第64話 生きて帰るために
森の中に、奇妙な静けさが広がっていた。
先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声は消え、木々の葉を揺らす風の音だけが、枝の間を細く流れている。
湿った土には深い爪痕が刻まれ、ところどころで木の根が剥き出しになっていた。折れた枝や砕けた石が散乱する地面は、巨大な魔物がどれほどの力で暴れ回ったのかを物語っている。
その中心に、黒褐色の獣が立っていた。
肩から背中にかけて逆立った硬い毛。
地面を抉る太い前脚。
口の両側から伸びる湾曲した牙。
猪を思わせる体格でありながら、四肢の関節は柔軟で、獲物が逃げようとする方向へ素早く身体を向けられる。
魔物はすぐには動かなかった。
鼻先をわずかに持ち上げ、周囲の匂いを確かめるように息を吸っている。時折、尖った耳が別々の方向へ動き、離れて立つユウキ達の足音を聞き分けようとしていた。
ユウキは剣を握り直した。
右腕を動かすたび、肩から肘にかけて鈍い痛みが走る。先ほど魔物の肩に弾き飛ばされ、木の根へ背中を打ちつけた影響だった。
左肩も痛む。
息を深く吸うと、背中の奥が引きつるように感じられた。
それでも、剣は握れる。
走ることも、まだできる。
しかし、あと何度あの突進を避けられるかと聞かれれば、自信はなかった。
少し離れた場所では、バルドが盾を構えている。
左腕は小刻みに震え、右肩の鉄補強革胸当てには大きな爪痕が残っていた。
盾の表面も傷だらけだ。
それでもバルドは、ユウキとトーマの位置を確かめながら、魔物へ正面を向け続けていた。
トーマは木の陰に身を寄せ、両手に短剣を構えている。
呼吸は荒いが、足取りにはまだ余裕がある。
3人とも疲弊していた。
だが、魔物の動きには大きな衰えが見られない。
ユウキは喉の奥へこみ上げてくる恐怖を、ゆっくりと飲み込んだ。
正面から戦っても勝てない。
鑑定が失敗したことからも、能力差が大きいのは確かだ。
しかも、相手は力任せに暴れるだけの魔物ではない。
加速するために赤い光を身体へ巡らせ、地面を揺らすときには前脚へ灰色の光を集める。
岩場へ逃げれば尻尾で岩を砕き、盾で突進を受け流されれば別の方向から攻撃する。
こちらが考え、対応するたびに、その先を読もうとしてくる。
だからこそ、戦い続けてはいけない。
必要なのは、倒すことではなく逃げるための隙だった。
「……トーマ」
ユウキは獣から目を離さず、隣へ声をかけた。
「僕が左へ動いたら、少し遅れて右へ回ってほしい」
「うん。でも、あいつ、僕たちが何かしようとするとすぐ気づくよ」
「わかってる。だから、簡単な合図で動こう」
ユウキは視線だけで、少し先にある大木を示した。
太い根が地面から大きく盛り上がり、その下には雨水に削られてできた空洞がある。土の表面には細い根が張り巡らされているが、ところどころ不自然に沈んでいた。
根を支えている土が、見た目ほど丈夫ではないのかもしれない。
ただ、あの巨体が乗っただけで崩れるかどうかはわからない。
ユウキはバルドへ向き直った。
「バルドさん。あの木の根の左側に、立てそうな場所がありますよね」
「ああ。太い根が地面から出ているところか」
「はい。そこにいてください。ただし、突進を真正面から受ける必要はありません」
バルドは木の根を見た。
次に、魔物へ視線を戻す。
「……進路を変えさせるのか」
「そうです。足場が崩れれば、一瞬だけでも動きを止められるかもしれません」
「だが、あの獣は賢い。危険な場所だと気づくかもしれんぞ」
「……はい」
ユウキは頷いた。
「だから、僕たちが逃げようとしていると思わせます」
トーマが顔を上げた。
「じゃあ、僕が反対側から動くのは?」
「相手の注意を引くため。でも、無理に近づかなくていい。逃げ道を塞ぐように動いてくれれば十分だよ」
トーマは少し考え、それから頷いた。
「わかった」
バルドも盾を握り直した。
「……やってみよう」
ユウキは小さく息を吸った。
失敗すれば、逃げる時間さえなくなるかもしれない。
それでも、何もしないまま追い詰められるわけにはいかなかった。
◇◆◇
最初に動いたのはユウキだった。
魔物へ背を向けないよう注意しながら、左側へ数歩移動する。
足元の落ち葉が擦れ、乾いた音を立てた。
魔物の耳が動く。
黒い瞳がユウキを追った。
だが、それだけだった。
獣は前脚を少し広げ、こちらの動きを観察している。
簡単には飛びかかってこない。
ユウキは焦りを抑えながら、さらに距離を取った。
すると、右側でトーマが動いた。
木の陰から飛び出し、魔物の横を大きく回り込む。
「こっちだ!」
トーマは声を上げた。
獣の耳が向く。
視線も一瞬だけ移動した。
しかし、魔物は動かなかった。
左右に分かれた2人を見比べ、どちらが先に危険な動きをするのか確かめているようだった。
ユウキは唇を噛んだ。
思った以上に慎重だ。
このままでは、こちらの狙いを見抜かれるかもしれない。
そのとき、魔物の背中に赤い光が走った。
硬い毛の間を淡い光が伝わり、肩から前脚へ広がっていく。
ユウキは身構えた。
来る。
しかし、獣が狙ったのはユウキではなかった。
トーマだ。
ドンッ!
