第73話 牙猪の群れ
森の奥から聞こえた唸り声に、3体の牙猪が一斉に動きを止めた。
畑の端まで出てきていた個体が鼻先を持ち上げ、耳を震わせる。もう1体は地面を掻き、何かを待つように森の方へ身体を向けた。
ユウキはその様子を見ながら、剣の柄を握り直した。
3体ともランク1の下級魔物。
それだけなら、今のネクシアでも十分に対応できる可能性がある。
しかし、森の奥にいる何かは違う。
木々の間で枝が折れ、重いものが地面を踏みしめる音が聞こえてくる。その間隔はゆっくりとしていたが、足音のたびに草の先端が震え、周囲の小枝が押し広げられていた。
「……大きい」
北側の用水路に身を伏せていたトーマが呟く。
森の縁から、巨大な頭部が姿を現した。
暗褐色の体毛は太く硬そうで、肩から背中にかけては黒い金属のような光沢を帯びている。低く構えた頭の左右には湾曲した牙が伸び、その先端は地面を向いていた。
通常の牙猪より明らかに大きい。
肩の高さだけで、成人男性の胸元近くまである。
巨大な個体は、畑の手前で一度立ち止まった。
鼻先を地面へ近づけ、ゆっくりと左右へ動かす。
その視線が、畑の東側に立つユウキたちへ向けられた。
ユウキの背中を冷たいものが走った。
黒震狼ほどではない。
それでも、目の前にいる魔物が、先ほど鑑定した3体とは違うことは理解できた。
――鑑定。
ユウキは巨大な個体へ意識を集中した。
視界の中に淡い文字が浮かび上がる。
【鑑定結果】
名称:鎧牙猪
種族:魔獣
魔物ランク:2(強化魔物)
レベル:8
HP:118
MP:8
STR:28
VIT:32
AGI:10
MAG:2
MND:6
DEX:5
習得技能:
突進 Lv.3
皮膚硬化 Lv.2
威嚇 Lv.1
「……ランク2!」
ユウキは思わず声を漏らした。
トーマがこちらへ顔を向ける。
「えっ?」
「大きい個体は、鎧牙猪。ランク2の強化魔物で、レベル8!」
ユウキは鑑定結果を確認しながら続けた。
「筋力と耐久力が高い。突進Lv.3と皮膚硬化Lv.2、それに威嚇を持ってる!」
バルドが低く唸った。
「……なるほど。厄介な相手だな」
ドランは森と畑の位置を見比べていた。
鎧牙猪がいるのは、森の縁からおよそ4メートルの場所。
そこから畑の中央までの距離は15メートルほどで、さらに東へ進めば村へ続く道がある。
畑の左右には用水路と石垣があり、まっすぐ突進できる範囲は限られている。
だが、鎧牙猪が柵を突破し、そのまま村へ向かえばどうなるか。
答えは簡単だった。
家の壁や村の門では、あの巨体を止められない可能性がある。
「……ユウキ」
ドランが低い声で呼んだ。
「無理に倒す必要はない。ここで進路を変えさせられれば、それでいい」
ユウキは頷いた。
「はい。村には近づけさせません」
「それと、正面から受けるな。あの体重で突進されれば、盾が無事でも身体が持たん」
バルドも頷いた。
「わかっておる。必要なら、盾で方向を逸らすことだけを考えよう」
トーマは用水路の向こうから声をかけた。
「僕は北側を見てる。小さいやつが回り込もうとしたら知らせるよ!」
「お願い!」
ユウキは返事をし、剣を抜いた。
戦う必要があるのなら、まずは3体の牙猪を分断する。
そのうえで、鎧牙猪がどのように動くかを見極める。
ユウキは呼吸を整えた。
森の奥で、鎧牙猪が低く唸る。
その声を聞いた3体の牙猪は、まるで合図を受けたかのように畑へ走り始めた。
◇◆◇
最初に動いたのは、レベル3の牙猪だった。
3体の中では敏捷性が最も高い個体。
畑の北側を回り込み、用水路の手前を走り抜けようとする。
「北へ行く!」
