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第80話 新たなる旅路

「名前か? そういや、まだ名乗ってなかったな」


 男は無精髭の生えた顎を指で撫で、何かを思い出したように笑った。


「クラトスだ。あちこち旅して回ってる、ただの冒険者さ」


「クラトスさん、ですね」


「おう。だが、さん付けなんていらねえぞ。堅苦しいのは苦手なんだ」


 そう言って、クラトスは豪快に笑った。


 その姿は、つい先ほど巨大な魔物を追い払った人物と同じとは思えないほど気さくだった。


 肩に担いでいた大剣を鞘へ収め、腰の革袋から水筒を取り出すと、何事もなかったかのように喉を鳴らして水を飲む。


 ユウキはその様子を、半ば呆然としながら眺めていた。


 巨大な魔物の振り下ろした前脚。


 地面を深く抉った爪。


 それを紙一重で避け、分厚い皮膚を剣で切り裂いた一連の動きが、まだ目の奥に焼きついている。


 自分たちは、あの魔物を前にして立っていることさえ難しかった。


 ところが、クラトスはほとんど息を乱さずに撃退してしまった。


 これがBランク冒険者の強さなのか。


 ユウキの胸には、恐怖の余韻と同じくらい強い憧れが残っていた。


「それより、お前ら」


 クラトスが水筒の蓋を閉める。


「いつまでそんな顔してんだ? もうあいつは帰ったぞ」


「そう言われても……」


 トーマが双短剣を鞘へ収めながら、森の奥へ目を向けた。


「また戻ってくるかもしれないし」


「そりゃ、絶対に戻ってこねえとは言えんな」


「えっ!?」


「だからこそ、ここで突っ立ってる場合じゃねえって話だ」


 クラトスは悪びれもせずに笑った。


 トーマが口を尖らせる。


「なんだよ、それ……」


「ははっ。安心しろ。少なくとも今すぐ戻ってくる気配はねえ」


 そう言いながら、クラトスは視線を黒震狼の死骸へ移した。


 先ほどまでの陽気な表情が、わずかに引き締まる。


「にしても、よく生き残ったな。お前ら」


 バルドが静かに頷いた。


「運が良かっただけだ。あの黒震狼は、もともと深手を負っておった」


「だろうな。傷の入り方が妙だと思ったぜ」


 クラトスは黒震狼の傍らにしゃがみ込み、傷ついた前脚と胸元を眺めた。


「剣傷、槍傷、魔法による損傷……こりゃ相当やり合った跡だ。お前らが最初から全部つけたってわけじゃなさそうだな」


「以前、Cランクの冒険者たちが交戦したらしいんです」


 ユウキが説明すると、クラトスは納得したように顎を撫でた。


「なるほど。そいつらが追い詰めたところへ、お前らが鉢合わせたわけか」


「はい。でも、弱っていたはずなのに、僕たちには強すぎました」


「そりゃそうだろ」


 クラトスはあっさり答えた。


「死にかけの魔物ほど危ねえこともある。逃げ道がなくなりゃ、残った力を全部使ってでも生き延びようとするからな」


 その言葉に、ユウキは黒震狼の最後の姿を思い出した。


 傷ついた脚を引きずりながら、それでも立ち上がろうとしていた巨体。


 最後まで諦めなかった黄色い瞳。


 戦いが終わった今でも、その記憶は消えなかった。


「まあ、反省会は街に戻ってからだな。まずは怪我を見せてみろ」


 クラトスが立ち上がる。


「怪我、ですか?」


「お前ら、さっきから全員まともに歩けてねえだろ」


 言われて、ユウキは思わず自分の足元へ視線を落とした。


 確かに、膝にはまだ力が入りきっていない。


 トーマは肩を上下させ、バルドは左腕の動きを抑えている。ドランに至っては、技工鎚で身体を支えなければ歩くのも難しそうだった。


「見ただけでわかるんですね」


「見りゃわかる。何年冒険者やってると思ってんだ」


 クラトスはバルドの肩へ視線を向けた。


「じいさん、左肩だろ。盾で相当重いもんを受けたな」


「ああ。骨は折れておらんと思うが、動かすと痛む」


「無理に振り回すなよ。そこの職人っぽい兄ちゃんは脚か?」