巨大な前脚が地面を蹴った瞬間、獣の身体が一気に加速した。
黒褐色の巨体が低く沈み、地面を滑るように迫る。
「……っ!」
トーマは咄嗟に右へ走った。
しかし、魔物はその動きを見て進路を修正した。
肩がわずかに傾き、突進の軌道がトーマの逃げる方向へ変わる。
トーマの顔が強張った。
このまま走っても追いつかれる。
そう判断すると、目の前の木へ左手を伸ばした。
幹を掴み、腕を支点に身体を回す。
足元の土が滑ったものの、何とか木の反対側へ回り込んだ。
直後。
バキバキッ!
獣の肩が低い枝へぶつかり、木片が四方へ飛び散った。
トーマはその場で立ち止まらず、幹から手を離して斜め前へ駆け出す。
しかし、魔物は突進した勢いのまま通り過ぎなかった。
太い前脚を地面へ突き立て、急停止する。
爪が土を深く抉り、身体が大きく捻られた。
その動きに合わせて、尻尾が横へ振り抜かれる。
「……危なっ!」
トーマは反射的に身を伏せた。
ゴォッ!
頭上を尻尾が通り過ぎ、背後の木へ激突した。
乾いた音とともに樹皮が弾け、小さな木片がトーマの背中へ降り注ぐ。
トーマは両腕で頭を庇いながら転がり、木の根元から距離を取った。
魔物は追撃しようとしたが、途中で動きを止めた。
そして、ゆっくりとユウキへ顔を向ける。
再び、観察するような目だった。
ユウキは気づいた。
ただ挑発するだけでは駄目だ。
この魔物は、逃げる相手を無闇に追い続けない。
捕まえられると判断した瞬間だけ、スキルを使って距離を詰める。
その判断の速さこそが、厄介だった。
◇◆◇
「……ユウキ!」
トーマが木の陰から声を上げた。
「こいつ、簡単には引っかからないよ!」
「うん!」
ユウキは答えながら、周囲の地形を見直した。
大木までは十数歩。
根の周囲には、雨で削られた斜面が広がっている。
太い根は木を支えているが、その下の土はところどころ失われ、深い窪みを作っていた。
あそこへ魔物の前脚が入り込めば、巨体を支える重心が崩れる可能性がある。
ただし、獣が空洞の存在を見抜いていれば、避けられてしまうだろう。
ユウキは少し考えた。
自分たちがあの場所へ誘導しようとしていることを、相手に悟らせてはいけない。
ならば、もっと自然に見せる必要がある。
ユウキは剣を握り直し、魔物へ向かって走った。
正面からではない。
右側へ大きく弧を描くように接近する。
獣の鼻先が動いた。
ユウキは間合いへ踏み込む直前、剣を斜めに振り下ろした。
狙いは顔ではない。
前脚の外側だ。
ザッ!
刃が硬い毛の表面を擦った。
手応えは浅い。
皮膚へ届いたかどうかもわからなかった。
しかし、獣はすぐに反応した。
頭を横へ向け、湾曲した牙をユウキの胴へ振り抜く。
「……っ!」
ユウキは後ろへ跳んだ。
牙の先端が胸の前を通り過ぎる。
あと少し遅ければ、革胸当てごと身体を裂かれていただろう。
ユウキは着地すると、そのまま背を向けて走り出した。
肩の痛みが強くなる。
呼吸が乱れる。
それでも、速度を落とさない。
背後で獣が唸った。
グルルル……。
重い足音が響く。
来た。
ユウキは木の根へ向かって走った。
だが、獣はすぐには加速しなかった。
距離を保ちながら追いかけてくる。
その様子を見て、ユウキは考えを改めた。
こちらが弱っていることを知っているからこそ、相手は焦っていない。
走らせて疲れさせればいいと考えているのかもしれない。
ユウキは奥歯を噛みしめた。
このままでは、先に自分の体力が尽きる。
しかし、木の根まではあと少しだった。
ユウキはわざと足をもつれさせた。
左足を滑らせ、身体を大きく傾ける。
咄嗟に右手を地面へつき、転倒を防いだ。
剣先が土を擦る。
その動きは、傍から見れば疲労による失敗に見えただろう。
実際、ユウキの身体は限界に近づいていた。
魔物の目が細くなる。
鼻先が低く下がった。
そして、背中に赤い光が走る。
ユウキは息を呑んだ。
今だ。
次の瞬間。
ドンッ!