トーマの声が響いた。
牙猪は畝を飛び越え、地面を蹴って加速する。
その速度は、単純な直線の走りならトーマを上回るほどではない。しかし、四肢を低く構えた身体は安定しており、柔らかい土の上でも足を滑らせにくい。
トーマは用水路の手前で身を低くし、牙猪の進路を観察した。
用水路の幅は、およそ1メートル半。
水深は浅いが、両側の土は湿っている。
牙猪が跳び越えるには十分な距離だった。
ただし、着地する瞬間は無防備になる。
トーマはそこを狙った。
牙猪が用水路へ近づく。
後脚が地面を強く蹴り、身体が前方へ浮き上がった。
トーマは右へ跳ぶのではなく、斜め後方へ一歩下がった。
牙猪の身体が目の前を通過する。
着地した瞬間、前脚が湿った土へ沈み込み、わずかに姿勢が崩れた。
トーマは左手の短剣を低く構え、相手の後脚へ向かって踏み込む。
だが、牙猪は思った以上に素早く身体を捻った。
突き出された牙が、トーマの右太腿へ向かって振り上げられる。
「……っ!」
トーマは反射的に身体を引き、短剣の攻撃を途中で止めた。
牙の先端が革装の下をかすめる。
あと少し遅れていれば、脚を深く傷つけられていただろう。
「危なっ……!」
トーマは後方へ跳び、距離を取った。
牙猪は鼻を鳴らしながら向きを変え、再び突進の姿勢を取る。
トーマは双短剣を構え直した。
今の攻撃は、相手の着地直後を狙った。
それでも、反撃されかけた。
魔物の動きを軽く見てはいけない。
トーマはそう理解し、相手の次の動きを待った。
一方、畑の中央では、レベル4の牙猪がユウキへ向かっていた。
背丈はユウキの腰ほど。
体長はおよそ1メートル半で、鼻先から伸びる牙は刃物のように鋭い。
ユウキは畝の間に立ち、軽量片手剣を構えた。
牙猪が鼻先を下げる。
前脚が土を掻き、肩の筋肉が盛り上がった。
――突進が来る。
ユウキはそう判断し、剣先を少し下げた。
相手を迎え撃つのではない。
まず、攻撃の軌道を外す。
牙猪が走り出した。
わずか数歩で速度を上げ、低く構えた頭をユウキの腹部へ向けて突き出す。
ユウキは右足を軸に身体を左へ開いた。
牙が腰の横を通り過ぎる。
その瞬間、ユウキは剣を斜め下へ振り下ろした。
狙いは肩の後ろ。
刃が硬い体毛を押し分け、皮膚へ食い込む。
「グギィッ!」
牙猪が悲鳴を上げる。
しかし、勢いは止まらない。
ユウキは無理に剣を押し込まず、すぐに引き抜いた。
その判断が遅れていれば、走り抜ける魔物に腕を引かれ、姿勢を崩していただろう。
牙猪は数メートル先で足を止め、身体を反転させた。
肩口から血が滲んでいる。
だが、まだ十分に動けるようだった。
ユウキは剣を構え直した。
真正面からの力比べでは勝てない。
それでも、相手の突進を避け、その隙を狙えば攻撃を当てられる。
もう一度、同じ動きが通用するだろうか。
ユウキは慎重に距離を測った。
その頃、畑の南側ではバルドがレベル5の牙猪と向かい合っていた。
3体の中で最も大きく、皮膚硬化の技能を持つ個体。
バルドは軽量複合盾を左前方へ構え、右手の片手斧を低く握っていた。
背後には村へ続く道がある。
ここを突破させるわけにはいかない。
牙猪は鼻息を荒くしながら地面を掻いた。
その背中に、わずかな光沢が浮かび上がる。
皮膚硬化。
技能によって、体表が通常より硬くなっているのだろう。
バルドは盾の角度を調整した。
「……来い」
牙猪が突進した。
土を蹴る音が連続し、低い巨体が一直線に迫ってくる。
バルドは正面から受け止めようとはしなかった。
突進の軌道を確認し、左足を斜め後方へ引く。
同時に、盾を相手の頭部へ向けて傾けた。
ガンッ!