「震撃を何度も受けてな。痺れが抜けん」


「そりゃ厄介だ。歩けるならいいが、無理はするな」


 クラトスは次々と怪我の状態を確かめていく。


 豪快な口調とは裏腹に、見るべきところは細かかった。


 ユウキはその姿に、少しだけ安心感を覚えた。


 戦いの強さだけではない。


 仲間の負傷を見て、何を優先すべきか判断する。


 そうした経験の積み重ねもまた、冒険者としての強さなのだろう。


「よし。街道まで俺も付き合ってやる」


「えっ、いいんですか?」


「ここでお前らを置いて帰って、あとから死体で見つかったなんて話を聞くのも寝覚めが悪いからな」


 クラトスは笑いながら言った。


「それに、話し相手ができるのは悪くねえ」


 その言葉を聞いたとき、バルドの表情がわずかに動いた。


 何か言いたそうだったが、結局、口にはしなかった。


     ◇◆◇


 街道へ向かう前に、クラトスは黒震狼の死骸をあらためて確かめた。


「こいつはどうするつもりだ?」


「ギルドへ報告して、回収をお願いしようと思っています」


 ユウキが答える。


「そのまま運ぶには大きすぎますし、僕たちも怪我をしているので」


「そりゃ賢明だ。無理に持って帰ろうとすんな」


 クラトスは黒震狼の首元を眺めた。


「魔石もまだ抜いてねえみたいだな」


「はい」


「だったら、場所を忘れねえようにしとけ。ギルドの連中が回収に来るとき、案内が必要になるかもしれん」


 ドランが周囲の地形を見渡した。


「北側の土手が崩れているから、目印にはなるな。街道からの距離も覚えておこう」


「おう、それでいい」


 クラトスは立ち上がると、南西の丘へ向かって歩き始めた。


 4人もそのあとを追う。


 先頭はクラトス。


 その後ろをユウキとトーマが歩き、バルドがドランを支えながら続いた。


 草地を抜ける風には、血と湿った土の匂いが混じっていた。


 少し離れただけでも、黒震狼との戦闘が行われた場所は異様に見えた。


 土手が崩れ、木々が折れ、地面には深い爪痕が残っている。


 まるで小規模な災害でも起きたようだった。


「なあ、ユウキだったか?」


 前を歩くクラトスが振り返る。


「はい」


「お前ら、パーティーを組んでどのくらいだ?」


「まだ、それほど長くありません。今はリーヴェルを拠点に活動しています」


「リーヴェルか。懐かしい名前だな」


「行ったことがあるんですか?」


「何度かな。昔はあの辺りでも結構仕事をした」


 クラトスは遠くを眺めるように目を細めた。


「いい街だよな。規模は大きくねえが、人も悪くねえ。腕のいい職人もいるし、飯だってそこそこうまい」


 ドランが少しだけ顔を上げる。


「職人のことも知っているのか?」


「そりゃな。冒険者にとっちゃ、武器と防具を直してくれる職人は命綱みたいなもんだ」


 クラトスは腰の剣を軽く叩いた。


「どれだけ腕が良くても、刃が欠けたまま戦い続けりゃ、いつか痛い目を見るからな」


 その言葉に、ユウキはガルドの顔を思い出した。


 装備を新しくしてくれた鍛冶師。


 支払いを待ってまで、自分たちの安全を優先してくれた人物だ。


 黒震狼との戦いを生き延びられたのは、ガルドが用意してくれた装備のおかげでもある。


 帰ったら、まず無事を報告しなければならない。


「そういえば、お前らの装備」


 クラトスはユウキの剣とトーマの短剣へ視線を向けた。


「そこそこいいもん使ってるじゃねえか」


「鍛冶屋の人が、僕たちのために選んでくれたんです」


「へえ。いい職人に出会ったみたいだな」


 クラトスは満足そうに頷いた。


「装備を選ぶときは、値段より自分に合ってるかどうかを見ろよ。高い武器を持っただけで強くなるわけじゃねえからな」


 トーマが自分の双短剣を見つめる。


「でも、高い武器の方が強いんじゃないの?」


