第63話 守る盾、繋ぐ意志
轟音が森を震わせた。
巨大な獣の肩が盾へ激突した瞬間、バルドの身体が大きく後ろへ押し込まれる。
木鉄盾が軋み、左腕へ凄まじい衝撃が走った。
「ぐ……おおおっ!」
地面を踏みしめた両足が、湿った土を削っていく。
堅守。
身体の重心を低く保ち、盾を支える腕と足腰へ力を集中させる防御武技。
だが、それでも完全には止められなかった。
魔物の巨体が、バルドを押したまま前進する。
盾の縁から長い爪が覗き、木の表面へ深い傷を刻んだ。
「バルドさん!」
ユウキが叫ぶ。
その声を聞いたバルドは、歯を食いしばりながら右足を斜め後方へ引いた。
正面から受け続ければ押し潰される。
ならば、相手の勢いを横へ逃がすしかない。
盾をわずかに傾け、肩の位置をずらす。
その瞬間、魔物の身体が盾の表面を滑った。
ドゴンッ!
巨体がすぐ横の木へ衝突する。
幹が大きく揺れ、枝葉が降り注いだ。
バルドは衝撃から逃れるように数歩下がり、片膝をついた。
左腕が震えている。
息を吸うたび、肩に鋭い痛みが走った。
しかし、盾は手放していなかった。
「……まだ、倒れんぞ」
バルドは荒く息を吐きながら立ち上がる。
その姿を見たユウキは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分を守るために。
この人は、あの巨大な魔物の前へ飛び出してくれたのだ。
◇◆◇
「ユウキ!」
右側の茂みからトーマが駆け寄ってきた。
両手には短剣。
その表情には、隠しきれない焦りが浮かんでいた。
「大丈夫!? 怪我してるじゃん!」
「……平気。まだ動ける」
ユウキは答えたものの、右腕には鈍い痛みが残り、左肩も大きく動かすと痛んだ。
トーマはその様子を見て眉を寄せる。
「全然平気そうに見えないんだけど」
「それより、どうしてここに? 荷馬車は?」
ユウキが尋ねると、トーマはすぐに答えた。
「街道の少し先に、見通しのいい場所があったんだ。マルクさんたちに馬車を移してもらって、ドランさんが警戒してる」
「……移動できたんだね」
「うん。あの魔物がユウキを追ってる間にね」
トーマは森の奥へ視線を向けた。
「そのあと、バルドさんと僕で追ってきた。足跡がすごかったから、途中までは迷わなかったよ」
ユウキは安堵した。
荷馬車は無事。
少なくとも、今すぐあの魔物に襲われる位置ではないらしい。
だが、安心するには早かった。
木の幹へ衝突した魔物が、ゆっくりと顔を上げた。
黒褐色の毛が逆立ち、湾曲した牙の間から白い息が漏れている。
魔物は、バルドを見た。
次にトーマ。
そして、ユウキ。
3人を順番に見つめている。
まるで、相手の数が増えたことを理解し、次の行動を考えているようだった。
「……来るぞ」
バルドの声が低く響いた。
ユウキは剣を構え直す。
トーマも姿勢を低くした。
しかし、魔物はすぐには飛びかからなかった。
鼻先を上げ、周囲の空気を確かめるように息を吸う。
その直後、耳が左右へ動いた。
ユウキは眉を寄せる。
まただ。
さっきから、この魔物は何かを探るように鼻と耳を動かしている。
視覚だけではなく、匂いや音も利用しているのだろう。
しかも、それらを戦闘の判断に組み込んでいるように見える。
そのとき、魔物の背中に赤い光が走った。
「……加速する!」
ユウキが叫ぶ。
魔物が地面を蹴った。
しかし、今度の標的はバルドではなかった。
トーマだ。
「……えっ!?」
トーマは一瞬、目を見開いた。
巨大な獣が、真正面から迫ってくる。
逃げようと右へ身体を向けた。
だが、魔物はその動きを読んだかのように進路を変えた。
「トーマ、左!」
ユウキが叫んだ。
トーマは咄嗟に左足を蹴り、身体を反対側へ投げ出した。
直後、魔物の牙が目の前を通過する。
風圧が頬を叩いた。
トーマは地面を転がりながら体勢を立て直す。
「……危なっ!」
しかし、魔物はそのまま走り抜けなかった。
前脚を深く地面へ突き立て、急停止する。
そして、身体を大きく捻った。
太い尻尾が、トーマのいる方向へ振り抜かれる。
「……っ!」
トーマは短剣を構えた。
だが、尻尾の勢いは強すぎる。
受け止めれば、腕ごと弾き飛ばされるだろう。
トーマは反射的に身を伏せた。
尻尾が頭上を通過し、背後の木へ衝突する。
バキンッ!