牙が盾の縁へぶつかった。
重い衝撃が左腕へ伝わる。
しかし、盾を斜めに構えていたため、攻撃の力は正面からではなく横へ流れた。
牙猪の頭部が右側へ逸れ、身体がわずかに傾く。
バルドはその動きに合わせて腰を回し、右手の斧を振り下ろした。
狙いは前脚の付け根。
だが、刃は硬化した皮膚へ浅く食い込んだだけだった。
「……硬い!」
バルドは斧を引き戻し、すぐに距離を取った。
牙猪は低い唸り声を上げながら身体を向け直す。
皮膚硬化を持つ相手に、単純な斬撃は通りにくい。
ならば、狙う場所を変える必要がある。
バルドは牙猪の脚と腹部を観察した。
背中や肩は硬い。
しかし、腹の下や関節部分まで同じ硬さとは限らない。
次の攻撃では、そこを狙う。
バルドは盾を構え直した。
◇◆◇
3体の牙猪が畑の中で暴れる間、鎧牙猪は森の縁から動かなかった。
その巨大な身体は、まるで周囲の状況を見定めているかのように静止している。
ユウキはレベル4の牙猪と向かい合いながら、何度かその姿を確認していた。
おかしい。
ほかの牙猪が戦っているのに、鎧牙猪だけは動かない。
まるで、こちらの実力を測っているかのようだった。
「……ドランさん!」
ユウキが声を上げる。
「大きい個体、まだ動いてません!」
「ああ、見えている!」
ドランは見張り台の横で周囲を確認しながら答えた。
「気を抜くな。あいつが動くとしたら、今の3体がこちらの注意を引きつけている間だ!」
ユウキは頷いた。
その瞬間、目の前の牙猪が再び突進してきた。
ユウキはすぐに意識を戻す。
レベル4の牙猪は、先ほどの攻撃で肩を傷つけている。
それでも、突進の速度は大きく落ちていない。
牙猪が地面を蹴る。
ユウキは身体を右へ開き、相手を通過させようとした。
だが、牙猪は直前で前脚を踏ん張り、頭を横へ振った。
「……っ!」
牙の先端がユウキの左腕へ向かって迫る。
回避が間に合わない。
ユウキは反射的に剣を引き寄せ、刃の根元近くで牙を受けた。
金属と硬い牙がぶつかり、鋭い音が響く。
衝撃で手首が痺れた。
それでも、新しい剣は折れなかった。
ユウキは相手の頭を押し返すのではなく、刃を斜めに滑らせながら身体を後方へ逃がした。
牙が左腕の外側をかすめる。
革装が裂け、浅い痛みが走った。
ユウキは歯を食いしばりながら後退した。
左腕に細い傷ができていたが、動かせないほどではない。
牙猪は再び身体を向け直そうとしている。
ユウキは、その動きが先ほどよりわずかに遅いことへ気づいた。
肩の傷が影響している。
ならば、今が好機だった。
ユウキは剣を構え、身体の内側へ魔力を集めた。
右腕から剣へ、わずかな力が流れ込む。
――二段斬り。
武技の発動とともに、ユウキは前へ踏み込んだ。
最初の斬撃は、牙猪の傷ついた肩へ向けたものだった。
刃が皮膚を切り裂き、相手の身体が傾く。
続く二撃目。
ユウキは剣を振り戻す勢いを利用し、肩口から首の下へ斜めに切り込んだ。
牙猪が大きく身体を震わせる。
前脚が崩れ、巨体が畑の土へ倒れ込んだ。
ユウキは剣を引き抜き、荒く息を吐いた。
武技の消費によって、体内の魔力が減った感覚がある。
それでも、まだ動ける。
ユウキは倒れた牙猪を確認した。
すでに動きは止まっていた。
「……倒した!」
声を上げた直後、北側からトーマの叫びが聞こえた。
「ユウキ! そっち、気をつけて!」
ユウキは振り返った。
森の縁にいた鎧牙猪が、ついに動き始めていた。
◇◆◇
鎧牙猪は頭を低く構え、前脚で地面を強く掻いた。
その背中に、金属のような光沢が広がっていく。
皮膚硬化。
さらに、身体の周囲へ淡い魔力の揺らぎが生じた。
ユウキは息を呑んだ。
「……来る!」
次の瞬間、鎧牙猪が走り出した。
その速度は、巨体から想像するより遥かに速かった。
森の縁から畑の中央まで、およそ15メートル。
巨大な魔物は数歩で加速し、畑の畝を押し潰しながら一直線に突進してくる。
狙いは、ユウキではなかった。
村へ続く道。
