第76話 再び交わる運命
鉄火の槌の扉を押し開けると、熱を含んだ空気がユウキの頬を撫でた。
店の奥では炉が赤々と燃え、燃料が弾ける乾いた音に混じって、鉄を打つ槌の音が響いている。壁には長剣や手斧、補修を待つ盾が並び、作業台の周囲には削り出された金属片が散らばっていた。何度も訪れた場所なのに、鍛冶場特有の匂いを嗅ぐたび、ユウキは少しだけ背筋が伸びる。
炉の前に立つガルドは、赤く熱した金属を金床の上で叩いていた。
力任せに見えるその動きには無駄がなく、槌が落ちるたびに鉄の形が少しずつ変わっていく。ユウキたちの気配に気づいたらしいが、ガルドはすぐには振り返らず、決めていたところまで槌を打ち終えてから金属を炉へ戻した。
「おう。ずいぶんと顔色がいいじゃねえか」
振り返ったガルドが、4人を順番に見渡した。
「西の村からは帰ってきたんだろうな?」
「はい。昨日、ギルドへの報告も終わりました」
ユウキが答えると、ガルドは安堵を隠すように鼻を鳴らした。
「そうか。なら、まずは武器を見せてみろ」
言われるまま、ユウキは腰から軽量片手剣を外して差し出した。
ガルドは鞘から半分ほど刃を抜き、炉の明かりへかざす。刃先に視線を走らせ、指の腹で慎重に刃の側面を確かめると、小さく頷いた。
「刃こぼれはほとんどねえな。ただ、ここに少し擦れた跡がある。硬いものを斬ったか?」
「はい。鎧牙猪という魔物と戦って、前脚を狙ったんです。でも、ほとんど刃が通らなくて」
その名前を聞いた瞬間、ガルドの手が止まった。
「……鎧牙猪だと?」
ユウキは西の村で起きた出来事を説明した。
畑を荒らしていた牙猪の群れ、その奥から現れた一回り大きな鎧牙猪。ランク2の強化魔物であり、通常の牙猪よりも遥かに厚い皮膚と強靭な身体を持っていたこと。
正面から倒すことは難しいと判断し、用水路や石垣を使って進路を変え、村へ向かわせずに森へ退かせたことも伝えた。
ガルドは話を聞き終えると、剣を鞘へ戻した。
「お前ら、よく無事だったな」
「……危ない場面はありました」
「だろうよ。ああいう重い魔物は、剣の切れ味が少しくらい良くなったところで簡単には倒せねえ。特に皮膚を硬くする技能を持ってるなら、真正面から斬り合うのは分が悪い」
そう言いながら、ガルドは剣をユウキへ返した。
「だが、無理に討伐を狙わなかったのは正解だ。依頼を達成して、全員で帰ってきた。それが一番大事なんだよ」
ユウキは剣を受け取り、深く頷いた。
続いて、バルドが新しい軽量複合盾を差し出した。
盾の表面には斜めに走る擦過痕がいくつか残っていたが、以前の盾のように木材の内部が割れたり、金属の補強が歪んだりした様子はない。
ガルドは盾を傾け、縁の留め具を確認した。
「こっちはずいぶん使い込んだな」
「牙猪の突進を何度か受け流した。盾を正面へ固定するより、少し角度をつけた方が衝撃を逃がしやすかった」
「そりゃそうだ。盾ってのは、何でも真正面から受け止める道具じゃねえからな。特に体重差のある相手なら、攻撃を横へ流すだけでも生き残れる可能性は上がる」
ガルドは満足そうに頷き、盾を返した。
トーマの双短剣も確認すると、左右の刃を並べて眺めてから、柄の握り方を簡単に指導する。
ドランの技工鎚については、互いに工具の扱いや重心の違いを話し始め、しばらく2人だけで会話が続いた。
ユウキはそんな様子を見て、自然と笑みを浮かべていた。
かつて、自分は与えられた道具を使い潰すことしか知らなかった。
灰の鉱山では、壊れた道具を交換してもらうことすら簡単ではなかったし、身体に合うものを選ぶという発想自体がなかった。
今は違う。
自分の手に合うよう調整された剣があり、その剣を作った人間が、使い心地を気にかけてくれている。
それはユウキにとって、決して当たり前のことではなかった。
「ガルドさん」
「あん?」
「今回の報酬から、少し返済したいんです」
ガルドの眉がわずかに上がった。
「もう返すのか?」