「そりゃ性能だけ見ればそういう場合もあるさ。だが、重すぎる剣を振り回して敵に隙を見せたり、扱いきれねえ魔導具を持ってったりすりゃ、かえって危ねえ」


 クラトスは歩きながら続けた。


「装備ってのは、使う奴と噛み合って初めて意味がある」


 トーマは少し考えたあと、頷いた。


「なるほど」


「まあ、俺も若い頃は見た目だけで武器を買ってな。使いこなせずに大恥かいたことがある」


「クラトスでも?」


「おう。見栄張ってでけえ斧を買ったんだが、振り回したら壁に引っかかってな。魔物に追いかけ回された」


 トーマが吹き出した。


「それ、すごく危ないじゃん!」


「危なかったぞ。あのときは本気で死ぬかと思った」


 クラトスは笑った。


 その豪快な笑い声につられて、ユウキも小さく笑った。


 黒震狼との戦いが終わってから、初めて自然に笑えた気がした。


     ◇◆◇


 丘の斜面を越えると、遠くに街道が見えてきた。


 緩やかな起伏の先には、荷馬車が通るために踏み固められた道が伸びている。


 森から距離ができたことで、ユウキたちの緊張も少しずつ和らいでいった。


 もっとも、ドランの脚の痺れはまだ残っている。


 バルドが肩を貸し、歩幅を合わせながら進んでいた。


「それにしても、お前ら」


 クラトスがふと振り返った。


「これからもリーヴェルで活動するつもりなのか?」


 ユウキは少し考えた。


「今のところは、そうですね。まだ覚えることも多いですし」


「ふうん。じゃあ、リーヴェルの迷宮にも潜ってるのか?」


「はい。何度か浅層を探索しました」


 ユウキが答えると、クラトスは満足そうに頷いた。


「そうか。だったら、迷宮の基本は多少わかってるわけだな」


「でも、僕たちが行ったのは浅い階層だけです。まだ知らないことの方が多いと思います」


「そりゃ当然だ。迷宮なんざ、何年潜ったって知らねえことが出てくる」


 クラトスは豪快に笑った。


「なら、ちょうどいい話がある。都市フレアって知ってるか?」


 ユウキは首を傾げた。


「名前は……いえ、詳しくは知りません」


「国でも有数の大都市だ。商業が盛んで、冒険者向けの設備も充実してる。腕のいい職人や商人も集まってるから、装備を揃えるにも便利な場所だぞ」


 トーマが興味を示した。


「リーヴェルより大きいの?」


「そりゃもう、比べものにならねえくらいにな」


 クラトスは楽しそうに続けた。


「街の中だけでも地区がいくつも分かれていて、商人が集まる大通りなんかは朝から晩まで賑やかだ。武器屋、防具屋、魔導具屋、素材商、薬師の店……冒険者が必要とするもんは大抵揃ってる」


 ユウキはその光景を想像した。


 今まで訪れた街とは比べものにならないほど多くの人々。


 石造りの大きな建物。


 あちこちに並ぶ商店。


 さまざまな装備を身につけた冒険者たち。


 自分の知らない世界が、そこには広がっているのだろう。


「だが、フレアの一番面白いところは、迷宮の種類が豊富なことだ」


「種類、ですか?」


 ユウキが尋ねると、クラトスは頷いた。


「おう。リーヴェルにも迷宮はあるが、フレアには低ランク向けから高ランク向けまで、性質の違う迷宮がいくつも集まってるんだ」


 その説明に、トーマが目を輝かせた。


「じゃあ、僕たちでも入れる迷宮があるってこと?」


「もちろんだ。ただし、EランクならEランク相応の場所を選べよ。背伸びして危険な迷宮に入っても、命を落としちゃ意味がねえからな」


 ユウキは静かに頷いた。


 黒震狼との戦闘で、実力に見合わない相手と遭遇する恐ろしさは十分に理解している。


「リーヴェルの迷宮でも、浅層しか探索していない僕たちが、フレアでやっていけるんでしょうか?」


「そこがいいところなんだよ」


 クラトスは笑った。


「フレアには初心者や低ランクの冒険者が経験を積める迷宮もある。それでいて、実力がつけば挑戦できる場所が増えていく。わざわざ別の街へ移らなくても、長く活動できるんだ」


