第75話 黒震狼、再戦
東部街道から森へ入って、およそ2時間。
ラウル・ベルガーは苔に覆われた岩の前で足を止めた。
頭上では枝葉が重なり合い、昼間だというのに森の地面は薄暗い。昨夜の雨が残した湿気は濃く、踏みしめた落ち葉の下からは冷たい泥が滲み出していた。
ラウルの右手には抜き身の長剣。左腕には革製の補助帯が巻かれている。
以前、巨大な黒い狼と交戦した際に痛めた腕だった。
骨に異常はなかったものの、強い衝撃を受ければ再び動かなくなる恐れがある。治療師からは、まだ激しい戦闘を控えるよう言われていた。
それでも、ラウルはここにいる。
左腕の痛みを押してでも、確認しなければならないことがあったからだ。
「……見つけたぞ」
前方で地面を調べていたキースが、小声で告げた。
ラウルは剣を下げたまま近づく。
そこには、泥へ深く刻まれた獣の足跡が残されていた。
通常の森狼とは比較にならない大きさ。
前脚の跡は深く、後脚の跡にはわずかな乱れがある。
特に右後脚の踏み込みだけが浅く、進行方向へ土を引きずったような線が伸びていた。
「前回負傷させた脚だな」
ゲインが槍を肩へ担ぎ直した。
「まだ完全には治ってないらしい」
キースは周囲の足跡を確かめた。
「おそらく同じ個体です。ただ、以前より歩幅が広くなっています」
「……歩幅?」
ラウルが尋ねる。
「はい。怪我を庇っているはずなのに、前脚の踏み込みが強くなっているんです。体格が変わったのか、動き方を調整したのかまではわかりませんが」
ゲインが顔をしかめた。
「冗談じゃねえ。まだ強くなってるってのか?」
ラウルは答えなかった。
ギルドで聞いた黒震狼の記録が頭をよぎる。
異常な成長速度。
短期間で存在進化する可能性。
だが、目の前の足跡だけで、成長したと断定することはできない。
それでも、前回より危険な相手になっている可能性は考えておくべきだった。
「……オスカー」
ラウルが声をかける。
「地面の様子はどうだ?」
少し後方にいたオスカーは、先端に小さな魔石を取り付けた杖を地面へ触れさせた。
杖の先から淡い光が広がり、足元の土へ細い線が走る。
「地脈感知」
低く唱えると、光は木の根や岩の下へ吸い込まれるように消えていった。
オスカーは目を閉じ、杖を通して伝わる感覚へ意識を集中する。
地中に広がる硬い岩盤。
その上へ薄く積もった泥。
そして、北側の斜面へ向かって続く浅い空洞。
しばらくして、オスカーが目を開いた。
「……地図どおりです。この先に岩場があります。東側は大きな岩で塞がれ、西側には幅の狭い沢が流れている」
「足場は?」
「中央は比較的硬いですが、沢へ近づくほど泥が深くなります。特に北側の斜面は、表面の土が緩んでいます」
ラウルは頷いた。
今回の目的は、黒震狼の行動範囲と現在の状態を確認すること。
ギルドから許可されているのも、あくまで武装再調査だった。
ただし、遭遇した場合には状況に応じて交戦することも認められている。
ラウルたちは、前回の敗北を無駄にしないために装備と戦術を見直してきた。
ゲインは槍の穂先を研ぎ直し、柄へ滑り止めの革を巻いた。
オスカーは地盤を操作する術の準備を整え、キースは魔物の接近を早期に察知する役割を担う。
そして、ラウルは左腕の負傷を考慮し、両手で剣を振り回す戦い方を避けるつもりだった。
ミレアは今回、同行していない。
左肩の負傷が治っておらず、弓を引けないためだ。
代わりの弓手を加える案もあったが、今回の再調査では地形を把握している4人を中心に行動することになった。
ラウルは剣を握り直した。
「……まずは岩場まで進む。そこから先は慎重に行くぞ」
3人が頷いた。
森の奥には、まだあの黒い魔物がいる。