獣が地面を蹴った。
加速した巨体が、一直線に迫ってくる。
ユウキは立ち上がり、木の根へ向かって走り出した。
背後から響く足音が、急速に近づいてくる。
木の根までは、あと数歩。
しかし、魔物の方が速い。
このままでは追いつかれる。
ユウキは右足を強く踏み込み、左側へ方向転換した。
太い根を跨ぎ、木の幹へ手を伸ばす。
だが、獣はその動きを読んでいた。
突進の途中で肩を傾け、ユウキが逃げる方向へ身体を向けたのだ。
「……っ!」
ユウキの背筋が冷たくなる。
また読まれた。
このままでは、根の窪みを避けられてしまう。
しかし、その瞬間。
「こっちだ!」
トーマの声が響いた。
右側の茂みから飛び出し、獣の横を素早く駆け抜ける。
魔物の耳が動いた。
視線が一瞬だけトーマへ向く。
しかし、すぐにユウキへ戻った。
目の前の弱った相手を優先したのだろう。
だが、その一瞬が重要だった。
トーマの動きに反応して、獣の肩がわずかに右へ傾いた。
そこへ。
「……今だ!」
ユウキが叫んだ。
大木の左側から、バルドが姿を現した。
盾を身体の前へ構え、獣の進路へ斜めに入る。
真正面から突進を受けるわけではない。
あくまで、進む方向を制限するためだ。
獣の目がバルドを捉えた。
そして、盾へ視線が移る。
これまで何度も、あの盾によって攻撃を逸らされてきた。
だからこそ、獣はバルドの正面を避けようとした。
わずかに右へ。
盾の届かない方向へ。
その瞬間、前脚が木の根の上へ乗った。
ズズッ……。
嫌な音が響いた。
湿った土が崩れ、根の下に隠れていた空洞が広がっていく。
獣の右前脚が沈み込んだ。
「グオッ!?」
巨体が大きく傾く。
左前脚で踏ん張ろうとするが、加速した勢いが止まらない。
右肩が下がり、頭が地面へ近づいた。
ユウキは思わず息を呑んだ。
成功した。
そう思った瞬間だった。
◇◆◇
獣の前脚に、灰色の光が集まった。
「……え?」
ユウキは目を見開いた。
あの光。
地面を揺らすときに見せたものと同じだった。
魔物は沈み込んだ右前脚を無理に引き抜こうとはしなかった。
代わりに、左前脚を大きく持ち上げる。
その爪が灰色の光を帯び、筋肉が膨れ上がった。
「……まずい!」
ユウキが叫んだ。
直後。
ドゴンッ!
魔物の左前脚が地面へ叩きつけられた。
衝撃が土を伝わり、周囲の地面が大きく揺れる。
ユウキは足を取られ、膝をついた。
トーマも身体を傾け、近くの木へ手をつく。
バルドは盾を地面へ押し当て、何とか姿勢を保った。
だが、魔物の狙いは単に3人を転ばせることではなかった。
衝撃によって、根の周囲の土がさらに崩れたのだ。
大木の根が露わになり、地面に深い亀裂が走る。
その反動を利用して、獣が右前脚を引き抜いた。
ズボッ!
湿った土が跳ね上がる。
魔物は身体を大きく捻り、空洞から脱出した。
「……そんな」
ユウキの喉から声が漏れた。
せっかく足を取ったのに。
あれほど危険を冒して作った隙が、簡単に破られてしまった。
しかも、魔物はただ力任せに抜け出したわけではない。
地面へ衝撃を伝える能力を使い、足場そのものを崩すことで拘束を解いたのだ。
ユウキは歯を食いしばった。
この魔物は、こちらの狙いを理解している。
そして、自分の技能を使って対処してくる。
どうすればいい。
どうすれば、あの獣から逃げられる。
そのとき。
バキッ。
頭上から、何かが軋む音が聞こえた。
ユウキは顔を上げた。
大木の幹が、わずかに傾いている。
魔物が地面へ衝撃を与えたことで、根を支えていた土が失われていた。
幹の根元には亀裂が走り、枝葉が大きく揺れている。
ユウキは息を呑んだ。
「……バルドさん!」
声を張り上げる。
「木が倒れます!」
バルドはすぐに上を見た。
その瞬間、大木がさらに傾いた。
ミシミシッ!