 ユウキはその言葉に興味を覚えた。


 リーヴェルの迷宮では、まだ浅層を探索するだけで精一杯だった。


 それでも、少しずつ戦えるようになり、仲間と協力する方法を覚えてきた。


 もしフレアへ行けば、そうした経験を積み重ねながら、さらに多くの迷宮へ挑戦できるのかもしれない。


「それに、迷宮ってのは魔物を倒すだけの場所じゃねえ」


 クラトスはそう言うと、腰の剣を軽く叩いた。


「珍しい素材も手に入るし、場所によっちゃ装備そのものが見つかることだってある」


 トーマが顔を上げた。


「装備も?」


「おう。剣や防具、装飾品、それに魔導具なんかもな。もちろん、何が手に入るかは迷宮次第だが」


 ユウキはリーヴェルでの迷宮探索を思い返した。


 自分たちが足を踏み入れた浅層では、魔物への警戒や帰り道の確認に気を取られることが多かった。


 宝物を探す余裕など、ほとんどなかったのだ。


「僕たちは、まだ迷宮で装備を見つけたことがありません」


「ははっ。そりゃ別におかしくねえよ。潜るたびに宝が出てくるなら、誰も苦労しねえからな」


 クラトスは笑いながら、自分の左腕の袖を捲った。


 そこには黒銀色の腕輪が嵌められていた。


 表面には複雑な文様が刻まれ、光の当たり方によって淡い青色の筋が浮かび上がる。


「この腕輪の装備だって、都市フレアの迷宮産さ」


 クラトスは腕輪を軽く叩いた。


「昔、ある迷宮で手に入れたんだ。なかなか手間のかかる場所だったが、こいつは当たりだったな」


「どんな効果があるんですか?」


 ユウキが尋ねる。


「ん? 気になるか?」


「はい」


「まあ、いろいろ便利なもんだ。特に、他人からあれこれ覗かれたくねえときにな」


 ユウキは首を傾げた。


「覗かれたくないとき……?」


「世の中には、他人の能力を勝手に調べたがる奴がいるからな」


 クラトスは軽い調子で答えた。


「そういう連中に、何でもかんでも見せてやる必要はねえだろ?」


 ユウキの胸が小さく跳ねた。


 鑑定。


 その言葉が頭に浮かぶ。


 クラトスは腕輪を外そうとはせず、袖を元に戻した。


「まあ、そういう装備だって迷宮で手に入るってことさ」


 そう言って、話題を切り替えるように腰の剣へ手を添えた。


「ついでに言うとな、この武器もフレアと縁がある」


 クラトスは鞘に収めた大剣を少し持ち上げた。


「この武器は、都市フレアの魔物の素材で作ってるんだ」


 ドランがすぐに反応した。


「魔物の素材を使った武器か。刀身の材質が特殊なのか?」


「おっ、わかるか?」


 クラトスは嬉しそうに笑った。


「そうだ。フレアの迷宮で採れた素材を職人に渡して、俺に合うように鍛えてもらった」


「なるほど。魔力を含む素材なら、普通の金属とは加工方法も違うだろうな」


「そうなんだよ! 最初に頼んだ職人には無理だと言われたんだが、別の工房でようやく引き受けてもらえてな――」


 そこからクラトスの話は長くなった。


 魔物素材の扱い方から、武器を鍛える職人の技術、迷宮で遭遇した珍しい魔物の話まで、話題が次々と広がっていく。


 ドランは興味深そうに質問を重ね、クラトスも嬉しそうに答えていた。


 やがてトーマがユウキの袖を引いた。


「ねえ、ユウキ」


「どうしたの?」


「クラトス、話が長くない?」


 ユウキは思わず笑った。


「うん。でも、楽しそうだね」


「最初はあんなに強くて怖い人かと思ったのに、ただのお喋りなおじさんみたい」


 その言葉が聞こえたのか、クラトスが振り返った。


「おい、坊主ども! 今の話、ちゃんと聞いてたか?」


「き、聞いてたよ!」


 慌てて答えるトーマに、クラトスは満足そうに頷いた。


「よし! じゃあ次は、迷宮で装備を拾ったときに気をつけることを教えてやる!」


「まだ続くの!?」


 トーマの声が夕暮れの街道に響いた。


 ユウキは笑いながら、再び歩き始めた。


 リーヴェルでの迷宮探索も、まだ始まったばかりだ。


 それでも、都市フレアには自分たちが知らない迷宮や装備、そして数多くの冒険者が待っている。


 今すぐ向かうことはできない。


 だが、いつかあの都市で活動してみたい。


