第65話 生還の代償
リーヴェルの朝は、いつもと変わらず賑やかだった。
石畳の通りを荷車が行き交い、市場では商人たちが新鮮な野菜や焼きたてのパンを並べている。店先から漂う香ばしい匂いに誘われるように人々が集まり、少し離れた広場では、子供たちが笑いながら駆け回っていた。
ユウキはその光景を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。
数日前、東部補給拠点への護衛依頼に出発したときも、この通りを歩いた。
あのときは、新しくEランクへ昇格したことへの期待が大きかった。
少し難しい依頼でも、仲間と力を合わせれば何とかできる。
そんな自信もあった。
だが、今は違う。
右肩を動かすたびに走る鈍い痛みが、森での出来事を嫌というほど思い出させた。
巨大な四足の獣。
黒褐色の毛に覆われた身体と、地面を抉る太い爪。
突進する瞬間、背中を走った赤い光。
あの魔物は、ただ力が強いだけではなかった。
こちらの動きを観察し、攻撃を変え、逃げ道を塞ぐために技能を使い分けていた。
鑑定すら通らなかった相手。
もし少しでも判断を誤っていれば、自分たちはこの街へ戻ってこられなかったかもしれない。
「……ユウキ?」
隣から声がした。
トーマがこちらを覗き込んでいる。
「また考え事?」
「……うん。ちょっとだけ」
「もう、昨日のことは終わったんだからさ。少しは休もうよ」
トーマは両腕を頭の後ろへ組み、大きく伸びをした。
「それにしても、疲れたなぁ。今日は絶対に何もしないって決めた!」
「お前は、いつもそう言っておる気がするがな」
バルドが笑う。
しかし、その声にはいつもの力強さがなかった。
左肩を庇うように腕を身体へ寄せ、傷ついた木鉄盾を右手で持っている。
あの森で、バルドは何度も巨大な獣の攻撃を受け止めた。
盾の角度を変え、突進の勢いを逃がし、仲間が逃げるための時間を作ってくれた。
その代償が、今も身体に残っている。
「……バルドさん、肩はどうですか?」
ユウキが尋ねると、バルドは少しだけ腕を動かした。
「歩く分には問題ない。だが、盾を構えるとなれば厳しいな」
顔をしかめ、すぐに腕を下ろす。
ユウキは眉を寄せた。
「もう一度、僕が治癒魔法を使えば……」
「待て、ユウキ」
ドランが口を挟んだ。
「まずは治療院へ行こう」
「……治療院ですか?」
「ああ。お前もバルドも、あれだけ強い衝撃を受けたんだ。見た目の傷が塞がっていても、身体の奥まで治っているとは限らん」
ドランはユウキの右肩へ視線を向けた。
「治癒魔法が使えるのは心強い。だが、専門家に診てもらうことも必要だ」
ユウキは自分の腕を見下ろした。
確かに、痛みは残っている。
戦闘中は必死で気にならなかったが、今になって身体のあちこちが悲鳴を上げていた。
「……そうですね。お願いします」
ユウキが頷くと、トーマも元気よく手を上げた。
「じゃあ、治療院に行って、そのあとご飯にしよう!」
「結局、食べ物の話か」
ドランが呆れたように笑った。
そのやり取りに、ユウキも少しだけ口元を緩めた。
◇◆◇
治療院は、街の中央から少し離れた静かな通りにあった。
白い石壁の二階建てで、入口には薬草を束ねた木製の看板が吊るされている。
建物へ入ると、乾燥した薬草と清潔な布の匂いが鼻をくすぐった。
受付の奥には長い廊下が続き、その左右には木製の扉が並んでいる。奥からは水を汲む音と、誰かが小さく咳をする声が聞こえてきた。
受付にいた女性へ事情を説明すると、4人は診察室へ案内された。
最初に診てもらったのはバルドだった。
診察を担当した初老の男性は、左肩の防具を外すよう指示すると、慎重に腕の動きを確認し始めた。
「痛む場所を教えてください」
「……そこだな」
肩の外側へ触れられた瞬間、バルドが顔をしかめる。
男性は指先の位置を少し変え、筋肉の張りを確かめた。
「強い衝撃を受けていますね。何があったのですか?」
「巨大な獣型の魔物と戦ってな。突進を盾で何度も受け流した」