「全部は無理ですけど……。とりあえず、僕の分を銀貨1枚だけ」
ユウキは財布から銀貨を取り出した。
西の村の護衛依頼では、4人で銀貨8枚の報酬を受け取った。そのうち銀貨2枚を共同資金へ回し、残りを均等に分けたため、ユウキの取り分は銀貨1枚と半分だった。
宿代や食費も必要だが、以前から手元に残していたお金を含めれば、銀貨1枚を返しても当面の生活には支障がない。
ガルドは差し出された銀貨を見てから、ユウキの顔へ視線を戻した。
「飯代まで削ってねえだろうな?」
「はい。それは大丈夫です」
「だったら受け取っておく」
ガルドは銀貨を受け取り、作業台の端に置いていた帳面を開いた。
ユウキの軽量片手剣は銀貨3枚。
今回の返済で、残りは銀貨2枚になる。
トーマの双短剣と軽量革鎧、ドランの技工鎚は、まだそれぞれ後払いのままだ。
ネクシア全体で残る未払い額は、銀貨11枚となった。
「よし、記録したぞ」
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、全部払い終えてからにしろ。それより、変な魔物に出くわしても、自分が勝てると思い込むなよ」
少し厳しい声だったが、その奥には心配が滲んでいた。
ユウキは深く頭を下げた。
「はい。必ず、みんなで帰ってきます」
ガルドは短く頷いたあと、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういや、東の森でまた騒ぎがあったらしいな」
バルドが盾を背負い直す手を止めた。
「東の森?」
「ああ。今朝、ギルドの使いが装備の補修を頼みに来た。Cランクの連中が大きな魔物と戦ったそうだ」
その瞬間、ユウキの胸の奥が強くざわついた。
東の森。
大型の魔物。
Cランク冒険者との交戦。
思い浮かんだのは、黒褐色の巨大な狼だった。
「……それって、黒い狼の魔物ですか?」
「そこまでは聞いてねえ。ただ、東部街道の警戒が強まってるって話だ。お前らも、あの辺りには近づくなよ」
ユウキは頷いた。
あの魔物がまだ生きていることは知っていた。
けれど、Cランク冒険者たちが再び交戦したという話を聞くと、森で味わった恐怖が鮮明に蘇る。
赤い光を帯びた巨体が、一瞬で間合いを詰めてくる。
足元を揺らす衝撃。
抵抗しても届かなかった剣。
何より、仲間が傷ついていくのを見ながら、自分にはほとんど何もできなかった無力感。
ユウキは無意識に剣の柄へ手を添えていた。
「……ユウキ?」
隣でトーマが顔を覗き込んだ。
「あ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」
「……あいつのこと?」
ユウキは小さく頷いた。
トーマは一度だけ唇を結び、それ以上は何も聞かなかった。
忘れられないのは、自分だけではないのだろう。
◇◆◇
鉄火の槌を出た4人は、その足で冒険者ギルドへ向かった。
西の村で回収した魔石の査定が終わっているはずだったからだ。
ギルドの建物へ入ると、普段よりざわついた空気が漂っていた。依頼掲示板の前には数人の冒険者が集まり、貼り出された地図を指差しながら声を潜めて話し合っている。
地図の東側には、赤い線で囲まれた区域があった。
その周辺には、街道の通行を控えるよう求める注意書きが添えられている。
「Cランクが交戦したって、本当なのか?」
「本当らしい。けど、討伐したって話はまだ聞いてねえな」
「深手を負わせたって噂もあるぞ」
「そんな魔物が逃げ回ってるなら、余計に危険じゃねえか」
聞こえてくる会話に、ユウキは思わず足を止めた。
トーマも掲示板を見上げている。
「……やっぱり、あの狼なのかな」
「わからないけど、可能性は高いと思う」
ユウキが答えると、バルドが2人の肩越しに掲示板を確認した。
「噂に振り回されるな。まずはギルドの職員に聞こう」
受付へ向かうと、いつもの女性職員がユウキたちに気づいた。
「ネクシアの皆さんですね。魔石の査定が終わっていますよ」