 そんな新しい目標が、ユウキの胸に芽生え始めていた。


     ◇◆◇


 街道へ出る頃には、空が少しずつ夕焼けに染まり始めていた。


 低い丘の向こうに太陽が傾き、道の端に生えた草の影が長く伸びている。


 ユウキたちは道端の大きな石へ腰を下ろし、短い休憩を取ることにした。


 ドランは脚を伸ばし、ゆっくりと足首を動かしている。


 バルドも盾を地面へ置き、左肩の状態を確かめた。


 トーマは水筒を取り出し、一口飲んでからユウキへ差し出した。


「はい」


「ありがとう」


 水を飲むと、乾いた喉に冷たさが広がった。


 ようやく身体が落ち着いてきた気がする。


 クラトスは少し離れた場所で、街道の先を眺めていた。


「それで、お前ら。どうだ?」


 突然話しかけられ、ユウキは顔を上げた。


「何がですか?」


「フレアだよ。行ってみたくなったか?」


 トーマがすぐに手を上げた。


「僕は行ってみたい!」


「おっ、いい返事だ」


 クラトスが笑った。


「いろんな迷宮に入ってみたいし、珍しい装備も見たい! それに、大きな街ってどんなところなのか気になる!」


 トーマは目を輝かせながら話し始めた。


 ユウキも、胸の奥に小さな期待が芽生えていることを感じていた。


 都市フレア。


 国でも有数の大都市。


 数多くの迷宮。


 珍しい素材と装備。


 そして、まだ見ぬ強い冒険者たち。


 そこには、今まで知らなかった世界が広がっている。


 だが、同時に現実的な問題もあった。


「でも、今すぐには行けないと思います」


 ユウキが言うと、クラトスは頷いた。


「まあ、そうだろうな」


「リーヴェルでお世話になっている人たちもいますし、装備の支払いもまだ残っているんです。それに、今回の黒震狼のこともギルドへ報告しないと」


 クラトスは腕を組んだ。


「なるほど。そりゃ先に片づけるべきだな」


 バルドも頷く。


「わしらには、まだリーヴェルでやるべきことがある」


 ドランも静かに続けた。


「装備の支払いを残したまま出ていくわけにはいかん。それに、移動するなら旅費や準備も必要だ」


 クラトスは少し考えたあと、笑った。


「いいじゃねえか。ちゃんと考えてる」


「え?」


「行きたいからって、何もかも放り出して飛び出すような奴じゃなくて安心したよ」


 そう言って、クラトスはユウキの肩を軽く叩いた。


「冒険者ってのは自由な仕事だ。だが、自由ってのは好き勝手することとは違う」


 ユウキは黙って聞いていた。


「借りたもんは返す。世話になった相手には礼を言う。受けた仕事は最後までやり遂げる。そういう当たり前のことを守れねえ奴は、どこへ行ったって信用されねえ」


 クラトスの声には、先ほどまでの冗談めいた調子がなかった。


「強さってのは、剣を振るう腕だけじゃねえんだよ」


 ユウキはその言葉を胸に刻んだ。


 強さ。


 黒震狼との戦闘を通じて、自分たちは確かに強くなった。


 だが、クラトスの話を聞いていると、強さにはまだ自分たちの知らない形があるのだと感じられた。


「だからよ」


 クラトスは再び笑った。


「全部片づけてから、胸張ってフレアへ来りゃいい」


 ユウキは顔を上げた。


「……はい」


「無理に急ぐ必要はねえさ。フレアが明日なくなるわけでもねえ」


 トーマが嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、いつかみんなで行こうよ!」


 バルドは少し考えたあと、口元を緩めた。


「そうだな。まずはリーヴェルの迷宮を踏破する。それを目標にするのはどうだ?」


 その提案に、ユウキは顔を上げた。


「リーヴェルの迷宮を……」


「ああ。これまで浅層は何度か探索したが、まだ先には進めておらん。せっかく拠点にしている街の迷宮だ。まずは、わしら自身の力で踏破を目指してみるのも悪くないだろう」


 ドランも頷いた。


「今のわしらには、ちょうどいい目標かもしれん。迷宮なら素材も集められるし、装備の整備に必要な資金も稼げるだろう」


 トーマが笑った。


