↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/94

第75話 黒震狼、再戦

 東部街道から森へ入って、およそ2時間。


 ラウル・ベルガーは苔に覆われた岩の前で足を止めた。


 頭上では枝葉が重なり合い、昼間だというのに森の地面は薄暗い。昨夜の雨が残した湿気は濃く、踏みしめた落ち葉の下からは冷たい泥が滲み出していた。


 ラウルの右手には抜き身の長剣。左腕には革製の補助帯が巻かれている。


 以前、巨大な黒い狼と交戦した際に痛めた腕だった。


 骨に異常はなかったものの、強い衝撃を受ければ再び動かなくなる恐れがある。治療師からは、まだ激しい戦闘を控えるよう言われていた。


 それでも、ラウルはここにいる。


 左腕の痛みを押してでも、確認しなければならないことがあったからだ。


「……見つけたぞ」


 前方で地面を調べていたキースが、小声で告げた。


 ラウルは剣を下げたまま近づく。


 そこには、泥へ深く刻まれた獣の足跡が残されていた。


 通常の森狼(フォレストウルフ)とは比較にならない大きさ。


 前脚の跡は深く、後脚の跡にはわずかな乱れがある。


 特に右後脚の踏み込みだけが浅く、進行方向へ土を引きずったような線が伸びていた。


「前回負傷させた脚だな」


 ゲインが槍を肩へ担ぎ直した。


「まだ完全には治ってないらしい」


 キースは周囲の足跡を確かめた。


「おそらく同じ個体です。ただ、以前より歩幅が広くなっています」


「……歩幅?」


 ラウルが尋ねる。


「はい。怪我を庇っているはずなのに、前脚の踏み込みが強くなっているんです。体格が変わったのか、動き方を調整したのかまではわかりませんが」


 ゲインが顔をしかめた。


「冗談じゃねえ。まだ強くなってるってのか?」


 ラウルは答えなかった。


 ギルドで聞いた黒震狼の記録が頭をよぎる。


 異常な成長速度。


 短期間で存在進化する可能性。


 だが、目の前の足跡だけで、成長したと断定することはできない。


 それでも、前回より危険な相手になっている可能性は考えておくべきだった。


「……オスカー」


 ラウルが声をかける。


「地面の様子はどうだ?」


 少し後方にいたオスカーは、先端に小さな魔石を取り付けた杖を地面へ触れさせた。


 杖の先から淡い光が広がり、足元の土へ細い線が走る。


「地脈感知」


 低く唱えると、光は木の根や岩の下へ吸い込まれるように消えていった。


 オスカーは目を閉じ、杖を通して伝わる感覚へ意識を集中する。


 地中に広がる硬い岩盤。


 その上へ薄く積もった泥。


 そして、北側の斜面へ向かって続く浅い空洞。


 しばらくして、オスカーが目を開いた。


「……地図どおりです。この先に岩場があります。東側は大きな岩で塞がれ、西側には幅の狭い沢が流れている」


「足場は?」


「中央は比較的硬いですが、沢へ近づくほど泥が深くなります。特に北側の斜面は、表面の土が緩んでいます」


 ラウルは頷いた。


 今回の目的は、黒震狼の行動範囲と現在の状態を確認すること。


 ギルドから許可されているのも、あくまで武装再調査だった。


 ただし、遭遇した場合には状況に応じて交戦することも認められている。


 ラウルたちは、前回の敗北を無駄にしないために装備と戦術を見直してきた。


 ゲインは槍の穂先を研ぎ直し、柄へ滑り止めの革を巻いた。


 オスカーは地盤を操作する術の準備を整え、キースは魔物の接近を早期に察知する役割を担う。


 そして、ラウルは左腕の負傷を考慮し、両手で剣を振り回す戦い方を避けるつもりだった。


 ミレアは今回、同行していない。