「……何度も?」
「ああ。真正面から受け続けたわけではないが、それでも相当な力だった」
治療師はバルドの肩から腕へ視線を移した。
「なるほど。大きな負担がかかっていますね」
手のひらへ淡い白い光が灯る。
光が肩の周囲へ薄く広がり、ゆっくりと消えていった。
治療師はしばらく状態を確かめていたが、やがて顔を上げた。
「筋肉や周辺の組織に負担が残っています。今すぐ激しい戦闘へ戻ることは勧められません」
「……どのくらい休めばいい?」
「白魔法による補助と休息だけなら、数日は見ておいた方がよいでしょう」
「数日か……」
バルドは小さく息を吐いた。
その表情を見て、ユウキは胸の奥が重くなるのを感じた。
自分を守るために、バルドは負傷した。
そのことを考えると、申し訳なさが込み上げてくる。
だが、今は謝ることよりも、治すことが大切だ。
ユウキは自分の手を見下ろした。
治癒魔法。
あの人から受け継いだ、大切な力。
まだ自分には、十分に使いこなせていない。
それでも、できることがあるはずだった。
「……治療師さん」
ユウキは静かに声をかけた。
「僕にも、手伝えることがあるかもしれません」
男性が顔を上げる。
「ほう?」
「実は、僕も回復の魔法を使えるんです」
「白魔法ですか?」
「……いえ」
ユウキは少しだけ迷ったあと、答えた。
「治癒魔法です」
その瞬間、男性の表情が変わった。
「……治癒魔法?」
「はい」
「あなた自身が、使えるのですか?」
「……はい」
治療師はしばらくユウキを見つめていた。
その反応に、トーマが首を傾げる。
「そんなに珍しいんですか?」
男性はゆっくりと頷いた。
「珍しいどころではありません。治癒魔法は、白魔法よりも上位に位置する回復系の魔法です」
ユウキは目を見開いた。
「……上位?」
「ええ。白魔法にも傷の回復を助ける術がありますが、治癒魔法は傷ついた身体へ、より直接的に働きかけることができます」
治療師はユウキへ向き直った。
「失礼ですが、おいくつですか?」
「17歳です」
「……17歳」
男性は驚きを隠せない様子だった。
「その若さで治癒魔法を使えるとは……。どなたかに教わったのですか?」
ユウキは答えようとして、言葉を止めた。
教わった。
その表現が、胸の奥へ静かに触れた。
確かに、あの人から多くのことを教わった。
だが、治癒魔法を手に入れた方法は、普通の修行とは違う。
ユウキはゆっくりと目を伏せた。
◇◆◇
――エルナ・フィオレ。
その名前が、胸の奥に浮かんだ。
森の中で出会った、老齢の女性治癒師。
穏やかな眼差し。
長い年月を刻んだ手。
そして、どこか懐かしさを感じさせる優しい表情。
ユウキは、彼女と過ごした日々を思い出していた。
エルナは、特別に大きな声を出す人ではなかった。
相手が苦しんでいても、慌てず、まずその様子を見つめる。
痛む場所を確かめ、できることを探し、必要なときには静かに手を差し伸べる。
その姿には、長い時間をかけて誰かを助け続けてきた人だけが持つ落ち着きがあった。
ユウキは、エルナの手を思い出した。
年齢を重ね、細くなった指。
それでも誰かへ触れるときには、驚くほど優しかった。
自分自身の身体も弱っていたはずなのに、彼女は誰かの痛みに目を向けることを忘れなかった。
そして、迎えた最期の日。
エルナは老衰によって、静かにその生涯を終えた。
ユウキは今でも、そのときの胸の痛みを覚えている。
もう二度と、彼女の声を聞くことはできない。
優しい笑顔を見ることもできない。
けれど、すべてが失われたわけではなかった。
エルナは、自分の力が誰かのために役立つことを願っていた。
ユウキはその願いを受け止め、彼女が息を引き取ったあと、固有能力『略奪』によって治癒魔法を継承した。
奪うという名を持つ力。
これまで、その能力を使うたびに、ユウキは何度も考えてきた。
自分が手に入れたものは、本当に自分だけのものなのだろうか。
誰かが積み重ねてきた努力。