「それ、いいね! フレアへ行く前に、リーヴェルの迷宮を踏破するんだ!」


 ユウキは3人を見渡した。


 全員の表情に、少しずつ期待が浮かんでいる。


 ユウキも胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 リーヴェルの迷宮。


 今までは、依頼をこなすために浅層を探索していただけだった。


 しかし、これからは違う。


 自分たちの意思で、その先へ進む。


 まだ見ぬ階層。


 未知の魔物。


 そして、迷宮の最深部。


 そこへ辿り着くことができれば、自分たちはきっと今より強くなれる。


「……うん。やってみたい」


 ユウキが言うと、クラトスは満足そうに頷いた。


「いい目標じゃねえか」


 男は腕を組み、4人を順番に見渡した。


「ただし、迷宮踏破を目指すなら、準備だけは怠るなよ。浅層と深層じゃ、魔物の強さも環境もまるで違うことがある」


 ユウキは頷いた。


「はい」


「無理をせず、少しずつ進め。戻るべきときには戻れ。踏破することだけ考えて、仲間を失っちまったら意味がねえ」


 その言葉に、4人は静かに頷いた。


 クラトスは満足そうに笑った。


「よし。それでいい」


 こうして、ネクシアの4人には新しい目標が生まれた。


 まずは、リーヴェルの迷宮を踏破する。


 そして、いつか都市フレアへ向かう。


 その道筋が、少しずつ形になり始めていた。


     ◇◆◇


 休憩を終えたあと、クラトスは街道の先へ視線を向けた。


「さて、そろそろ行くか。暗くなる前に人のいる場所へ着きたいところだ」


 4人も立ち上がる。


 バルドがドランを支え、トーマが周囲を警戒しながら歩き始めた。


 ユウキはクラトスの隣へ並んだ。


「あの、クラトス」


「ん?」


「さっきの迷宮の話、もう少し聞いてもいいですか?」


 その言葉を聞いた瞬間、クラトスの顔がぱっと明るくなった。


「おっ、なんだ。興味が出てきたか!」


「はい。僕たちはまだ浅層しか探索していないので、もっと深い階層のことを知りたいんです」


「いい質問だな! まず、迷宮ってのは階層が深くなるほど危険になる傾向があるが、それだけじゃねえ。地形や魔物の種類によって、探索の難しさは大きく変わるんだ」


 クラトスは嬉しそうに話し始めた。


 迷宮の階層。


 魔物の分布。


 探索に必要な道具。


 罠の見分け方。


 迷宮で役立つ技能。


 素材の売買。


 装備の選び方。


 話題は次々と移り変わり、途切れる様子がなかった。


 ユウキは最初こそ真剣に聞いていたが、途中から情報量の多さに頭が追いつかなくなってきた。


 それでも、知らない世界の話を聞くのは楽しかった。


 トーマも時折質問を挟み、ドランは素材の話になると身を乗り出した。


 バルドは苦笑しながら、3人の様子を眺めている。


「しかし、よく喋る男だな」


 バルドが小さく呟く。


 その声に、ドランが笑った。


「悪い人ではなさそうだがな」


「そうだな」


 バルドは頷いた。


「少なくとも、あれだけの力を持っていて、わしらを見下すような男ではない」


 前を歩くクラトスは、そんな会話にも気づかず楽しそうに話を続けていた。


「それでな、迷宮に初めて入る奴がやりがちな失敗ってのが――」


「また始まった……」


 トーマが小声で呟く。


 ユウキは笑った。


 その笑い声は、夕暮れの街道へ静かに溶けていった。


     ◇◆◇


 やがて、街道の先に小さな休憩所が見えてきた。


 旅人や商人が利用する建物で、周囲には荷馬車を停めるための広場がある。


 クラトスはそこまで案内すると、足を止めた。


「よし。ここまで来りゃ、ひとまず安心だろ」


 ユウキは深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


「気にすんなって。何度も言わせるなよ」


 クラトスは笑った。


 トーマも頭を下げる。


「助けてくれてありがとう、クラトス!」


「おう。元気でな」


 バルドは静かに頭を下げた。


「命を救われた。この恩は忘れん」


