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第68話 調査隊の激闘

 東部街道から森へ踏み込んで、およそ1時間が経過していた。


 頭上では樹木の枝葉が幾重にも重なり、昼前だというのに林床には薄暗い場所が多い。昨夜の雨を吸った地面は柔らかく、革靴が落ち葉を踏むたびに湿った土がわずかに沈んだ。


 5人の冒険者は、互いに数歩ずつ距離を空けながら、斜面に沿って伸びる獣道を進んでいた。


 先頭を歩くのは、左頬に古い傷を持つ男、ラウル・ベルガー。


 冒険者ランクはC。


 剣を主武器とする前衛であり、今回の調査隊の隊長を任されている。


 ラウルの後方には槍使いのゲイン、弓使いのミレア、斥候のキース、そして術式と調査を担当するオスカーが続いていた。


 5人はいずれもCランクの冒険者である。


 経験を積んだ彼らは、武器を扱う技術だけでなく、それぞれが習得した技能や術を実戦で使い分けてきた。


 だが、今回の依頼は討伐ではない。


 目的は、東部街道周辺で確認された大型魔物の正体と行動範囲を調査することだった。


「……キース。前方を確認しろ」


 ラウルが左手を上げた。


「了解」


 キースは短く答えると、獣道の右側へ移動した。


 腰を低く落とし、太い木の根が張り出した場所へ身を隠す。


 そこから前方を覗くと、緩やかな下り坂が続いていた。


 斜面の下には細い沢があり、その向こうには岩がいくつも転がっている。沢の周囲には背の高い草が生え、さらに奥には木々が密集していた。


 キースはしばらく目を凝らしたあと、静かに呼吸を整えた。


 意識を周囲へ広げる。


 風の流れ。


 落ち葉の擦れる音。


 小動物が枝を踏む振動。


 それらの中から、不自然な気配を探っていく。


 キースが使ったのは、索敵に適した感知系技能だった。


 視界だけに頼らず、周辺の気配や物音から存在を捉える能力である。


 しかし、森には多くの生き物がいる。


 感知した気配が、必ずしも目的の魔物とは限らない。


「……前方に、小さな反応が3つ。おそらく小動物だ」


 キースは振り返らずに報告した。


「大型の反応は?」


 ラウルが尋ねる。


「今の範囲では確認できない。ただ、岩の向こうまでは探れない」


「わかった。無理に進むな」


 ラウルは頷いた。


 キースの技能は便利だが、万能ではない。


 地形や距離、相手の気配を隠す能力によって、感知できる範囲や精度は変わる。


 そのことを理解しているからこそ、ラウルは技能だけを頼りに進むことはしなかった。


「……オスカー」


「わかっている」


 後方にいたオスカーが、腰の道具袋から細い金属棒を取り出した。


 長さは前腕ほど。


 先端には、小さな魔石が埋め込まれている。


 オスカーはそれを地面へ軽く押し当て、目を閉じた。


「――地脈感知」


 魔石に淡い茶色の光が灯った。


 その光が細い線となって地面へ広がり、周囲の土や岩の状態を探るように伝わっていく。


 オスカーはしばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと目を開く。


「……前方の斜面は、ところどころ地盤が緩いな」


 ラウルが眉を寄せる。


「雨の影響か?」


「それもある。ただ、沢の向こう側に不自然な亀裂が残っている。自然に崩れたにしては、地面の割れ方が妙だ」


「……報告にあった衝撃か」


「可能性はある」


 オスカーは金属棒を引き抜いた。


「少なくとも、あちらへ不用意に踏み込むべきではないな」


 ラウルは前方の斜面を見つめた。


 通常の森狼が地面へ強い衝撃を伝えることなど、一般的には考えられない。


 もし報告が正しければ、相手は複数の特殊な技能を持っている。


 そして、その能力を森の中で使いこなしている可能性があった。


「……沢の手前まで進む。ただし、距離を詰めすぎるな」


 5人は再び歩き始めた。


     ◇◆◇


 沢の手前へ到着すると、キースが地面へ膝をついた。


 湿った土の上に、大きな足跡が残っている。


 通常の森狼と比較して明らかに大きく、爪の跡も深い。


「……あった」


 キースが呟いた。


 ラウルたちが近づく。


 キースは革袋から小さな定規を取り出し、足跡の横へ置いた。


