな速い動き、初めて見た……」


 バルドは低く息を吐いた。


「Bランクともなれば、ここまで違うものなのか……」


 ドランも言葉を失っていた。


 長年、鉱山や工房でさまざまな冒険者と接してきたが、目の前で繰り広げられている戦いは、それまで見たどんなものとも違っていた。


 巨大な魔物が再び前脚を振り上げる。


 男は口元をわずかに緩めた。


「悪いな。今日はお前に付き合ってる暇がねえんだ」


 剣を構え直す。


 今度は、先ほどより低い姿勢だった。


 右足を半歩前へ出し、剣先を地面へ向ける。


 その身体から、静かな圧力が広がっていく。


 ユウキは思わず息を止めた。


 Bランク冒険者。


 今まで、その言葉はギルドの階級を示すものにすぎなかった。


 しかし今、ユウキの目の前で、その言葉がまったく違う意味を持ち始めていた。


 自分たちが目指すべき、遥か先の強さ。


 その一端が、今ここにあるのだと思った。


 男が地面を蹴った。


 巨大な魔物の前脚が、再び振り下ろされる。


 その間を、銀色の剣が走った。


     ◇◆◇


 ユウキには、何が起きたのかすぐには理解できなかった。


 男の剣が振り抜かれた直後、巨大な魔物の身体が大きく揺れた。


 肩から胸元にかけて、深い斬撃の跡が刻まれている。


 魔物は苦痛の咆哮を上げ、数歩後退した。


 その巨体が地面を踏みしめるたび、周囲の草が押し潰される。


 だが、男は追撃しなかった。


 剣を肩へ担ぎ、魔物の動きを静かに見つめている。


「どうする? まだやるか?」


 その声には、余裕があった。


 巨大な魔物は低く唸り、男を睨みつけた。


 しかし、すぐには前へ出てこない。


 傷ついた前脚へ体重をかけることを避け、身体を少しずつ後退させている。


 ユウキは息を呑んだ。


 あの巨大な魔物が、明らかに警戒している。


 自分たちを見たときには何の躊躇もなく近づいてきた存在が、目の前の男には簡単に踏み込めなくなっている。


 男は剣を下ろした。


「そうだ。それでいい」


 魔物はしばらく唸り続けていたが、やがて身体を反転させた。


 巨大な前脚が地面を踏みしめ、ゆっくりと森の方向へ向かっていく。


 男は追わなかった。


 ただ、その背中を見つめている。


 やがて、魔物は木々の間へ姿を消した。


 重い足音が遠ざかり、森には再び静けさが戻ってきた。


 ユウキはしばらく動けなかった。


 あれほど恐ろしかった魔物が、ほとんど一方的に追い払われた。


 しかも、男は大きな怪我を負っていない。


 剣を振るう動きも、呼吸も、ほとんど乱れていなかった。


 トーマが震える声で呟いた。


「何、今の……」


 バルドも言葉を失っていた。


 ドランは技工鎚を握ったまま、男の背中を見つめている。


 男は剣を鞘へ収めると、何事もなかったかのように振り返った。


「よし。もう大丈夫だろ」


 その声に、ユウキはようやく息を吐いた。


「あ、ありがとうございます!」


 慌てて頭を下げる。


 男は片手を振った。


「気にすんな。たまたま通りかかっただけだ」


 ユウキは顔を上げた。


 そして、思わず尋ねた。


「あの、どうしてそんなに強いんですか?」


 男は一瞬だけ目を丸くした。


 そのあと、豪快に笑った。


「ははっ! そりゃ、長いこと生き残ってきたからだよ!」


 ユウキは呆気に取られた。


 男は笑いながら続けた。


「強い奴に何度もぶん殴られて、死にかけて、それでも生き残ってりゃ、嫌でも少しは強くなる」


 そう言うと、男はユウキの腰の剣へ視線を向けた。


「ただな、坊主」


 その声が、少しだけ真剣になる。


「強くなったと思ったときほど、気をつけろ」


 ユウキは黙って聞いていた。


「世の中には、お前が想像もしねえような化け物がいくらでもいる。魔物も、人間もな」


 男は森の方向へ視線を向けた。


「今日みたいなこともある。やっと強敵を倒したと思ったら、その何倍も危ねえ奴が出てくる」


 ユウキは静かに頷いた。


 まさに、今起きたことだった。


 男は再び笑った。


「だから、調子に乗るな。でも、怖がって何もしなくなる必要もねえ」


 ユウキは顔を上げた。


「どういうことですか?」


「生き残れってことだよ。勝てねえ相手からは逃げろ。勝てる相手にも油断するな。それで、次に戦うときには、前より少し強くなってりゃいい」


 男はそう言って、ユウキの肩を軽く叩いた。


「お前ら、まだ若いんだろ。焦る必要はねえよ」


 ユウキはその言葉を胸の中で繰り返した。


 強くなる。


 だが、焦らない。


 生き残る。


 そして、また前へ進む。


 それは、今まで自分たちが何度も経験してきたことでもあった。


「ありがとうございます」


 ユウキはもう一度、深く頭を下げた。


 男は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。


「まったく、礼儀正しい坊主だな」


 トーマがようやく口を開いた。


「ねえ、おじさん」


「ん?」


「名前、何ていうの?」


 男は一瞬だけ黙った。


 そして、にやりと笑った。


「名前か?」


 腰の剣へ手を添え、空を見上げる。


「そういや、まだ名乗ってなかったな」


 男は4人を見渡した。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


――第79話 完。

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