そして、今度こそ同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
◇◆◇
岩場へ到着したとき、キースが突然立ち止まった。
右手を上げ、全員へ停止を知らせる。
ラウルたちはすぐに身を低くした。
目の前には、大小の岩が点在する広い空間があった。
中央には高さ2メートルほどの岩があり、その左右には腰ほどの石が並んでいる。
北側には斜面が続き、南側には倒木が横たわっていた。
西側を流れる沢の幅はおよそ3メートル。
雨の影響で水量が増しており、流れは速くなっている。
キースは岩の陰に身を寄せ、目を閉じた。
周囲の気配へ意識を集中する。
風に揺れる枝葉。
沢の水音。
小さな生き物が地面を走る気配。
その中に、明らかに異なる大きな存在感が混じっていた。
「……いる」
キースが囁いた。
ラウルは顔を向ける。
「どこだ?」
「北西。沢の向こうです。距離は……およそ40メートル」
ゲインが槍を握り直した。
「……あいつか?」
「まだ姿は見えません。ただ、気配が大きい。それと、こちらへ近づいています」
ラウルは周囲を確認した。
岩場の中央まで移動すれば、ある程度の視界を確保できる。
だが、相手が先にこちらを発見している可能性もある。
「……オスカー、準備しておけ」
「わかりました」
オスカーは杖の先を地面へ向けた。
ラウルは中央の岩から約5メートル離れた位置へ移動し、ゲインはその右側へ回る。
キースは後方の岩陰へ下がり、周囲の警戒を続けた。
そのときだった。
沢の向こうで、木の枝が大きく揺れた。
続いて、黒褐色の巨大な影が姿を現した。
長く伸びた四肢。
異様に発達した肩と胸の筋肉。
口元から覗く鋭い牙。
そして、周囲を見渡す黄色い瞳。
間違いなかった。
あの黒い狼だ。
「……久しぶりだな」
ラウルが低く呟いた。
魔物は沢の手前で立ち止まった。
鼻先を持ち上げ、風の匂いを確かめる。
その視線が、岩場に立つ4人へ向けられた。
しばらく、互いに動かなかった。
やがて魔物は、ゆっくりと右後脚へ体重をかけた。
その動きには、わずかな不自然さがある。
以前の傷は残っているらしい。
しかし、ラウルは別の変化にも気づいた。
肩の筋肉が、前回より厚くなっている。
背中の体毛も一部が硬く逆立ち、全身の輪郭が以前より大きく見えた。
「……やっぱり、何か変わってやがる」
ゲインが呟いた。
ラウルは頷いた。
「油断するな」
黒い狼は、沢の向こうから4人を見つめ続けていた。
逃げる様子はない。
むしろ、自分たちがどう動くのかを確かめているようだった。
その背中に、赤い光がわずかに走った。
「……来るぞ!」
ラウルが叫んだ。
◇◆◇
黒震狼の四肢に赤い光が集まった。
肩から前脚へ、さらに後脚の付け根へと魔力が流れ、筋肉の輪郭に沿って細い光の線が浮かび上がる。
ラウルはその変化を見逃さなかった。
前回、あの光が現れた直後に魔物の速度は跳ね上がった。
今回は、その瞬間を待っていた。
「ゲイン、右を塞げ!」
「おう!」
黒震狼が地面を蹴る。
沢までの距離を一瞬で詰め、勢いを落とさず跳躍した。
水面から飛び上がった飛沫が、月光ではなく昼の薄い光を受けて白く散る。
その巨体が沢を越え、岩場の中央へ着地しようとした。
ラウルは正面へ踏み込まず、中央の岩を左へ回り込む。
同時に、ゲインが右側から槍を突き出した。
「穿牙!」
武技の発動とともに槍の穂先へ魔力が集まり、鋭い一撃が黒震狼の右肩へ向かう。
黒震狼は空中で身体を捻り、穂先を避けようとした。
だが、完全には避けきれない。
槍の先端が肩の体毛を裂き、浅い傷を刻んだ。
