第74話 帰還と討伐の決断
夜明けとともに、西の村には久しぶりの穏やかな朝が訪れていた。
低い丘の向こうから昇った太陽が、薄く霧のかかった畑を照らしている。昨日の戦闘で踏み荒らされた土には、まだ深い蹄の跡が残っていたが、村人たちはすでに修復作業を始めていた。
折れた柵を運ぶ者。
散らばった作物を片づける者。
畑の状態を確認し、残った苗を植え直そうとする者。
誰もが忙しそうに動き回っていたものの、その表情には昨日までとは違う明るさがあった。
「……少し、安心したね」
トーマが呟いた。
ユウキは頷き、村人たちの様子を眺めた。
昨夜、ネクシアは畑へ現れた4体の魔物と交戦した。
そのうち2体の牙猪は討伐できたが、残る1体と、ランク2の鎧牙猪は森へ撤退している。
村への侵入は防いだ。
しかし、魔物の脅威が完全に消えたわけではない。
そのことを理解していたユウキは、気を緩めるわけにはいかなかった。
「……もう一度、森の周辺を調べておきたいです」
ユウキが言うと、バルドが頷いた。
「そうだな。昨夜の魔物が戻っていないか、確認しておこう」
ドランも頷く。
「それと、壊れた柵の修理方法も村の者へ伝えておきたい。今のままでは、また同じ場所から侵入される可能性がある」
「じゃあ、僕は足跡を確認してくるよ」
トーマが言った。
ユウキはすぐに首を横に振った。
「待って。1人で森の方へ行くのは危ないよ」
「あ……そうだったね」
トーマは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「うん」
ユウキは笑った。
以前の自分たちなら、敵を倒したという事実だけで安心していたかもしれない。
だが、今は違う。
倒せなかった魔物がいる。
その魔物が、再び村へ現れる可能性もある。
だからこそ、今回の依頼はまだ終わっていなかった。
◇◆◇
西側の畑へ到着すると、4人は昨夜の戦闘場所を改めて確認した。
畑の中央には深い蹄の跡が刻まれ、北側の用水路では斜面の土が大きく崩れている。
鎧牙猪が滑り落ちた場所だった。
ユウキは地面へしゃがみ込み、足跡の状態を調べた。
「……やっぱり、大きいね」
足跡の深さは、ほかの牙猪のものとは明らかに違っている。
特に突進の直前に踏み込んだ場所では、前脚の跡が深く沈み、周囲の土が後方へ押し出されていた。
トーマも隣へしゃがみ込んだ。
「これだけ重い身体で、あんなに速く走れるんだもんね」
「うん。正面から受け止めたら、危なかったと思う」
ユウキは昨夜の戦闘を思い返した。
鎧牙猪が突進してきたとき、ドランの指示に従って地形を利用した。
もし、全員で正面から攻撃していたら。
誰かが大きな怪我を負っていたかもしれない。
「……バルドさんの盾でも、危なかったですよね」
ユウキが振り返ると、バルドは小さく頷いた。
「ああ。あの巨体を真正面から受ければ、盾が無事でもわしの身体が耐えられん」
バルドは新しい軽量複合盾へ手を添えた。
「それに、昨日の戦いでは、盾を使って相手の攻撃を逸らすことができた。だが、もっと速い相手なら、同じ方法が通用するとは限らん」
その言葉を聞き、ユウキは黒震狼の姿を思い出した。
赤い光を纏い、一瞬で距離を詰めてきた巨大な狼。
あの魔物の速度は、鎧牙猪よりも遥かに恐ろしかった。
もし再び遭遇したとして、今の自分たちに何ができるだろうか。
ユウキは思わず剣の柄へ手を添えた。
「……ユウキ?」
トーマが顔を覗き込んできた。
「あ、ううん。何でもない」
ユウキは小さく首を振った。
今は目の前の依頼へ集中するべきだ。
4人は畑の周囲に残された足跡を追い、森の縁まで確認した。
鎧牙猪が撤退したと思われる方向には、深い蹄の跡が続いている。
しかし、森の奥へ入るにつれて地面は落ち葉に覆われ、足跡を追うことは難しくなっていた。
トーマは周囲を見回した。
「……新しい足跡は、あんまりなさそう」
ドランが頷く。
「昨夜の連中が、そのまま村へ戻ってきた様子はないな」
「でも、完全にいなくなったとは限らないですよね」
ユウキが尋ねる。
「そのとおりだ」
ドランは落ち葉の積もった獣道へ視線を向けた。
「ここから先は、森の奥へ入らないと確認できん。だが、それは今回の依頼の範囲を超えている」
バルドも頷いた。
「無理に追跡すれば、また別の魔物と遭遇する可能性もある」