その手前に立つ、バルドだった。
「バルドさん!」
ユウキが叫ぶ。
しかし、バルドはすでに動いていた。
目の前のレベル5の牙猪から距離を取り、盾を構えながら横へ移動する。
だが、鎧牙猪の速度は予想以上だった。
このままでは、避けきれない。
そのとき、ドランの声が響いた。
「バルド! 左へ飛べ!」
バルドは迷わず左へ身体を投げ出した。
鎧牙猪が通過する。
巨体が地面を踏みしめ、畑の土を大きく抉った。
直後、魔物は村へ続く道の手前に積まれていた木材へ突っ込んだ。
ドランが昼間のうちに移動させていた、古い柵の修理用資材だった。
木材が激しい音を立てて砕け散る。
鎧牙猪の頭部がわずかに持ち上がり、その速度が落ちた。
しかし、完全には止まらない。
巨大な魔物は木材を押し退けながら前進し、村へ続く道へ踏み込もうとした。
「……止める!」
ユウキは剣を握り直し、走り出そうとした。
だが、ドランが叫ぶ。
「ユウキ、待て! 正面から行くな!」
ユウキは足を止めた。
鎧牙猪の体表は硬化している。
今の自分が真正面から斬りつけても、深い傷を与えられる保証はない。
それどころか、近づいた瞬間に牙で弾き飛ばされる可能性が高い。
ユウキは周囲を見渡した。
北側には用水路。
南側には石垣。
鎧牙猪は畑の中央から村へ続く道へ進もうとしている。
そして、その進路には、まだ破壊されていない低い石の仕切りがあった。
「……ドランさん!」
ユウキは声を張り上げた。
「あの石のところへ誘導できませんか!?」
ドランはすぐに意図を理解した。
「……できるかもしれん!」
ドランは道具袋から丈夫な縄を取り出し、近くにあった折れた柵の支柱へ結びつけた。
それを見たバルドが駆け寄る。
「何をする?」
「足止めだ。倒せなくても、向きを変えさせることはできる!」
ドランは石垣の手前にある2本の支柱へ縄を渡し、地面に近い位置へ張った。
鎧牙猪ほどの巨体を、縄だけで止められるとは思っていない。
狙いは、突進の途中で足運びを乱し、石垣へ向かわせることだった。
バルドは盾を構え、鎧牙猪の進路へ立つ。
ただし、真正面ではない。
相手の視線を引きつけられる位置を選び、すぐ横へ逃げられるよう足場を確かめていた。
「……こっちだ!」
バルドが声を上げる。
鎧牙猪は鼻を鳴らし、巨大な頭を向けた。
その目がバルドを捉える。
次の瞬間、魔物は再び地面を蹴った。
バルドは動かなかった。
距離が縮まる。
10メートル。
7メートル。
そして、5メートル。
鎧牙猪が頭を低く構えた瞬間、バルドは右へ大きく跳んだ。
魔物の巨体が目の前を通過する。
その前脚が、低く張られた縄へ触れた。
縄が激しく引き伸ばされ、支柱の一方が地面から抜ける。
完全に足を止めることはできなかった。
だが、鎧牙猪の前脚が一瞬だけ乱れた。
巨体の重心が左側へ流れる。
そのまま、魔物は石垣へ斜めに突っ込んだ。
轟音が響いた。
積まれていた石が崩れ、土煙が舞い上がる。
鎧牙猪は頭部を振り、低い唸り声を上げた。
身体に大きな傷はない。
しかし、衝撃によって一時的に動きが鈍っていた。
「……今だ!」
ドランが叫ぶ。
ユウキは剣を握り、魔物の右側へ回り込んだ。
鎧牙猪は頭を振りながら身体を向け直そうとしている。
ユウキはその動きを見極め、前脚の付け根へ向けて剣を振り下ろした。
金属が硬い皮膚へ当たり、鈍い音が響く。
刃は浅く食い込んだだけだった。
「……硬い!」
ユウキはすぐに剣を引き戻した。
鎧牙猪が頭を振り上げる。
湾曲した牙が、ユウキの胸元へ迫った。
ユウキは後方へ跳ぶ。
牙の先端が革装をかすめ、身体の前を通過した。
あと一歩遅ければ、致命傷になっていたかもしれない。
ユウキは荒く息を吐きながら距離を取った。
鎧牙猪は石垣から身体を離し、再び4人へ向き直った。
その目には、明らかな敵意が宿っていた。
◇◆◇
戦闘は、ユウキたちの予想以上に厳しいものとなった。
レベル4の牙猪は倒した。
