第72話 夜に潜む影
村の西側に広がる畑は、想像していた以上に荒らされていた。
収穫を間近に控えた作物が無残に踏み倒され、柔らかな土には大小さまざまな足跡が刻まれている。畑を囲っていた木柵は一部が外側へ倒れ、折れた支柱が湿った地面へ突き刺さっていた。
ユウキは柵の手前で足を止め、周囲を見渡した。
畑の向こうには緩やかな斜面が続き、その先に森が広がっている。畑と森の間には背丈ほどの草が生い茂っており、身を低くすれば人間でも容易に姿を隠せそうだった。
村から畑までは歩いて数分。
もし夜中に魔物が現れれば、村人が駆けつける前に作物を荒らして逃げることも難しくない。
「……ひどいね」
トーマが呟いた。
足元には、根元から引き抜かれた野菜が散らばっていた。
食べられた部分もあるが、ほとんど手をつけられていないものも多い。
「食べるためだけに荒らしたわけではなさそうだな」
ドランが腰を落とし、折れた柵を調べ始めた。
木材の断面には新しい裂け目があり、古くなって腐った様子はない。
さらに、柵の横木には泥が付着し、何かが強い力で押しつけられたような痕跡が残っていた。
「村長、この柵は以前から傷んでいたのか?」
「いえ。先月、村の者たちで修理したばかりです」
「なら、自然に壊れた可能性は低いな」
ドランは折れた支柱を持ち上げた。
「それに、壊れ方がおかしい。外から内へ押し倒されたように見えるが、支柱の根元には横方向の力もかかっている」
バルドが隣へしゃがみ込んだ。
「何体かで押したのか?」
「その可能性もある。だが、まだ断定はできん」
2人が柵を調べている間、ユウキは畑に残された足跡へ視線を向けていた。
小さな蹄のようなもの。
丸みを帯びた大きな跡。
そして、爪のような細い線が伸びたものもある。
一見すると複数の種類に見えるが、泥の上で滑ったり、ほかの足跡と重なったりした結果かもしれない。
「トーマ、こっちを見てくれる?」
ユウキが声をかけると、トーマはすぐに近づいてきた。
「どうしたの?」
「足跡がいくつかあるんだけど、同じ魔物のものかどうかわからなくて」
トーマはしゃがみ込み、地面へ顔を近づけた。
しばらく無言で調べていたが、やがて畑の端へ視線を移す。
「……全部が同じじゃないと思う」
「わかるの?」
「うん。この細い足跡は、体重が軽いものだと思う。でも、こっちの深い跡は違う」
トーマが指差した場所には、ほかより大きく沈んだ足跡があった。
長さはユウキの手のひらほど。
先端には、地面を抉ったような跡が残っている。
「……かなり重そうだね」
「そうだと思う。それに、この足跡だけ歩幅が広い」
トーマは地面へ落ちていた小枝を拾い、足跡の間隔を測った。
大きな足跡は、畑の中央から壊れた柵へ向かって続いている。
一方、小さな足跡は作物が踏み荒らされた場所を行き来していた。
「……もしかすると、大きな魔物が柵を壊して、小さい魔物たちが後から入ってきたのかもしれない」
ユウキが呟く。
トーマは頷いた。
「ありそうだね」
そのとき、バルドが声をかけた。
「ユウキ、少しいいか」
2人が振り返ると、バルドは壊れた柵の横へ立っていた。
「ここに毛が引っかかっておる」
指差された場所には、短く硬い毛が数本残されていた。
色は暗い灰褐色。
ユウキは慎重に近づき、毛を確認した。
森狼の毛とは少し違うように思える。
ただ、それだけで魔物の種類を判断することはできなかった。
「……鑑定できるかな」
ユウキは毛へ意識を集中した。
しかし、視界に現れたのは簡単な情報だけだった。
【鑑定結果】
名称:魔獣の体毛
状態:採取前の残留物
詳細:不明
「……駄目だ。種類まではわからない」
ユウキが呟くと、ドランが頷いた。
「鑑定の対象が生きた魔物ではないからかもしれんな。技能の限界についても、まだわかっていないことが多い」
「……はい」
ユウキは毛から視線を外した。
戦闘前に相手を鑑定できれば、非常に大きな助けになる。
