第77話 死線を越える連携
黒震狼の四肢に走った赤い光が、傷ついた筋肉の輪郭を浮かび上がらせた。
次の瞬間、巨体が地面を蹴る。
黒褐色の体毛が風を切り、湿った草地に深い爪痕が刻まれた。負傷した右後脚は十分に伸びきらず、踏み込んだ直後にわずかに姿勢が傾いたものの、強靭な左後脚と両前脚がその不安定さを補っていた。
距離は、およそ7メートル。
ユウキは黒震狼の頭部ではなく、肩と前脚の動きを見つめていた。
右肩がわずかに沈む。
次いで、左前脚が地面を離れた。
狙いは自分の左側。
ユウキは右足を軸に身体を開き、左斜め後方へ下がろうとした。
しかし、黒震狼は途中で頭を振った。
開いた顎がユウキの右肩へ向かって迫り、鋭い牙が昼の光を受けて鈍く輝く。
単純な突進ではない。
逃げる方向まで読んだうえで、噛みつく位置を変えてきたのだ。
「ユウキ、右だ!」
バルドの声が響く。
ユウキは咄嗟に膝を曲げ、身体を低く沈めた。
頭上を巨大な顎が通過し、血の混じった唾液が頬へ飛び散る。生臭い息が鼻を刺した直後、黒震狼の胸が目の前を横切った。
ユウキは剣を振るわなかった。
今、無理に攻撃すれば、巨体との距離が近すぎて刃を振り抜けない。かえって身動きが取れなくなる危険があった。
それよりも、まずは身体を逃がす。
ユウキは右足で地面を強く蹴り、黒震狼の進路から外れた。
黒震狼はそのまま数メートル進み、前脚を突き立てて速度を落とした。
湿った土が抉られ、長い爪痕が斜めに伸びる。
だが、完全に停止するより早く、巨大な尾が横へ振り抜かれた。
「……っ!」
ユウキが尾の動きへ気づいたときには、すでに間合いの内側だった。
黒褐色の尾が腰の高さへ迫る。
剣で受けるには角度が悪い。
ユウキは左腕を身体へ引き寄せ、上体を後方へ反らした。
尾の先端が革鎧の表面を擦り、強い衝撃が脇腹へ伝わる。
身体が横へ流され、右足が地面を滑った。
完全な直撃ではなかった。
それでも、息が詰まるほどの重さだった。
ユウキは数歩よろめきながら、どうにか転倒を免れた。
「ユウキ!」
トーマが叫ぶ。
「大丈夫!」
ユウキは答えたが、脇腹には鈍い痛みが残っていた。
黒震狼はすでに身体を向け直そうとしている。
以前より動きは鈍い。
だが、それでも人間より遥かに大きな身体を持ち、攻撃の届く範囲が広い。
少し避けただけでは、安全な位置へ出られない。
ユウキはその事実を、身体へ刻み込むように理解した。
◇◆◇
「ユウキ、右の草地へ下がれ!」
ドランの声が響いた。
ユウキは顔を向ける。
ドランは北側の土手を指差していた。
採取地の北には、高さ1メートルほどの土手が続いている。その手前には雨水によって削られた浅い溝があり、ところどころに石が露出していた。
普通の人間なら、少し注意すれば通れる場所だ。
しかし、黒震狼ほどの巨体が勢いよく踏み込めば、足場の悪さが動きに影響する可能性がある。
「北側へ誘導するんですね!」
「そうだ。ただし、近づきすぎるな。あの魔物が飛び越えてくることも考えろ!」
ユウキは頷いた。
黒震狼との距離は、およそ10メートル。
バルドは中央で盾を構え、トーマは右側へ回り込んでいる。
ドランはさらに後方、土手の手前で周囲の地形を調べていた。
黒震狼は4人を見渡しながら、鼻先を低く構えた。
口元から流れる血が、草の葉を赤黒く染めている。
左前脚は傷ついており、右後脚も十分に踏ん張れない。
それでも、黄色い瞳には衰えない鋭さがあった。
ユウキは剣を構え直した。
今度は、自分から不用意に踏み込まない。
黒震狼の注意を引きつけながら、少しずつ北側へ移動する。
黒震狼はその動きへ視線を向けた。
しかし、すぐには追わなかった。
魔物はバルドの盾を見て、次にトーマの双短剣を確認する。
そして、後方で何かを調べているドランへ目を向けた。
ユウキは嫌な予感を覚えた。
この魔物は、ただ目の前の敵へ突進するだけではない。
誰が最も危険なのか。
誰が動けなくなれば、自分に有利になるのか。
そうしたことまで判断しているように見える。
「……ドランさん、狙われるかもしれません!」
ユウキが声を上げる。
「ああ、わかっておる!」
ドランは技工鎚を握り直し、土手から少し離れた位置へ移動した。
その瞬間、黒震狼が地面を蹴った。
狙いはドラン。
ユウキはすぐに走り出そうとしたが、今度はバルドが先に動いた。