 左肩の負傷が治っておらず、弓を引けないためだ。


 代わりの弓手を加える案もあったが、今回の再調査では地形を把握している4人を中心に行動することになった。


 ラウルは剣を握り直した。


「……まずは岩場まで進む。そこから先は慎重に行くぞ」


 3人が頷いた。


 森の奥には、まだあの黒い魔物がいる。


 そして、今度こそ同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかった。


     ◇◆◇


 岩場へ到着したとき、キースが突然立ち止まった。


 右手を上げ、全員へ停止を知らせる。


 ラウルたちはすぐに身を低くした。


 目の前には、大小の岩が点在する広い空間があった。


 中央には高さ2メートルほどの岩があり、その左右には腰ほどの石が並んでいる。


 北側には斜面が続き、南側には倒木が横たわっていた。


 西側を流れる沢の幅はおよそ3メートル。


 雨の影響で水量が増しており、流れは速くなっている。


 キースは岩の陰に身を寄せ、目を閉じた。


 周囲の気配へ意識を集中する。


 風に揺れる枝葉。


 沢の水音。


 小さな生き物が地面を走る気配。


 その中に、明らかに異なる大きな存在感が混じっていた。


「……いる」


 キースが囁いた。


 ラウルは顔を向ける。


「どこだ?」


「北西。沢の向こうです。距離は……およそ40メートル」


 ゲインが槍を握り直した。


「……あいつか?」


「まだ姿は見えません。ただ、気配が大きい。それと、こちらへ近づいています」


 ラウルは周囲を確認した。


 岩場の中央まで移動すれば、ある程度の視界を確保できる。


 だが、相手が先にこちらを発見している可能性もある。


「……オスカー、準備しておけ」


「わかりました」


 オスカーは杖の先を地面へ向けた。


 ラウルは中央の岩から約5メートル離れた位置へ移動し、ゲインはその右側へ回る。


 キースは後方の岩陰へ下がり、周囲の警戒を続けた。


 そのときだった。


 沢の向こうで、木の枝が大きく揺れた。


 続いて、黒褐色の巨大な影が姿を現した。


 長く伸びた四肢。


 異様に発達した肩と胸の筋肉。


 口元から覗く鋭い牙。


 そして、周囲を見渡す黄色い瞳。


 間違いなかった。


 あの黒い狼だ。


「……久しぶりだな」


 ラウルが低く呟いた。


 魔物は沢の手前で立ち止まった。


 鼻先を持ち上げ、風の匂いを確かめる。


 その視線が、岩場に立つ4人へ向けられた。


 しばらく、互いに動かなかった。


 やがて魔物は、ゆっくりと右後脚へ体重をかけた。


 その動きには、わずかな不自然さがある。


 以前の傷は残っているらしい。


 しかし、ラウルは別の変化にも気づいた。


 肩の筋肉が、前回より厚くなっている。


 背中の体毛も一部が硬く逆立ち、全身の輪郭が以前より大きく見えた。


「……やっぱり、何か変わってやがる」


 ゲインが呟いた。


 ラウルは頷いた。


「油断するな」


 黒い狼は、沢の向こうから4人を見つめ続けていた。


 逃げる様子はない。


 むしろ、自分たちがどう動くのかを確かめているようだった。


 その背中に、赤い光がわずかに走った。


「……来るぞ!」


 ラウルが叫んだ。


     ◇◆◇


 黒震狼の四肢に赤い光が集まった。


 肩から前脚へ、さらに後脚の付け根へと魔力が流れ、筋肉の輪郭に沿って細い光の線が浮かび上がる。


 ラウルはその変化を見逃さなかった。


 前回、あの光が現れた直後に魔物の速度は跳ね上がった。


 今回は、その瞬間を待っていた。


