第67話 上位魔物の影
冒険者ギルドの受付を通り過ぎ、建物の奥へ続く廊下を歩きながら、ユウキは隣にいるトーマの様子を窺った。
普段なら何かにつけて話しかけてくるトーマが、今は珍しく黙っている。先ほどギルド職員から呼び止められたときには、何か新しい依頼でも紹介されるのかと期待していたようだったが、東部街道で遭遇した魔物について話を聞きたいと告げられてからは、その表情が少しずつ硬くなっていた。
ユウキも同じだった。
あの森での戦いを思い出すだけで、右肩の奥にまだ残るわずかな違和感が強くなる気がした。
黒褐色の毛に覆われた巨大な身体。
木の幹を砕くほどの力。
そして、こちらの動きを見透かしているような冷たい目。
負傷した魔物が森の奥へ消えていく姿を、ユウキは今でも鮮明に覚えている。
「こちらです」
先導していた職員が立ち止まり、廊下の突き当たりにある扉を開いた。
案内された部屋は、受付の喧騒が嘘のように静かだった。
広さは宿の共同部屋より少し大きい程度だが、中央には6人ほどが向かい合って座れる長机が置かれ、その上には何枚もの羊皮紙と地図が広げられている。壁際には書類棚が並び、古い紙とインクの匂いが、開いた窓から入ってくる風に混じって漂っていた。
ユウキの目を引いたのは、机の中央に置かれた大きな地図だった。
リーヴェルを中心として、東部補給拠点へ続く街道と周辺の森林が描かれている。
道は街から東へ延び、途中で緩やかに南へ曲がっていた。その曲がり角に近い森林の縁へ、赤い印が付けられている。
ユウキはすぐに気づいた。
自分たちが巨大な魔物と遭遇した場所だ。
さらに、そこから森の奥へ向かって、別の赤い印が2つ続いていた。
「……あの場所だね」
トーマが小声で言う。
「うん」
ユウキは頷いた。
地図を見つめていると、森での位置関係が少しずつ頭の中へ蘇ってくる。
街道の脇には緩やかな斜面があり、その先に木々が密集していた。自分は荷馬車から魔物を引き離すため、その斜面を駆け上がって森へ入ったのだ。
足元に張り出した木の根。
湿った土。
斜面の途中で倒れかけていた大木。
あの場所の地形が、最終的には全員の命を救うことになった。
だが、それは綿密な計画によるものではない。
偶然と、仲間の判断が重なった結果だった。
「……失礼します」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、灰色の髪を短く整えた男性が部屋へ入ってきた。
年齢は40代半ばほどだろうか。濃紺の制服を身につけ、胸元には銀色の徽章が付いている。痩せた顔立ちをしているものの、こちらへ向ける眼差しは鋭く、ただの事務職員とは違う雰囲気があった。
男性は机の向こう側へ立ち、4人へ軽く頭を下げた。
「リーヴェル冒険者ギルドで調査業務を担当しております、セドリック・ハルトと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
バルドが代表して頭を下げた。
「ネクシアのバルドだ。こちらこそ、よろしく頼む」
互いに挨拶を終えると、セドリックは4人へ着席を促した。
「まず、東部補給拠点への護衛依頼を無事に完了されたことへ、ギルドとして感謝いたします。報告書を確認しましたが、依頼人と積荷には被害がなかったとのことですね」
「はい」
ユウキが答える。
「僕たちは負傷しましたけど、荷馬車と依頼人の方々は無事でした」
「それは何よりです。ただ、皆さんの報告には、通常の護衛依頼では見過ごせない内容が含まれていました」
セドリックは机の上から1枚の羊皮紙を持ち上げた。
そこには、見覚えのある魔物の姿が描かれていた。
灰褐色の毛。
細身で引き締まった胴体。