黒震狼が低く唸る。
しかし、着地と同時に前脚を踏み込み、ゲインへ牙を向けた。
その瞬間、地面が盛り上がった。
「土壁術!」
オスカーの声が響く。
黒震狼とゲインの間へ、胸ほどの高さを持つ土の壁が突き上がった。
湿った土と小石が激しく弾け、黒震狼の視界を遮る。
魔物は壁へ衝突しかけたが、直前で前脚を踏ん張り、身体を横へ流した。
完全に止めることはできなかった。
それでも、突進の軌道がずれた。
「今だ!」
ラウルは左側から踏み込んだ。
右手の長剣を肩の高さへ引き寄せ、刃へ魔力を集める。
剣身の周囲で空気が渦を巻き、薄い風の刃が生まれた。
「裂風斬!」
斬撃が黒震狼の左肩へ向かって振り抜かれる。
魔物はすぐに頭を下げた。
前回、この技を見ている。
同じ攻撃なら避けられると判断したのかもしれない。
しかし、ラウルはその反応を読んでいた。
剣を振り抜く直前、踏み込んだ右足をわずかに外側へずらす。
斬撃の軌道が変わった。
頭ではなく、左前脚の付け根を狙った横薙ぎ。
風を纏った刃が黒震狼の脚へ食い込んだ。
「グルァァッ!」
低い咆哮が響いた。
魔物の身体が横へ揺れる。
ラウルは追撃しようとしたが、黒震狼の尾が横から迫っていることに気づいた。
太く長い尾が、腰の高さへ振り抜かれる。
ラウルは左腕を庇いながら身体を後方へ反らした。
尾の先端が革鎧をかすめ、布の一部を引き裂いた。
直撃していれば、前回と同じように吹き飛ばされていただろう。
ラウルは後方へ跳び、距離を取った。
「……いいぞ。その調子だ!」
ゲインが叫ぶ。
黒震狼の左前脚から血が流れていた。
深い傷ではない。
だが、前回より確実に攻撃が通っている。
ラウルは剣を構え直した。
今度は、ただ追い詰められて逃げるだけではない。
自分たちの攻撃で、この魔物を傷つけられる。
その手応えがあった。
◇◆◇
しかし、黒震狼も黙ってはいなかった。
左前脚へ体重をかけると、わずかに姿勢を崩す。
その痛みを嫌うように、魔物は右側へ身体を傾けた。
だが、黄色い瞳は4人の動きを追い続けている。
ラウルが前へ出れば後退する。
ゲインが槍を構えれば、横へ回り込もうとする。
オスカーが杖を地面へ向けた瞬間には、すぐに進路を変えていた。
「……学習してやがる」
ラウルが呟いた。
黒震狼は、こちらの役割を理解している。
前衛のラウルとゲイン。
術で動きを制限するオスカー。
そして、後方で周囲を警戒するキース。
その中で最も厄介なのが誰なのか。
魔物はすでに判断していた。
突然、黒震狼が低く唸った。
前脚へ灰色の光が集まり始める。
ラウルの表情が変わった。
「……地面への衝撃だ!」
魔物が右前脚を振り上げる。
そのまま地面へ叩きつけた。
ドンッ!
鈍い衝撃が地面を伝わり、岩場の小石が跳ね上がる。
ラウルは膝を曲げて姿勢を低くした。
ゲインも槍の石突きを地面へ当て、踏ん張る。
しかし、黒震狼の狙いは2人ではなかった。
衝撃が、オスカーの立つ場所へ向かって広がっていた。
「……っ!」
オスカーはすぐに杖を地面へ押しつけた。
「地盤固定!」
足元の土へ魔力が流れ込み、周囲の地面が一瞬だけ硬く締まる。
衝撃によって崩れかけた足場が固定され、オスカーは転倒を免れた。
だが、完全には防ぎきれない。
身体の奥へ重い振動が伝わり、膝がわずかに折れた。
その隙を、黒震狼は見逃さなかった。
四肢へ赤い光が走る。
低い姿勢から一気に加速し、ラウルとゲインの間を抜けようとした。
「……させるか!」
ゲインが槍を横へ振るう。
しかし、黒震狼は前脚を踏み込み、身体を低く沈めて槍の下を潜った。
ゲインの穂先が背中の体毛をかすめる。
そのまま黒震狼は、オスカーへ向かって突進した。