北側では、トーマがレベル3の牙猪を用水路へ誘導し、何度も攻撃を避けながら脚へ傷を負わせていた。
南側のレベル5の牙猪も、バルドの斧によって前脚を傷つけられ、以前ほど素早く動けなくなっている。
しかし、鎧牙猪だけは違った。
硬い体表は剣や斧を容易に通さず、巨大な身体から繰り出される突進は一撃でも致命傷になりかねない。
ユウキは剣を構えながら、相手との距離を測った。
今の自分たちでは、簡単に倒せる相手ではない。
それでも、村へ進ませるわけにはいかなかった。
鎧牙猪は鼻息を荒くしながら、再び前脚で地面を掻いた。
その背中に、硬化した皮膚の光沢が広がっていく。
ユウキは仲間たちへ声をかけた。
「……みんな、無理に倒そうとしないで!」
トーマが北側から返事をした。
「わかった!」
「村へ向かわせないことを優先しよう!」
バルドも頷いた。
「承知した!」
ドランは壊れた石垣を見つめ、考え込んでいた。
鎧牙猪の突進は強力だ。
だが、その力を利用すれば、逆に進路を制限できるかもしれない。
必要なのは、相手を倒すための攻撃ではない。
村へ近づけさせないための戦い方だった。
「……ユウキ!」
ドランが声を上げた。
「もう一度、北側へ誘導できるか!?」
ユウキは用水路へ視線を向けた。
用水路の先には、低くなった斜面が続いている。
もし鎧牙猪をそこへ向かわせれば、村へ続く道から遠ざけられる。
「……やってみます!」
ユウキは頷いた。
剣を構え、鎧牙猪の前方へ移動する。
ただし、正面には立たない。
相手の視線を引きつけながら、北側へ少しずつ移動する。
鎧牙猪が頭を向ける。
ユウキは距離を保ちつつ、相手の動きを観察した。
そのとき、トーマが北側で戦っていた牙猪へ最後の一撃を加えた。
短剣が首元を捉え、魔物は用水路のそばへ倒れ込む。
「……倒した!」
トーマはすぐに顔を上げた。
ユウキが鎧牙猪を北側へ誘導しようとしていることに気づく。
「ユウキ、こっち!」
トーマは用水路の向こうへ移動し、安全な位置を確保した。
鎧牙猪は、ユウキの動きを追うように身体を向ける。
距離はおよそ8メートル。
ユウキはその場で剣を構え、相手の突進を待った。
鎧牙猪が地面を蹴った。
巨大な身体が一直線に迫る。
ユウキは最後まで動きを観察した。
頭部が低くなり、牙が前方へ突き出される。
あと数歩。
その瞬間、ユウキは左へ大きく踏み込み、身体を斜めに回転させた。
鎧牙猪が目の前を通過する。
ユウキは剣を振らなかった。
攻撃する必要はない。
今は、進路を変えることが目的だった。
鎧牙猪は勢いを落とせず、そのまま用水路へ向かって走り抜けた。
前脚が湿った土へ踏み込む。
地面が崩れ、巨大な身体がわずかに傾いた。
鎧牙猪は足を踏ん張ろうとしたが、重い身体を支えきれず、斜面を数メートル滑り落ちた。
土が大きく抉られ、泥が周囲へ飛び散る。
魔物は低い唸り声を上げながら、斜面の途中で身体を起こした。
ユウキは用水路の手前へ立ち、剣を構えた。
追撃はしない。
距離を保ち、相手が戻ってこないか確認する。
鎧牙猪はしばらくこちらを睨んでいた。
その背中では、皮膚硬化の光沢が徐々に薄れていく。
魔力を使い続けることにも、限界があるのかもしれない。
やがて、鎧牙猪は鼻を鳴らし、森の方へ身体を向けた。
その動きに合わせるように、南側に残っていたレベル5の牙猪も後退を始める。
バルドは追いかけなかった。
斧を構えたまま、魔物の動きを確認する。
鎧牙猪は斜面を慎重に登り、森の縁へ向かって歩き始めた。
後ろを振り返ることはなかった。
レベル5の牙猪も、そのあとを追うように森へ戻っていく。
やがて、2体の姿は木々の間へ消えていった。
ユウキはしばらく剣を構えたまま動かなかった。
森から聞こえる足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐いた。
「……退いてくれた」
トーマが近づいてくる。
「……なんとか、守れたね」
ユウキは頷いた。
「うん」