乾いた音とともに、幹の表面が大きく裂けた。
木片が飛び散る。
トーマは腕で頭を庇いながら、必死に後退した。
ユウキはその光景を見つめた。
加速。
突進。
急停止。
そして、尻尾による追撃。
それらが、途切れることなく繋がっている。
単純に強いだけではない。
この魔物は、自分の身体と技能を組み合わせて戦っている。
「……トーマ!」
「大丈夫!」
トーマは答えたが、その声は少し震えていた。
ユウキは剣を握り直した。
このままでは、いずれ誰かが捕まる。
◇◆◇
「……ユウキ」
バルドが声をかけた。
「正面から倒すのは難しい。まずは逃げ道を作るぞ」
「はい」
ユウキは頷いた。
目的は、魔物の討伐ではない。
荷馬車と仲間を守り、全員で帰ること。
それが最優先だ。
ユウキは周囲を見回した。
右側には倒れた木。
左側には岩が露出した斜面。
背後には、街道へ続く細い道がある。
しかし、魔物はその道を塞ぐように立っていた。
どうにかして、相手の位置を変えなければならない。
「……トーマ」
ユウキが声を落とした。
「さっきみたいに、相手の注意を引ける?」
トーマは魔物を見つめた。
「……できると思う。でも、あいつ、僕が逃げようとする方向を読んでくるんだ」
「うん。だから、無理に走り回らなくていい」
ユウキは地面へ視線を落とした。
足元には、細かな石が散らばっている。
「石を使って、少しだけ視線を動かしてほしい。その隙に僕とバルドさんが動く」
「……わかった」
トーマは頷き、小石を拾った。
ユウキはバルドへ視線を向ける。
「バルドさん、魔物がこっちを向いたら、左側へ移動してください」
「左か?」
「はい。あの倒れた木の向こうに、少しだけ広い場所があります。そこへ誘導できれば、逃げ道が作れるかもしれません」
バルドは短く頷いた。
「わかった。だが、無理はするな」
「はい」
ユウキは剣を構え直した。
トーマが右手を振る。
小石が空中を飛び、魔物の左側へ落ちた。
カンッ。
乾いた音が響く。
魔物の耳が動いた。
しかし、顔は向けなかった。
ユウキは息を呑む。
気づいている。
あれがただの石だと、判断したのかもしれない。
トーマがもう一度、小石を投げる。
今度は少し大きな石だ。
石が魔物の足元へ落ちた。
コツンッ。
魔物はわずかに目を細めた。
そして、ゆっくりとトーマを見た。
「……まずい」
ユウキは呟いた。
魔物の視線は石ではなく、投げた本人へ向いている。
つまり、音を立てた場所ではなく、その原因を見抜いている。
その瞬間、魔物の前脚へ灰色の光が集まり始めた。
「トーマ、下がって!」
ユウキが叫ぶ。
魔物が前脚を振り下ろした。
ドゴンッ!