太い根が地面から持ち上がる。
土が崩れ、根の間から小石が転がり落ちた。
そして。
バキバキバキッ!
大木が倒れ始めた。
獣はすぐに反応した。
頭を上げ、落ちてくる幹を確認する。
しかし、その位置は悪かった。
右前脚を引き抜いた直後で、身体の重心がまだ安定していなかったのだ。
さらに、周囲の土は崩れ、踏ん張れる場所が限られている。
魔物は後ろへ下がろうとした。
だが、太い後脚が崩れた地面へ沈み込む。
その瞬間。
ドゴォンッ!
大木が地面へ倒れ込んだ。
太い幹が、魔物の背中から後脚付近へ叩きつけられる。
「グオオオオッ!」
獣が苦しげな咆哮を上げた。
枝が折れ、土埃が舞い上がる。
ユウキは腕で顔を覆いながら後退した。
大木の幹は獣の身体へ斜めに乗り、片側の後脚を押さえ込んでいた。
完全に動けなくなったわけではない。
しかし、少なくともすぐに突進することは難しそうだった。
ユウキは荒い息を吐いた。
「……今なら」
逃げられる。
そう考えた瞬間、魔物が頭を持ち上げた。
黒い目がユウキを捉える。
その瞳には、怒りとも違う鋭い光が宿っていた。
次の瞬間、背中へ赤い光が走る。
「……っ!」
魔物は前脚へ力を込め、幹を押し返そうとした。
太い筋肉が膨れ上がる。
木が軋む。
ミシッ。
ユウキは背筋を冷たくした。
まだ動ける。
しかも、加速に使っていた能力を、今度は身体を押し出すために利用しているようだった。
バルドが叫ぶ。
「ユウキ! 今のうちに離れるぞ!」
「……はい!」
ユウキは頷いた。
倒すことは考えない。
今が、逃げるための隙なのだ。
◇◆◇
3人は一斉に走り出した。
ユウキは左肩の痛みを堪えながら、細い獣道を駆け抜ける。
トーマが少し前を走り、バルドは最後尾から周囲を警戒していた。
背後では、魔物が幹を押し返そうとする音が響いている。
ミシミシッ。
バキッ!
木が折れる音。
地面を抉る爪の音。
そして、低い唸り声。
ユウキは振り返りたい衝動を抑えた。
今は、前へ進むしかない。
しかし、森の中は足場が悪い。
木の根が露出し、湿った落ち葉が地面を覆っている。
トーマは身軽に障害物を越えていくが、バルドは重い盾を持っている。
しかも、右肩を負傷していた。
ユウキは速度を落とし、バルドへ視線を向けた。
「……大丈夫ですか?」
「ああ。まだ走れる」
バルドは答えた。
しかし、その呼吸は荒い。
額から汗が流れ、顔色もよくなかった。
ユウキは唇を噛んだ。
このまま全力で走り続ければ、バルドが先に限界を迎えるかもしれない。
だからといって、止まれば魔物が追いついてくる。
どうする。
そのとき、トーマが前方を指差した。
「……見えた!」
木々の間から、明るい光が差し込んでいる。
街道だ。
ユウキは胸の奥に安堵が広がるのを感じた。
あと少し。
あそこへ出られれば、荷馬車の場所へ戻れる。
しかし、背後から低い咆哮が響いた。
「グオオオオッ!」
ユウキの身体が強張った。
振り返る。
木々の奥で、黒褐色の巨体が動いていた。
倒木を押し退けたのだろう。
背中には枝の破片が絡まり、硬い毛の一部が乱れている。
しかし、まだ追ってくる。
その目は、3人の姿をしっかりと捉えていた。
「……しつこい!」
トーマが叫んだ。
ユウキは歯を食いしばった。
このまま街道へ戻れば、魔物まで連れていってしまう。
荷馬車へ近づけてはいけない。
だからといって、再び森の奥へ逃げる余裕もなかった。
ユウキは足を止めた。
「……待って!」
トーマが振り返る。
「ユウキ!?」
バルドも足を止めた。
「どうした!」
ユウキは魔物を見つめた。
巨体はまだ木々の間を進んでいる。
しかし、先ほどより速度が落ちていた。
右後脚を地面へつくたびに、身体がわずかに傾く。
倒木に押さえ込まれた際、脚を痛めたのかもしれない。
それでも、追跡をやめる様子はない。
ユウキは静かに息を吸った。
あと少しだけ、時間を稼ぐ必要がある。
「……トーマ、街道へ戻って、ドランさんに知らせて」
「えっ?」
「魔物がまだ追ってきてる。このまま荷馬車へ戻ると危ない」
トーマは首を横に振った。
「でも、またユウキを置いていくの!?」
「違う」
ユウキは即座に答えた。
「僕たちも戻る。でも、その前に荷馬車を動かしてもらいたいんだ」