「ゲイン、右を塞げ!」


「おう!」


 黒震狼が地面を蹴る。


 沢までの距離を一瞬で詰め、勢いを落とさず跳躍した。


 水面から飛び上がった飛沫が、月光ではなく昼の薄い光を受けて白く散る。


 その巨体が沢を越え、岩場の中央へ着地しようとした。


 ラウルは正面へ踏み込まず、中央の岩を左へ回り込む。


 同時に、ゲインが右側から槍を突き出した。


「穿牙!」


 武技の発動とともに槍の穂先へ魔力が集まり、鋭い一撃が黒震狼の右肩へ向かう。


 黒震狼は空中で身体を捻り、穂先を避けようとした。


 だが、完全には避けきれない。


 槍の先端が肩の体毛を裂き、浅い傷を刻んだ。


 黒震狼が低く唸る。


 しかし、着地と同時に前脚を踏み込み、ゲインへ牙を向けた。


 その瞬間、地面が盛り上がった。


「土壁術!」


 オスカーの声が響く。


 黒震狼とゲインの間へ、胸ほどの高さを持つ土の壁が突き上がった。


 湿った土と小石が激しく弾け、黒震狼の視界を遮る。


 魔物は壁へ衝突しかけたが、直前で前脚を踏ん張り、身体を横へ流した。


 完全に止めることはできなかった。


 それでも、突進の軌道がずれた。


「今だ!」


 ラウルは左側から踏み込んだ。


 右手の長剣を肩の高さへ引き寄せ、刃へ魔力を集める。


 剣身の周囲で空気が渦を巻き、薄い風の刃が生まれた。


「裂風斬!」


 斬撃が黒震狼の左肩へ向かって振り抜かれる。


 魔物はすぐに頭を下げた。


 前回、この技を見ている。


 同じ攻撃なら避けられると判断したのかもしれない。


 しかし、ラウルはその反応を読んでいた。


 剣を振り抜く直前、踏み込んだ右足をわずかに外側へずらす。


 斬撃の軌道が変わった。


 頭ではなく、左前脚の付け根を狙った横薙ぎ。


 風を纏った刃が黒震狼の脚へ食い込んだ。


「グルァァッ!」


 低い咆哮が響いた。


 魔物の身体が横へ揺れる。


 ラウルは追撃しようとしたが、黒震狼の尾が横から迫っていることに気づいた。


 太く長い尾が、腰の高さへ振り抜かれる。


 ラウルは左腕を庇いながら身体を後方へ反らした。


 尾の先端が革鎧をかすめ、布の一部を引き裂いた。


 直撃していれば、前回と同じように吹き飛ばされていただろう。


 ラウルは後方へ跳び、距離を取った。


「……いいぞ。その調子だ!」


 ゲインが叫ぶ。


 黒震狼の左前脚から血が流れていた。


 深い傷ではない。


 だが、前回より確実に攻撃が通っている。


 ラウルは剣を構え直した。


 今度は、ただ追い詰められて逃げるだけではない。


 自分たちの攻撃で、この魔物を傷つけられる。


 その手応えがあった。


     ◇◆◇


 しかし、黒震狼も黙ってはいなかった。


 左前脚へ体重をかけると、わずかに姿勢を崩す。


 その痛みを嫌うように、魔物は右側へ身体を傾けた。


 だが、黄色い瞳は4人の動きを追い続けている。


 ラウルが前へ出れば後退する。


 ゲインが槍を構えれば、横へ回り込もうとする。


 オスカーが杖を地面へ向けた瞬間には、すぐに進路を変えていた。


「……学習してやがる」


 ラウルが呟いた。


 黒震狼は、こちらの役割を理解している。


 前衛のラウルとゲイン。


 術で動きを制限するオスカー。


 そして、後方で周囲を警戒するキース。


 その中で最も厄介なのが誰なのか。


 魔物はすでに判断していた。


 突然、黒震狼が低く唸った。


 前脚へ灰色の光が集まり始める。


 ラウルの表情が変わった。


「……地面への衝撃だ!」


 魔物が右前脚を振り上げる。


 そのまま地面へ叩きつけた。


 ドンッ!