「前脚の跡が深い。かなり体重がある個体だ」


「……でかいな」


 ゲインが顔をしかめた。


「これが狼の足跡なのか?」


「狼に似た魔物のもの、とは言えるだろうな」


 オスカーが答えた。


 キースはさらに足跡の並びを確認した。


 前脚の跡は深く、後脚の跡はやや浅い。


 その中でも、右後脚の跡だけが不自然だった。


 歩幅が短く、地面を引きずったような痕跡がある。


「……右後脚を庇っている」


 キースが言った。


 ラウルは頷いた。


「ネクシアの報告と一致するな」


 そのとき、ミレアが弓を持ち上げた。


「……待って」


 全員が顔を上げる。


 ミレアは沢の向こう側を見つめていた。


 対岸には大きな岩が2つ並び、その奥には背の高い草が広がっている。


「……あそこ。草が倒れているわ」


 指差した場所では、草の一部が地面へ押し倒されていた。


 さらに、葉の表面には黒っぽい泥が付着している。


「大型の獣が通った跡かもしれない」


 キースが頷いた。


「回り込んで確認するか?」


 ゲインが尋ねた。


 しかし、ラウルはすぐには答えなかった。


 沢の幅はおよそ3メートル。


 中央には膝ほどの深さの水があり、底には丸い石が多い。


 渡っている最中に襲われれば、足場が悪く、すぐには動けない。


 さらに対岸には岩が並び、視界を遮っている。


 もし魔物が身を隠していた場合、こちらは不利な位置で戦うことになる。


「……正面からは渡らん」


 ラウルは首を横に振った。


「少し上流へ移動する。見通しの良い場所を探そう」


 ゲインが肩をすくめた。


「遠回りだな」


「構わん。調査が目的だ」


 ラウルは静かに答えた。


「それに、相手が本当に上位魔物なら、焦った方が負ける」


 ゲインはそれ以上何も言わなかった。


 5人は沢に沿って上流へ移動し始めた。


     ◇◆◇


 その頃。


 沢から少し離れた岩場の奥で、黒褐色の巨大な魔物が静かに身を伏せていた。


 黒震狼(グラウンドウルフ)。


 森狼(フォレストウルフ)を起源としながら、変異によって別の魔物へ変化した存在。


 ランク3に分類される上位魔物だった。


 その身体は通常の森狼より遥かに大きく、前脚から肩にかけての筋肉が異様なほど発達している。


 太い首の先には長い鼻先が伸び、口元からは鋭く湾曲した牙が覗いていた。


 右後脚には、まだ深い傷が残っている。


 倒木に挟まれた部分は腫れ、周囲の毛が乾いた血で固まっていた。


 傷口は少しずつ塞がり始めているようだったが、完全に回復しているわけではない。


 しかし、その目に弱々しさは感じられなかった。


 黒震狼は耳を立て、風の流れを確かめている。


 遠くから聞こえる足音。


 金属が触れ合う小さな音。


 そして、人間の匂い。


 黒震狼は、それらを静かに感じ取っていた。


 人間たちは沢の手前で足を止めたあと、別の方向へ移動し始めている。


 黒震狼はゆっくりと首を動かした。


 その視線の先には、岩の隙間からわずかに見える獣道があった。


 しばらく動かなかった黒震狼は、やがて身体を起こした。


 右後脚へ体重をかけると、わずかに姿勢が崩れる。


 しかし、すぐに前脚へ重心を移し、立て直した。


 そのまま岩の背後へ移動する。


 地面には太い木の根がいくつも走り、岩と岩の間には狭い通路が続いていた。


 黒震狼は前脚の置き場を選びながら、ゆっくりと通り抜けていく。


 そして、沢を見下ろせる高台へ辿り着くと、木々の隙間から人間たちの姿を確認した。


 5人。


 それぞれが武器を持ち、周囲を警戒しながら歩いている。


 黒震狼は低く喉を鳴らした。


 先頭の剣士。


 槍を持つ男。


 弓を持つ女。


 そして、後方にいる2人。


 黒震狼はしばらく動かなかった。


 ただ、静かに観察していた。


     ◇◆◇


「……止まれ」


 ラウルが左手を上げた。


 5人は沢から離れた場所で足を止めた。


 前方には緩やかな斜面が広がり、途中には大きな岩が並んでいる。


 キースが地面へ膝をついた。


「……ここで一度、止まっている」


 足跡の周囲には細かな土の崩れがあり、前脚の跡だけが深く刻まれていた。


「身体の向きを変えたみたいだ」