しかし、その声には疲労が滲んでいた。
戦闘は決して楽なものではなかった。
ランク2の強化魔物。
以前より装備を整えた今のネクシアでも、正面から討伐することは難しかった。
それでも、4人は村へ続く道を守り抜いた。
仲間と協力し、地形を利用し、それぞれの役割を果たした。
その結果、誰も命を落とすことなく、魔物を退けることができたのだ。
◇◆◇
戦闘が終わると、ユウキたちはすぐに周囲の安全確認を行った。
倒した牙猪は2体。
残る2体は森へ撤退した。
ただし、鎧牙猪が再び現れる可能性はある。
ドランは村の見張りたちへ状況を伝え、今夜は森へ近づかないよう念を押した。
バルドは軽量複合盾を外し、表面の傷を確認していた。
新しい盾には、牙猪の突進を受け流したときの擦り傷が残っている。
しかし、補強金具に大きな損傷はない。
「……ガルドの言うとおりだったな」
バルドが呟いた。
ユウキが顔を向ける。
「……盾のことですか?」
「ああ。装備が良くなったからといって、無理に受け止めれば身体が壊れる。今日の戦いで、よくわかった」
ユウキは頷いた。
自分の剣も、鎧牙猪の硬化した皮膚を深く切り裂くことはできなかった。
だが、軽量片手剣の扱いやすさは、回避と反撃を繰り返すうえで大きな助けになっていた。
トーマは双短剣を鞘へ収めながら、疲れたように笑った。
「……僕も、まだまだ練習が必要だね」
ドランが頷く。
「それは全員同じだ。今日の戦いで、今のわしらにできることと、できないことが少しはわかっただろう」
ユウキは静かに頷いた。
できること。
できないこと。
その違いを理解することが、冒険者として生き残るためには必要なのだ。
村長が見張りたちを連れて近づいてきた。
「……皆さん、ご無事ですか?」
「はい。大きな怪我はありません」
ユウキが答えると、村長は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
その声は震えていた。
畑の一部は、戦闘によってさらに荒れてしまった。
しかし、魔物は村へ侵入していない。
家も、人も、守ることができた。
ユウキは村長の姿を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
自分たちは、まだ弱い。
それでも、誰かの役に立てることがある。
その事実が、嬉しかった。
「……まだ、完全に安全になったわけではありません」
ユウキは静かに言った。
「大きな魔物は森へ戻りました。明日、もう一度周辺を確認して、ギルドへ報告します」
村長は真剣な表情で頷いた。
「……お願いします」
ユウキは仲間たちへ視線を向けた。
トーマ、バルド、ドラン。
3人とも疲れている。
しかし、誰も大きな怪我を負っていない。
ユウキは安堵したように息を吐いた。
今日も、全員で生き残ることができた。
それが何より嬉しかった。
◇◆◇
その夜更け。
村から離れた森の中では、鎧牙猪がゆっくりと歩いていた。
右前脚には浅い傷があり、身体のあちこちには石垣へ突っ込んだ際についた泥が残っている。
その後ろを、レベル5の牙猪がついていく。
2体はしばらく森の奥へ進んだあと、小さな沢の近くで足を止めた。
鎧牙猪は水を飲み、鼻先を持ち上げた。
夜風が木々の間を通り抜ける。
その風に混じって、遠くから微かな獣臭が運ばれてきた。
鎧牙猪は耳を動かした。
しばらく、その場で動かない。
やがて、森のさらに奥から低い鳴き声が聞こえた。
それは、牙猪のものではなかった。
もっと遠く。
もっと深い場所から響く声。
鎧牙猪は身体を強張らせ、頭を低くした。
後ろにいた牙猪も、落ち着かない様子で地面を踏みしめる。
森の奥には、彼らが近づこうとしない場所があった。
そこに何がいるのか。
今はまだ、誰にもわからない。
ただ、鎧牙猪はしばらくその方向を見つめたあと、ゆっくりと進路を変えた。
そして、夜の森へ姿を消していった。
――第73話 完。