職員は帳面を開き、回収品の一覧を示した。
街道で討伐した小鬼3体。
西の村で倒した牙猪2体。
いずれもランク1の下級魔物から得た魔石で、大きさには個体差があったものの、すべて買い取り可能な状態だった。
「合計で銀貨1枚と銅貨数枚になります」
「おお、思ったより高いね!」
トーマが嬉しそうに声を上げた。
ドランは査定書を確かめ、帳面へ金額を書き込む。
「これは共同資金へ入れておこうか。今後の補修費や道具の購入に使える」
全員が同意すると、ドランは代金を受け取り、袋の口を丁寧に結んだ。
これで共同資金は、これまでの銀貨3枚に買い取り代金を加えた額になった。
職員は手続きを終えたあと、少しだけ表情を引き締めた。
「それから、皆さんにはお伝えしておきたいことがあります」
「……東の森の件ですか?」
ユウキが尋ねると、職員は驚いたように目を瞬かせた。
「もう聞かれたんですね」
「詳しいことは、まだ……」
「それなら、改めて説明します。東部街道付近で目撃されていた大型魔物と、Cランク冒険者たちが再び交戦しました」
4人の間に緊張が走る。
「魔物はかなりの負傷を負って逃走したと報告されています。ただし、討伐の確認は取れていません」
「……逃げたんですか?」
トーマが尋ねた。
「はい。逃走した方向についても、完全には特定できていません。そのため、ギルドでは東部街道周辺の警戒を継続しています」
ユウキは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
深手を負っているのなら、以前より弱っているはずだ。
しかし、それが安全を意味するわけではない。
傷ついた動物は、逃げ道を塞がれれば激しく抵抗する。
まして相手は、通常の魔物より遥かに知能の高い黒震狼かもしれない。
「皆さんは、以前その魔物と思われる個体と遭遇していますよね」
職員が続けた。
「当面は東部街道だけでなく、森に近い場所へ立ち入る際も十分注意してください。安全とされる地域でも、異変を感じたらすぐ引き返してください」
バルドが頷く。
「承知した。無理をするつもりはない」
ユウキも頭を下げた。
「ありがとうございます。気をつけます」
ギルドを出ると、4人は広場の端で次の予定を話し合った。
西の村での護衛と戦闘を終えたばかりでもあり、その日は無理に依頼を受けず、装備の手入れと休息に充てることにした。
翌日以降も高難度の討伐は避け、街から離れすぎない採取依頼を中心に活動する。
それが、4人の出した結論だった。
ユウキは空を見上げた。
夕方の光を受けた雲が、ゆっくりと西へ流れている。
平穏な街の様子を眺めていると、森の奥で何が起きているのかを一瞬忘れそうになる。
けれど、ユウキは知っていた。
城壁の外では、こうした穏やかな時間がどれほど簡単に奪われるのかを。
◇◆◇
翌朝、ネクシアはリーヴェル北側の採取地へ向けて出発した。
今回の依頼は、治療薬の材料になる薬草と、簡単な加工に使用する植物の採集だった。危険度は高くなく、ギルドでも比較的経験の浅い冒険者へ紹介している仕事だという。
目的地は街の北門から伸びる街道沿いにあり、東部街道の警戒区域とは離れている。
とはいえ、森へ入らずに済むよう、採取範囲は事前に決めていた。
ドランが持つ地図には、街道から西へ少し入った場所に小さな草地が記されている。北側には緩やかな丘陵が続き、東側には雑木林が広がっていた。
ユウキたちは北門を出ると、荷車が2台すれ違えるほどの幅がある街道を歩いた。
道の左右には背の低い草が広がり、雨上がりの土からは柔らかな匂いが漂ってくる。ところどころに残る水たまりは朝日を映し、丘の斜面では小鳥が枝から枝へ飛び移っていた。
「今日は気持ちいいね!」
トーマが両腕を伸ばした。
「昨日までの疲れも、少し取れた気がする」
「油断するなよ。採取地まで行って帰るのも依頼のうちだ」
バルドが注意すると、トーマは笑いながら頷いた。