ユウキは静かに頷いた。
自分たちの目的は、村の安全を確認し、必要な情報を持ち帰ることだ。
鎧牙猪を討伐することではない。
4人はそれ以上森へ踏み込まず、村へ戻ることにした。
◇◆◇
昼前になると、ドランは村人たちと一緒に壊れた柵の修理方法を確認していた。
古い支柱を抜き、新しい木材を地面へ打ち込んでいく。
ただし、単純に元の位置へ戻すだけではない。
昨夜の鎧牙猪の突進を考え、支柱の間隔や補強の位置についても助言していた。
「ここは、横木を1本増やした方がいい」
ドランは柵の中央を指差した。
「それから、支柱の根元へ斜めの補強材を入れる。そうすれば、横から押されたときに倒れにくくなる」
村の若者が頷いた。
「なるほど……。でも、あの大きな魔物が来たら、これでも壊されるんじゃないですか?」
「ああ。完全に防げるとは思わん」
ドランは正直に答えた。
「だが、簡単に壊されなければ、その分だけ見張りが異変に気づく時間を稼げる」
その言葉に、若者は納得したように頷いた。
バルドも修理を手伝いながら、村人たちへ声をかけた。
「もし同じ魔物が現れたら、農具で立ち向かおうとするな。まずは避難することだ」
「……わかりました」
「それと、夜間の見張りは1人で行わん方がいい。必ず複数人で交代し、何かあればすぐに知らせられるようにしておけ」
村人たちは真剣な表情で頷いた。
ユウキとトーマも、畑の周囲に散らばった木材を運び、作業を手伝った。
すべての柵を修理することはできなかったが、危険な場所には仮の補強を施すことができた。
村長は、その様子を見ながら深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます」
ユウキは慌てて首を横に振った。
「いえ。僕たちも、できることをしただけです」
村長は優しく微笑んだ。
「それでも、村の者たちは安心しています。昨夜は、久しぶりに眠れたという者もおりました」
その言葉を聞き、ユウキの胸が少し温かくなった。
誰かを守る。
そのために剣を振るう。
この世界へ来てから、何度も戦いを経験した。
だが、自分の力が誰かの生活を守ることにつながっていると実感できたのは、決して多くなかった。
「……よかったです」
ユウキは静かに答えた。
そして、村長へ向き直った。
「ただ、鎧牙猪はまだ森にいます。僕たちだけでは安全を保証できません」
「……はい」
「ギルドへ報告して、必要なら改めて調査してもらえるようにします」
村長は真剣な表情で頷いた。
「どうか、よろしくお願いします」
ユウキは深く頭を下げた。
◇◆◇
翌朝。
ネクシアの4人は、村人たちに見送られながらリーヴェルへ向けて出発した。
帰路には、昨夜倒した牙猪2体から回収した魔石と、村周辺の調査内容を記録した簡単な報告書を携えている。
行きと違い、帰りの荷車には村から街へ運ぶ予定の商品が積まれていた。
商人は馬をゆっくりと進ませながら、何度も礼を口にした。
「皆さんのおかげで、無事に村へ物資を届けることができました」
「いえ、僕たちも勉強になりました」
ユウキが答えると、商人は笑った。
「若いのに、しっかりしておられる」
その言葉に、トーマが少し嬉しそうな顔をした。
「ユウキ、褒められてるよ!」
「……う、うん」
ユウキは少し照れながら笑った。
バルドも口元を緩める。
「確かに、今回の判断は悪くなかった。無理に討伐を狙わず、守るべきものを優先できた」
ドランも頷いた。
「それに、新しい装備の扱いについても、それぞれ課題が見えた」
「……そうですね」
ユウキは腰の軽量片手剣へ視線を向けた。
鎧牙猪の硬い皮膚には、刃がほとんど通らなかった。
武器の性能が上がっても、相手の防御力を超えなければ意味がない。
それでも、軽く取り回せる剣は、攻撃を避けながら戦ううえで大きな助けになった。
トーマも双短剣へ手を添えた。
「僕も、もっと素早く動けるようになりたいな」
バルドが笑った。
「まずは、足元をよく見ることだな」
「わかってるって!」
4人の間に、穏やかな笑い声が広がった。
荷車は街道を進み、やがてリーヴェルの城壁が見えてきた。
◇◆◇
冒険者ギルドへ戻ると、ネクシアは受付で依頼の完了報告を行った。
担当の女性職員は、提出された報告書を読みながら何度か頷いていた。