だが、痕跡だけで魔物の正体まで判明するとは限らない。
今は、足跡と周囲の状況から判断するしかなかった。
村長は不安そうに4人を見つめていた。
「……何かわかりましたか?」
ユウキは立ち上がった。
「まだ種類まではわかりません。でも、大きさの違う魔物が複数いた可能性があります」
「……複数ですか」
「はい。それと、柵を壊したのは比較的大きな個体かもしれません」
村長の顔色が悪くなった。
ユウキはその様子を見て、言葉を続けた。
「ただ、今の段階では推測です。夜に現れるかどうか、まずは安全な場所から確認したいと思います」
村長は何度か頷いた。
「……どうか、よろしくお願いします」
◇◆◇
夕方までに、ネクシアは村の西側を一通り調べ終えた。
森へ通じる獣道は3本。
そのうち畑に最も近い道には、比較的新しい足跡が残されていた。
ただし、森の奥まで追跡することは避けた。
今回の依頼は村周辺の安全確認であり、正体不明の魔物を追って危険な場所へ踏み込む必要はない。
ドランは村の見張りたちから話を聞き、夜間の巡回経路を確認した。
村人が普段使っている見張り台は、畑の東端にある低い木造の建物だった。
高さは地面からおよそ3メートル。
村の入口と畑を見渡せるものの、森の縁は草に隠れ、足元まで確認することが難しい。
「……このままだと、魔物が柵へ近づいてからでないと気づけないな」
ドランが言った。
バルドは見張り台の周囲を見渡した。
「それに、畑へ飛び出されたら村人が逃げる場所も限られる」
ユウキは地面へ広げた簡単な地図を見つめた。
畑の北側には浅い用水路があり、東側には村へ続く道がある。
西側は森へ向かう斜面。
南側には古い石垣が続き、その先は少し低くなっていた。
もし魔物が現れた場合、村へ向かわせないことが最優先だ。
「……僕とバルドさんが畑の東側を守って、トーマが北側から様子を確認するのはどうでしょう?」
ユウキが提案した。
ドランは地図へ視線を落とした。
「悪くない。ただし、トーマを森へ近づけすぎるのは危険だ。距離を保って、何かあればすぐ合流できる位置にしよう」
「うん、わかった」
トーマが頷く。
バルドも口を開いた。
「わしは村へ続く道を守ろう。もし魔物が突破してきても、できるだけ時間を稼ぐ」
「じゃあ、僕はその少し前に出ます」
ユウキが言うと、ドランは頷いた。
「わしは見張り台の下で周囲を確認する。必要なら道具を使って、村人が退避する時間を作ろう」
こうして、夜間の警戒体制が決まった。
村人たちには、魔物が現れても決して畑へ近づかず、合図があれば家へ避難するよう伝えた。
農具を持って戦おうとしていた若者たちも、バルドの説得によって村の入口で待機することになった。
「……無理に戦えば、守るべき人まで危険に晒すことになる」
バルドの言葉に、若者たちは渋々ながら頷いた。
準備を終える頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
西の森へ沈んでいく太陽。
木々の影が畑へ伸び、昼間には見えていた獣道も、次第に闇の中へ溶け込んでいく。
ユウキは剣の柄へ手を添えた。
何が現れるのか、まだわからない。
それでも、ここには守るべき人々がいる。
その事実だけは、はっきりしていた。
◇◆◇
夜。
村の明かりが少しずつ消え、周囲には虫の鳴き声が響いていた。
畑の端へ置かれた小さな灯火が、風に揺れながら地面を照らしている。
ユウキは畑の東側にある道へ立ち、森の方向を見つめていた。
バルドは数歩後方で盾を構え、村へ続く道を守っている。
トーマは北側の用水路近くに身を潜め、森の縁を警戒していた。
ドランは見張り台の下で周囲を確認しながら、必要な道具をすぐ取り出せるよう準備している。
時刻が進むにつれ、夜の冷たい空気が身体へ染み込んできた。
ユウキは小さく息を吐いた。
夜の森は、昼間とはまったく違う。
木々の間に広がる闇。
風に揺れる草。