「わかってるって!」
そのやり取りを聞きながら、ユウキも小さく笑った。
こうして仲間と歩く時間が、いつの間にか好きになっていた。
灰の鉱山にいた頃は、明日のことを考える余裕すらなかった。目を覚ませば重い道具を持たされ、命令に従って働き、倒れないことだけを考えて一日を過ごしていた。
今は、自分の足で行き先を選べる。
仲間と相談し、依頼を受け、報酬を得て生活している。
たとえそれが危険と隣り合わせの日々であっても、自分の意思で歩けることには意味があった。
ただ、その自由を実感するたび、ユウキの胸には別の思いも浮かぶ。
リナ。
帝国に残してきた少女。
彼女は今も、自分の知らない場所で苦しんでいるかもしれない。
助けに行きたい。
その気持ちは、時間が経っても少しも薄れていなかった。
けれど、焦って命を落とせば何もできなくなる。
今は強くなること。
そして、仲間たちと生き残ること。
ユウキは腰の剣へ触れながら、そう自分に言い聞かせた。
採取地へ到着したのは、昼前だった。
草地は街道からおよそ100メートルほど離れた場所にあり、南側にはなだらかな丘、北側には低い土手が続いている。
東側には雑木林が広がっていたが、草地との間には背丈の低い灌木が生えており、直接森へ入らなくても採取できる場所だった。
ドランは地図を畳み、周囲を見渡した。
「この辺りだな。薬草は日当たりのいい場所に多いはずだ」
トーマは早速、足元の植物を調べ始めた。
「あ、これかな?」
ユウキも隣へしゃがみ込む。
細長い葉が根元から何枚も伸び、その中心に小さな白い花がついていた。
ドランは葉を1枚持ち上げ、裏側を確かめる。
「そうだ。ただし、似た植物があるから気をつけろ。葉の縁に細かな切れ込みがある方が目的の薬草だ」
「なるほど」
ユウキは教えられた特徴を確認し、根を傷つけないよう土を少しずつ崩した。
採取した薬草は布袋へ入れ、潰れないよう重ねていく。
トーマは軽い足取りで周囲を移動し、薬草の多い場所を探していた。
バルドは少し離れた場所で盾を背負い、森の方向へ身体を向けている。
ドランは採取した植物を確認しながら、必要な分量を帳面へ記録していた。
作業は順調だった。
風は穏やかで、周囲には小鳥の声が聞こえている。
ユウキは久しぶりに、戦いを意識せず手を動かすことができていた。
だからこそ、最初の異変はひどく不自然に感じられた。
◇◆◇
薬草の根元へ指を伸ばした瞬間、ユウキの鼻先を奇妙な匂いがかすめた。
湿った草の青臭さとは違う。
錆びた鉄を水に浸したような、重く生臭い匂いだった。
ユウキは手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
風は東側の雑木林から吹いている。
その方向へ意識を向けると、匂いがさらに濃くなった。
血だ。
それも、わずかに傷を負った程度ではない。
大量の血が、どこかで流れている。
嗅覚強化によって捉えた匂いの奥には、獣特有の強い体臭が混じっていた。
ユウキの胸が、不意に締めつけられた。
覚えがある。
あの匂いを、以前にも嗅いだことがあった。
「……みんな、少し待って」
ユウキが声をかけると、トーマは採取袋を持ったまま顔を上げた。
「どうしたの?」
「血の匂いがする。東の森の方から」
ドランはすぐに作業を止め、採取した薬草を袋へ収めた。
バルドも一歩前へ出て、森の縁を確かめる。
「どのくらい近い?」
「……まだわかりません。でも、かなり強い匂いです」
ユウキは慎重に息を吸った。
風向きが変わるたび、鉄臭い匂いが濃くなったり薄くなったりする。
その中に、ほかとは違う特徴があった。
獣臭に混じる、湿った毛皮と土の匂い。
記憶の奥に刻まれた感覚が、少しずつ形を持ち始める。
まさか。
そんなはずはない。
ここは東部街道から離れた北側の採取地だ。
ギルドでも、比較的安全な地域だと説明されていた。
それでも、嫌な予感は消えなかった。
「……ここを離れましょう」