長く伸びた四肢と、獲物を追跡するために発達した鼻先。
「森狼です」
ユウキはその絵を見つめた。
以前、森で遭遇した魔物。
自分が初めて固有能力『略奪』を使った相手であり、嗅覚強化を得るきっかけとなった存在だった。
当時の自分にとっては、それだけでも十分に恐ろしい敵だった。
しかし、今思い返してみると、今回の魔物との違いは明らかだった。
「森狼は通常、ランク1に分類される下級魔物です。森の中で小動物を狩り、場合によっては群れを形成して大型の獲物を襲うこともあります」
セドリックは資料へ指を添えた。
「ただし、同じ森狼でも強さには個体差があります。身体の大きさはもちろん、生命力や敏捷性、習得している技能とその習熟度、さらには経験による行動の違いも無視できません」
そこで一度言葉を切り、別の羊皮紙を広げる。
「ですが、皆さんが遭遇した個体については、その通常の個体差だけでは説明が難しいのです」
新しく広げられた紙には、いくつかの足跡が描かれていた。
横には長さを測るための目盛りが記され、通常の森狼の足跡と比較できるようになっている。
明らかに大きい。
爪の部分は深く、地面へ食い込む角度も鋭かった。
「補給拠点の兵士たちが、街道周辺でこの足跡を確認しています。皆さんの目撃情報と一致する特徴はありますが、同じ個体によるものかどうかは、まだ確定していません」
バルドが身を乗り出した。
「……足跡の大きさは、わしらが見た魔物に近いな」
「そうですか」
「ただ、あれは普通の狼とは身体の作りが違っていた。肩から前脚にかけて異様に発達しておってな。突進してきたときには、盾を構えていても身体ごと持っていかれそうになった」
セドリックは筆を取り、報告用の紙へ書き込み始めた。
「その攻撃について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
バルドはしばらく考え、当時の状況を思い返すように口を開いた。
「あれは森の斜面だった。わしはユウキの前へ出て盾を斜めに構え、魔物の突進を右へ逸らそうとした。ところが、相手の勢いが予想を遥かに上回っていてな」
バルドは机の上へ左手を置き、右手で攻撃の軌道を示した。
「最初に当たったのは盾の左上だ。そこで衝撃を逃がそうとしたが、前脚が地面を強く踏み込み、さらに身体を押し込んできた。わしは両足を開いて踏ん張ったものの、後ろへ数歩押し戻された」
ユウキはその光景を思い出した。
盾と巨大な獣の身体が衝突した瞬間、重い音が響いた。
バルドの靴底が土を削り、盾の縁から木片が飛び散った。
あの一撃を正面から受けていたら、盾はその場で壊れていたかもしれない。
「……そして、普通の突進だけではありませんでした」
ユウキが言うと、セドリックが顔を上げた。
「どういうことでしょう?」
「あの魔物は、身体に赤い光が走ったあと、急に速くなったんです」
ユウキは机の上へ手を置いた。
「光が出る前でも十分速かったんですけど、そのあとは、地面を蹴ったと思った次の瞬間には、もうこちらのすぐ近くまで来ていました」
「身体能力を高める技能……」
セドリックが小さく呟いた。
「断定はできませんが、何らかの強化系技能を使っていた可能性がありますね」
「それだけじゃないよ」
トーマが会話へ加わった。
「あいつ、前脚を地面へ叩きつけて、足元を揺らしてきたんだ」
セドリックの筆が止まる。
「……足元を?」
「うん。前脚の周りへ灰色っぽい光が集まって、それが地面へ触れた瞬間、土が跳ね上がったんだ」
トーマは両手を広げながら説明した。
「地面そのものが持ち上がるような感じで、僕たちの足元まで揺れた。立っていられなくなるほどだったんだよ」
バルドも頷いた。