経験。
人生。
それらを技能という形で受け取ることの意味を、まだ十分に理解できていないのかもしれない。
だが、エルナから受け継いだ治癒魔法だけは、ほかの技能とは違う重みを感じていた。
彼女が託したのは、ただ傷を治すための能力ではない。
その力を使って、誰かの命を守ってほしいという願いだった。
ユウキは、エルナが自分へ向けてくれた眼差しを思い出した。
弱くてもいい。
怖くてもいい。
それでも、誰かを思いやる気持ちまで失わなくていい。
彼女と過ごした時間は、ユウキにそう教えてくれたように思えた。
あの人なら、今の自分へ何と言うだろう。
無理をして、巨大な魔物へ1人で立ち向かったこと。
仲間を危険へ巻き込んでしまったこと。
そして、助けられたことを申し訳なく思っていること。
きっと、何より先に無事に帰ってきたことを喜んでくれる。
そんな気がした。
ユウキはそっと拳を握った。
エルナさん。
あなたから受け継いだ力を、僕はまだ上手く使えていないかもしれません。
それでも。
誰かを守るために、この力を使いたい。
あなたがそうしてきたように。
ユウキは静かに顔を上げた。
◇◆◇
「……大切な人から、受け継いだんです」
ユウキは治療師へ答えた。
男性は少しだけ目を細めた。
「……そうでしたか」
それ以上、深く問い詰めることはなかった。
ただ、ユウキの表情を見て、何かを察したように静かに頷いた。
「では、その方も優れた治癒師だったのでしょうね」
「……はい」
ユウキは小さく笑った。
「とても、優しい人でした」
治療師は穏やかに微笑んだ。
「その方から受け継いだ力なら、大切に使わなければなりませんね」
「……はい」
その言葉に、ユウキは深く頷いた。
トーマは隣で、少し不思議そうな顔をしていた。
バルドも静かにこちらを見つめている。
しかし、誰もそれ以上は尋ねなかった。
ユウキはまだ、略奪のことを仲間たちへ話していない。
それでも、エルナが大切な人だったということだけは、今の言葉で伝わったように思えた。
治療師は手元の記録へ目を落とし、バルドの負傷についてもう一度確認した。
「……それでしたら、話が変わります」
バルドが顔を上げた。
「どういうことだ?」
「先ほど、回復には数日ほど必要だとお伝えしましたね」
「ああ」
治療師は頷いた。
「しかし、この少年の治癒魔法を適切に使えば、数日と言わず、1日で良くなりますよ」
「……1日?」
ユウキは思わず聞き返した。
「ええ。もちろん、傷の状態や魔力の残量にもよりますが、今回の負傷なら十分に期待できます」
治療師は続けた。
「治癒魔法で傷ついた部分を直接回復させ、そのあと白魔法で回復を補助するのです。十分な食事と睡眠を取れば、明日にはかなり良い状態まで戻せるでしょう」
トーマが驚いた声を上げた。
「すごい! ユウキの魔法って、そんなに強かったんだ!」
ユウキは自分の手を見下ろした。
治癒魔法 Lv.3。
エルナから受け継いだ力。
これまで、傷を治すことができる便利な能力だと思っていた。
だが、その価値を改めて知ると、胸の奥へ不思議な感情が広がっていく。
嬉しさ。
驚き。
そして、少しの寂しさ。
エルナが生きていたら、この話を聞いて何と言っただろう。
ユウキは小さく笑った。
「……エルナさん、ありがとう」
声には出さず、心の中で呟いた。
治療師はユウキへ視線を向けた。
「ただし、治癒魔法にも魔力の消費があります。あなた自身の負担を考えずに使い続けるのは危険です」
「……はい」
ユウキは頷いた。
自分の魔力には限りがある。
傷を治せるからといって、何度でも使用できるわけではない。
「まずは必要な部分へ治癒魔法を使いましょう。その後、私が白魔法で回復を補助します」
「……お願いします」
ユウキは深く頭を下げた。
◇◆◇
治療は、ユウキ自身の右肩から始まった。
寝台へ腰を下ろし、左手を痛みの残る部分へ添える。
治療師は隣に立ち、傷の位置を確かめた。