 ラウルは周囲へ視線を巡らせた。


 風は森の奥へ向かって吹いている。


 つまり、自分たちの匂いが前方へ運ばれている可能性が高い。


「……気づかれているかもしれんな」


 ラウルが呟いた。


 キースは目を閉じ、再び索敵技能へ意識を集中した。


 周囲の気配を探る。


 小動物の反応。


 木々の間を移動する鳥。


 そして、その奥にある何か。


 キースの眉が寄った。


「……いる」


 ラウルが顔を向ける。


「どこだ?」


「前方右側。大きな岩の向こう……いや、少し上だ」


 キースはゆっくりと顔を上げた。


 斜面の上。


 木々が密集している場所。


「……大きい反応がある」


 その瞬間。


 カサッ。


 岩の向こうで草が揺れた。


 ミレアが弓を構える。


 ゲインは槍の穂先を低く保ち、ラウルの右側へ移動した。


 オスカーは後方へ下がり、金属棒を地面へ構える。


「……来るか」


 ラウルが剣を抜いた。


 そして。


 岩の向こうから、黒褐色の巨大な影が姿を現した。


「……っ!」


 ミレアが息を呑む。


 そこにいたのは、通常の森狼とは明らかに異なる魔物だった。


 肩の高さは人間の腰を大きく越え、前脚は異様なほど太い。


 口元には鋭い牙が覗き、背中から尾にかけて長い毛が生えている。


 右後脚をわずかに庇っているものの、その姿から弱々しさは感じられなかった。


 黒震狼はすぐには飛びかかってこない。


 頭をわずかに傾け、5人の位置を確かめるように視線を動かしていた。


「……報告どおりだな」


 ラウルが低く呟いた。


 その言葉に、ゲインが槍を握り直す。


「……でかすぎるだろ」


 ラウルは答えなかった。


 相手の身体の大きさ以上に気になることがあった。


 黒震狼の目だ。


 獲物を見つけて興奮しているようには見えない。


 むしろ、こちらの武器や立ち位置を確認しているようだった。


「……全員、ゆっくり下がれ」


 ラウルが指示した。


 しかし、黒震狼はその動きを見逃さなかった。


 頭を低く下げ、前脚を地面へ踏み込む。


 その背中を、赤い光が走った。


「……来るぞ!」


 ラウルが叫ぶ。


 次の瞬間。


 ドンッ!


 地面が強く踏み込まれ、黒震狼の身体が前方へ跳ね出した。


     ◇◆◇


「ゲイン、右を塞げ!」


「任せろ!」


 ゲインは右足を前へ踏み出し、槍を斜めに構えた。


 黒震狼との距離は、およそ12メートル。


 その距離が、わずかな時間で縮まっていく。


 ゲインは穂先を低く保ったまま、相手の進路を見極めた。


 黒震狼がラウルの右側へ回り込もうとした瞬間、槍の柄を引き寄せる。


「――穿牙!」


 ゲインの身体が前へ滑るように動いた。


 踏み込んだ右足を軸に腰を回し、槍を一直線に突き出す。


 鋭い穂先が、黒震狼の肩を狙った。


 しかし。


 黒震狼は突進の勢いを完全には殺さず、身体を低く沈めた。


 槍の穂先が肩の上を通過する。


「……なっ!」


 ゲインが驚いた瞬間、黒震狼の尾が大きくしなった。


 バキンッ!


 尾が槍の柄へ叩きつけられる。


 衝撃で穂先が右へ逸れ、ゲインの腕が弾かれた。


 その隙に、黒震狼はさらに前方へ進む。


 狙いはラウルではなかった。


 後方で術式を準備していたオスカーだ。


「……オスカー!」


 ラウルが叫んだ。


 だが、オスカーはすでに動いていた。


 地面へ押し当てていた金属棒を強く握り、魔力を流し込む。


 魔石が茶色く輝いた。


「――土壁術!」


 オスカーの前方、およそ2メートルの位置で地面が盛り上がった。


 湿った土と小石が押し上げられ、胸の高さほどの土壁が形成される。


 黒震狼はその壁へ向かって突進した。


 ドゴォンッ!


 激しい衝撃。


 土壁の中央が大きく砕け、土塊が周囲へ飛び散った。


 だが、壁は一瞬だけ黒震狼の勢いを鈍らせた。


 そのわずかな時間を、ラウルは見逃さなかった。


 左足を踏み込み、剣を身体の右側へ引く。


 そして、黒震狼の前脚へ向けて刃を振り抜いた。


「――裂風斬!」


 剣の周囲へ淡い風が巻きついた。


 ラウルの斬撃に沿って圧縮された空気が走り、刃が黒震狼の前脚を捉える。


 ギィンッ!