「あれは、ただ地面を強く叩いた衝撃ではなかった。魔物の脚が接した場所から、こちらへ向かって揺れが伝わってきたんだ」
セドリックはしばらく考え込んだ。
「……地面へ衝撃を伝える技能。しかも、身体能力を強化するような能力と併用していた可能性がある、ということですね」
「はい」
ユウキは頷いた。
「それに、あの魔物は僕たちがどう動くのかを見ていました」
セドリックが目を細める。
「詳しく聞かせてください」
「僕が木の間を抜けて逃げたとき、最初はそのまま追いかけてきました。でも、途中から進路を変えて、僕が向かおうとしていた場所へ先回りしようとしたんです」
ユウキは地図の森を指差した。
「足元に木の根が多い場所では、僕たちが避けにくい方向から攻撃してきました。逆に、こちらが罠を仕掛けようとしたときは、地面を揺らして足場そのものを崩そうとしてきたんです」
セドリックは、何も言わずに話を聞いていた。
「僕たちは、倒れかけた木と地面の根を利用して、魔物の動きを止めようとしました。でも、相手もただ突っ込んでくるわけじゃなくて、こっちの動きに合わせて攻撃方法を変えてきたんです」
ユウキは一度息を整えた。
「あの魔物は、少なくとも僕たちが思っていたより、ずっと賢かったです」
部屋に沈黙が落ちた。
窓から入ってきた風が地図の端を持ち上げ、セドリックが指先でそれを押さえる。
やがて彼は筆を置き、静かに息を吐いた。
「……なるほど。非常に重要な情報です」
◇◆◇
「ところで、皆さんは魔物の鑑定を試みたと報告されていますね」
セドリックが別の書類を確認しながら尋ねた。
「はい。僕が試しました」
ユウキは答えた。
「ですが、成功しませんでした」
「何も読み取れなかったのですか?」
「……はい。いつもなら、魔物の名前やステータスが表示されるんですけど、あのときは駄目でした」
ユウキは、森の中で鑑定を試みた瞬間を思い出していた。
目の前に巨大な魔物が立ちはだかり、逃げる方向を探しながら能力を使った。
しかし、期待した情報は得られなかった。
名前も、レベルも、技能もわからない。
その事実が、戦闘中の判断をさらに難しくした。
セドリックは頷いた。
「鑑定は便利な技能ですが、術者の習熟度や対象との能力差によって、情報を読み取れない場合があります」
そして、少し真剣な表情で続けた。
「ただし、鑑定が失敗したという事実だけで、対象の正確なランクを決めることはできません」
ユウキは頷いた。
「……わかっています」
「ですが、今回の場合は別の情報があります。身体能力、技能と思われる現象、戦術的な行動。そのすべてを合わせて考える必要があります」
セドリックは机の端へ置かれていた分厚い資料を引き寄せた。
古い革表紙には、魔物に関する記録をまとめたものらしい文字が刻まれている。
ページをめくると、さまざまな魔物の絵や特徴が記されていた。
巨大な甲殻を持つ魔物。
洞窟に潜む爬虫類に似た魔物。
そして、通常の個体とは異なる姿をした獣型の魔物。
セドリックはあるページで手を止めた。
「魔物には、同じ種族の中で能力に差が生じる場合があります。しかし、まれに身体構造や能力が大きく変わり、元の魔物とは別種として扱われるような変異が確認されることもあります」
「……変異ですか?」
ユウキが尋ねる。
「ええ。ただし、変異したからといって必ず強くなるわけではありません。身体の一部が異常に発達する代わりに、別の能力が衰える例もあります」
ドランが顎へ手を当てた。
「なら、今回の魔物は強い方向へ変化した可能性がある、と?」
「その可能性はあります」
セドリックは頷いた。
「ただ、現在の情報では、森狼から変異した個体なのか、それとも最初から別の種族なのかさえ断定できません」
ユウキは、森狼の絵へ視線を戻した。