「わしが止める!」
バルドは盾を前へ構え、黒震狼の進路へ斜めに踏み込んだ。
ただし、真正面から受け止めようとはしなかった。
黒震狼が近づく直前、盾の上端を右へ傾け、身体の重心を左足へ移す。
巨大な肩が盾へ接触した。
鈍い衝撃音が響き、バルドの左腕が大きく押し込まれる。
盾の縁が黒震狼の体毛を擦り、その巨体をわずかに右へ逸らした。
しかし、相手の勢いは完全には止まらない。
バルドの靴底が湿った地面を滑り、身体が数十センチ押し戻された。
肩へ強い衝撃が走る。
骨が軋むような痛みを感じたが、バルドは歯を食いしばって踏みとどまった。
「……ぐっ!」
黒震狼は盾へ押しつけた肩を引き、今度は牙でバルドの腕を狙おうとした。
だが、その動きへ移る前に、右側から小さな影が飛び込んできた。
トーマだった。
彼は黒震狼の視線がバルドへ向いている隙に、右斜め後方から接近していた。
狙いは傷ついた右後脚。
ただし、深く踏み込めば尾の攻撃を受ける可能性がある。
トーマは身体を低く保ち、後脚の外側へ回り込んだ。
そして、左手の短剣を前へ突き出す。
刃は黒震狼の後脚へ入り、すでに傷ついていた部分をさらに切り裂いた。
「グルルァッ!」
黒震狼が身体を大きく震わせる。
その瞬間、トーマは右手の短剣を引き寄せ、続けて攻撃しようとした。
だが、魔物の尾が動くのを見て、すぐに判断を変えた。
右足を後ろへ引き、身体を斜めにして距離を取る。
直後、巨大な尾が目の前を横切った。
もし一撃に固執していれば、まともに受けていただろう。
トーマは荒く息を吐きながら後退した。
「……危なかった!」
しかし、その攻撃によって黒震狼の右後脚はさらに悪化した。
魔物は身体を向け直そうとしたが、後脚が十分に地面を蹴れず、肩の位置がわずかに下がった。
バルドはその隙を見逃さなかった。
盾を構えたまま身体を捻り、右手の片手斧を低い位置から振り上げる。
狙いは、左前脚の付け根。
刃が傷口の周囲へ入り、黒震狼の体毛を切り裂いた。
だが、深くは届かなかった。
魔物が肩を引き、斧の軌道を外したのだ。
バルドは無理に追撃せず、すぐに盾を前へ戻した。
黒震狼は低く唸りながら、数歩後退した。
その呼吸は、先ほどよりさらに荒くなっていた。
◇◆◇
「……今のうちに、北側へ!」
ドランが叫んだ。
ユウキは頷き、黒震狼の注意を引くために前へ出た。
剣を構えたまま、相手との距離を保つ。
黒震狼は傷ついた右後脚へ体重をかけることを避け、左後脚を中心に身体を支えていた。
そのため、右側へ方向転換するときには一度前脚を踏み替える必要がある。
ユウキはそこへ目をつけた。
自分が魔物の左側へ移動すれば、相手は右側へ身体を向け直すことになる。
その動きが遅れるなら、仲間たちが次の位置へ移動する時間を作れる。
ユウキは少しずつ左へ回り込んだ。
黒震狼の頭部が追う。
大きな前脚が動き、巨体がゆっくりと向きを変える。
だが、その途中で右後脚がわずかに滑った。
ユウキはすぐに後退し、無理に間合いへ入らなかった。
黒震狼は低く唸りながら、こちらを睨みつけている。
「……そうだ。そのまま」
ユウキは小さく呟いた。
北側の土手まで、あと数メートル。
その手前には浅い溝があり、湿った土が露出している。
黒震狼が勢いよく踏み込めば、足を取られるかもしれない。
だが、相手も地形を見ているはずだ。
単純に誘導しただけで、狙いどおりに動くとは限らない。
ユウキは剣を構え直し、わずかに前へ踏み込んだ。
黒震狼の耳が動いた。
黄色い瞳が、ユウキの剣先を追う。
次の瞬間、魔物の右前脚へ灰色の光が集まり始めた。
ユウキの表情が変わる。
――また、地面への衝撃。
「……みんな、注意して!」
ユウキが叫ぶ。
黒震狼は前脚を振り上げた。
その動作は、以前より明らかに遅い。
しかし、灰色の光は確かに爪の周囲へ集まっている。
ユウキはすぐに後方へ跳ぼうとした。
だが、その瞬間、黒震狼の動きが変わった。
前脚を地面へ叩きつける直前、魔物は身体を大きく捻ったのだ。
灰色の光が集まった前脚は、そのまま地面へ向かって振り下ろされる。
しかし、狙いはユウキではなかった。
土手の手前に立っていたドラン。
地面へ伝わる衝撃を、ドランの足元へ向けようとしていた。
「……ドランさん!」
ユウキは叫んだ。
だが、間に合わない。
黒震狼の前脚が地面へ叩きつけられた。
ドンッ!