 鈍い衝撃が地面を伝わり、岩場の小石が跳ね上がる。


 ラウルは膝を曲げて姿勢を低くした。


 ゲインも槍の石突きを地面へ当て、踏ん張る。


 しかし、黒震狼の狙いは2人ではなかった。


 衝撃が、オスカーの立つ場所へ向かって広がっていた。


「……っ!」


 オスカーはすぐに杖を地面へ押しつけた。


「地盤固定!」


 足元の土へ魔力が流れ込み、周囲の地面が一瞬だけ硬く締まる。


 衝撃によって崩れかけた足場が固定され、オスカーは転倒を免れた。


 だが、完全には防ぎきれない。


 身体の奥へ重い振動が伝わり、膝がわずかに折れた。


 その隙を、黒震狼は見逃さなかった。


 四肢へ赤い光が走る。


 低い姿勢から一気に加速し、ラウルとゲインの間を抜けようとした。


「……させるか!」


 ゲインが槍を横へ振るう。


 しかし、黒震狼は前脚を踏み込み、身体を低く沈めて槍の下を潜った。


 ゲインの穂先が背中の体毛をかすめる。


 そのまま黒震狼は、オスカーへ向かって突進した。


 距離はおよそ10メートル。


 オスカーは杖を引き抜こうとしたが、地盤固定を発動した直後で動きが遅れた。


 巨大な牙が迫る。


 その瞬間、横からキースが飛び込んだ。


「オスカー!」


 キースはオスカーの肩を掴み、岩の陰へ押し倒した。


 黒震狼の牙が、2人のすぐ横を通過する。


 巨体が地面を削りながら走り抜け、岩へ肩をぶつけた。


 鈍い音が響く。


 岩の表面に細かな亀裂が走り、破片が周囲へ飛び散った。


「……助かった!」


 オスカーが息を吐く。


 しかし、キースはすぐに立ち上がった。


「まだ来ます!」


 黒震狼が身体を向け直していた。


 その口元には、血が混じった唾液が垂れている。


 ラウルは剣を握り直した。


 前回より傷を負わせている。


 それでも、相手の攻撃は依然として致命的だった。


 1度でも判断を誤れば、誰かが死ぬ。


 その緊張感が、4人の間に広がっていた。


     ◇◆◇


「……作戦を変えるぞ!」


 ラウルが叫んだ。


 ゲインが顔を向ける。


「どうする!?」


「追いかけるな! 岩場の中央へ誘導する!」


 ラウルは剣を構え直した。


 前回の敗北で学んだことがある。


 黒震狼を追い回せば、こちらが疲弊する。


 しかも、魔物は攻撃の軌道を学習し、隙を見つけて反撃してくる。


 ならば、こちらが動き続けるのではなく、相手の進路を制限すればいい。


 ラウルは中央の大岩へ視線を向けた。


 岩の左右には、人間が通るには十分だが、黒震狼の巨体では窮屈な隙間がある。


 その周囲には、オスカーが事前に確認した硬い地盤が広がっていた。


「オスカー、北側の出口を塞げ!」


「わかりました!」


 オスカーは杖を地面へ向けた。


 魔力が先端の魔石へ集まり、淡い光を放つ。


「土壁術!」


 中央の岩から数メートル離れた場所で土が盛り上がり、人の胸ほどの高さを持つ壁が形成された。


 同時に、ゲインが岩の右側へ移動する。


 ラウルは左側。


 キースは後方の高い岩へ登り、黒震狼の動きを確認した。


 その配置を見た黒震狼は、すぐに突進しなかった。


 黄色い瞳が、ラウルとゲインの位置を交互に確認する。


 そして、中央の岩へ視線を向けた。


 魔物は何かを警戒しているようだった。


 ラウルは剣を構えたまま、ゆっくりと前へ出た。


「……来い」


 黒震狼が低く唸る。


 赤い光が四肢へ集まった。


 その瞬間、ラウルは横へ動いた。


 魔物の視線が追う。


 ゲインは槍を構え、黒震狼の進路を右側から制限した。


 逃げ道は中央の岩の左側。


 そこだけが、比較的広く開いている。


 黒震狼は一瞬だけ動きを止めた。


 そして、ラウルへ向かって加速した。


 ラウルは正面から迎え撃たなかった。


 黒震狼が近づく瞬間、左足を後方へ引き、身体を岩の陰へ滑り込ませる。


 巨大な魔物はラウルを追い、岩の左側へ踏み込んだ。


 しかし、その先には土壁があった。


 黒震狼はすぐに方向を変えようとした。


 だが、巨体を反転させるには十分な空間がない。


 前脚を踏ん張り、肩を捻る。


 その瞬間、ゲインが右側から踏み込んだ。


「剛槍突き!」


 槍の穂先へ魔力が集中する。