確かに、狼を思わせる部分はあった。
長い鼻先や鋭い耳。
獲物の動きを追う姿勢。
しかし、あの巨大な魔物の身体は、通常の森狼とはあまりに違っていた。
太い前脚。
異常に発達した肩周りの筋肉。
岩を砕くほどの尾。
そして、複数の能力を使い分ける知能。
同じ魔物だとは、簡単に信じられなかった。
「……もし、変異した魔物だったら」
トーマが口を開いた。
「元の森狼より、ずっと強くなることもあるの?」
「あります」
セドリックは短く答えた。
「個体差の範囲を超えて能力が変化した場合、元の種族より上位のランクへ分類されることもあります」
バルドが腕を組んだ。
「……なら、あれはランク2以上ということか」
「少なくとも、通常のランク1として扱うべきではないでしょう」
セドリックは資料の別のページを開いた。
そこには、魔物の危険度について説明が記されている。
「皆さんもご存じかと思いますが、魔物のランクは、その存在が持つ危険性を判断するための基準です」
セドリックは指を動かした。
「ランク1は下級魔物。ランク2は強化魔物。そして、ランク3は上位魔物に分類されます」
ユウキは、その言葉を聞いた瞬間、灰の鉱山での記憶を思い出した。
深い坑道。
崩れかけた岩壁。
そして、暗闇の奥から現れた巨大な魔物。
岩甲獣。
ランク3の上位魔物。
その身体は硬い岩のような甲殻に覆われ、動きこそ遅かったものの、正面からの攻撃では傷を与えることさえ難しかった。
エルヴィンとともに逃げ延びた、あの戦い。
もし真正面から倒そうとしていたら、今ここにはいなかっただろう。
ユウキは無意識のうちに拳を握った。
「……ランク3」
小さく呟く。
セドリックが頷いた。
「現時点では推定ですが、今回の個体はランク3に匹敵する危険性を持っている可能性があります」
トーマの表情が強張った。
「……そんなに?」
「ええ。もちろん、まだ正式な判定ではありません。ですが、複数の技能を使いこなし、高度な判断能力を持つ大型の魔物となれば、慎重に扱う必要があります」
バルドは静かに息を吐いた。
「……道理で、歯が立たなかったわけだ」
その声に、悔しさはあった。
しかし、それ以上に、危険な相手から生き残れたことへの安堵が感じられた。
セドリックは4人を見渡した。
「皆さんが無事に戻ってこられたのは、適切な撤退判断と、地形を利用した行動があったからでしょう」
ユウキは少しだけ目を伏せた。
適切だったのだろうか。
自分は、荷馬車から魔物を引き離そうとした。
だが、そのあとどうやって戻るかまでは考えられていなかった。
仲間たちが助けに来なければ、自分だけでは逃げ切れなかったかもしれない。
それでも、結果として全員が生き残った。
その経験を、次に活かす必要がある。
「……もし、また同じ魔物に遭遇したら」
ユウキは顔を上げた。
「僕たちは、どうすればいいでしょうか?」
セドリックは少しだけ考えた。
「可能な限り、戦闘を避けてください」
はっきりとした答えだった。
「現在の情報が正しければ、皆さんだけで討伐できる相手ではありません。仮に装備を新しくしたとしても、危険度が大きく変わるわけではないでしょう」
ユウキは頷いた。
ガルドから聞いた言葉を思い出す。
良い装備を持てば、必ず強くなるわけではない。
どれほど高い等級の武器でも、使いこなせなければ意味がない。
そして、相手との実力差が大きすぎれば、装備だけで埋められるものではない。
「……わかりました」
ユウキは静かに答えた。
◇◆◇
「それと、もう1つ確認させてください」
セドリックは地図を引き寄せた。
指先が、森の奥に付けられた赤い印の近くで止まる。
「皆さんの報告では、魔物は右後脚を負傷したまま森へ撤退したとのことですが、間違いありませんか?」