「まずは、ここを中心に魔力を流してください。全身へ広げようとせず、傷ついた部分へ意識を集中するのです」
「……はい」
ユウキは静かに目を閉じた。
身体の奥にある魔力へ意識を向ける。
淡い光が手のひらへ集まり、右肩の周囲を包み始めた。
治癒魔法。
その力が、傷ついた身体へ働きかける。
温かな感覚とともに、肩の内側にあった痛みが少しずつ和らいでいく。
ユウキは魔力の流れを慎重に整えた。
以前は、ただ傷へ魔力を流し込むことばかり考えていた。
だが、今は違う。
治療師が示した位置へ意識を集中し、必要な箇所を丁寧に回復させる。
やがて、光が消えた。
「……どうですか?」
治療師が尋ねる。
ユウキはゆっくりと右腕を動かした。
先ほどは肩の高さまで上げるのが精一杯だった。
しかし、今はそれより少し高くまで動かせる。
「……さっきより楽です」
「いいですね。しっかり効果が出ています」
治療師は感心したように頷いた。
「無駄に魔力を広げず、必要な場所へ集中できています。まだ改善できる部分はありますが、十分に扱えていますよ」
ユウキは少しだけ嬉しくなった。
エルナから受け継いだ力。
その力を、少しずつ自分のものとして扱えるようになっている。
ただし、ここで無理に魔力を使い続けるわけにはいかない。
ユウキは手を下ろし、呼吸を整えた。
治療師は頷いた。
「では、ここからは私が補助しましょう」
男性は両手を胸の前へ掲げた。
指先に淡い白色の光が灯り、それが小さな光の粒となって手のひらへ集まっていく。
ユウキはその光を見つめた。
自分の治癒魔法とは、魔力の広がり方が違う。
傷へ直接働きかけるような感覚ではなく、身体全体を薄い膜で包むような穏やかな流れだった。
「――継続回復向上」
治療師が静かに唱える。
白い光がゆっくりと広がり、ユウキの肩から胸、背中へと流れ始めた。
光は皮膚の表面をなぞるように動き、やがて身体の中へ染み込んでいく。
最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。
冷えた手を温水へ浸したときのような、穏やかな感覚。
それが肩の周囲へ広がり、少しずつ身体全体を包み込んでいく。
傷が瞬時に消えるわけではない。
しかし、身体の奥で何かが静かに働き続けているような感覚があった。
「……これが、白魔法」
ユウキが呟く。
「ええ。継続回復向上は、身体の自然回復を一定時間高める魔法です」
治療師は微笑んだ。
「治癒魔法より下位に位置しますが、こうした継続的な回復補助には適しています」
ユウキは頷いた。
直接傷を回復させる治癒魔法。
その回復を支える白魔法。
同じ回復に関わる魔法でも、役割が異なるのだ。
続いて、バルドの治療が始まった。
「……ユウキ、無理はするなよ」
バルドが声をかける。
「はい。魔力の残りには気をつけます」
ユウキは頷き、バルドの左肩へ手を添えた。
治療師が傷の位置を示す。
ユウキはそこへ意識を集中した。
淡い光が手のひらから広がり、傷ついた部分へ流れ込む。
バルドの肩が、わずかに動いた。
「……おお」
驚いたような声が漏れる。
ユウキは必要な回復を施したところで、手を離した。
バルドは慎重に腕を動かした。
先ほどは痛みで止めていた高さまで、少しずつ持ち上げていく。
「……随分と楽になったな」
その声には、驚きが混ざっていた。
治療師も肩の状態を確認し、感心したように頷いた。
「確かに、回復が進んでいますね」
男性はユウキへ視線を向けた。
「優れた治癒魔法です。ですが、ここで無理に使い続ける必要はありません」
ユウキは頷いた。
魔力には限りがある。
今後、再び治療が必要になる可能性もあるのだから。
治療師はバルドの肩へ手を添えた。
「では、こちらも補助しましょう」
白い光が灯る。
「――継続回復向上」
柔らかな光がバルドの肩を包み込み、腕から胸へと広がっていく。
やがて、その輝きは薄くなり、身体の中へ溶けるように消えていった。
バルドは静かに息を吐いた。
「……温かいな」