バルドが頷いた。
「……なるほど」
ユウキは続けた。
「この魔物は、音や匂いで僕たちを追ってる可能性がある。だから、荷馬車が近くにいると気づかれたら危険だと思う」
トーマは少し迷った。
しかし、ユウキの目を見て、頷いた。
「……わかった。絶対に戻ってきてよ」
「うん。約束する」
トーマは短剣を握り直し、街道へ向かって走り出した。
ユウキはその背中を見送った。
そして、バルドへ向き直る。
「……すみません。また危険な役割をお願いすることになります」
バルドは首を横に振った。
「謝るな。わしも、自分でここに残ると決めた」
その言葉に、ユウキは小さく頷いた。
2人は森の出口から少し離れた場所に立ち、魔物の動きを見守った。
◇◆◇
巨大な獣は、ゆっくりと木々の間から姿を現した。
背中には折れた枝が絡まり、右後脚を動かすたびに身体がわずかに揺れている。
それでも、その目に衰えはない。
魔物はユウキとバルドを交互に見つめ、低く唸った。
グルルル……。
ユウキは剣を構え直した。
相手の動きをよく見る。
今の魔物は負傷している。
しかし、身体強化のような能力を使えば、再び急加速できるかもしれない。
地面を揺らす攻撃もある。
尻尾による広範囲の打撃も。
油断はできない。
魔物はゆっくりと前脚を踏み込んだ。
その瞬間、足元に灰色の光が集まり始める。
「……来る!」
ユウキが叫んだ。
バルドは盾を構え、身体を低くする。
しかし、今回は正面から受けるつもりはなかった。
ユウキも地面の状態を確認し、近くの木の根へ足をかけた。
魔物が前脚を振り下ろす。
ドゴンッ!
衝撃が地面へ広がる。
土が跳ね、細い枝が揺れた。
ユウキは木の根を掴み、姿勢を保つ。
バルドも盾を支えにして踏ん張った。
だが、その直後、魔物が動いた。
赤い光。
加速。
ユウキは息を呑んだ。
今度の標的は、バルドだった。
魔物は地面を蹴り、一直線に迫ってくる。
「……バルドさん!」
ユウキが叫ぶ。
バルドは盾を構えた。
しかし、獣の進路へ真正面から入らない。
右足を斜め後方へ引き、盾を少しだけ傾ける。
巨大な肩が盾へぶつかる。
ガァンッ!
衝撃が腕へ伝わる。
バルドの身体が横へ押し流された。
靴底が土を削る。
しかし、盾の角度によって獣の勢いがわずかに逸れた。
魔物はそのまま数歩進み、木の幹へ肩を擦りつける。
樹皮が剥がれ、木片が散った。
バルドは膝をついた。
左腕が大きく震えている。
盾を握る指が、わずかに緩んだ。
「……くっ!」
ユウキはすぐに駆け寄った。
「バルドさん!」
「……まだ、大丈夫だ」
バルドは荒い息を吐きながら答えた。
しかし、その声には疲労が滲んでいた。
ユウキは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
これ以上、あの盾へ頼るわけにはいかない。
次に同じ攻撃を受ければ、盾が壊れるかもしれない。
いや、バルド自身が倒れてしまう可能性もある。
ユウキは魔物へ視線を向けた。
獣は木の幹から身体を離し、ゆっくりとこちらへ向き直っている。
しかし、先ほどまでとは違う。
右後脚を地面へついた瞬間、わずかに動きが止まった。
その痛みを隠すように、前脚へ体重を移している。
ユウキは目を細めた。
魔物も無傷ではない。
そして、傷ついた脚は、技能を使っても完全には補えないのかもしれない。
ならば。
ユウキは剣を握り直した。
逃げるだけではなく、相手に追撃を諦めさせる必要がある。
ただし、倒すためではない。
自分たちが危険な獲物だと思わせる。
それができれば、魔物は無理に追い続けないかもしれない。
ユウキは静かに息を吸った。
◇◆◇
獣が再び前脚を踏み込んだ。
ユウキはその動きに合わせ、剣を構え直す。
背中に赤い光が走る。
加速するつもりだ。
しかし、魔物はすぐには突進しなかった。
負傷した右後脚を庇いながら、こちらの動きを観察している。
ユウキは一歩前へ出た。
あえて、自分の存在を強く示す。
魔物の視線が向く。
ユウキは剣を低く構えたまま、ゆっくりと距離を詰めた。
相手の間合いに入る直前。
右足を踏み込み、剣を斜めに振り上げる。
だが、狙いは魔物の胴ではなかった。
地面へついている左前脚。