遠くから聞こえる獣の鳴き声。
どれも、何かが潜んでいるように感じられた。
ユウキは聴覚強化と嗅覚強化を意識しながら、周囲の変化を探った。
ただし、技能へ頼りすぎないよう注意していた。
技能で気づけない危険もある。
それは、黒震狼との戦いで痛いほど理解している。
しばらくすると、北側からトーマの小さな声が聞こえた。
「……ユウキ」
ユウキは顔を向けた。
トーマは片手を上げ、森の方向を指差している。
「……動いた」
その言葉に、ユウキは身体を低くした。
草の向こう。
森の縁から、何かがゆっくりと姿を現した。
最初に見えたのは、暗い灰色の背中だった。
続いて、地面へ伸びた短い脚。
その身体は、昼間に見た足跡と同じくらいの大きさをしているようだった。
魔物は鼻先を地面へ近づけ、何かの匂いを探っている。
その後ろから、さらに2体が現れた。
合計3体。
ユウキはすぐに動かなかった。
まずは正体を確かめる。
――鑑定。
意識を集中すると、視界へ淡い文字が浮かび上がった。
【鑑定結果】
名称:牙猪
種族:魔獣
魔物ランク:1(下級魔物)
レベル:4
HP:45
MP:3
STR:14
VIT:12
AGI:8
MAG:1
MND:4
DEX:5
習得技能:
突進 Lv.1
嗅覚強化 Lv.1
ユウキは眉を寄せた。
牙猪。
猪に似た魔物で、強い脚力と鋭い牙を持っている。
鑑定結果からも、筋力と耐久力が高いことがわかる。
続いて、残りの2体へ鑑定を行った。
【鑑定結果】
名称:牙猪
種族:魔獣
魔物ランク:1(下級魔物)
レベル:3
HP:39
MP:2
STR:12
VIT:10
AGI:9
MAG:1
MND:3
DEX:5
習得技能:
突進 Lv.1
【鑑定結果】
名称:牙猪
種族:魔獣
魔物ランク:1(下級魔物)
レベル:5
HP:52
MP:4
STR:16
VIT:14
AGI:7
MAG:1
MND:4
DEX:6
習得技能:
突進 Lv.2
皮膚硬化 Lv.1
ユウキは息を呑んだ。
3体目は、明らかにほかより強い。
レベル5。
高い筋力と耐久力。
さらに、突進Lv.2と皮膚硬化Lv.1を持っている。
同じ牙猪でも、これほど能力に違いがあるのだ。
ユウキは小声で仲間たちへ情報を伝えた。
「……牙猪が3体。全部ランク1だけど、1体だけレベル5で、突進Lv.2と皮膚硬化を持ってる」
バルドが頷いた。
「……なら、そいつが最も危険だな」
「はい。真正面から受け止めない方がいいと思います」
トーマが用水路の陰から顔を出した。
「僕は、動きの速い個体を警戒するね」
「うん。無理に近づかないで」
ユウキは頷いた。
ドランも声をかける。
「わしは地形を見ておく。あの魔物たちは突進してくる可能性が高い。畑の中で真っ直ぐ走れる場所を作らせない方がいい」
ユウキは周囲を確認した。
畑の中央には収穫を終えた畝が並び、ところどころに土の盛り上がりがある。
北側には用水路。
南側には古い石垣。
この地形を利用すれば、魔物の突進をある程度制限できるかもしれない。
しかし、問題は3体だけなのかどうかだった。
ユウキは再び森の縁へ視線を向けた。
牙猪たちは、ゆっくりと畑へ進んでいる。
そして、その奥。
木々の間に、何かが動いた。
ユウキは目を凝らした。
暗闇の中で、さらに大きな影が揺れている。
最初は木の幹かと思った。
だが、違った。
その影は、ゆっくりと動いていた。
木々の間から、重い息遣いのような音が聞こえてくる。
ユウキは思わず、喉を鳴らした。
「……まだ、いる」
小さく呟く。
トーマが振り返った。
「……え?」
ユウキは森の奥を見つめたまま、続けた。
「……3体だけじゃない」
その瞬間。
森の中から、低く響く唸り声が聞こえた。
牙猪たちが一斉に顔を上げる。
まるで、その声へ反応したかのように。
そして、木々の間に潜んでいた大きな影が、ゆっくりと前へ進み始めた。
――第72話 完。