「ええ。これで回復が促されます」
治療師は頷いた。
「今日はしっかり療養してください。治癒魔法で直接回復させたうえで、白魔法による補助も施しましたから、明日にはかなり良くなっているはずです」
「……明日か」
バルドは小さく笑った。
「数日覚悟していたから、ありがたい話だ」
ユウキもほっと息を吐いた。
治療師は最後に念を押した。
「ただし、明日になって痛みや動きに問題が残るようなら、もう一度診察を受けてください。回復が早いからといって、無理をしていいわけではありません」
「……はい」
ユウキとバルドは揃って頷いた。
◇◆◇
治療院を出た頃には、太陽が街の真上へ近づいていた。
トーマは通りへ出るなり、大きく息を吐いた。
「……それにしても、驚いたね!」
「何が?」
ユウキが尋ねる。
「何がって、ユウキの治癒魔法だよ!」
トーマは目を輝かせた。
「白魔法より上位なんでしょ? 治療師さん、すごく驚いてたじゃん!」
「……そうだね」
ユウキは少し困ったように笑った。
確かに、あの反応は予想外だった。
治癒魔法を使う機会は何度もあったが、その価値について深く考えたことはなかった。
ただ、怪我を治すための能力。
それがユウキにとっての治癒魔法だった。
「……でも、まだ上手く使えてるわけじゃないよ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
トーマは笑った。
「少なくとも、僕は助かってるよ」
ユウキは少しだけ目を見開いた。
そして、小さく笑った。
「……ありがとう」
バルドも頷いた。
「わしも、随分と助けられた」
「……バルドさん」
「お前がエルナという人から受け継いだ力なら、大事に使わねばならんな」
ユウキは静かに頷いた。
「……はい」
胸の奥に、エルナの優しい笑顔が浮かんだ。
あの人は、もういない。
けれど、彼女が積み重ねてきたものは、今もここにある。
自分の中に。
そして、仲間たちを守る力として。
ユウキは小さく息を吸った。
いつか、自分も誰かに同じような温かさを与えられる人間になりたい。
その思いを胸に、仲間たちと食堂へ向かった。
◇◆◇
食事を終えたあと、4人は宿の部屋へ戻った。
治療師から療養を指示されているため、今日は装備を持って鍛冶屋へ向かうことも、訓練を行うこともしない。
ただし、今後の活動へ向けて、手元の装備の状態だけは確認しておくことになった。
机の上へ、それぞれの武器と防具を並べる。
ユウキの鉄ショートソード。
トーマの短剣2本。
バルドの木鉄盾と片手斧。
ドランの片手鎚。
剣や鎚には戦闘による擦り傷が増え、革製の防具にも土や血の跡が残っていた。
ドランはまず、ユウキの剣を手に取った。
鞘からゆっくり引き抜き、窓から差し込む光へ刃を傾ける。
その表面には、細かな傷がいくつも走っていた。
「……刃先が少し傷んでいるな」
「やっぱりですか?」
「ああ。特にここだ」
ドランは刃の中央付近を指差した。
金属の縁がわずかに欠けている。
遠目には気づかないほど小さな傷だったが、慎重に確かめると、刃の滑らかな線が途切れているのがわかった。
「硬いものへ強く当てたのか?」
「……はい。あの魔物の身体に何度か」
ドランは頷いた。
「刃が通らない相手へ無理に振り下ろせば、剣の方が傷むこともある」
ユウキは、あのときの感触を思い出した。
剣が硬い毛へ当たった瞬間、手首へ鈍い衝撃が返ってきた。
思い切り振ったはずなのに、刃はほとんど食い込まない。
それどころか、剣が弾かれて姿勢を崩しそうになったこともあった。
「……もっと強い剣なら、違ったんでしょうか」
ユウキが尋ねると、ドランは少し考えた。
「違いはあるだろう。だが、武器の性能だけでは決まらん」
「……というと?」
「相手の身体が硬いなら、どこが硬くて、どこが比較的柔らかいかを見なければならない。どれほど上等な剣でも、無理な角度で当て続ければ傷む」
ドランは剣をゆっくりと回した。