 ゲインは腰を深く落とし、全身の力を槍へ伝えた。


 狙いは、先ほどラウルが傷つけた左前脚。


 黒震狼は頭を振り、牙で槍を弾こうとした。


 しかし、狭い場所では大きく身体を動かせない。


 槍の穂先が左肩の傷口へ突き刺さった。


「グルァァァッ!」


 黒震狼が激しく咆哮した。


 その巨体が後方へ揺れる。


 ゲインは槍を押し込み続けようとしたが、黒震狼が前脚へ力を込めたのを見て、すぐに引き抜いた。


 直後、魔物の尾が横へ振り抜かれる。


 ゲインは槍を身体の前へ引き寄せ、柄で尾を受け流した。


 衝撃によって腕が痺れ、後方へ数歩押し戻される。


 それでも、倒れなかった。


「……今だ、ラウル!」


 ゲインが叫ぶ。


 ラウルはすでに動いていた。


 黒震狼の左側へ踏み込み、長剣を低く構える。


 魔力が剣身へ流れ込み、刃の周囲へ薄い風がまとわりついた。


 だが、今度は裂風斬ではない。


 ラウルは剣を振り抜き、続けて身体を回転させた。


「連刃!」


 最初の斬撃が黒震狼の左肩へ入る。


 続く2撃目が、胸元の体毛を切り裂く。


 そして、最後の一撃。


 ラウルは右足を深く踏み込み、剣を斜め上へ振り抜いた。


 刃が黒震狼の首元へ届く。


 しかし、魔物は頭を低くし、牙で剣を受け止めた。


 金属と硬い牙がぶつかり、鋭い音が響く。


 ラウルの右腕へ強い衝撃が伝わった。


 その瞬間、黒震狼の前脚へ灰色の光が集まった。


「……まずい!」


 ラウルは剣を引き戻そうとした。


 だが、間に合わない。


 黒震狼が前脚を地面へ叩きつけた。


 衝撃が足元から突き上がる。


 ラウルの身体が大きく揺れ、右膝が地面へ落ちた。


 魔物はその隙に牙を剥いた。


 距離は、わずか2メートル。


 ラウルは左腕を庇いながら剣を構え直そうとしたが、身体が思うように動かなかった。


 そのとき、オスカーの声が響いた。


「地盤固定!」


 ラウルの足元へ魔力が流れ込み、崩れかけた地面が固まった。


 さらに、ゲインが横から槍を突き出した。


「穿牙!」


 槍の穂先が黒震狼の脇腹を捉える。


 深い傷ではない。


 しかし、魔物の注意を一瞬だけ逸らすには十分だった。


 ラウルはその隙に身体を起こし、後方へ跳んだ。


 黒震狼の牙が、目の前を通過する。


 あと少し遅れていれば、喉を噛み砕かれていただろう。


「……助かった!」


 ラウルが叫ぶ。


 ゲインは槍を構え直した。


「礼は後だ!」


 黒震狼は血を流しながらも、まだ倒れなかった。


 むしろ、その黄色い瞳には以前より強い敵意が宿っているように見えた。


     ◇◆◇


 黒震狼の呼吸が荒くなっていた。


 左前脚と肩には深い傷。


 胸元にも斬撃の跡が残り、脇腹からは血が流れている。


 以前から痛めていた右後脚も、無理な加速を繰り返したせいか動きが鈍くなっていた。


 それでも、魔物は立っていた。


 ラウルは荒い息を整えながら、剣を構え直した。


 左腕が痛む。


 右手の握力も落ちてきている。


 ゲインも肩で息をし、オスカーは杖を握る手がわずかに震えていた。


 術を使い続けたことで、魔力が減っているのだろう。


 キースも高い岩の上から周囲を警戒しているが、疲労の色が濃い。


 このまま戦闘が長引けば、こちらが先に限界を迎えるかもしれない。


 ラウルは歯を食いしばった。


「……あと少しだ」


 ゲインが頷く。


「ああ。今なら、倒せるかもしれねえ」


 その言葉を聞いたかのように、黒震狼が低く唸った。


 背中の毛が逆立ち、四肢へ赤い光が集まり始める。


 だが、今までとは様子が違った。


 光が不規則に揺れている。


 傷ついた脚へ魔力が流れ込むたびに、筋肉が痙攣していた。


 それでも、黒震狼は加速しようとしている。


 ラウルは目を細めた。


「……無茶をする気か」


 次の瞬間、黒震狼が地面を蹴った。


 その速度は、負傷しているとは思えないほど速かった。


 魔物は中央の岩へ向かって走り、直前で身体を横へ捻る。


 ラウルはすぐに剣を構えた。


 しかし、黒震狼の狙いはラウルではなかった。


 魔物は岩の側面へ前脚をつき、その反動を利用して方向を変えた。


 そして、一気にオスカーへ向かって跳躍した。