距離はおよそ10メートル。
オスカーは杖を引き抜こうとしたが、地盤固定を発動した直後で動きが遅れた。
巨大な牙が迫る。
その瞬間、横からキースが飛び込んだ。
「オスカー!」
キースはオスカーの肩を掴み、岩の陰へ押し倒した。
黒震狼の牙が、2人のすぐ横を通過する。
巨体が地面を削りながら走り抜け、岩へ肩をぶつけた。
鈍い音が響く。
岩の表面に細かな亀裂が走り、破片が周囲へ飛び散った。
「……助かった!」
オスカーが息を吐く。
しかし、キースはすぐに立ち上がった。
「まだ来ます!」
黒震狼が身体を向け直していた。
その口元には、血が混じった唾液が垂れている。
ラウルは剣を握り直した。
前回より傷を負わせている。
それでも、相手の攻撃は依然として致命的だった。
1度でも判断を誤れば、誰かが死ぬ。
その緊張感が、4人の間に広がっていた。
◇◆◇
「……作戦を変えるぞ!」
ラウルが叫んだ。
ゲインが顔を向ける。
「どうする!?」
「追いかけるな! 岩場の中央へ誘導する!」
ラウルは剣を構え直した。
前回の敗北で学んだことがある。
黒震狼を追い回せば、こちらが疲弊する。
しかも、魔物は攻撃の軌道を学習し、隙を見つけて反撃してくる。
ならば、こちらが動き続けるのではなく、相手の進路を制限すればいい。
ラウルは中央の大岩へ視線を向けた。
岩の左右には、人間が通るには十分だが、黒震狼の巨体では窮屈な隙間がある。
その周囲には、オスカーが事前に確認した硬い地盤が広がっていた。
「オスカー、北側の出口を塞げ!」
「わかりました!」
オスカーは杖を地面へ向けた。
魔力が先端の魔石へ集まり、淡い光を放つ。
「土壁術!」
中央の岩から数メートル離れた場所で土が盛り上がり、人の胸ほどの高さを持つ壁が形成された。
同時に、ゲインが岩の右側へ移動する。
ラウルは左側。
キースは後方の高い岩へ登り、黒震狼の動きを確認した。
その配置を見た黒震狼は、すぐに突進しなかった。
黄色い瞳が、ラウルとゲインの位置を交互に確認する。
そして、中央の岩へ視線を向けた。
魔物は何かを警戒しているようだった。
ラウルは剣を構えたまま、ゆっくりと前へ出た。
「……来い」
黒震狼が低く唸る。
赤い光が四肢へ集まった。
その瞬間、ラウルは横へ動いた。
魔物の視線が追う。
ゲインは槍を構え、黒震狼の進路を右側から制限した。
逃げ道は中央の岩の左側。
そこだけが、比較的広く開いている。
黒震狼は一瞬だけ動きを止めた。
そして、ラウルへ向かって加速した。
ラウルは正面から迎え撃たなかった。
黒震狼が近づく瞬間、左足を後方へ引き、身体を岩の陰へ滑り込ませる。
巨大な魔物はラウルを追い、岩の左側へ踏み込んだ。
しかし、その先には土壁があった。
黒震狼はすぐに方向を変えようとした。
だが、巨体を反転させるには十分な空間がない。
前脚を踏ん張り、肩を捻る。
その瞬間、ゲインが右側から踏み込んだ。
「剛槍突き!」
槍の穂先へ魔力が集中する。
ゲインは腰を深く落とし、全身の力を槍へ伝えた。
狙いは、先ほどラウルが傷つけた左前脚。
黒震狼は頭を振り、牙で槍を弾こうとした。
しかし、狭い場所では大きく身体を動かせない。
槍の穂先が左肩の傷口へ突き刺さった。
「グルァァァッ!」
黒震狼が激しく咆哮した。
その巨体が後方へ揺れる。
ゲインは槍を押し込み続けようとしたが、黒震狼が前脚へ力を込めたのを見て、すぐに引き抜いた。
直後、魔物の尾が横へ振り抜かれる。
ゲインは槍を身体の前へ引き寄せ、柄で尾を受け流した。
衝撃によって腕が痺れ、後方へ数歩押し戻される。
それでも、倒れなかった。
「……今だ、ラウル!」