その外側だった。
魔物はすぐに反応した。
前脚を引き、剣の軌道から外す。
ユウキは空振りすることを予想していた。
剣を振り抜かず、途中で腕を引く。
そして、足を踏み替えた。
魔物の頭が動く。
牙が横へ振り抜かれる。
ユウキは身体を低くし、牙の下をくぐるように横へ移動した。
風圧が髪を揺らす。
しかし、今度は避けられた。
ユウキはそのまま魔物の右側へ回り込んだ。
負傷した後脚。
そこが、今の魔物にとって最も守りたい場所のはずだ。
ユウキは剣を構え直した。
だが、ここで深追いすれば逆に危険だ。
魔物は尻尾による攻撃もできる。
ユウキは一歩だけ踏み込み、剣先で右後脚の外側を狙った。
ザッ!
刃が硬い毛を掠める。
魔物が身体を捻る。
太い尻尾が動き始めた。
ユウキはすぐに後退した。
ゴォッ!
尻尾が目の前を通り過ぎる。
その勢いで、魔物の右後脚へ体重がかかった。
「グルッ……!」
獣の身体がわずかに傾く。
痛みが走ったのだろう。
その瞬間を、ユウキは見逃さなかった。
剣を握る右手に力を込める。
大きく踏み込み、身体の回転を利用して剣を振る。
「斬り返し!」
最初の斬撃を短く放ち、その動きから刃を逆方向へ返す。
魔力が身体の奥で消費され、腕へ力が伝わった。
ザシュッ!
刃が魔物の右後脚の外側へ命中した。
深い傷ではない。
だが、すでに負傷していた場所へ新たな痛みが走ったのか、獣が大きく吠えた。
「グオオオッ!」
ユウキはすぐに後退した。
魔物の尻尾が反射的に振り抜かれる。
その先端が地面へ叩きつけられ、土が跳ねた。
ユウキは距離を取ったまま、相手の動きを見守る。
魔物は追ってこなかった。
右後脚を庇いながら、低く唸っている。
ユウキは荒い息を吐いた。
勝ったわけではない。
相手が本気で追ってくれば、まだ危険だ。
しかし、少なくとも追撃をためらわせることはできた。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
「……ユウキ!」
トーマの声だ。
ユウキは振り返った。
街道の方向から、トーマが走ってくる。
その後ろには、ドランの姿もあった。
「……トーマ!」
ユウキが叫ぶ。
トーマは息を切らしながら近づいてきた。
「荷馬車は動かした! マルクさんたちが、街道の先で待ってる!」
「……よかった」
ユウキは胸を撫で下ろした。
ドランは片手鎚を握り、魔物を見つめた。
「……こいつが、あの獣か」
その声には緊張が混ざっていた。
実際に見るのは初めてなのだろう。
魔物の巨大な身体を前にして、ドランも表情を強張らせている。
「……全員、下がろう」
ユウキは言った。
「今なら、離れられると思う」
バルドが頷いた。
「そうだな。これ以上戦う必要はない」
4人は魔物から視線を外さず、ゆっくりと後退した。
獣は低く唸り続けている。
しかし、追ってこなかった。
ユウキ達が数歩下がると、魔物も一歩だけ後退した。
そして、右後脚を庇いながら森の奥へ向きを変えた。
黒褐色の巨体が木々の間へ消えていく。
しばらくして、重い足音も聞こえなくなった。
ユウキはその場で大きく息を吐いた。
「……終わった」
その言葉を口にした瞬間、膝から力が抜けそうになった。
トーマが慌てて駆け寄る。
「ユウキ、大丈夫!?」
「……うん。ちょっと疲れただけ」
「ちょっとって顔じゃないよ!」
トーマは眉を寄せた。
ユウキは苦笑した。
確かに、身体中が痛い。
だが、立っていられる。
そして、仲間たちも無事だった。
それだけで、今は十分だった。
◇◆◇
街道へ戻ると、2台の荷馬車が少し離れた見通しのよい場所で停まっていた。
マルクと御者たちは、ユウキ達の姿を見つけると大きく手を振った。
「……戻ってきた!」
マルクが駆け寄ってくる。
「無事だったか!」
「はい。全員、戻れました」
ユウキが答えると、マルクは大きく息を吐いた。
「……本当によかった」
その表情には、心からの安堵が浮かんでいた。
ドランはすぐに荷馬車の状態を確認し始めた。
車輪。
車軸。
荷台の固定具。
すべてを確かめ、問題がないことを確認する。
ユウキはその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