「……っ!」


 オスカーは杖を構えたが、魔力の消耗によって術の発動が遅れた。


 黒震狼の巨体が迫る。


 距離は、わずか数メートル。


 キースが叫んだ。


「オスカー、伏せろ!」


 オスカーは反射的に地面へ身体を投げ出した。


 黒震狼の前脚が頭上を通過する。


 しかし、魔物はそのまま地面へ着地しなかった。


 岩の上へ前脚をつき、さらに高く跳躍したのだ。


 その先には、北側の斜面があった。


 ラウルは一瞬、目を見開いた。


「……逃げる気か!」


 黒震狼は、すでに戦闘を続けるつもりがなかった。


 傷ついた身体を無理に動かし、残った力を逃走へ使おうとしている。


 ゲインが槍を構えた。


「追うか!?」


 ラウルは即座に答えなかった。


 黒震狼は斜面を駆け上がろうとしている。


 ここで逃がせば、再び森の奥へ姿を消すかもしれない。


 だが、追撃するには危険が大きすぎる。


 相手は瀕死に近い状態でも、一撃で人間を殺せる力を残している。


 そして、こちらも無傷ではない。


 ラウルが判断を下そうとした、その瞬間だった。


 黒震狼の右後脚が、斜面の泥へ深く沈んだ。


 負傷していた脚だった。


 巨体がわずかに傾く。


 その隙を見て、ラウルは剣を振り上げた。


 刃へ残った魔力を集める。


「風刃術!」


 剣先から薄い風の刃が放たれた。


 それは斜面を駆け上がる黒震狼の右脇腹へ向かい、体毛を切り裂いた。


 魔物が激しく身体を震わせる。


 足元の泥が崩れ、巨体が斜面を滑り落ちた。


 黒震狼は前脚で地面を掻き、必死に身体を支えようとした。


 だが、負傷した右後脚が踏ん張れない。


 そのまま数メートル滑り、倒木へ身体をぶつけた。


 鈍い音が響く。


 倒木が軋み、周囲の枝が折れた。


 黒震狼はしばらく動かなかった。


 ラウルは剣を構えたまま、荒い呼吸を整えた。


「……倒したか?」


 ゲインが呟く。


 だが、キースが首を横に振った。


「……まだです!」


 黒震狼の前脚が動いた。


 傷ついた身体を持ち上げようとしている。


 血に濡れた体毛が泥へ擦れ、巨大な牙の間から荒い息が漏れていた。


 魔物は立ち上がった。


 だが、その姿は先ほどまでとは違っていた。


 左前脚を引きずり、右後脚にはほとんど体重をかけられない。


 胸と脇腹からは血が流れ、呼吸も浅く速い。


 それでも、黄色い瞳だけは4人を睨みつけていた。


 ラウルは剣を握り直した。


 あと一撃。


 それが届けば、討伐できるかもしれない。


 しかし、黒震狼は突然、森の奥へ顔を向けた。


 耳が立つ。


 鼻先が持ち上がる。


 その表情から、敵意とは別の感情が読み取れた。


 警戒。


 いや、それ以上の何か。


 ラウルは眉を寄せた。


「……またか」


 前回の戦闘でも、同じことがあった。


 黒震狼は突然、人間への追撃をやめ、森の奥を警戒していた。


 今回も、同じ方向を見ている。


 ラウルはその視線の先へ目を向けた。


 木々の間には、暗い森が広がっているだけだった。


 だが、どこか遠くから低い音が聞こえた。


 地面の奥を伝わってくるような、重い響き。


 それが何なのか、ラウルにはわからなかった。


 しかし、黒震狼は違った。


 魔物は一瞬だけ身体を強張らせると、4人へ背を向けた。


 そして、傷ついた脚を引きずりながら森の奥とは反対方向へ走り出した。


「……逃げた!」


 ゲインが叫ぶ。


 ラウルは追おうとして、一歩踏み出した。


 しかし、左腕へ鋭い痛みが走った。


「……くっ!」


 剣を握る右手も痺れている。


 ゲインも槍を支えながら肩で息をし、オスカーは地面へ膝をついていた。


 キースが岩から降り、ラウルへ駆け寄る。


「隊長、追撃は危険です!」


 ラウルは歯を食いしばった。


 ここまで追い詰めた。


 前回とは違う。


 確かに、黒震狼へ致命的な傷を与えたはずだ。


 それでも、逃げられた。


 だが、追いかければ全員が無事に帰れる保証はない。


 ラウルはしばらく森の奥を睨んでいたが、やがて剣を下ろした。


「……追撃は中止だ」


 ゲインが悔しそうに息を吐いた。


「……くそっ!」