「それに、武器の扱いは使用者の技量にも左右される。重い剣を持てば強くなるというものでもない」
ユウキは真剣に頷いた。
装備の質。
技能。
身体能力。
そして、実際の戦い方。
そのすべてが噛み合って、初めて力を発揮できるのだろう。
続いて、ドランはバルドの盾を持ち上げた。
盾の表面に刻まれた傷は、ユウキの剣よりも明らかに深かった。
金属で補強された縁の一部は変形し、その内側の木材にも亀裂が走っている。
ドランは盾を裏返し、腕を固定する革帯を確かめた。
「……こっちは、修理が必要だな」
バルドが眉を寄せた。
「やはりか」
「ああ。木枠の内部まで傷んでいるかもしれん。わしの道具だけで応急処置するより、ガルドに見てもらった方が確実だ」
「……わかった」
ドランは盾を机へ戻した。
「ただし、修理の相談は身体が回復してからにしよう。今日のところは休息が優先だ」
ユウキも頷いた。
継続回復向上が施されているとはいえ、身体はまだ完全ではない。
今、無理に動く必要はなかった。
装備の整備も、回復後に行えばいい。
ユウキは机の上へ並んだ武器を見つめながら、静かに息を吐いた。
今回の依頼で得た銀貨8枚。
4人へ均等に分配すれば、1人銀貨2枚。
だが、治療費や装備の修理費を考えれば、決して余裕があるとは言えない。
「……冒険者って、大変ですね」
ユウキが呟くと、バルドが笑った。
「そうだな。稼いだ金が、すべて手元へ残るわけではない」
「武器も防具も消耗品だからな」
ドランも頷く。
「それに、怪我をすれば働けなくなる。仕事を受けられない間も、食費や宿代は必要だ」
ユウキは小さく息を吐いた。
冒険者として生きていく。
それは、魔物と戦って報酬を受け取るだけの単純な生活ではないのだ。
危険を避ける判断。
装備の整備。
仲間の体調管理。
そして、収入と支出の管理。
戦い以外にも、覚えなければならないことが山ほどあった。
◇◆◇
装備の確認を終えると、4人は今後の活動について話し合った。
机の中央には、今回の依頼で受け取った銀貨8枚が並べられている。
ユウキは硬貨を数えながら、仲間たちへ視線を向けた。
「……報酬は、いつもどおり4人で分けようと思うんだけど」
「いいと思うよ」
トーマが答えた。
バルドとドランも頷く。
「ただ、修理費はどうする?」
ドランが尋ねた。
「今回の依頼で傷んだ装備だから、全員で負担する方法もある」
ユウキは少し考えた。
確かに、バルドの盾は今回の戦闘で大きく傷ついている。
しかし、それはバルドだけのために使われたわけではない。
ユウキを守るため。
トーマを守るため。
そして、荷馬車を守るため。
仲間全員の安全を支えてくれた盾だった。
「……僕は、修理費を全員で負担してもいいと思います」
ユウキは答えた。
トーマも頷いた。
「僕も賛成。バルドさんが盾で守ってくれなかったら、絶対に危なかったもん」
バルドは少し困ったような表情を浮かべた。
「……だが、わしの装備だぞ」
「だからこそだよ」
トーマは笑った。
「その盾で、僕たちを守ってくれたんでしょ?」
バルドは言葉を詰まらせた。
ドランも静かに頷く。
「パーティーとして活動するなら、共通の経費を考えるのは悪くない。だが、毎回その場で決めるより、簡単な決まりを作った方がいいだろうな」
ユウキは顔を上げた。
「……決まり、ですか?」
「ああ。例えば、依頼の報酬から一定額を共同の資金として残す。そこから必要な修理費や道具代を出すんだ」
ユウキはその考えを頭の中で整理した。
共同資金。
パーティー全員のために使うお金。
確かに、今後も同じような状況は起こるはずだ。
誰かの武器が壊れるかもしれない。
回復薬が必要になるかもしれない。
依頼の途中で、予想外の出費が発生することもあるだろう。
「……いいですね」
ユウキは頷いた。
「じゃあ、今回の報酬から少し残しておきましょうか」
「うん!」
トーマが元気よく答える。
バルドも頷いた。
「わしも異論はない」