「大げさだな。俺はたまたま通りかかっただけだ」


 ドランも続けた。


「装備や素材の話も勉強になった。感謝する」


「おっ、兄ちゃんとはまたゆっくり話したいな!」


 クラトスは嬉しそうに笑った。


 その様子に、トーマが小さく肩を落とす。


「また長い話になりそう……」


 ユウキは思わず笑った。


 クラトスは最後に、4人を順番に見渡した。


「まあ、何にせよ」


 その声が、少しだけ真剣になる。


「今日、生き残れたことを忘れるなよ」


 ユウキは顔を上げた。


「はい」


「強くなるのは結構だ。だが、そのために命を捨てちまったら意味がねえ」


 クラトスは腰の剣を軽く叩いた。


「冒険者はな、生きて帰ってきて初めて仕事を終えたって言えるんだ」


 その言葉に、4人は静かに頷いた。


 クラトスは満足そうに笑った。


「よし。じゃあ、またどっかで会おうぜ」


「クラトス!」


 ユウキが声をかける。


 男は振り返った。


「ん?」


「僕たち、まずはリーヴェルの迷宮を踏破します」


 クラトスは少しだけ目を細めた。


 ユウキは続けた。


「それができたら、もっと強くなって、ちゃんと準備して。それから、都市フレアへ行きたいです」


 クラトスはしばらくユウキを見つめていた。


 そして、豪快に笑った。


「ははっ! いいじゃねえか!」


 大きく手を振る。


「楽しみにしてるぞ、坊主!」


 そう言い残し、クラトスは街道の向こうへ歩いていった。


 夕陽を背にしたその姿は、やがて小さくなり、遠くの旅人たちの中へ紛れていく。


 ユウキはしばらく、その背中を見つめていた。


 Bランク冒険者。


 自分たちが初めて目撃した、遥か高みにいる強者。


 その存在は、これまで漠然としていた未来に、新しい形を与えてくれたように思えた。


 いつか、自分もあんなふうに強くなれるだろうか。


 仲間を守り、恐ろしい魔物を前にしても迷わず剣を振るえるようになるだろうか。


 答えは、まだわからない。


 けれど、目指すべき場所が少しだけ見えた気がした。


     ◇◆◇


 その日のうちにリーヴェルへ戻ることができたのは、休憩所で出会った商人が、空いていた荷馬車の荷台に4人を乗せてくれたおかげだった。


 揺れる荷台の上で、ドランはようやく脚を休めることができ、バルドも盾を下ろして左肩の負担を減らした。


 トーマは途中から眠ってしまい、ユウキも何度か意識が遠のきかけた。


 それでも、街の門が見えたときには、胸の奥から安堵が込み上げてきた。


 帰ってきた。


 今度こそ、本当に帰ってこられた。


 門をくぐると、見慣れた街並みが広がっていた。


 夕暮れの市場。


 店じまいを始める商人たち。


 夕食の匂いが漂う路地。


 遠くから聞こえる鍛冶場の金属音。


 そのどれもが、今のユウキにはひどく懐かしく感じられた。


 4人はまず、冒険者ギルドへ向かった。


 黒震狼との遭遇。


 戦闘の経緯。


 討伐した場所。


 そして、森から現れた未知の巨大魔物。


 それらをできる限り正確に報告しなければならなかった。


 受付では、黒震狼の討伐を伝えた瞬間、職員の表情が変わった。


 ユウキたちは別室へ案内され、ギルドの担当者へ詳しい説明を行うことになった。


 黒震狼の死骸は現場に残してきたこと。


 Cランク冒険者たちが負わせていた傷が勝因の1つだったこと。


 未知の巨大魔物については、名前もランクも確認できなかったこと。


 そして、通りかかったBランク冒険者クラトスが、その魔物を追い払ったこと。


 ユウキたちは、覚えている限りの情報を伝えた。


 ギルド側は現場の確認と回収の手配を進めることになり、4人にはまず治療と休養を取るよう指示が出された。


 報酬や討伐の正式な扱いについては、調査が終わってから決まるという。


 ユウキたちはそれに異論を挟まなかった。


 今は、無事に街へ戻れただけで十分だった。


 ギルドを出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 通りには灯りがともり、宿屋や食堂から人々の話し声が聞こえている。