地面が揺れる。
トーマの足元から土が跳ね上がり、身体が大きく傾いた。
「うわっ!」
片膝が地面へ落ちる。
そこへ、魔物が一歩踏み込んだ。
ユウキは迷わず走り出した。
◇◆◇
トーマへ迫る牙。
ユウキはその進路へ斜めに踏み込んだ。
正面から受け止めるつもりはない。
狙いは、顔の向きを変えさせることだった。
「……こっちだ!」
ユウキは剣を振り上げ、魔物の鼻先へ向けて斜めに振り下ろした。
しかし、刃が届く直前。
魔物が頭をわずかに引いた。
剣が空を切る。
「……っ!」
ユウキは思わず目を見開いた。
攻撃を読まれた。
しかも、必要最小限の動きで避けられたのだ。
魔物の頭が横へ動く。
そのまま、湾曲した牙がユウキの胴へ向かって迫ってきた。
ユウキは咄嗟に剣を引き戻し、身体を捻る。
牙が革胸当ての表面を掠めた。
ガリッ!
嫌な音が響く。
胸元に鋭い衝撃が走った。
「ぐっ!」
ユウキは後ろへよろめいた。
革胸当てには、斜めに長い傷が残っている。
もう少し深く当たっていれば、身体まで裂かれていたかもしれない。
それでも、魔物は追撃を止めなかった。
前脚を上げる。
鋭い爪が、ユウキの頭上へ迫る。
「……ユウキ!」
バルドの声が響いた。
次の瞬間、木鉄盾が横から差し込まれた。
ガンッ!
爪が盾へぶつかる。
バルドは衝撃を受けながら、盾を斜めに押し出した。
爪の軌道がわずかに逸れる。
ユウキはその隙に後退した。
「……ありがとうございます!」
「礼はあとだ!」
バルドは荒い息を吐いた。
盾の表面には、新たな傷が刻まれている。
左腕も、先ほどの衝突で限界に近づいていた。
それでも、バルドは前へ出た。
「……わしが引きつける。お前たちは逃げ道を探せ!」
ユウキは首を横に振った。
「でも、それじゃバルドさんが!」
「……守護者の役目を忘れたわけではない!」
バルドの声が、森へ響いた。
「わしは、守るためにここにいる!」
その言葉を聞いた瞬間、ユウキは胸の奥が熱くなるのを感じた。
バルドは、逃げない。
自分たちを守るために、あの魔物へ立ち向かっている。
だからこそ。
ユウキも、考えることをやめてはいけなかった。
◇◆◇
魔物が再び唸り声を上げた。
しかし、今度はすぐに飛びかからなかった。
前脚を開き、バルドを見つめている。
その目には、奇妙な落ち着きがあった。
ユウキは気づいた。
この魔物は、バルドの盾を警戒している。
何度も突進を受け流され、爪を弾かれたことで、正面から攻撃しても簡単には倒せないと理解したのだろう。
ならば、次は。
ユウキがそう考えた瞬間、魔物の背中に赤い光が走った。
加速。
しかし、魔物は正面へ突進しなかった。
地面を蹴り、バルドの右側へ大きく回り込んだ。
「……っ!」
バルドが盾を向け直す。
だが、相手の動きが速い。
しかも、右側は斧を持つ腕の方向だ。
盾を構え直すには、身体ごと向きを変えなければならない。
魔物はその隙を狙っていた。
ユウキは咄嗟に叫んだ。
「バルドさん! 右です!」
しかし、魔物はすでに飛び込んでいた。
大きく開いた口。
鋭い牙。
その狙いは、盾ではなくバルドの脇腹だった。
ユウキは地面を蹴った。
間に合わない。
そう思った瞬間、バルドが身体を捻った。
右腕の片手斧を、短く横へ振る。
斧の刃が魔物の鼻先へ迫る。
だが、魔物は頭を引き、刃を避けた。
そのまま前脚を伸ばす。
太い爪が、バルドの右肩へ向かって振り下ろされた。
「……ぐっ!」
バルドは身を捻った。
爪は肩を直撃せず、鉄補強革胸当ての右側を掠めた。
しかし、衝撃は強烈だった。
バルドの身体が横へ弾かれ、地面へ膝をつく。
「バルドさん!」
ユウキが叫ぶ。
バルドは立ち上がろうとした。
だが、右肩を動かした瞬間、顔を歪めた。
「……くっ」
その姿を見て、ユウキの胸が締めつけられた。
守るために前へ出た仲間が、傷ついている。
自分は、何もできていない。
そんな考えが頭をよぎった。
しかし、次の瞬間。
ユウキは強く首を振った。