最終的に、銀貨8枚のうち銀貨2枚をネクシアの共同資金として確保し、残りの銀貨6枚を4人で均等に分けることになった。
1人あたり銀貨1枚と銀貨半枚分。
実際の分配は手持ちの小銭を使って調整し、ドランが帳面へ記録した。
ユウキは自分の取り分を受け取ると、小さく息を吐いた。
稼いだ金額だけを見れば、決して大きな余裕があるわけではない。
それでも、こうして仲間と相談しながら活動を続けられることが嬉しかった。
以前の自分なら、誰かとお金の使い道を話し合うことなど想像できなかった。
灰の鉱山では、明日を生き延びることだけで精一杯だったのだから。
今は違う。
次の仕事を考えられる。
装備を整える計画を立てられる。
そして、自分たちの未来について話し合える。
ユウキは机の上に並んだ硬貨を見つめながら、胸の奥に小さな希望が灯るのを感じた。
◇◆◇
その日の夕方。
ユウキは宿の窓際へ座り、街の景色を眺めていた。
日が傾き、通りには長い影が伸びている。
市場の店じまいが始まり、荷車を引く商人たちが家路へ向かっていた。
遠くの鐘楼から、夕刻を知らせる鐘が鳴る。
ユウキは自分の右手を見下ろした。
剣を握る指には、硬い皮ができ始めている。
灰の鉱山で働いていた頃とは違う場所にも、少しずつ傷や痕が増えていた。
肩には、継続回復向上による穏やかな温もりが残っている。
治療院を出た直後よりも、腕を動かすときの重さが少し和らいでいた。
治癒魔法で傷を回復させ、その後に白魔法で回復を補助する。
その組み合わせによって、身体は確かに回復へ向かっていた。
だが、まだ完全ではない。
今夜はしっかり眠り、明日、身体の状態を確かめる必要がある。
ユウキは自分の手を見つめた。
この世界へ来たばかりの頃に比べれば、戦えるようになったと思う。
仲間もできた。
冒険者として、正式にEランクへ昇格することもできた。
しかし、今回の依頼で、その自信は大きく揺らいだ。
自分より遥かに強い魔物。
剣が通じず、逃げても追いつかれる。
相手はただ強いだけでなく、こちらの行動を観察し、技能を使い分けてきた。
もし、あの魔物が最初から自分たちを殺すことだけを考えていたら。
もし、あの倒木がうまく倒れなかったら。
もし、右後脚へ傷を負わせることができなかったら。
考えれば考えるほど、生還できたことが奇跡のように思えてくる。
ユウキは静かに目を閉じた。
そのとき、脳裏に1人の少女の姿が浮かんだ。
リナ。
灰の鉱山で出会った少女。
今も、どこかで生きているのだろうか。
自分と同じように、自由を求めているのだろうか。
それとも、まだあの暗い場所に閉じ込められているのだろうか。
ユウキは拳を握った。
助けたい。
その気持ちは、変わらない。
しかし、今の自分に何ができる。
あれほど強大な魔物を前に、逃げることしかできなかった。
そんな自分が、帝国に立ち向かえるのだろうか。
胸の奥へ、重い不安が広がる。
ユウキはしばらく俯いていた。
だが、やがてゆっくりと顔を上げた。
今すぐできなくてもいい。
大切なのは、諦めないことだ。
今日できなかったことを、明日できるようにする。
その積み重ねが、いつか誰かを救う力になるかもしれない。
「……もっと、強くなろう」
ユウキは小さく呟いた。
ただし、焦ってはいけない。
強くなるためにも、今は回復が必要なのだ。
ユウキは窓を閉め、寝台へ向かった。
◇◆◇
一方、その頃。
冒険者ギルドの奥にある執務室では、1枚の報告書が机の上へ広げられていた。
内容は、東部補給拠点とリーヴェルを結ぶ街道で発生した魔物との遭遇について。
報告者は、Eランク冒険者パーティー『ネクシア』。
担当職員は、書類へ目を落としながら眉を寄せていた。
「……鑑定失敗、か」
報告書には、巨大な四足歩行の魔物についての記述が並んでいる。
黒褐色の体毛。
長い牙と鋭い爪。
瞬間的な加速。
地面へ衝撃を伝える能力。
さらに、戦闘中に相手の行動を観察し、攻撃方法を変更する高度な知能。
職員は書類をめくった。