自分たちが森の中で戦っている間も、ドランは荷馬車を守り続けていた。
そして、トーマが知らせに戻ったことで、安全な場所へ移動できた。
誰かが欠けていれば、今回の危機を乗り越えることはできなかっただろう。
マルクがユウキへ声をかけた。
「……あの魔物は?」
「森の奥へ戻りました」
「倒したのか?」
ユウキは首を横に振った。
「いいえ。倒せませんでした」
その言葉に、マルクの表情がわずかに強張る。
しかし、ユウキは続けた。
「かなり強い魔物でした。無理に討伐を狙うより、荷馬車を守って離れる方がいいと判断しました」
マルクはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……それでいい」
ユウキは少し驚いた。
マルクは穏やかな表情で続けた。
「俺たちがお願いしたのは、魔物を倒すことじゃない。荷物を無事に届けることだ」
その言葉に、ユウキは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
マルクは首を横に振った。
「礼を言うのはこっちだ。あんな相手から、俺たちを守ってくれたんだからな」
ユウキは小さく頭を下げた。
そして、仲間たちへ視線を向けた。
トーマは疲れた表情をしていたが、いつものように笑っている。
バルドは盾を背へ戻し、静かに息を整えていた。
ドランは最後の点検を終え、工具を袋へしまっている。
全員が、生きている。
それだけで、十分だった。
◇◆◇
補給隊は、慎重に帰路を進んだ。
森の奥から再び魔物が現れることを警戒し、ユウキ達は周囲の確認を続けた。
しかし、あの巨大な獣が再び姿を見せることはなかった。
道中で数度休憩を取り、馬の状態と荷物の固定を確認する。
ユウキとバルドの負傷も、無視できるほど軽くはなかった。
ユウキは休憩中、仲間から少し離れた場所へ座り、自分の身体へ意識を向けた。
治癒魔法。
淡い光が手のひらへ集まり、痛む肩へゆっくりと広がっていく。
傷ついた身体が少しずつ楽になる。
しかし、すべての痛みが消えるわけではなかった。
ユウキは慎重に腕を動かした。
まだ重い。
それでも、先ほどよりは動かしやすくなっている。
続いて、バルドのもとへ向かった。
「……バルドさん、肩を見せてもらえますか?」
「お前の方こそ、無理をするな」
「大丈夫です。少しでも楽になればと思って」
バルドはしばらくユウキを見つめたあと、静かに頷いた。
「……頼む」
ユウキは傷の状態を確認し、治癒魔法を使用した。
淡い光が肩へ広がる。
バルドは小さく息を吐いた。
「……少し楽になった」
「よかったです」
ユウキは笑った。
ただし、魔力には限りがある。
これ以上無理に使えば、再び戦闘になった際に対応できなくなる。
ユウキは治癒をそこで止め、残りの道中に備えた。
◇◆◇
日が傾き始めた頃、遠くにリーヴェルの外壁が見えてきた。
トーマが最初に気づいた。
「……見えた!」
その声に、全員が顔を上げた。
街道の先。
夕日に照らされた石造りの外壁が、緩やかな丘の向こうへ伸びている。
門の前には行商人の荷馬車が並び、人々が街へ入るために順番を待っていた。
ユウキはその景色を見つめながら、ようやく胸の奥の緊張が解けるのを感じた。
帰ってきた。
あの巨大な魔物から逃げ切り、荷馬車を守り、全員で戻ってくることができた。
「……やっとだね」
トーマが笑った。
「そうだね」
ユウキも笑う。
バルドは静かに頷いた。
「……無事で何よりだ」
ドランは荷馬車へ目を向けた。
「最後まで油断するなよ。門をくぐるまでは依頼の途中だ」
「わかってるって!」
トーマが笑いながら答えた。
そのやり取りに、ユウキも思わず口元を緩めた。
門を通過し、補給隊は指定された倉庫へ向かった。
マルクが受領担当者へ書類を渡し、荷物の確認が始まる。
木箱の数。
固定具の状態。
荷台の損傷。
すべて問題ないことが確認されると、マルクは大きく息を吐いた。
「……これで完了だ」
ユウキはその言葉を聞き、静かに頷いた。
依頼は、終わったのだ。
◇◆◇
翌朝。
ユウキ達は冒険者ギルドを訪れていた。
受付には、いつもの職員が座っている。
「おかえりなさい、ネクシアの皆さん」