 硬いものへ金属を当てたような音が響いた。


 黒褐色の毛が数本飛び散り、皮膚の表面に浅い傷が走る。


「……硬い!」


 ラウルはすぐに剣を引き戻した。


 ただの鉄剣による斬撃ではない。


 風の力を刃へ重ねた武技だった。


 それでも、深く斬り込むことはできなかった。


 黒震狼は前脚を地面へつき、身体を低く構え直した。


 そして、ラウルへ視線を向ける。


 先ほどまで狙っていたオスカーではない。


 自分へ傷を与えた剣士を、次の脅威として認識したようだった。


「……厄介だな」


 ラウルは剣を構え直した。


     ◇◆◇


「ミレア!」


 ラウルが叫ぶ。


「左目を狙え!」


「了解!」


 ミレアはすでに弓へ矢をつがえていた。


 左足を前へ出し、身体を斜めに構える。


 弦を引くと同時に、矢の先端へ淡い緑色の光が集まり始めた。


「――風矢術!」


 放たれた矢が、風を纏って加速する。


 通常の矢よりも鋭い音を立てながら、黒震狼の顔へ向かって飛んだ。


 黒震狼は頭を右へ傾けた。


 しかし、完全には避けられない。


 矢は左頬をかすめ、細い血の線を残した。


 ミレアはすぐに次の矢をつがえた。


 弓を引く動作に迷いはない。


 ラウルが前方から注意を引き、ゲインが右側を塞いでいる。


 その間に、弓で相手の動きを制限する。


 それが、この調査隊の基本的な連携だった。


「……もう1本!」


 ミレアが矢を放つ。


 今度は黒震狼の右前脚を狙った。


 しかし、黒震狼は身体を沈め、矢を避けた。


 その直後。


 黒震狼の前脚へ、灰色の光が集まり始める。


「……地面だ!」


 ラウルが叫んだ。


「全員、足元に注意しろ!」


 黒震狼の前脚が地面へ叩きつけられた。


 ドゴォンッ!


 鈍い衝撃が土の中を伝わり、周辺の地面へ亀裂が走った。


 木の根が持ち上がり、湿った土が大きく跳ねる。


 ラウルは咄嗟に後方へ跳んだ。


 ゲインも槍を引き寄せ、横へ移動する。


 しかし、全員が完全に避けられたわけではなかった。


 オスカーの足元で地面が崩れた。


「……っ!」


 身体が前方へ傾く。


 その瞬間、オスカーは金属棒を地面へ突き立てた。


「――地盤固定!」


 茶色い光が足元へ広がり、崩れかけていた土が一瞬だけ固まる。


 オスカーはその隙に右足を引き、後方へ跳んだ。


 直後、固定した地面の外側が崩れ、土砂が斜面を滑り落ちていく。


「……危なかった」


 オスカーが荒い息を吐いた。


 しかし、黒震狼はすでに次の行動へ移っていた。


 地面へ衝撃を伝えた直後、右側へ身体を向けたのだ。


 狙いはゲイン。


 足場を失いかけ、槍を引き戻している最中だった。


 黒震狼が大きく口を開く。


 鋭い牙が、ゲインの首へ迫った。


「……くそっ!」


 ゲインは槍を横へ構え、噛みつきを防ごうとした。


 だが、相手の勢いが強すぎる。


 槍の柄が大きくしなり、腕へ強い衝撃が伝わる。


 そのまま押し込まれれば、身体ごと倒される。


 ゲインは歯を食いしばった。


「――剛槍突き!」


 槍を押し返すのではなく、柄を斜めへ滑らせる。


 黒震狼の牙が槍の外側を通り抜けた瞬間、ゲインは右足を踏み込み、穂先を相手の胸元へ突き出した。


 鋭い一撃が黒褐色の毛へ突き刺さる。


 しかし、深くは入らない。


 硬い筋肉が槍の侵入を阻み、穂先は表面を裂くにとどまった。


「……ちっ!」


 ゲインはすぐに槍を引いた。


 その判断は正しかった。


 黒震狼の尾が大きく振り抜かれ、先ほどまで槍があった場所を薙ぎ払ったからだ。


 バキィンッ!