ユウキが言うと、バルドは迷わず頷いた。
「賛成だ。匂いの正体を確かめる必要はない」
ドランも荷物をまとめながら答えた。
「街道へ戻ろう。まだ何も起きていないうちに距離を取るべきだ」
4人は採取袋を持ち、来た道へ向かおうとした。
そのとき、雑木林の奥で枝が折れる音が響いた。
乾いた小枝が踏み砕かれたような、小さな音だった。
しかし、そのあとに続いた足音は違った。
重い。
何か大きなものが、地面を引きずるように進んでいる。
間隔は不規則で、数歩進んでは止まり、またゆっくりと動き出していた。
トーマが顔を青くした。
「……何かいる」
バルドはすぐに盾を左腕へ装着した。
「全員、下がれ。森に背を向けるな」
ユウキは剣の柄を握った。
鼓動が速くなっていく。
血の匂い。
重い足音。
そして、風に混じるあの獣臭。
記憶の中で、すべてが1つにつながった。
茂みが揺れた。
最初に見えたのは、黒褐色の体毛だった。
続いて、異様なほど発達した肩と、地面を擦る長い前脚が現れる。
巨大な頭部が灌木を押し分け、その口元から鋭い牙が覗いた。
黄色い瞳が、草地を見渡す。
ユウキは息を止めた。
間違えるはずがなかった。
黒震狼。
かつてネクシアの4人を死の淵へ追い込んだ、ランク3の上位魔物だった。
「……嘘だろ」
トーマの声が震えた。
黒震狼は森の縁からゆっくりと歩み出てきたが、その動きには以前のような力強さがなかった。
左前脚の付け根から肩にかけて、体毛が血で固まっている。胸元には幾筋もの斬り傷が走り、呼吸のたびに傷口の周囲が不自然に動いた。
右脇腹にも深い裂傷があり、地面へ落ちた血が草の葉を赤黒く染めていた。
以前から傷ついていた右後脚はさらに悪化しているらしく、足先を置くたびに身体が傾く。
それでも、その巨体は圧倒的だった。
ユウキの身長を超えるほどの大きな肩。
人間の腕ほどもある太い前脚。
そして、相手の肉を容易に引き裂けそうな牙。
これほど負傷していても、目の前に立たれるだけで身体が強張る。
ユウキは本能的に理解した。
弱っている。
それは間違いない。
しかし、だからといって勝てるとは限らない。
むしろ、追い詰められた魔物が何をするのか、誰にもわからなかった。
ユウキは剣を抜く前に、鑑定へ意識を集中した。
以前は通用しなかった。
それでも、今なら負傷によって何かが変わっているかもしれない。
――鑑定。
視界の中に淡い光が浮かび上がる。
だが、現れた文字は以前と同じだった。
【鑑定結果】
対象の詳細情報を取得できません。
鑑定Lv.2では、対象の情報を解析できません。
ユウキは唇を噛んだ。
やはり、駄目だった。
相手の能力も、残された体力も、正確にはわからない。
ただ、目の前の傷だけが、この魔物が激しい戦闘を生き延びてきたことを物語っている。
「……みんな、ゆっくり下がろう」
ユウキは小声で言った。
バルドが盾を構えたまま頷く。
「そうだな。まだ距離はある」
黒震狼との間隔は、およそ20メートル。
4人の背後には草地が続き、その先に街道へ戻る緩やかな坂がある。
途中に大きな障害物はなく、足元も比較的平坦だ。
ただし、黒震狼が赤い加速能力を使えば、20メートルなど安全な距離とは言えない。
全員が一斉に背を向ければ、その瞬間に襲われる可能性があった。
バルドが前方で盾を構え、ユウキとトーマが左右を警戒する。
ドランは一歩後ろで採取袋を地面へ置き、技工鎚へ手を添えた。
4人は互いに間隔を保ちながら、少しずつ後退を始めた。
黒震狼は動かなかった。
黄色い瞳だけが、ユウキたちを追っている。
鼻先が持ち上がり、血に濡れた口元がわずかに開いた。
次の瞬間、低い唸り声が響いた。
ユウキの背中へ冷たい汗が流れる。
黒震狼の視線が、ユウキの顔から腰の剣へ移った。
そして、再び顔を見た。
獣が何を考えているのか、ユウキにはわからない。
それでも、あの黄色い瞳に見覚えがあるような気がした。
倒木の陰からこちらを見つめていた、あの日の視線。