ゲインが叫ぶ。
ラウルはすでに動いていた。
黒震狼の左側へ踏み込み、長剣を低く構える。
魔力が剣身へ流れ込み、刃の周囲へ薄い風がまとわりついた。
だが、今度は裂風斬ではない。
ラウルは剣を振り抜き、続けて身体を回転させた。
「連刃!」
最初の斬撃が黒震狼の左肩へ入る。
続く2撃目が、胸元の体毛を切り裂く。
そして、最後の一撃。
ラウルは右足を深く踏み込み、剣を斜め上へ振り抜いた。
刃が黒震狼の首元へ届く。
しかし、魔物は頭を低くし、牙で剣を受け止めた。
金属と硬い牙がぶつかり、鋭い音が響く。
ラウルの右腕へ強い衝撃が伝わった。
その瞬間、黒震狼の前脚へ灰色の光が集まった。
「……まずい!」
ラウルは剣を引き戻そうとした。
だが、間に合わない。
黒震狼が前脚を地面へ叩きつけた。
衝撃が足元から突き上がる。
ラウルの身体が大きく揺れ、右膝が地面へ落ちた。
魔物はその隙に牙を剥いた。
距離は、わずか2メートル。
ラウルは左腕を庇いながら剣を構え直そうとしたが、身体が思うように動かなかった。
そのとき、オスカーの声が響いた。
「地盤固定!」
ラウルの足元へ魔力が流れ込み、崩れかけた地面が固まった。
さらに、ゲインが横から槍を突き出した。
「穿牙!」
槍の穂先が黒震狼の脇腹を捉える。
深い傷ではない。
しかし、魔物の注意を一瞬だけ逸らすには十分だった。
ラウルはその隙に身体を起こし、後方へ跳んだ。
黒震狼の牙が、目の前を通過する。
あと少し遅れていれば、喉を噛み砕かれていただろう。
「……助かった!」
ラウルが叫ぶ。
ゲインは槍を構え直した。
「礼は後だ!」
黒震狼は血を流しながらも、まだ倒れなかった。
むしろ、その黄色い瞳には以前より強い敵意が宿っているように見えた。
◇◆◇
黒震狼の呼吸が荒くなっていた。
左前脚と肩には深い傷。
胸元にも斬撃の跡が残り、脇腹からは血が流れている。
以前から痛めていた右後脚も、無理な加速を繰り返したせいか動きが鈍くなっていた。
それでも、魔物は立っていた。
ラウルは荒い息を整えながら、剣を構え直した。
左腕が痛む。
右手の握力も落ちてきている。
ゲインも肩で息をし、オスカーは杖を握る手がわずかに震えていた。
術を使い続けたことで、魔力が減っているのだろう。
キースも高い岩の上から周囲を警戒しているが、疲労の色が濃い。
このまま戦闘が長引けば、こちらが先に限界を迎えるかもしれない。
ラウルは歯を食いしばった。
「……あと少しだ」
ゲインが頷く。
「ああ。今なら、倒せるかもしれねえ」
その言葉を聞いたかのように、黒震狼が低く唸った。
背中の毛が逆立ち、四肢へ赤い光が集まり始める。
だが、今までとは様子が違った。
光が不規則に揺れている。
傷ついた脚へ魔力が流れ込むたびに、筋肉が痙攣していた。
それでも、黒震狼は加速しようとしている。
ラウルは目を細めた。
「……無茶をする気か」
次の瞬間、黒震狼が地面を蹴った。
その速度は、負傷しているとは思えないほど速かった。
魔物は中央の岩へ向かって走り、直前で身体を横へ捻る。
ラウルはすぐに剣を構えた。
しかし、黒震狼の狙いはラウルではなかった。
魔物は岩の側面へ前脚をつき、その反動を利用して方向を変えた。
そして、一気にオスカーへ向かって跳躍した。
「……っ!」
オスカーは杖を構えたが、魔力の消耗によって術の発動が遅れた。
黒震狼の巨体が迫る。
距離は、わずか数メートル。
キースが叫んだ。
「オスカー、伏せろ!」
オスカーは反射的に地面へ身体を投げ出した。
黒震狼の前脚が頭上を通過する。
しかし、魔物はそのまま地面へ着地しなかった。
岩の上へ前脚をつき、さらに高く跳躍したのだ。