 尾が近くの木の幹へ直撃し、樹皮が大きく剥がれた。


 ゲインは後方へ跳び、距離を取った。


「……なんて力だ!」


 その声に、ラウルが答えた。


「まともに受けるな! 角度を変えて逸らせ!」


 ラウルは剣を構え直し、黒震狼の左側へ回り込んだ。


     ◇◆◇


 戦闘開始から、それほど長い時間は経っていなかった。


 しかし、5人の呼吸はすでに乱れ始めていた。


 黒震狼の攻撃は重く、速い。


 さらに、単純な突進だけではなく、前脚による衝撃や尾の攻撃を組み合わせてくる。


 それに対して、調査隊は武技と術式を使いながら対抗していた。


 ラウルの剣術。


 ゲインの槍術。


 ミレアの弓術と風矢術。


 キースの索敵と機動力。


 オスカーの土壁術と地盤固定。


 それぞれが自分の役割を理解し、互いの隙を補っている。


 だが、問題があった。


 黒震狼へ決定的な傷を与えられないのだ。


 浅い傷なら作れる。


 攻撃を止めることもできる。


 しかし、相手の戦闘能力を大きく削ることができていない。


 それどころか、黒震狼は徐々に5人の動きへ対応し始めていた。


「……ラウル!」


 ミレアが叫ぶ。


「次の矢、合わせるわ!」


「わかった!」


 ラウルは頷き、剣を構え直した。


 黒震狼との距離はおよそ6メートル。


 ラウルは左足を踏み込み、剣を斜めに振り下ろす。


「――裂風斬!」


 風を纏った斬撃が、黒震狼の右前脚へ向かう。


 その瞬間、黒震狼は前脚を引いた。


 剣が地面をかすめる。


「……避けた!?」


 ラウルが目を見開く。


 黒震狼は先ほどの攻撃を覚えていた。


 刃へ風が集まる動作を見て、攻撃の軌道を予測したのだ。


 そして、ラウルが剣を振り抜いた瞬間を狙って、身体を前へ押し出した。


 鋭い牙が迫る。


「……っ!」


 ラウルは咄嗟に剣を引き戻した。


 しかし、間に合わない。


 黒震狼の口が大きく開く。


 その瞬間。


「――風矢術!」


 ミレアの矢が、黒震狼の顔へ向かって飛んだ。


 矢は左頬へ浅く突き刺さった。


 黒震狼の頭がわずかに揺れる。


 その一瞬を利用して、ラウルは横へ跳んだ。


 牙が空を噛む。


 ガチンッ!


 硬い音が響いた。


「……助かった!」


 ラウルが叫ぶ。


「まだよ!」


 ミレアが答えた。


 彼女は次の矢をつがえようとした。


 しかし、黒震狼はすでに視線を変えていた。


 ラウルではなく、ミレアを見ている。


 その目に、冷たい光が宿った。


 黒震狼は身体を低く沈めた。


 背中を赤い光が走る。


「……ミレア! 下がれ!」


 ラウルが叫んだ。


 しかし、黒震狼の動きは速かった。


 地面を蹴り、右側へ大きく回り込む。


 ミレアは後方へ下がった。


 だが、背後には太い木がある。


 右側には岩。


 左側には斜面。


 逃げ道が狭い。


 黒震狼は、そこへ追い込むように進路を変えていた。


「……くっ!」


 ミレアは咄嗟に左側へ身体を投げ出した。


 その直後。


 黒震狼の前脚が、先ほどまで彼女がいた場所を薙ぎ払う。


 バキィンッ!