傷つけられた脚を庇いながら、それでも追撃してきた魔物。
ユウキの喉が乾いた。
そのとき、黒震狼の右前脚が地面を掻いた。
肩の筋肉が収縮し、背中の毛が逆立つ。
四肢へ淡い赤い光が走り始めた。
「……来る!」
ユウキの声が草地へ響いた。
◇◆◇
黒震狼が地面を蹴った。
右後脚は負傷のため十分に伸びきらず、最初の踏み込みで巨体がわずかに傾いた。それでも、発達した前脚と残る後脚が地面を押し出し、傷ついた身体を前方へ運ぶ。
赤い光が筋肉の動きに合わせて揺れ、魔物の速度が急激に上がった。
ユウキの目には、黒褐色の巨体が一瞬で大きくなったように見えた。
最初の狙いはトーマだった。
黒震狼は4人の左側へ進路を取り、前方のバルドを避けるように走ってくる。
「トーマ、右へ!」
ユウキが叫ぶより早く、トーマは動いていた。
左足で地面を蹴り、身体を右斜め後方へ滑らせる。
その直後、黒震狼の左前脚がトーマのいた場所へ叩きつけられた。
鋭い爪が土を抉り、湿った草が根元から引き裂かれる。
トーマは着地と同時に双短剣を構えたが、反撃には踏み込まなかった。
相手の前脚が自分の目の前を通過したとき、その太さと速度をはっきり見ていたからだ。
あの一撃を受ければ、軽い革鎧では防ぎきれない。
黒震狼はトーマを追おうとして身体を捻った。
しかし、右後脚が十分に地面を蹴れず、巨体が外側へ流れた。
鋭い爪が土へ食い込み、ようやく停止する。
その隙に、バルドが前へ出た。
「トーマ、距離を取れ!」
「わかった!」
トーマは横へ回り込みながら、黒震狼の動きを見つめた。
前回とは違う。
以前は反転するときもほとんど速度が落ちなかったが、今は傷ついた右後脚が明確な負担になっている。
それでも、動きの鈍った脚だけを狙えばよいほど単純な相手ではない。
ユウキは慎重に距離を保った。
黒震狼は大きく息を吐き、身体を低く構えた。
胸の傷が開き、体毛を伝って新しい血が落ちる。
その痛みを感じているはずなのに、黄色い瞳はバルドの盾と、左右へ分かれたユウキとトーマを交互に見ていた。
まるで、次に誰を狙うべきか考えているようだった。
黒震狼の右前脚へ、灰色の光が集まり始める。
それを見た瞬間、ユウキの記憶が鮮明に蘇った。
地面を伝わる衝撃。
前回の戦いで、仲間たちの体勢を崩したあの能力。
「足元に気をつけて! 衝撃が来る!」
ユウキが叫ぶ。
バルドは膝を曲げ、重心を低くした。
トーマはいつでも跳べるようにつま先へ体重を移し、ドランも技工鎚を身体の近くへ引き寄せた。
黒震狼が前脚を振り上げた。
その動作は以前より遅い。
しかし、灰色の光は確かに爪の周囲へ集まっていた。
次の瞬間、巨大な前脚が地面へ叩きつけられる。
鈍い音が草地に響いた。
衝撃が放射状に広がり、足元の土が細かく震える。
ユウキは前脚が地面へ触れる直前に跳び、両足を浮かせた。
ただし、衝撃の影響を完全に避けられたわけではない。着地した瞬間、まだ震えていた地面へ足を取られ、膝がわずかに沈んだ。
トーマも低く跳んで振動をやり過ごしたが、着地後すぐには動けなかった。
バルドは盾を構え、足を前後に開いて耐えた。
最も大きく体勢を崩したのは、ドランだった。
彼は黒震狼の前脚が地面へ落ちる直前、足を浮かせようとした。
しかし、ほかの3人ほど敏捷性が高くない。
跳躍する前に足元へ振動が届き、左膝が折れた。
「ぐっ……!」
ドランは右手の技工鎚を地面へ突き立て、倒れまいと踏ん張った。
それでも、脚の感覚が一瞬遠のく。
足の裏から膝まで、細かな痺れが広がっていた。
立ち上がろうとしても、すぐには力が入らない。
ユウキはその様子に気づいた。
「ドランさん!」
しかし、黒震狼の方が早かった。
黄色い瞳がドランを捉える。
前脚へ集まっていた灰色の光が消え、代わりに四肢へ不安定な赤い光が走り始めた。
黒震狼は、動けなくなった相手を狙っている。
バルドが盾を構え、前へ踏み出した。
「わしが止める!」