違う。
今、必要なのは後悔ではない。
どうすれば、全員で生きて帰れるのか。
それを考えることだ。
◇◆◇
魔物はバルドを見下ろしていた。
倒れた相手へ追撃することもできたはずだ。
しかし、すぐには動かない。
まるで、周囲の反応を確かめるように首を動かしている。
ユウキはその様子を見つめた。
先ほどから、何度も同じことが起きている。
こちらが動く。
魔物が観察する。
そして、最も効果的な攻撃を選ぶ。
まるで、戦いそのものを学んでいるようだった。
ユウキは歯を食いしばった。
このまま戦えば、確実に不利になる。
ならば、相手が考える時間を与えないようにするしかない。
しかし、単純に攻撃回数を増やしても、あの巨体には通用しない。
ユウキは周囲を見回した。
倒れた木。
岩場。
細い獣道。
そして、少し離れた場所にある、太い木の根。
その根は地面から大きく盛り上がり、周囲の土が雨で流されたのか、下には小さな空洞ができていた。
ユウキはその光景を見つめた。
もし、あそこへ魔物を誘導できれば。
足場を崩せるかもしれない。
だが、そんな簡単な罠に、この魔物が引っかかるだろうか。
ユウキは迷った。
そのとき、トーマが近づいてきた。
「……ユウキ」
声が小さい。
「何か考えてる?」
「……うん」
ユウキは頷いた。
「でも、うまくいくかわからない」
トーマは少し笑った。
「それ、いつものことじゃん」
「……え?」
「僕たち、最初から何でもできたわけじゃないでしょ?」
トーマは短剣を握り直した。
「失敗するかもしれないけど、何もしなかったら負ける。それなら、できることをやってみようよ」
ユウキは目を見開いた。
トーマの言葉が、胸の奥へ静かに響いた。
そうだ。
最初から完璧な答えなんて、ない。
それでも、仲間と考え、動くことはできる。
ユウキは小さく頷いた。
「……ありがとう」
「うん!」
トーマが笑った。
ユウキはバルドへ視線を向ける。
バルドはまだ肩を押さえているが、立ち上がろうとしていた。
「バルドさん!」
ユウキは声をかけた。
「少しだけ、時間を作れますか?」
バルドは顔を上げた。
「……何か、考えがあるのか?」
「はい。あの魔物を倒せるかはわかりません。でも、動きを止められるかもしれません」
バルドは一瞬だけ考えた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかった」
痛む肩を庇いながら、盾を構え直す。
「わしが引きつけよう」
ユウキは首を横に振った。
「無理はしないでください。正面から受け止める必要はありません」
「……ほう?」
「相手を、少しだけ動かしたいんです」
ユウキは太い木の根を指差した。
バルドはその方向を見た。
そして、わずかに口元を緩めた。
「……なるほどな」
トーマもユウキの視線を追う。
「……あそこ?」
「うん」
ユウキは答えた。
「でも、相手は頭がいい。簡単には誘導できないと思う」
トーマは頷いた。
「じゃあ、どうする?」
ユウキは魔物を見つめた。
巨大な獣は、こちらの会話を理解している様子こそない。
しかし、動きや視線の先を観察している。
だからこそ。
こちらが見せるものを、逆に利用する。
ユウキは剣を握り直した。
「……相手に、僕たちが逃げようとしていると思わせよう」
その言葉に、トーマが目を丸くした。
バルドは静かに頷いた。
ユウキは息を吸った。
守るために戦う。
その目的は、最初から変わっていない。
ただ、今は力で押し返すことができない。
だから、考える。
相手の動きを読み、仲間と力を合わせる。
そして、ほんのわずかな隙を作る。
ユウキは剣を構え、巨大な魔物へ向き直った。
「……行こう」
トーマが頷く。
バルドも盾を握り直した。
巨大な獣が、ゆっくりと頭を上げる。
その目が、3人を捉えた。
森の空気が、再び張り詰める。
そして次の瞬間。
ユウキ達は、同時に動き出した。
――第63話 完。