 木の幹へ爪が食い込み、樹皮が大きく剥がれた。


 ミレアは斜面を滑り落ちながら、必死に身体を丸めた。


 湿った土が衣服へ付着し、小石が頬をかすめる。


 数メートルほど滑ったところで、ようやく木の根へ手が届いた。


「……っ、はぁ……!」


 荒い息を吐く。


 右手には弓を握ったままだった。


 しかし、左腕を動かした瞬間、肩へ鋭い痛みが走った。


「……っ!」


 斜面へ落ちたとき、強く打ちつけたのだ。


 弓を引こうとしても、左肩が痛む。


 まともに狙いを定められない。


 ミレアは顔を上げた。


 斜面の上では、黒震狼がこちらを見下ろしている。


 すぐには飛びかかってこない。


 まるで、彼女が弓を使えなくなったことを確かめているようだった。


 ラウルは、その光景を見て決断した。


「……全員、退却するぞ!」


     ◇◆◇


 ラウルの声が森へ響いた。


 ゲインが槍を構え直し、キースが斜面の下へ走る。


「ミレア、動けるか!」


「……歩ける。でも、弓は厳しい!」


「わかった!」


 キースはミレアの右側へ回り込み、身体を支えた。


 その間、ゲインは槍を構え、黒震狼が斜面を下りてこないよう警戒する。


 オスカーは地面へ金属棒を押し当てた。


 魔石へ茶色い光が集まる。


「……今のうちに、退路を作る!」


「頼む!」


 ラウルが叫んだ。


 オスカーは目を閉じ、魔力を地面へ流し込んだ。


「――土壁術!」


 黒震狼と調査隊の間へ、土が盛り上がる。


 今度は先ほどより幅の広い壁だった。


 高さは胸ほど。


 横幅は数メートル。


 岩と木の根を利用するように形成された土壁は、斜面の一部を塞いだ。


 しかし、オスカーの額には汗が浮かんでいた。


 すでに複数の術式を使っている。


 魔力の消費は小さくない。


「……長くは持たん!」


「十分だ!」


 ラウルは答えた。


 黒震狼は土壁を見つめていた。


 すぐに飛び越えることもできるだろう。


 しかし、そのまま正面から突っ込むことはしなかった。


 ゆっくりと右側へ移動し、壁の端を確認している。


 ラウルはその動きを見逃さなかった。


「……回り込むつもりか」


 彼は剣を構え直した。


 相手の動きを止めなければならない。


 しかし、こちらの攻撃をすでに見切られ始めている。


 同じ武技を繰り返しても、通用しない可能性が高い。


 ラウルは一瞬だけ考えた。


 そして、剣を下段へ構える。


 黒震狼が壁の右端へ近づいた瞬間、ラウルは前へ踏み込んだ。


「――連刃!」


 最初の斬撃は、低い位置からの斬り上げ。


 狙いは黒震狼の前脚だった。


 黒震狼は脚を引き、攻撃を避ける。


 しかし、ラウルはそこで止まらなかった。


 剣を振り上げた勢いを利用して身体を回し、続けて横薙ぎを放つ。


 2撃目が、黒震狼の肩へ迫った。


 ギィンッ!


 刃が硬い毛へ当たり、浅い傷を刻む。


 さらにラウルは右足を踏み込み、剣を引き戻した。


 3撃目。


 狙いは、黒震狼の右後脚。


 すでに負傷している場所だ。


 黒震狼の目が動いた。


 右後脚を引き、身体をわずかに捻る。


 ラウルの剣が、傷ついた脚のすぐ横を通過した。


 しかし、その動きによって黒震狼の重心が崩れた。


 右後脚を庇うため、前脚へ体重が集中したのだ。


「……今だ!」


 ラウルが叫ぶ。


 ゲインが槍を構えた。


「――穿牙!」


 鋭い突きが、黒震狼の左肩へ向かう。


 黒震狼は身体を捻った。


 だが、右後脚の負傷によって、いつもより動きがわずかに遅れる。


 槍の穂先が肩の毛を裂き、皮膚へ浅く食い込んだ。


「……入った!」


 ゲインが叫ぶ。


 しかし、黒震狼は怯まなかった。


 前脚へ灰色の光が集まる。


「……まずい!」


 ラウルが叫んだ。


 次の瞬間。


 ドゴォンッ!