だが、バルドとドランの間には数メートルの距離がある。
黒震狼はその隙間を狙っていた。
大きく身体を沈め、地面を蹴る。
右後脚はほとんど伸びなかったが、前脚と左後脚の力で巨体が前へ押し出された。
バルドの盾の外側を通り抜け、ドランへ向かって一直線に迫る。
ドランは技工鎚を持ち上げようとした。
しかし、足の痺れが残っており、踏み込むことができない。
黒震狼の口が開いた。
牙の間から血の混じった唾液が飛ぶ。
狙いはドランの上半身。
あの巨体に噛みつかれれば、革鎧では到底耐えられない。
ユウキの視界が、急に狭くなったように感じられた。
ドランがいる。
黒震狼が迫っている。
自分との距離は、およそ6メートル。
普通に走っただけでは、間に合わないかもしれない。
それでも、足を止めるという選択肢はなかった。
ユウキは左足を強く踏み込み、身体の内側へ意識を集中した。
身体強化の技能を意識し、脚と腰へ力を込める。
地面を蹴った瞬間、太腿の筋肉が強く収縮し、身体が前方へ押し出された。
ユウキは黒震狼の正面へ飛び出すのではなく、左側から斜めに進路へ割り込んだ。
真正面へ立てば、剣を振るより先に巨体へ撥ね飛ばされる。
狙うべきは、すでに深い傷を負っている左前脚。
ユウキは軽量片手剣を肩の高さへ引き寄せ、魔力を刃へ流し込んだ。
――二段斬り。
最初の一撃は、低い位置から斜め上へ振り上げた。
刃が黒震狼の左前脚へ触れ、以前の戦闘で開いていた傷口を深く切り裂く。
黒震狼の身体が大きく震えた。
それでも、勢いは止まらない。
巨体はユウキの目の前を通過しようとする。
ユウキは足を踏み替え、身体の回転を止めずに剣を振り戻した。
続く二撃目。
今度は胸元の傷を狙い、上から斜めへ振り下ろす。
鋼の刃が血に濡れた体毛を裂き、その下の肉へ食い込んだ。
「グルァァッ!」
黒震狼が苦痛の咆哮を上げる。
左前脚が崩れた。
傷ついた脚では、加速した巨体を支えきれなかったのだ。
黒震狼はドランの手前で姿勢を失い、左肩から地面へ倒れ込んだ。
湿った土が大きく抉られ、草と泥が周囲へ飛び散る。
巨体は勢いを残したまま数メートル滑り、ドランの右側をかすめるように通過した。
ドランは咄嗟に身体を後ろへ倒し、ぶつかってくる肩を避けた。
黒震狼が倒れた位置は、4人の前方およそ5メートル。
ドランは地面へ片膝をついたまま、荒く息を吐いていた。
ユウキも剣を構え直す。
右腕には斬撃の反動が残り、魔力を消費した感覚が身体の奥へ広がっていた。
それでも、目の前の魔物から視線を離さない。
「ドランさん、後ろへ!」
ユウキが叫ぶ。
「ああ、すまん!」
ドランは技工鎚を支えに立ち上がり、バルドの後方へ下がった。
バルドは軽量複合盾を構え、倒れた黒震狼と仲間たちの間へ移動する。
トーマも右側から回り込み、双短剣を構えた。
4人の位置が、再び整った。
その直後、黒震狼の前脚が動いた。
◇◆◇
黒震狼は、すぐには立ち上がれなかった。
左前脚の傷はさらに深くなり、胸元から流れる血が地面へ広がっている。
巨体を持ち上げようとするたびに肩が震え、呼吸のたびに喉の奥から苦しげな音が漏れた。
それでも、黄色い瞳はユウキたちを睨みつけている。
やがて右前脚を地面へ突き立て、残された力を振り絞るように身体を起こした。
完全に立ち上がるまで、何度も姿勢を崩しかけた。
その様子を見て、トーマが小さく息を呑んだ。
「……まだ、立つの?」
ユウキは答えられなかった。
これほどの傷を負っていても、黒震狼は倒れない。
自分たちより遥かに強い冒険者たちと戦い、逃げ延びた。
そして、今もなお命を奪おうとする力を残している。
ユウキの脳裏に、初めて黒震狼と遭遇した日の記憶が浮かんだ。
何をしても届かなかった剣。
赤い光とともに迫る巨体。
仲間を守れなかった無力感。
あのときは、逃げることしかできなかった。
今はどうだろう。
新しい武器がある。
少しずつ積み重ねてきた戦闘経験がある。