「はい」
ユウキが答えた。
「倒れかけていた木を利用して、魔物の動きを止めようとしました。そのとき、右後脚が倒木と地面の間に挟まれたんです」
ユウキは当時の状況を思い返した。
斜面の上に立っていた大木。
その根元は長い年月の間に土が流され、一部が地表へ露出していた。
魔物の衝撃によって地面が崩れ、木の支えとなっていた根が外れた。
その瞬間、幹が大きく傾いたのだ。
「……そのあと、僕が負傷した脚を狙って剣を振りました」
「なるほど」
セドリックは筆を走らせる。
「魔物は、そのあとどうしましたか?」
「しばらくは僕たちを警戒していました。でも、こちらが追撃しないとわかると、森の奥へ下がっていきました」
バルドが続けた。
「逃げるときにも、周囲を確認しておった。痛みで我を忘れているようには見えなかったな」
「……負傷していても冷静だった、と」
セドリックは考え込んだ。
窓の外では、荷車が石畳を進む音が聞こえている。
部屋の中に、しばらく沈黙が流れた。
やがて、セドリックが口を開いた。
「……これは、調査隊へ必ず伝える必要がありますね」
「調査隊?」
トーマが首を傾げた。
「ええ。現在、経験豊富な冒険者を中心に、現地調査の準備を進めています」
セドリックは地図の森を指差した。
「まずは皆さんが遭遇した場所を確認し、足跡や周辺の痕跡を調べます。そのうえで、魔物の行動範囲と、現在どこにいるのかを把握する予定です」
「……討伐はしないのか?」
バルドが尋ねた。
「現時点では、調査が優先です」
セドリックは答えた。
「相手の正確な能力も、現在の状態もわかっていません。そんな状況で不用意に戦闘を仕掛ければ、調査隊に被害が出る可能性があります」
その言葉に、ユウキは深く頷いた。
あの魔物を相手にするなら、慎重すぎるほど慎重でなければならない。
特に、森の中では。
木々が視界を遮り、足元には根が張り巡らされている。
斜面や窪地も多く、平坦な街道とは違って自由に動ける場所が限られる。
あの魔物は、そうした地形を利用することができた。
負傷しているからといって、簡単に追い詰められるとは思えない。
「……気をつけてください」
ユウキは静かに言った。
セドリックが顔を上げる。
「あの魔物は、僕たちが考えていたよりずっと賢かったです。もし追いかけられていることに気づいたら、逆に待ち伏せしてくるかもしれません」
セドリックは、ユウキの目を真っすぐ見つめた。
「……わかりました。その可能性も含め、調査隊へ伝えます」
そして、書類をまとめながら続けた。
「皆さんには、改めて感謝いたします。今回の情報がなければ、ほかの冒険者や商人が同じ魔物へ遭遇したとき、危険性を理解できなかったかもしれません」
ユウキは静かに頭を下げた。
「……少しでも役に立てたなら、よかったです」
セドリックは穏やかに頷いた。
だが、その表情から緊張が消えることはなかった。
◇◆◇
会議室を出ると、冒険者ギルドの受付は昼前の混雑を迎えていた。
依頼を受けに来た冒険者たちが掲示板の前に集まり、職員たちが忙しそうに書類を運んでいる。
その中で、ユウキは掲示板の一角へ新しい羊皮紙が貼られていることに気づいた。
『東部街道周辺・警戒区域指定』
大きな文字が目に入る。
内容は、東部街道の一部と周辺森林について、冒険者へ注意を促すものだった。
正体不明の大型魔物が確認されており、単独での森林探索や、夜間の移動を控えるよう記されている。
「……もう、注意が出てるんだ」
トーマが隣で呟いた。
ユウキは頷いた。
「うん。僕たち以外の人が襲われるかもしれないからね」
バルドは掲示を読み、静かに腕を組んだ。
「商人や旅人にとっても、重要な情報だろうな」
ドランも頷く。