 地面が激しく揺れた。


 土壁の一部が崩れ、周囲の木の根が持ち上がる。


 ラウルは後方へ跳び、ゲインは槍を引き抜きながら横へ転がった。


 黒震狼はその隙に土壁の端を越えた。


 そして、斜面の下へ視線を向ける。


 ミレアを支えるキース。


 その前を走るオスカー。


 全員が退却しようとしている。


 黒震狼は低く喉を鳴らした。


 背中へ赤い光が走る。


「……追わせるな!」


 ラウルは剣を構え直した。


 しかし、黒震狼はすでに動き始めていた。


 地面を蹴り、斜面を下る。


 狙いは負傷したミレア。


 ラウルはその進路を塞ぐため、左側へ走った。


 距離は、およそ8メートル。


 黒震狼が先に到達する。


 そう判断した瞬間、ラウルは剣へ魔力を集めた。


「――風刃術!」


 剣の周囲に集まった風が、刃の形を取って放たれた。


 透明に近い風の刃が、黒震狼の前方へ飛ぶ。


 黒震狼は頭を下げ、風刃を避けた。


 しかし、その動きによって進路がわずかに変わる。


 ラウルはその隙に、黒震狼と仲間たちの間へ滑り込んだ。


「……行け!」


 ラウルが叫ぶ。


 キースがミレアを支え、岩の隙間へ向かった。


 ゲインも後方へ下がる。


 オスカーは最後の力を振り絞り、地面へ金属棒を突き立てた。


「――地盤固定!」


 ラウルの足元に茶色い光が広がる。


 柔らかかった土が一瞬だけ固まり、踏ん張れる状態になる。


 ラウルはその変化を感じ取った。


「……助かる!」


 剣を構え直す。


 黒震狼が迫る。


 その前脚が、ラウルへ向かって振り下ろされた。


 ラウルは剣を斜めに構え、爪の軌道へ刃を当てた。


 ギィンッ!


 激しい衝撃が腕へ伝わる。


 しかし、足元は固まっている。


 ラウルは地面を蹴り、身体を横へ回した。


 爪が剣の表面を滑り、攻撃が外側へ逸れる。


 その瞬間。


 黒震狼の尾が、大きく振り抜かれた。


「……っ!」


 ラウルは咄嗟に左腕を上げた。


 ドゴッ!