そして何より、4人は互いの動きを理解し始めていた。
それでも、勝てるという確信はない。
黒震狼は瀕死に近い状態だが、その一撃は依然として致命的だった。
もし誰かが判断を誤れば、次こそ取り返しのつかないことになる。
ユウキはゆっくりと息を吸った。
胸の奥では恐怖が渦巻いている。
足が震えそうになる。
逃げたいという気持ちも、確かにあった。
だが、黒震狼の視線はすでに4人を捉えている。
ここで背を向ければ、最も足の遅いドランが狙われるかもしれない。
負傷した魔物だからこそ、逃げる相手へ最後の力を振り絞って襲いかかる可能性もある。
後退するにしても、誰かが相手の動きを止めなければならない。
そして今、黒震狼は再び四肢へ赤い光を集めようとしていた。
ユウキは仲間たちへ視線を向けた。
バルドは盾を構え、魔物の頭部と前脚の動きを観察している。
トーマは右側へ回り込み、いつでも飛び退けるよう重心を低くしていた。
ドランはまだ脚の痺れが残っているものの、技工鎚を握り直し、周囲の地形へ視線を走らせている。
4人とも、恐怖を感じているはずだった。
それでも、誰も取り乱していない。
ユウキは剣の柄を握り直した。
「……みんな、聞いて」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「黒震狼はかなり弱ってる。でも、まだ加速と地面への衝撃を使える。正面から無理に攻撃したら危ないと思う」
バルドが頷く。
「わしが前を守る。だが、突進を真正面から受け止めるのは無理だ。できるだけ進路を逸らす」
「僕は右側から動きを見るよ」
トーマが続けた。
「左前脚を庇ってるなら、身体を向け直すときに隙ができるかもしれない」
ドランは周囲の地面を見渡した。
「北側に土手がある。あそこまで誘導できれば、相手が真っ直ぐ走れる距離は短くなるはずだ。わしはそのための道具を用意する」
ユウキは頷いた。
4人の間に、短い沈黙が流れる。
黒震狼はゆっくりと顔を持ち上げた。
血に濡れた牙が覗き、喉の奥から低い唸り声が漏れる。
その背中で、赤い光が不規則に揺れた。
ユウキは魔物を見据えた。
「……今は、まともに逃げられない。だから、まずはあいつの動きを止めよう」
トーマが深く頷く。
「うん」
バルドも盾を構え直した。
「全員で生き残るぞ」
ドランは技工鎚を握る手へ力を込める。
「当然だ」
ユウキは剣先を下げず、黒震狼との距離を測った。
約7メートル。
互いに数歩踏み込めば、すぐに攻撃が届く。
黒震狼の左前脚は深く傷ついている。
右後脚も満足には動かない。
だが、右前脚と左後脚にはまだ力が残っており、傷ついた身体を無理に動かそうとすれば、一瞬だけなら以前に近い加速を見せるかもしれない。
ユウキはその可能性を考えながら、足の位置を調整した。
右足を半歩引き、身体を斜めへ向ける。
剣は腰の高さに構え、相手がどちらへ動いても対応できるよう肘を緩めた。
視線は頭部だけに向けない。
肩。
前脚。
腰。
そして、負傷した右後脚。
どこが最初に動くかで、次の攻撃の方向が変わる。
黒震狼が前脚で地面を掻いた。
肩の筋肉がゆっくりと盛り上がる。
黄色い瞳がユウキを捉え、その口元が大きく開いた。
低い咆哮が草地へ響き渡る。
ユウキは剣を握り直した。
この戦いに勝てる保証など、どこにもない。
けれど、4人で生き残る方法を探すことはできる。
自分たちには、もうそれだけの経験がある。
ユウキは恐怖を押し殺すのではなく、その存在を受け入れた。
怖いからこそ、相手を見る。
怖いからこそ、無理をしない。
そして、守りたい仲間がいるからこそ、剣を構える。
黒震狼の四肢へ、赤い光が強く走った。
次の瞬間、巨大な魔物が地面を蹴った。
ユウキはその動きを見据え、仲間たちへ声を張り上げた。
「来るよ!」
かつて逃げることしかできなかった相手との戦いが、今度は4人の意思によって続けられようとしていた。
――第76話 完。