その下には、街道周辺で確認された足跡や倒木についての報告が添えられている。
東部補給拠点の兵士たちが提出したものだった。
「……同じ個体の可能性が高い、か」
職員は小さく呟いた。
ただし、確定ではない。
目撃された魔物の姿が限られている以上、別の個体が存在する可能性もある。
それでも、放置できる内容ではなかった。
もし、あの魔物が再び街道へ現れれば、次の補給隊が襲われるかもしれない。
しかも、今回はEランク冒険者の報告だ。
相手の強さを正確に判断できているとは限らない。
だからこそ、慎重に扱う必要がある。
職員は報告書を閉じ、別の紙を取り出した。
そこへ、いくつかの項目を書き込んでいく。
街道周辺の警戒強化。
目撃情報の収集。
足跡の確認。
そして、経験豊富な冒険者による調査の検討。
筆を置いた職員は、しばらく書類を見つめた。
「……本当に、何が起きているんだろう」
ここ最近、森の周辺では魔物の目撃が増えていた。
その原因は、まだわかっていない。
単なる季節的な移動かもしれない。
森の奥で、何か別の魔物が縄張りを広げているのかもしれない。
あるいは、まったく別の理由があるのか。
現時点では、何も断定できなかった。
職員は立ち上がり、報告書を手に取った。
この情報は、上へ伝える必要がある。
そう判断したのだ。
◇◆◇
夜。
宿の部屋には、小さなランプの明かりが灯っていた。
トーマはすでに寝台へ横になり、毛布を肩まで引き上げている。
ドランは帳面を閉じ、工具袋を棚の下へ置いた。
バルドもゆっくりと寝台へ腰を下ろし、左肩を確かめるように腕を動かしていた。
「……どうですか?」
ユウキが尋ねる。
バルドは小さく頷いた。
「昼間より、ずっと楽になっている」
「……よかったです」
「お前の治癒魔法のおかげだな」
ユウキは少し照れたように笑った。
「白魔法で補助してもらったのも大きいと思います」
「ああ。だが、上位の治癒魔法を使えるというのは、やはり心強い」
その言葉に、ユウキは自分の手を見下ろした。
治癒魔法。
エルナから受け継いだ力。
今まで何気なく使ってきた能力だったが、今日、改めてその価値を知った。
同時に、彼女の願いの重さも。
エルナはもういない。
けれど、その力は今も自分の中にある。
そして今日、その力でバルドの傷を回復させることができた。
ユウキは小さく息を吐いた。
「……もっと勉強してみたいです」
バルドが顔を上げる。
「治癒魔法をか?」
「はい。まだ、自分の力を十分に理解できていないと思うので」
バルドはしばらくユウキを見つめたあと、静かに頷いた。
「……そうだな。だが、まずは身体を治してからだ」
「……はい」
ユウキは笑った。
そのとき、トーマが毛布の中から声を上げた。
「そうそう! 明日は元気になってるんでしょ? だったら今日は早く寝ようよ!」
ドランが笑う。
「お前が1番眠そうだな」
「だって疲れたんだもん!」
そのやり取りに、部屋の空気が和らいだ。
ユウキはランプの火を小さくし、寝台へ横になった。
毛布が肩へ触れる。
まだわずかな痛みは残っていたが、昼間に比べれば随分と楽になっている。
治癒魔法と白魔法。
2つの回復の力によって、身体は確かに回復へ向かっていた。
明日には、もっと良くなっているだろう。
ユウキは静かに目を閉じた。
その脳裏に、エルナの優しい笑顔が浮かぶ。
彼女の人生を、自分が代わりに歩むことはできない。
けれど、彼女が大切にしていたものを、受け継ぐことはできる。
誰かが傷ついていたら、手を差し伸べること。
大切な人を守るために、できることを諦めないこと。
その思いを胸に、ユウキは静かに眠りへ落ちていった。
まだ、知らないことがある。
まだ、救いたい人がいる。
そして、越えなければならない壁が、いくつも待っている。
それでも。
今は、仲間たちと同じ場所で眠ることができる。
エルナから受け継いだ温かな力を胸に。
ユウキは、新しい明日を迎えようとしていた。
――第65話 完。