鈍い音が響き、衝撃が土の下を伝わる。
ドランはすぐに身体を低くし、足元の振動へ備えた。
しかし、地面は予想以上に大きく揺れた。
湿った土が崩れ、靴底が滑る。
「……ぐっ!」
ドランは片膝をつき、技工鎚を地面へ突き立てた。
それでも、身体のバランスが崩れている。
黒震狼はその様子を確認すると、すぐに身体を低く構えた。
赤い光が四肢へ集まる。
傷ついた脚が震えている。
それでも、魔物は加速しようとしていた。
ユウキは息を呑んだ。
また、ドランを狙っている。
前回の攻撃と同じだ。
衝撃で動きを止め、最も逃げにくい相手へ突進する。
この魔物は、まだ戦い方を変えられる。
負傷していても、知能は衰えていないのだ。
ユウキは剣を握り直した。
だが、先ほどのように二段斬りで割り込むには、距離が遠すぎる。
ここからドランまで、およそ9メートル。
黒震狼はその半分ほどの距離にいる。
普通に走っただけでは間に合わない。
そのとき、バルドが動いた。
「……ドラン!」
バルドは盾を構えたまま走り、ドランの前へ出ようとした。
しかし、黒震狼の方が早い。
赤い光が強く揺れ、巨体が地面を蹴った。
バルドは咄嗟に盾を前へ構えた。
まともに受け止めれば、身体が持たない。
それでも、ここで退けばドランが襲われる。
バルドは覚悟を決め、足を踏ん張ろうとした。
その瞬間だった。
「……バルドさん、左へ!」
トーマの声が響いた。
バルドは反射的に左へ身体を動かした。
同時に、トーマが黒震狼の右後方から飛び込んだ。
双短剣を低く構え、傷ついた後脚へ向かって踏み込む。
そのまま、武技を発動した。
「双牙突き!」
左右の短剣へ魔力が集まり、鋭い二連撃が放たれる。
最初の一撃が右後脚の外側へ入り、続く二撃目が関節の近くを深く切り裂いた。
黒震狼の身体が大きく傾いた。
加速しようとしていた右後脚が、完全に力を失ったのだ。
「グルァァァッ!」
苦痛の咆哮が響く。
巨体は横へ流れ、バルドの盾へ肩をぶつけた。
重い衝撃がバルドの左腕を襲う。
だが、あらかじめ左へ身体を動かしていたため、真正面から受けることは避けられた。
バルドは盾を斜めへ傾け、魔物の肩を右側へ流す。
黒震狼は勢いを止められず、土手の手前にある浅い溝へ踏み込んだ。
前脚が湿った土へ沈み込む。
そのまま巨体が大きく傾き、右肩から地面へ崩れ落ちた。
泥が跳ね上がり、周囲の草が押し潰される。
トーマは双短剣を引き抜くと同時に後方へ跳んだ。
着地した瞬間、膝がわずかに折れた。
魔力を消費した感覚が、身体の奥へ残っている。
だが、まだ動ける。
「……やった!」
トーマが叫ぶ。
しかし、ユウキはすぐに首を横に振った。
「……まだだ!」
黒震狼の前脚が動いた。
巨体がゆっくりと持ち上がり、泥に濡れた頭部がこちらへ向けられる。
黄色い瞳は、まだ死んでいなかった。
◇◆◇
黒震狼の呼吸は、明らかに限界へ近づいていた。
左前脚と右後脚には深い傷。
胸元と脇腹からも血が流れ、地面には赤黒い跡が広がっている。
それでも、魔物は立ち上がろうとしていた。
右前脚を地面へ突き立て、左後脚へ力を込める。
身体が持ち上がる。
だが、右後脚が動かず、再び肩が沈んだ。
黒震狼は喉の奥から低い唸り声を漏らした。
その声には、先ほどまでの威圧感だけではない、苦痛と焦燥が混じっていた。
ユウキは剣を構えたまま、相手の様子を見つめた。
今なら、倒せるかもしれない。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
だが、すぐにその考えを振り払った。
相手はランク3の上位魔物だ。
瀕死に近いとはいえ、まだ強力な技能を使える。
ここで不用意に近づけば、最後の一撃を受ける可能性がある。
「……みんな、距離を取って!」
ユウキは声をかけた。
バルドは盾を構え直し、トーマも後退する。