その先には、北側の斜面があった。
ラウルは一瞬、目を見開いた。
「……逃げる気か!」
黒震狼は、すでに戦闘を続けるつもりがなかった。
傷ついた身体を無理に動かし、残った力を逃走へ使おうとしている。
ゲインが槍を構えた。
「追うか!?」
ラウルは即座に答えなかった。
黒震狼は斜面を駆け上がろうとしている。
ここで逃がせば、再び森の奥へ姿を消すかもしれない。
だが、追撃するには危険が大きすぎる。
相手は瀕死に近い状態でも、一撃で人間を殺せる力を残している。
そして、こちらも無傷ではない。
ラウルが判断を下そうとした、その瞬間だった。
黒震狼の右後脚が、斜面の泥へ深く沈んだ。
負傷していた脚だった。
巨体がわずかに傾く。
その隙を見て、ラウルは剣を振り上げた。
刃へ残った魔力を集める。
「風刃術!」
剣先から薄い風の刃が放たれた。
それは斜面を駆け上がる黒震狼の右脇腹へ向かい、体毛を切り裂いた。
魔物が激しく身体を震わせる。
足元の泥が崩れ、巨体が斜面を滑り落ちた。
黒震狼は前脚で地面を掻き、必死に身体を支えようとした。
だが、負傷した右後脚が踏ん張れない。
そのまま数メートル滑り、倒木へ身体をぶつけた。
鈍い音が響く。
倒木が軋み、周囲の枝が折れた。
黒震狼はしばらく動かなかった。
ラウルは剣を構えたまま、荒い呼吸を整えた。
「……倒したか?」
ゲインが呟く。
だが、キースが首を横に振った。
「……まだです!」
黒震狼の前脚が動いた。
傷ついた身体を持ち上げようとしている。
血に濡れた体毛が泥へ擦れ、巨大な牙の間から荒い息が漏れていた。
魔物は立ち上がった。
だが、その姿は先ほどまでとは違っていた。
左前脚を引きずり、右後脚にはほとんど体重をかけられない。
胸と脇腹からは血が流れ、呼吸も浅く速い。
それでも、黄色い瞳だけは4人を睨みつけていた。
ラウルは剣を握り直した。
あと一撃。
それが届けば、討伐できるかもしれない。
しかし、黒震狼は突然、森の奥へ顔を向けた。
耳が立つ。
鼻先が持ち上がる。
その表情から、敵意とは別の感情が読み取れた。
警戒。
いや、それ以上の何か。
ラウルは眉を寄せた。
「……またか」
前回の戦闘でも、同じことがあった。
黒震狼は突然、人間への追撃をやめ、森の奥を警戒していた。
今回も、同じ方向を見ている。
ラウルはその視線の先へ目を向けた。
木々の間には、暗い森が広がっているだけだった。
だが、どこか遠くから低い音が聞こえた。
地面の奥を伝わってくるような、重い響き。
それが何なのか、ラウルにはわからなかった。
しかし、黒震狼は違った。
魔物は一瞬だけ身体を強張らせると、4人へ背を向けた。
そして、傷ついた脚を引きずりながら森の奥とは反対方向へ走り出した。
「……逃げた!」
ゲインが叫ぶ。
ラウルは追おうとして、一歩踏み出した。
しかし、左腕へ鋭い痛みが走った。
「……くっ!」
剣を握る右手も痺れている。
ゲインも槍を支えながら肩で息をし、オスカーは地面へ膝をついていた。
キースが岩から降り、ラウルへ駆け寄る。
「隊長、追撃は危険です!」
ラウルは歯を食いしばった。
ここまで追い詰めた。
前回とは違う。
確かに、黒震狼へ致命的な傷を与えたはずだ。
それでも、逃げられた。
だが、追いかければ全員が無事に帰れる保証はない。
ラウルはしばらく森の奥を睨んでいたが、やがて剣を下ろした。
「……追撃は中止だ」
ゲインが悔しそうに息を吐いた。
「……くそっ!」
「気持ちはわかる。だが、ここで無理をすれば、前回と同じになる」
ラウルは静かに言った。
「俺たちの任務は、まず情報を持ち帰ることだ」
キースが頷く。
「……了解しました」