「……なるほど。村周辺に確認された魔物は、牙猪3体と鎧牙猪1体だったのですね」
「はい。牙猪は2体討伐しましたが、残りの2体は森へ撤退しました」
ユウキが答える。
「村の近くには戻ってきていないようでしたが、完全に安全になったわけではありません」
職員は真剣な表情で頷いた。
「重要な情報ですね。追加調査の必要があるか、担当者へ確認します」
ドランは続けた。
「それと、村の柵は一部が破損していたため、応急的な修理を手伝ってきた。見張りの配置についても助言してある」
「ありがとうございます。そこまで対応していただいたのですね」
職員は報告書へ書き込みを加えた。
続いて、商人が提出した荷物の受領証と、村長の署名が入った依頼完了書を確認する。
「物資運搬については、問題なく完了しています」
職員は微笑んだ。
「基本報酬の銀貨6枚をお支払いします」
トーマの表情が明るくなった。
「やった!」
しかし、ユウキは少し気になって尋ねた。
「……追加報酬については、どうなりますか?」
「村周辺の安全確認ですね」
職員は依頼書を確認した。
「今回は魔物の種類と出現場所を確認し、村への侵入も防いでいます。村長からも、安全確認の依頼は完了したと報告されています」
そして、にこりと笑った。
「ですので、追加報酬の銀貨2枚もお支払いできます」
トーマが思わず拳を握った。
「……全部で銀貨8枚!」
バルドも頷いた。
「悪くない報酬だな」
ドランは静かに帳面を取り出した。
「……さて、分配を考えよう」
ユウキは少し考えた。
前回の護衛依頼では、報酬の一部を共同資金として残していた。
今回も同じように分配するのがよいだろう。
「今回も銀貨2枚を共同資金にして、残りを4人で分けませんか?」
ユウキが提案した。
トーマは頷いた。
「賛成!」
バルドも同意する。
「わしもそれでいい」
ドランは帳面へ数字を書き込んだ。
「では、今回の依頼から共同資金へ銀貨2枚。残りの銀貨6枚を4人へ分配しよう」
前回の装備購入で、共同資金は銀貨1枚まで減っていた。
今回の報酬から銀貨2枚を加えることで、残高は銀貨3枚になる。
さらに、街道で倒した小鬼3体と、村で討伐した牙猪2体の魔石も買い取りに出した。
ただし、その査定には少し時間がかかるため、売却代金については後から確認することになった。
報酬の分配を終えると、ユウキは少しだけ財布を見つめた。
ガルドへ返さなければならない代金がある。
自分の軽量片手剣は、銀貨3枚。
今日受け取った報酬だけで、すべてを返せるわけではない。
だが、確実に返済へ近づいている。
「……少しずつ、返していこう」
ユウキが呟くと、トーマが頷いた。
「うん! 僕も早く返したい!」
ドランも笑った。
「焦る必要はない。ガルドも、生活費まで削って返せとは言っておらんからな」
バルドが頷く。
「まずは、次の依頼へ備えることだ」
ユウキは静かに頷いた。
今回の依頼は、これで完了した。
しかし、彼らが知らないところでは、別の出来事が動き始めていた。
◇◆◇
同じ頃。
リーヴェルの冒険者ギルド、奥の会議室。
長机の上には東部街道の地図が広げられ、その周囲へ数人の冒険者が集まっていた。
中央に立っているのは、調査担当のセドリック・ハルト。
その向かいには、左腕へ包帯を巻いたラウル・ベルガーの姿があった。
数日前、黒褐色の巨大な狼と交戦したCランク冒険者だ。
ラウルの左腕は治療によって回復しつつあるものの、まだ強く剣を振るには不安が残っていた。
隣にはゲインとキースが座っている。
オスカーは地図の端へ置かれた石を見つめ、何かを考えていた。
ミレアも会議室へ顔を出していたが、左肩の負傷はまだ完全には治っておらず、弓を引くことは許されていなかった。
「……全員、集まったな」
セドリックが口を開いた。
ラウルは頷いた。
「それで、話ってのは?」
セドリックは机の上へ古い記録書を置いた。
「以前、皆さんが交戦した大型魔物についてです」
その言葉に、ラウルの表情が引き締まる。
「……何かわかったのか?」
「はい。古い記録から、非常によく似た特徴を持つ魔物が確認されました」
セドリックは記録書を開いた。
ページには、黒褐色の巨大な狼の姿が描かれている。
その下には、古い文字で名称が記されていた。
『黒震狼』