「街道が危険になれば、補給にも影響が出る。早めに対策する必要があるだろう」
ユウキは掲示板を見つめた。
あの魔物は、今も森の奥で生きている。
そして、その存在が街の人々の生活へ影響し始めている。
もし、再び誰かが襲われたら。
そう考えると、胸の奥へ不安が広がった。
しかし、だからといって今すぐ森へ向かうことはできない。
自分たちの力では、あの魔物を倒せない。
それは、誰よりも自分たちが理解していることだった。
「……ユウキ」
バルドが声をかけた。
「焦るなよ」
ユウキは振り返った。
「……はい」
「わしらには、わしらにできることがある」
バルドは静かに続けた。
「まずは身体を完全に治し、装備を整えることだ。それから次の依頼を考えればいい」
ドランも頷いた。
「ガルドが勧めてくれた装備も、まだ買えていないからな。あれを揃えるには、しっかり稼がねばならん」
トーマは少しだけ笑った。
「僕、あの双短剣が欲しいんだよね」
「お前は、ずいぶん気に入っていたな」
ドランが笑う。
「だって、握りやすかったんだもん!」
その言葉に、ユウキも少し笑った。
自分が気になっているのは、8級の軽量片手剣。
今の鉄ショートソードより少し長く、取り回しにも優れているという。
バルドには、盾を使った防御と片手斧の攻撃を両立できる軽量複合盾。
ドランには、戦闘と精密作業の両方に対応した技工鎚。
それぞれに合った装備が、すでに見つかっている。
だが、まだ購入できていない。
今の自分たちに必要なのは、目の前の強敵へ無謀に挑むことではなく、確実に力を蓄えていくことだった。
「……みんな」
ユウキは静かに口を開いた。
「僕、もっと強くなりたい」
トーマが笑った。
「僕も!」
バルドも頷いた。
「そのためにも、まずは準備だな」
ドランは掲示板の依頼書へ視線を向けた。
「次は、装備を揃えるための資金も考えて依頼を選ぼう。無理に危険な仕事を受ける必要はないが、少しずつ経験を積むことはできる」
ユウキは頷いた。
目標は、はっきりしている。
新しい装備を手に入れること。
技能を磨くこと。
仲間との連携を強めること。
そして、次に強い魔物と遭遇したとき、全員で生きて帰れるだけの力を身につけること。
それが、今のネクシアに必要な成長だった。
ユウキはもう一度、東部街道の警戒を知らせる掲示へ目を向けた。
森の奥に消えていった巨大な魔物。
あの存在が何なのか、まだ誰も知らない。
しかし、その脅威は確実に広がり始めていた。
◇◆◇
それから2日後。
リーヴェルの北門を、5人の冒険者が出発した。
先頭を歩くのは、短く刈り込んだ黒髪と、左頬に走る古い傷が特徴的な男性だった。
年齢は30代後半ほどだろうか。厚手の革鎧の上から金属製の胸当てを身につけ、腰にはよく手入れされた片手剣を下げている。
男の後ろには、槍を持った大柄な冒険者と、背中に弓を背負った細身の女性が続いていた。
さらにその後方には、短剣を腰へ下げた斥候役の青年と、道具袋を持った中年の男性が歩いている。
5人は、ギルドから派遣された調査隊だった。
目的は、東部街道周辺に現れた正体不明の大型魔物について、その痕跡と現在の行動範囲を確認すること。
討伐ではない。
まずは、相手を知ることが最優先だった。
「……例の魔物、本当にランク3相当なのか?」
槍を持った男が尋ねた。
先頭の男性は歩みを緩めずに答えた。
「可能性がある、というだけだ。正式な判定はまだ出ていない」
「Eランクの連中が生き残ったって話だろ? だったら、そこまで危険じゃないんじゃねえか?」
その言葉に、先頭の男性が足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「……そういう考え方は捨てろ」