「気持ちはわかる。だが、ここで無理をすれば、前回と同じになる」


 ラウルは静かに言った。


「俺たちの任務は、まず情報を持ち帰ることだ」


 キースが頷く。


「……了解しました」


 オスカーも杖を支えに立ち上がった。


「……黒震狼の行動範囲と、負傷した状態を報告しましょう」


 ラウルは頷いた。


 そして、黒震狼が逃げた方向を見つめた。


 あの魔物は、確かに瀕死に近い状態だった。


 だが、生きている。


 そして、どこへ逃げたのかはわからない。


 ラウルは深く息を吐いた。


「……帰るぞ」


 4人は互いの負傷を確認しながら、ゆっくりと岩場を後にした。


     ◇◆◇


 黒震狼は走っていた。


 いや、もはや走るというより、倒れそうな身体を前へ投げ出しているような状態だった。


 左前脚から血が流れ、胸元の傷は深い。


 右脇腹には風の刃によって刻まれた裂傷があり、動くたびに肉が引きつる。


 以前から負傷していた右後脚も、まともに踏ん張れなくなっていた。


 それでも、黒震狼は足を止めない。


 森の奥から離れなければならなかった。


 あの重い気配。


 地面の奥から響くような足音。


 自分よりも遥かに大きな何かが、森の深部にいる。


 黒震狼はそれを知っていた。


 傷ついた身体で、あの存在へ近づくわけにはいかない。


 だから、逃げる。


 ただ、生き延びるために。


 赤い光が、四肢へわずかに浮かび上がった。


 しかし、すぐに消えた。


 魔力も、体力も、限界が近い。


 黒震狼は低く唸りながら、倒木を越えようとした。


 だが、右後脚が木の根へ引っかかり、巨体が地面へ崩れ落ちた。


 湿った土が跳ね上がり、傷口へ泥が入り込む。


 魔物は苦しげに息を吐いた。


 しばらく、その場で動けなかった。


 やがて、前脚へ力を込め、ゆっくりと身体を起こす。


 黄色い瞳が、木々の隙間を見つめた。


 その先には、細い獣道が続いている。


 人間の通る街道へつながる道だった。


 黒震狼は鼻先を持ち上げた。


 風に混じって、かすかな匂いが運ばれてくる。


 人間。


 複数。


 その匂いに、黒震狼の耳がわずかに動いた。


 しかし、今は獲物を探している余裕などない。


 ただ、森の奥から離れたい。


 そして、傷を癒やせる場所へ辿り着きたい。


 黒震狼は再び歩き始めた。


 血の跡を残しながら。


 細い獣道を、ゆっくりと進んでいく。


 その先で何が待っているのか。


 今の黒震狼には、知る由もなかった。


     ◇◆◇


 同じ頃。


 リーヴェルの冒険者ギルドでは、ネクシアの4人が次の予定について話し合っていた。


 西の村から帰還し、依頼の報酬を受け取ったばかりだった。


 ユウキは腰へ下げた軽量片手剣を見つめながら、ガルドへの支払いについて考えていた。


「……そろそろ、一度お店へ行こうか」


 トーマが顔を上げた。


「ガルドさんのところ?」


「うん。まだ全部は返せないけど、今回の依頼が無事に終わったことを報告したいし」


 バルドが頷いた。


「そうだな。あの男も、心配しておるだろう」


 ドランは帳面を閉じた。


「わしも賛成だ。ただ、その前に少し休んだ方がいい。昨日の戦闘で、皆それなりに疲れておる」


「……そうですね」


 ユウキは頷いた。


 新しい装備のおかげで、以前より戦いやすくなった。


 しかし、ランク2の鎧牙猪との戦闘では、自分たちの未熟さも痛感した。


 もっと強くならなければならない。


 だが、焦っても仕方がない。


 今は、1つずつ経験を積み重ねていくことが大切だった。


 ユウキは仲間たちを見渡した。


「……じゃあ、明日は休んで、それからガルドさんのところへ行こう」


 トーマが笑った。


「賛成!」


 バルドも頷き、ドランは静かに微笑んだ。


 4人は、いつものように穏やかな時間を過ごしていた。


 そのとき、彼らはまだ知らなかった。


 かつて自分たちを死の淵へ追い込んだ黒い魔物が、今まさに深手を負い、森を彷徨っていることを。


 そして、その逃走経路が、やがて自分たちの歩む道と交わることになるということを。


――第75話 完。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。