ドランはようやく足の痺れが落ち着いてきたらしく、技工鎚を支えに立ち上がった。
「……すまん。何度も狙われてしまった」
「謝らないでください!」
ユウキは即座に答えた。
「ドランさんが地形を教えてくれたから、ここまで誘導できたんです!」
ドランは一瞬だけ目を見開き、やがて小さく笑った。
「……そうか」
バルドも頷いた。
「わしらは4人で戦っておる。誰か1人の失敗ではない」
トーマが笑った。
「そうだよ! それに、まだ終わってないんだから!」
ユウキは頷いた。
黒震狼はゆっくりと立ち上がった。
右後脚はほとんど動かず、左前脚も深く傷ついている。
それでも、巨大な牙と右前脚にはまだ力が残っていた。
ユウキは周囲を見渡した。
北側には土手。
その手前には、黒震狼が踏み込んだ浅い溝がある。
南側には草地が広がり、その先に街道へ戻る道が続いている。
東側には雑木林。
西側には、低い丘がある。
この地形の中で、黒震狼が最も動きにくいのはどこか。
ユウキは考えた。
正面から斬り合えば、まだ勝てない。
だが、傷ついた脚を利用して動きを制限すれば、攻撃を当てる機会は増える。
問題は、その先だった。
黒震狼の体力がどれほど残っているのか、鑑定ではわからない。
何度斬れば倒れるのか。
どれだけ魔力が残っているのか。
どの技能を、あと何回使えるのか。
何も確信できない。
だからこそ、慎重に戦わなければならなかった。
「……ドランさん」
ユウキが声をかけた。
「何だ?」
「この土手、もし黒震狼がぶつかったら崩れますか?」
ドランは地面を見つめた。
雨によって緩んだ土。
ところどころに露出した石。
さらに、黒震狼が先ほど踏み込んだことで、溝の一部が崩れている。
「……可能性はあるな。ただし、どのくらい崩れるかはわからん」
「それでも、足場を悪くすることはできますよね?」
「ああ。うまく誘導できればな」
ユウキは頷いた。
黒震狼の右後脚は、ほとんど機能していない。
左前脚も傷ついている。
これ以上、足場の悪い場所で動かすことができれば、さらに動きを制限できるかもしれない。
しかし、相手もそれを理解している可能性がある。
簡単には誘導されないだろう。
ユウキは剣を握り直した。
「……もう一度、やってみましょう」
トーマが顔を上げる。
「……何を?」
「黒震狼を、土手の方へ動かすんだ。正面から倒すんじゃなくて、足場を利用して動きを止める」
バルドは少し考えたあと、頷いた。
「……なるほど。わしが注意を引こう」
「僕は右側から回り込むよ」
トーマが続ける。
ドランも技工鎚を握り直した。
「わしは土手の状態を確認する。崩せる場所があれば、道具を使って補助できるかもしれん」
ユウキは仲間たちを見渡した。
全員が疲れている。
武器を握る手にも、わずかな震えが見える。
それでも、誰も諦めていなかった。
ユウキは静かに息を吸った。
「……お願いします」
4人は、それぞれの位置へ動き始めた。
黒震狼は低く唸りながら、その動きを追っている。
黄色い瞳が、ユウキへ向けられた。
その視線には、明らかな敵意が宿っていた。
ユウキは剣を構え直した。
恐怖は消えていない。
むしろ、戦いが続くほど強くなっている。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
仲間を守るために。
生き残るために。
そして、いつかリナを救いに行くために。
ユウキは黒震狼を見据えた。
巨体がゆっくりと身体を低く構える。
右前脚が地面を掻き、残された力を振り絞るように筋肉が盛り上がった。
その背中へ、淡い赤い光が再び走り始める。
ユウキは剣先を向けたまま、仲間たちの位置を確認した。
次の一撃で、すべてが決まるかもしれない。
あるいは、誰かが命を落とすかもしれない。
その恐怖を胸に抱えながらも、ユウキは一歩前へ踏み出した。
――第77話 完。