魔獣種。
ランク3、上位魔物。
ラウルは記録を読み、ゆっくりと眉を寄せた。
「……黒震狼か」
「確定ではありません。ただ、外見と能力の特徴は非常によく一致しています」
セドリックは説明を続けた。
「赤い光を伴う加速能力。灰色の光によって地面へ衝撃を伝える能力。そして、通常の森狼を遥かに上回る身体能力と知能」
ゲインが腕を組んだ。
「……確かに、俺たちが戦った奴と似てるな」
オスカーも頷く。
「地面を伝わる衝撃についても一致しています。ただ、あの能力は単純な地属性の術とは違うように感じました」
「どう違う?」
ラウルが尋ねた。
オスカーは少し考えた。
「術式を発動させるような明確な魔力の流れが見えなかったんです。あれは身体能力と魔力が組み合わさった、魔物特有の技能なのかもしれません」
セドリックは頷いた。
「その可能性はあります」
そして、記録書の次のページを開いた。
「ですが、今回皆さんへお伝えしたいのは、名称だけではありません」
ラウルが顔を上げた。
「……何だ?」
セドリックは記録の一節を指差した。
「黒震狼には、極めて危険な特徴があるとされています」
会議室に静けさが広がった。
「……異常な成長速度です」
ラウルの目が細くなった。
「成長速度?」
「はい。通常の魔物と比較して、戦闘や生存経験を通じて急速に能力を高める可能性があるそうです」
セドリックは続けた。
「さらに、短期間で存在進化を遂げる可能性も指摘されています」
ゲインが椅子から身を乗り出した。
「……つまり、今はランク3でも、次に会ったときはもっと強くなってるかもしれないってことか?」
「そのとおりです」
セドリックは頷いた。
「存在進化については、現在も学者たちの間で意見が分かれています。レベルの上昇によって起こるという説と、魔石を一定量摂取することで起こるという説が有力です」
オスカーが口を開いた。
「……魔石の摂取ですか」
「はい。ただし、どちらも完全には証明されていません」
ラウルは静かに息を吐いた。
「……厄介な話だな」
「ええ」
セドリックは頷いた。
「もし今回の個体が黒震狼であり、記録にある成長速度も正しいなら、時間が経つほど対処が難しくなる恐れがあります」
ラウルは机の上の地図を見つめた。
前回の戦闘で負傷させた右後脚。
肩口と顔へ与えた浅い傷。
あの魔物は確かに傷ついていた。
それでも、5人を相手に圧倒的な力を見せつけた。
あれ以上強くなる可能性があるというのか。
「……放っておくわけにはいかねえな」
ラウルが低く呟いた。
ミレアが口を開く。
「でも、前回は私たち5人でも勝てなかった。次に戦うなら、同じ方法じゃ駄目よ」
「わかってる」
ラウルは頷いた。
「だからこそ、準備が必要だ」
◇◆◇
セドリックは地図の上へ小さな木片を置いた。
それは、前回の調査隊が黒震狼と遭遇した地点を示していた。
「まず、前回の戦闘を整理しましょう」
ラウルは立ち上がり、右手で木片を動かした。
「最初に接触したのは、この沢の近くだ」
地図の中央には、細い水路が描かれている。
その両側には緩やかな斜面と、岩の多い地形が続いていた。
「黒震狼は斜面の上から現れた。俺たちは沢を背にしていたから、移動できる方向が限られていた」
ゲインが頷く。
「しかも、あいつは最初から俺たちの動きを見てやがった」
「そうだ」
ラウルは木片を動かした。
「俺が正面で注意を引き、ゲインが槍で右側を塞いだ。ミレアは後方から援護していたが、あいつはすぐに狙いを変えた」
ミレアは肩へ手を添えた。
「……私が矢を当てたあとね」
「ああ。あのとき、あいつは俺たちの動きを理解したように見えた」
キースが口を開く。
「……戦闘中に、こちらの癖を覚えている可能性があります」
ラウルは頷いた。
「俺もそう思う。だから、次は同じ技を繰り返すわけにはいかねえ」
オスカーが地図の端へ指を置いた。
「なら、地形を先に選びましょう」
「……地形?」
ゲインが尋ねる。
「はい。前回は、あちらに有利な場所で戦うことになりました。次は、できるだけ突進の距離を制限できる場所へ誘導するべきです」
オスカーは地図の北側を指差した。
「このあたりには岩場があります。大きな岩が点在しているため、一直線に走れる距離が短い」
キースも頷く。