低い声だった。
槍を持った男が口を閉じる。
「Eランクの冒険者が生き残ったからといって、相手が弱いとは限らん。逃げる判断が正しかったのかもしれないし、地形に助けられたのかもしれん」
男は続けた。
「それに、報告書には魔物が負傷した右後脚を庇いながら撤退したとある。つまり、少なくとも倒れるまで戦い続けたわけじゃない」
弓を背負った女性が頷いた。
「……追撃してこなかったから助かった可能性もある、ということね」
「ああ」
男は街道の先へ視線を向けた。
「大切なのは、報告を軽く見ないことだ」
その言葉に、仲間たちは黙って頷いた。
先頭の男は再び歩き始めた。
5人の冒険者たちが、静かに街道を進んでいく。
やがて、彼らの前に深い森が広がり始めた。
◇◆◇
森の奥。
陽の光が届きにくい場所に、巨大な影が横たわっていた。
地面には湿った落ち葉が厚く積もり、その間から太い木の根が複雑に伸びている。周囲には背の低い茂みが広がり、少し離れた場所には苔に覆われた岩がいくつも転がっていた。
巨大な魔物は、その岩陰へ身体を寄せるようにして休んでいた。
黒褐色の体毛。
太い首。
発達した前脚と、鋭く湾曲した牙。
その姿は狼に似ているものの、通常の森狼とは明らかに異なる。
黒震狼。
森狼を起源としながら、変異によって別の魔物となった存在。
ランク3に分類される上位魔物だった。
右後脚には、まだ深い傷が残っている。
倒木に挟まれた部分は腫れ、周囲の毛が固まっていた。
傷そのものは少しずつ塞がり始めているようだったが、脚へ体重をかけると、まだ痛みが走るのだろう。
黒震狼は身体を起こそうとして、一度動きを止めた。
前脚を地面へつき、傷ついた後脚を慎重に引き寄せる。
そのまま少しずつ重心を移動させ、ゆっくりと立ち上がった。
完全に動けないわけではない。
だが、万全の状態には程遠かった。
黒震狼は右後脚を少し庇いながら、岩陰から数歩進んだ。
落ち葉を踏む音が、静かな森へ小さく響く。
そのときだった。
耳が、ぴくりと動いた。
黒震狼は足を止めた。
鼻先をゆっくり持ち上げ、風の流れを確かめる。
木々の間を抜けてきた空気には、湿った土と苔の匂いが混じっていた。
その奥に、別の匂いがある。
人間。
しかも、1人ではない。
黒震狼はしばらく動かなかった。
鼻先をわずかに左右へ動かし、風上の方向を探る。
やがて、ゆっくりと首を巡らせた。
視線の先には、木々の隙間からわずかに見える獣道が続いている。
人間たちが近づいている。
あの日、傷を負わせた者たちとは異なる匂いだった。
黒震狼は低く喉を鳴らした。
しかし、すぐに飛び出すことはしない。
しばらく周囲の音へ耳を澄ませたあと、傷ついた右後脚を慎重に動かし、近くの茂みへ身体を向けた。
太い前脚が地面を踏み、落ち葉がわずかに沈む。
黒褐色の毛が木の影へ溶け込むように揺れた。
その背中を、一瞬だけ赤い光が走る。
だが、光はすぐに消えた。
黒震狼は大きく加速することなく、木々の間を選ぶように移動していった。
傷が残る今、無理に走る必要はない。
相手の姿を確かめることもなく、正面から飛びかかる必要もない。
森には、身を隠せる場所がいくらでもある。
そして、人間たちがどこを通るのかを探る時間もあった。
やがて、黒震狼の姿は深い茂みの向こうへ消えた。
その場に残されたのは、湿った土へ刻まれた大きな足跡と、わずかに引きずられた右後脚の痕だけだった。
風が吹いた。
木々の葉が擦れ合い、細かな音を立てる。
遠くでは、調査隊が森へ近づいていた。
まだ、誰も知らない。
この森に潜む魔物が、ただ強いだけの存在ではないことを。
そして、森へ踏み込もうとしている人間たちの接近を、すでに察知していることを。
――第67話 完。