オスカーも杖を支えに立ち上がった。
「……黒震狼の行動範囲と、負傷した状態を報告しましょう」
ラウルは頷いた。
そして、黒震狼が逃げた方向を見つめた。
あの魔物は、確かに瀕死に近い状態だった。
だが、生きている。
そして、どこへ逃げたのかはわからない。
ラウルは深く息を吐いた。
「……帰るぞ」
4人は互いの負傷を確認しながら、ゆっくりと岩場を後にした。
◇◆◇
黒震狼は走っていた。
いや、もはや走るというより、倒れそうな身体を前へ投げ出しているような状態だった。
左前脚から血が流れ、胸元の傷は深い。
右脇腹には風の刃によって刻まれた裂傷があり、動くたびに肉が引きつる。
以前から負傷していた右後脚も、まともに踏ん張れなくなっていた。
それでも、黒震狼は足を止めない。
森の奥から離れなければならなかった。
あの重い気配。
地面の奥から響くような足音。
自分よりも遥かに大きな何かが、森の深部にいる。
黒震狼はそれを知っていた。
傷ついた身体で、あの存在へ近づくわけにはいかない。
だから、逃げる。
ただ、生き延びるために。
赤い光が、四肢へわずかに浮かび上がった。
しかし、すぐに消えた。
魔力も、体力も、限界が近い。
黒震狼は低く唸りながら、倒木を越えようとした。
だが、右後脚が木の根へ引っかかり、巨体が地面へ崩れ落ちた。
湿った土が跳ね上がり、傷口へ泥が入り込む。
魔物は苦しげに息を吐いた。
しばらく、その場で動けなかった。
やがて、前脚へ力を込め、ゆっくりと身体を起こす。
黄色い瞳が、木々の隙間を見つめた。
その先には、細い獣道が続いている。
人間の通る街道へつながる道だった。
黒震狼は鼻先を持ち上げた。
風に混じって、かすかな匂いが運ばれてくる。
人間。
複数。
その匂いに、黒震狼の耳がわずかに動いた。
しかし、今は獲物を探している余裕などない。
ただ、森の奥から離れたい。
そして、傷を癒やせる場所へ辿り着きたい。
黒震狼は再び歩き始めた。
血の跡を残しながら。
細い獣道を、ゆっくりと進んでいく。
その先で何が待っているのか。
今の黒震狼には、知る由もなかった。
◇◆◇
同じ頃。
リーヴェルの冒険者ギルドでは、ネクシアの4人が次の予定について話し合っていた。
西の村から帰還し、依頼の報酬を受け取ったばかりだった。
ユウキは腰へ下げた軽量片手剣を見つめながら、ガルドへの支払いについて考えていた。
「……そろそろ、一度お店へ行こうか」
トーマが顔を上げた。
「ガルドさんのところ?」
「うん。まだ全部は返せないけど、今回の依頼が無事に終わったことを報告したいし」
バルドが頷いた。
「そうだな。あの男も、心配しておるだろう」
ドランは帳面を閉じた。
「わしも賛成だ。ただ、その前に少し休んだ方がいい。昨日の戦闘で、皆それなりに疲れておる」
「……そうですね」
ユウキは頷いた。
新しい装備のおかげで、以前より戦いやすくなった。
しかし、ランク2の鎧牙猪との戦闘では、自分たちの未熟さも痛感した。
もっと強くならなければならない。
だが、焦っても仕方がない。
今は、1つずつ経験を積み重ねていくことが大切だった。
ユウキは仲間たちを見渡した。
「……じゃあ、明日は休んで、それからガルドさんのところへ行こう」
トーマが笑った。
「賛成!」
バルドも頷き、ドランは静かに微笑んだ。
4人は、いつものように穏やかな時間を過ごしていた。
そのとき、彼らはまだ知らなかった。
かつて自分たちを死の淵へ追い込んだ黒い魔物が、今まさに深手を負い、森を彷徨っていることを。
そして、その逃走経路が、やがて自分たちの歩む道と交わることになるということを。
――第75話 完。