「ただいま戻りました」
ユウキが答えると、受付職員は穏やかに微笑んだ。
「護衛依頼の報告ですね」
「はい」
ユウキはマルクから受け取った完了証明を差し出した。
受付職員は書類を確認し、依頼記録へ必要事項を記入していく。
その間に、ユウキは道中で起きたことを説明した。
往路では、3体の小鬼と遭遇したこと。
復路では、正体不明の巨大な魔物が現れたこと。
そして、その魔物は高い知能を持ち、複数の能力を使い分けていたこと。
受付職員の表情が、少しずつ険しくなっていった。
「……鑑定が失敗したんですか?」
「はい。相手とのステータス差が大きかったようで、情報を確認できませんでした」
職員は手を止めた。
「……それは、重要な情報ですね」
ユウキは頷いた。
「討伐はできませんでした。ただ、右後脚に傷を負わせたあと、森の奥へ戻っていきました」
「わかりました。ギルド側で調査が必要かもしれません」
職員は報告書へ内容を記録した。
そして、依頼完了証明を改めて確認する。
「補給隊の人員と荷物は、すべて無事に帰還していますね」
「はい」
「では、今回の護衛依頼は正式に完了です」
受付職員は小さな袋を取り出した。
「報酬は銀貨8枚です」
ユウキは袋を受け取った。
手のひらに、硬貨の重みが伝わる。
銀貨8枚。
3日間の護衛依頼。
危険な戦闘もあった。
だが、それだけの価値がある仕事だった。
ユウキは袋を見つめた。
これで、また少し前へ進める。
装備を整えることもできる。
生活を安定させることもできる。
そして、いつかリナを助けるために必要な準備も。
「……ありがとうございます」
ユウキは小さく頭を下げた。
受付職員は微笑んだ。
「こちらこそ、お疲れさまでした」
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「ただし、今回のような危険な魔物に遭遇した場合、無理に戦わないでくださいね」
「……はい」
ユウキは頷いた。
その言葉は、今回の経験を通じて十分に理解していた。
勝つことだけが、冒険者の仕事ではない。
時には、逃げることも必要なのだ。
◇◆◇
ギルドを出ると、街には朝の光が差し込んでいた。
市場では商人たちが商品を並べ、通りでは子供たちが笑いながら走っている。
いつものリーヴェル。
穏やかな街の景色。
ユウキはその光景を見つめながら、深く息を吸った。
「……帰ってきたんだね」
トーマが隣で呟いた。
「うん」
ユウキは頷いた。
バルドは空を見上げ、静かに笑った。
「……ああ。帰ってきた」
ドランは工具袋を持ち直した。
「さて、まずは装備の整備だな。あの盾も、剣も、確認しておいた方がいい」
「そうですね」
ユウキは自分の剣へ視線を向けた。
鞘の中には、何度も命を守ってくれた鉄の剣が収まっている。
しかし、あの魔物を相手にしたとき、自分の力がどれほど足りないかを思い知らされた。
剣の技術。
身体の強さ。
状況を判断する力。
そして、仲間を守るための選択。
どれも、まだ足りない。
ユウキは拳を握った。
もっと強くなりたい。
ただ、敵を倒すためではない。
守りたい人を守れるようになるために。
その思いは、これまで以上に強くなっていた。
「……ユウキ」
トーマが声をかけた。
「どうしたの?」
「……ううん」
ユウキは笑った。
「次も、頑張ろうって思って」
トーマは目を丸くした。
そして、すぐに笑った。
「もちろん!」
バルドも頷く。
「……だが、まずは休息だ」
ドランが笑った。
「そうだな。全員、今日はしっかり休め」
ユウキは仲間たちを見渡した。
自分1人では、ここまで来られなかった。
仲間がいたからこそ、何度も危険を乗り越えられた。
だからこそ、これからも一緒に歩いていきたい。
ユウキは静かに頷いた。
「……はい」
そして、4人は並んで歩き始めた。
リーヴェルの街に、朝の鐘が鳴り響く。
その音を聞きながら、ユウキは空を見上げた。
まだ、救いたい人がいる。
まだ、知らなければならないことがある。
そして、越えなければならない壁が、いくつも待っている。
それでも。
今日、自分たちは生きて帰ることができた。
その事実を胸に、ユウキは新しい一歩を踏み出した。
――第64話 完。