「確かに、あの場所なら足跡を追うこともできそうです。ただし、岩の陰へ隠れられると見失う危険もあります」
「そこは俺が先に調べる」
ラウルが言った。
ミレアは少し考えたあと、口を開いた。
「……私の弓は、まだ使えないわ」
その言葉に、会議室が少し静かになった。
ラウルはミレアを見た。
「無理するな。肩が治るまでは戦闘に参加させられん」
「でも、前回の情報なら伝えられる」
ミレアは頷いた。
「あの魔物が矢を避けるとき、必ず頭を下げるわけじゃなかった。身体の向きを変えることもあったし、わざと攻撃を受けて距離を詰めてきたこともあった」
ラウルは頷いた。
「……その情報は重要だ」
ミレアは続けた。
「次に戦うなら、相手が傷を負うことを恐れていない可能性も考えた方がいい」
ゲインが低く唸った。
「……厄介だな」
オスカーは地図を見つめた。
「でしたら、攻撃を当てることだけではなく、移動を制限することを優先しましょう。前脚や後脚の動きを止められれば、あの加速能力も使いにくくなるはずです」
ラウルは腕を組んだ。
「……前回負傷させた右後脚か」
「はい。ただし、すでに回復している可能性もあります」
セドリックが口を開いた。
「その点についても、慎重に考えてください。黒震狼の成長が速いという記録はありますが、負傷の回復速度まで同じとは限りません」
ラウルは頷いた。
「わかってる」
そして、地図を見つめながら続けた。
「まずは再調査だ。前回の足跡と縄張りを確認する。そのうえで、討伐に必要な人員と装備を決める」
セドリックも頷いた。
「ギルドとしても、追加の冒険者を手配できるか確認しています」
ラウルはゆっくりと顔を上げた。
「……ただし、時間をかけすぎるのも危険だな」
黒震狼が本当に急速に成長する魔物なら、今この瞬間にも強くなっている可能性がある。
それでも、焦って戦えば命を落とす。
慎重さと速度。
相反する2つの判断を、同時に求められていた。
ラウルは深く息を吐いた。
「……準備を進めよう」
その言葉に、ゲインとキースが頷いた。
オスカーも地図を畳み始める。
ミレアは少し悔しそうな表情を浮かべていたが、やがて静かに頷いた。
黒震狼との再戦。
それは、まだ正式に決まったわけではない。
しかし、調査隊の者たちは理解していた。
あの魔物を放置すれば、東部街道を通る人々が危険に晒されるかもしれない。
そして、次に遭遇するときには、以前より強くなっている可能性すらある。
今度こそ、相手の力を見誤るわけにはいかなかった。
◇◆◇
その夜。
東部街道から離れた森の奥では、黒震狼がゆっくりと歩いていた。
黒褐色の体毛には、以前の戦闘でついた傷が残っている。
右後脚の動きも、完全には戻っていなかった。
それでも、その足取りには以前とは違う慎重さがあった。
黒震狼は周囲の匂いを確かめながら、木々の間を進んでいく。
湿った土。
苔に覆われた岩。
そして、ほかの魔物が残したわずかな気配。
そのすべてを確かめるように、鼻先を動かしていた。
やがて、森の奥にある小さな沢へ到着する。
水面には月明かりが映り、周囲には倒木がいくつも横たわっていた。
黒震狼は水を飲もうとして、突然動きを止めた。
耳が立つ。
鼻先が持ち上がる。
風に混じって、何かの匂いが運ばれてきた。
黒震狼は低く唸った。
その視線は、森のさらに深い場所へ向けられている。
しばらくすると、遠くから重い足音が聞こえた。
ゆっくりとした間隔。
だが、その一歩ごとに地面へ伝わる振動は、黒震狼のものとは比較にならないほど重かった。
黒震狼は身体を低く構えた。
背中の毛が逆立つ。
赤い光が、ほんの一瞬だけ四肢へ浮かび上がった。
しかし、突進することはなかった。
黒震狼は静かに後退し、倒木の陰へ身体を隠した。
その瞳は、暗い森の奥をじっと見つめている。
やがて、遠くの足音が少しずつ離れていった。
黒震狼はそれを確かめるように耳を動かし、ゆっくりと姿勢を戻した。
しばらくして、再び歩き始める。
だが、森の奥へは進まなかった。
その方向には、近づいてはならない何かがいる。
少なくとも、黒震狼はそう判断しているかのようだった。
そして、月明かりの届かない暗闇の中へ姿を消していった。
その存在が、やがてネクシアの運命へ大きく関わることになるとは、まだ誰も知らなかった。
――第74話 完。