 重い衝撃。


 身体が横へ弾かれた。


 左腕が痺れ、指先へ力が入らなくなる。


「……ぐっ!」


 ラウルは歯を食いしばった。


 右手の剣だけは離さない。


 足元の地面は固まっていたが、衝撃そのものを消せたわけではなかった。


 ラウルは数歩後退し、どうにか姿勢を立て直した。


 黒震狼は数メートル先で止まっていた。


 右後脚へ体重をかけた瞬間、わずかに身体が傾く。


 やはり、負傷は残っている。


 だが、それでも十分に強い。


 ラウルは理解した。


 この魔物を、今の自分たちだけで倒すことは難しい。


 それも、相手が負傷している状態でだ。


     ◇◆◇


「……隊長!」


 キースの声が聞こえた。


 振り返ると、ゲインがミレアを支えながら岩の隙間へ入ろうとしていた。


 オスカーもその後ろへ続いている。


 全員、まだ生きている。


 だが、これ以上戦えば誰かが倒れる。


 ラウルは黒震狼へ視線を戻した。


 相手は、こちらをじっと見つめていた。


 先ほどまでの攻撃によって、肩や頬には浅い傷が増えている。


 しかし、致命傷には程遠い。


 それどころか、黒震狼の呼吸はまだ大きく乱れていなかった。


「……化け物め」


 ラウルは小さく呟いた。


 そのとき。


 黒震狼が鼻先を持ち上げた。


 耳が、わずかに動く。


 ラウルは眉を寄せた。


 黒震狼の視線が、自分たちから外れたのだ。


 森の奥。


 さらに深い場所へ向けられている。


「……何だ?」


 ラウルは視線を追った。


 しかし、木々の向こうには何も見えない。


 黒震狼はしばらく動かなかった。


 やがて、低く喉を鳴らした。


 その声は、先ほどまでの威嚇とは少し違って聞こえた。


 そして。


 黒震狼はゆっくりと身体の向きを変えた。


 右後脚を庇いながら、森の奥へ歩き始める。


 赤い光はすでに消えていた。


 ラウルはその背中を見つめたまま、動けなかった。


 追撃するべきか。


 いや、違う。


 今は仲間を守ることが最優先だ。


 ラウルは剣を下ろさず、ゆっくりと後退した。


 そして、仲間たちが岩の向こうへ消えたことを確認すると、自分もその隙間へ身体を滑り込ませた。


     ◇◆◇


 森を抜けた頃には、太陽が西へ傾き始めていた。


 5人の調査隊は、街道脇の開けた場所で足を止めた。


 ゲインは地面へ腰を下ろし、荒い息を吐いている。


 ミレアは左肩を庇いながら木の根へ座り、オスカーが携帯していた薬と包帯で応急処置を受けていた。


 キースは周囲を警戒し、森の方角から目を離さない。


 ラウルは少し離れた場所へ立ち、左腕を確かめていた。


 前腕には赤黒い痣が広がり、指先を動かすと鈍い痛みが走る。


 骨が折れているかどうかは、今の段階ではわからない。


 だが、あの尾をまともに受けたことを考えれば、無事に済んだ方なのだろう。


「……隊長」


 キースが声をかけた。


「大丈夫か?」


「ああ。すぐに死ぬような傷じゃない」


 ラウルは苦笑した。


 そして、森へ視線を向ける。


 木々の向こうは静まり返っていた。


 あの巨大な魔物の姿は、もう見えない。


「……どうする?」


 ゲインが尋ねた。


「調査は、続けるのか?」


 ラウルは首を横に振った。


「いや。ここで引き返す」


「……いいのか?」


「ああ。十分な情報は得られた」


 ラウルは仲間たちを見渡した。


「相手は大型の獣型魔物。身体能力は非常に高く、複数の技能を使い分ける。しかも、戦闘中にこちらの動きを観察し、弱い場所を狙ってきた」


 そして、少しだけ声を落とした。


「……あれは、普通の魔物じゃない」


 ミレアが顔を上げた。


「ランク3相当……?」


「少なくとも、それを想定して対処する必要がある」


 ラウルは答えた。


「武技も術式も、まったく通じなかったわけじゃない。だが、こちらが魔力を消費して攻撃しても、相手の動きを大きく鈍らせることはできなかった」


 オスカーが頷いた。


「……土壁術も、正面から受ければ一撃で砕かれた。地盤固定も、衝撃を完全には防げなかった」


「それに、あいつは途中からこっちの攻撃を読んでいた」


 ミレアが続けた。


「同じ場所へ矢を放っても、すぐに避けるようになったわ」


 ゲインは悔しそうに拳を握った。


「……俺の槍も、浅くしか入らなかった」


 ラウルは静かに頷いた。


「だからこそ、今は退くべきだ」


 そして、森の奥へ視線を向けた。


「ランク3に匹敵する魔物なら、経験豊富な冒険者であっても簡単に倒せる相手じゃない。まして、あいつは森の地形を利用するように動いていた」


 キースが小さく息を吐いた。


「……それで、どう報告する?」


 ラウルは少し考えた。


「まず、通常の森狼とは明らかに異なること」


 指を1本立てる。


「次に、赤い光を伴う身体能力の強化と、灰色の光による地面への衝撃が確認されたこと」


 2本目。


「そして、こちらの武技や術式に対応し、戦闘中に攻撃対象を変えていたこと」


 3本目。


 ラウルは最後に、森の奥へ視線を向けた。


「……それと、あいつが途中で追撃をやめた理由は不明だ」


 全員が黙り込んだ。


 あの魔物は、なぜ自分たちを見逃したのか。


 負傷した脚が限界だったのか。


 これ以上の戦闘を避けようとしたのか。


 それとも。


 森の奥で、別の何かを感じ取ったのか。


 答えは、まだわからなかった。


「……帰るぞ」


 ラウルは剣を鞘へ収めた。


「この情報を、ギルドへ持ち帰る」


 5人の冒険者たちは、ゆっくりとリーヴェルへ向かって歩き始めた。


     ◇◆◇


 一方、その頃。


 森の深部では、黒震狼が静かに歩いていた。


 右後脚には、まだ痛みが残っている。


 それでも、足取りは先ほどより安定していた。


 黒震狼は大きな岩の前で立ち止まり、ゆっくりと鼻先を持ち上げた。


 風が吹く。


 木々の奥から、湿った土とは異なる匂いが漂ってきた。


 黒震狼は耳を立てた。


 遠くで、何かが動いている。


 重い足音。


 木の幹が擦れるような音。


 そして、低く響く、何かの唸り。


 黒震狼は身体を低くした。


 背中の毛がわずかに逆立つ。


 その目には、先ほど人間たちを見つめていたときとは違う警戒が浮かんでいた。


 森の奥に、何かがいる。


 黒震狼はしばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと後退する。


 右後脚を庇いながら、近くの岩陰へ身体を隠した。


 風が、再び吹いた。


 遠くの木々が揺れる。


 それに続いて、何か大きなものが地面を踏みしめる音が響いた。


 黒震狼は低く喉を鳴らした。


 しかし、飛び出すことはしない。


 ただ、森の奥を見つめている。


 そこに何がいるのか。


 なぜ、黒震狼が警戒しているのか。


 まだ、誰にもわからなかった。


 だが、1つだけ確かなことがあった。


 この森では、何かが起き始めている。


 そして、その変化は、黒震狼だけにとどまらないのかもしれなかった。


――第68話 完。

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