「疲れた……」


 トーマが大きく息を吐いた。


 バルドが苦笑する。


「今日は本当に長い一日だったな」


「長いどころじゃない。もう二度と、あんな戦いは御免だ」


 ドランが言うと、トーマはすぐに頷いた。


「僕も!」


 ユウキは3人を見つめ、静かに笑った。


 全員が生きている。


 今は、それが何より嬉しかった。


 ふと、クラトスの言葉が頭に浮かぶ。


 ――冒険者は、生きて帰ってきて初めて仕事を終えたって言えるんだ。


 ユウキは夜の街並みを見上げた。


 その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。


     ◇◆◇


 翌日。


 十分に休んだあと、ネクシアの4人は小さな食堂へ集まっていた。


 身体にはまだ痛みが残っている。


 バルドの左肩も、ドランの脚も完全には回復していないため、しばらくは無理な依頼を受けないことに決めた。


 テーブルの上には温かいスープと焼きたてのパンが並んでいる。


 トーマはパンをちぎりながら、昨夜から何度も口にしている話題を持ち出した。


「ねえ、やっぱりフレアに行ってみたいよ」


 ドランがスープを飲みながら頷いた。


「わしも興味はある。特に迷宮産の素材だな」


 バルドは腕を組んだ。


「問題は、今すぐ移動できる状況ではないことだ」


「うん。それはわかってる」


 トーマは頷いた。


「でも、目標にするのはいいでしょ?」


 ユウキは静かに微笑んだ。


「僕も、そう思う」


 都市フレア。


 国でも有数の大都市。


 数多くの迷宮。


 珍しい素材と装備。


 そして、まだ見ぬ強い冒険者たち。


 そこには、今まで知らなかった世界が広がっている。


 だが、今の自分たちには、まだやるべきことがある。


 リーヴェルの迷宮。


 これまで何度か浅層を探索し、魔物との戦い方や仲間との連携を学んできた場所だ。


 しかし、その奥にはまだ足を踏み入れていない。


 中層も、深層も、最深部も。


 そこで何が待っているのか、ユウキたちは知らなかった。


 だからこそ、挑戦してみたいと思った。


「まずは、リーヴェルでやるべきことを終わらせよう」


 ユウキが言った。


 トーマが顔を上げる。


「装備の支払い?」


「それもある。ガルドさんにも無事を報告したいし、ギルドの調査がどうなるかも確認しないと」


 バルドが頷いた。


「それに、迷宮を踏破するなら準備も必要だ。今のまま深い階層へ進むのは危険すぎる」


「装備の整備も忘れるなよ」


 ドランが付け加えた。


「深層へ行くなら、今よりもっと準備が必要になるはずだ」


 トーマは少し考えたあと、大きく頷いた。


「わかった! じゃあ、それを全部終わらせてから迷宮へ行こう!」


 ユウキは笑った。


「うん」


 4人の間に、自然と新しい目標が生まれていた。


 それは、誰かに命じられたものではない。


 逃げるためでも、生き延びるためだけでもない。


 自分たちの意思で選んだ、次の目的地だった。


 ユウキは窓の外へ目を向けた。


 朝の光が、リーヴェルの街を照らしている。


 人々が行き交い、店の扉が開き、新しい一日が始まっていた。


 この街で、ユウキは多くのものを得た。


 初めて自分の意思で冒険者として働いた。


 仲間と出会い、共に戦った。


 失敗し、傷つき、何度も恐怖を味わった。


 それでも、少しずつ前へ進んできた。


 かつて灰の鉱山で、ただ生き延びることしか考えられなかった自分とは違う。


 今のユウキには、守りたい仲間がいる。


 自分の意思で選べる道がある。


 そして、どうしても救いたい人がいる。


 リナ。


 その名前を心の中で呼ぶ。


 彼女が今、どこで何をしているのかはわからない。


 無事でいてくれることを願うしかない日々が、これからも続くのだろう。


 それでも、諦めるつもりはなかった。


 必ず強くなる。


 いつか、彼女を救いに行く。


 そのためにも、今は目の前の一歩を大切にしなければならない。


「ユウキ?」


 トーマの声に、ユウキは顔を上げた。


「どうしたの? 急に黙っちゃって」


「ううん。ちょっと考え事をしてただけ」


「フレアのこと?」


 ユウキは少し笑った。


「それもあるかな。でも、まずはリーヴェルの迷宮だよ」


 トーマは嬉しそうに笑った。


「うん! 絶対に踏破しよう!」


 バルドが静かに頷いた。


「焦らず、着実にな」


 ドランも笑みを浮かべる。


「準備を整えてから挑めばいい。それに、奥には珍しい素材が眠っているかもしれん」


 ユウキは3人の顔を見渡した。


 トーマ。


 バルド。


 ドラン。


 この仲間たちとなら、きっとこれからも困難を乗り越えていける。


 そう信じられた。


「みんな」


 ユウキが口を開く。


 3人が顔を向けた。


「まずは、リーヴェルの迷宮を踏破しよう」


 トーマが力強く頷いた。


「もちろん!」


 バルドは静かに笑った。


「ああ。わしらの力でな」


 ドランも頷く。


「そのために、できることから始めよう」


 ユウキは微笑んだ。


 彼らの言葉が、胸の奥へ温かく広がっていく。


 こうして、ネクシアの4人は新たな目標を定めた。


 リーヴェル迷宮の踏破。


 そして、その先に待つ都市フレア。


 まだ見ぬ世界へ続く道が、今、彼らの前に広がり始めていた。


 ユウキは静かに思った。


 これから先、どれほど恐ろしい敵が待ち受けていようとも。


 何度傷つき、立ち止まりそうになったとしても。


 自分は、歩みを止めない。


 大切な人を救う、その日まで。


――第80話 完。


――第二章『辺境の冒険者』完結。

ここまで『奪われた世界で、なお君を救う』をお読みいただき、ありがとうございます。


第80話をもちまして、第二章『辺境の冒険者』は完結となります。


何も持たず、この世界に放り出されたユウキ。


仲間と出会い、戦い、傷つきながらも、少しずつ自分の進むべき道を見つけ始めました。


しかし、彼らの冒険はまだ始まったばかりです。


次なる舞台は、さらなる危険と未知が待ち受ける迷宮。


その奥には何が眠り、ユウキたちは何を手にするのか。


そして、彼が救うと誓った少女へと続く道は、果たして見つかるのでしょうか。


第三章では、これまで以上に激しい戦いと、新たな出会いが彼らを待ち受けます。


――奪われたものを取り戻すために、少年はまた一歩、未知の世界へ踏み出す。


次章『迷宮探索編』も、ぜひ楽しみにしていただけると嬉しいです。


ここまで読んで「続きが気になる」「面白かった」と感じていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると大変励みになります。


これからもユウキたちの旅を、どうぞよろしくお願いいたします。

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