第62話 獣の知略
背後から、地面を叩きつけるような足音が迫っていた。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
ユウキは息を切らしながら森の中を走る。
枝が頬を掠め、足元では湿った落ち葉が滑った。街道から続く細い獣道は緩やかな下り坂になっており、一歩踏み外せば木の根に足を取られそうだった。
それでも、速度を落とすわけにはいかない。
背後には、巨大な四足の魔物がいる。
黒褐色の毛を逆立て、湾曲した牙を剥き出しにした、正体不明の獣。
その巨体からは想像もできない速度で、ユウキとの距離を縮めていた。
「……っ、速い!」
ユウキは左手を木の幹へつき、身体の向きを変えた。
直後、魔物がそのすぐ横を駆け抜ける。
バキバキッ!
太い肩が低木を押し倒し、枝が四方へ飛び散った。
ユウキは反射的に身を伏せる。
頭上を折れた枝が通り過ぎ、背後の土へ突き刺さった。
もし、あと少し判断が遅れていたら。
そう考えただけで、背筋が冷たくなる。
魔物は数歩先で急停止した。
太い爪が地面を抉り、湿った土が跳ね上がる。
そして、ゆっくりと振り返った。
その目が、ユウキを捉える。
「……グルルル」
低い唸り声。
だが、不思議なことに、魔物はすぐには飛びかかってこなかった。
前脚を開き、頭を低く下げたまま、こちらの動きを観察している。
ユウキは剣を構え直した。
何かがおかしい。
先ほどまでの突進は、獲物を追いかける獣そのものだった。
しかし、今の魔物は違う。
逃げ道を確かめるように視線を動かし、ユウキがどちらへ進もうとするかを待っている。
まるで、次の動きを読もうとしているようだった。
「……ただの獣じゃない」
ユウキは小さく呟いた。
鑑定は失敗している。
相手のランクもレベルも、習得技能もわからない。
それでも、目の前の存在が危険だということだけは、はっきりしていた。
◇◆◇
ユウキは周囲を見渡した。
右側には太い木。
左側は斜面になっており、草の下には石がいくつも覗いている。
背後には街道へ戻る道があるが、そこへ向かえば魔物を荷馬車の近くへ連れ戻してしまう。
できるだけ、森の奥へ引き離したい。
そう考えた瞬間、魔物の耳が動いた。
次いで、黒褐色の体毛が不自然に逆立つ。
肩から背中へかけて、毛束の間を淡い赤色の光が走った。
「……え?」
ユウキは目を見開いた。
光は一瞬だけだった。
だが、確かに見えた。
魔力の流れに似たものが、魔物の身体を包んだのだ。
魔物が前脚を踏み込む。
地面が深く沈み、その巨体が低く構えられた。
次の瞬間。
ドンッ!
魔物が爆発的な勢いで飛び出した。
「……っ!」
先ほどとは、速度が違う。
ユウキは咄嗟に右へ跳ぼうとした。
しかし、魔物は真正面から突っ込んでこなかった。
ユウキが逃げようとした方向へ、身体をわずかに傾けたのだ。
進路を塞がれる。
逃げ道が、ない。
ユウキは反射的に剣を横へ構えた。
だが、受け止められるはずもない。
衝突の直前、ユウキは左足を強く蹴り、斜面へ身体を投げ出した。
直後。
ゴォッ!
魔物の身体が、すぐ横を通過した。
風圧が背中を叩く。
ユウキは斜面を転がり、肩から地面へ落ちた。
「ぐっ……!」
鈍い痛みが走る。
口の中に土の味が広がった。
それでも剣だけは手放さなかった。
ユウキは片膝をつき、急いで立ち上がる。
すると、魔物はすでにこちらへ向き直っていた。
速い。
ただ脚力が強いだけではない。
突進の直前、明らかに魔力らしき光が走った。
その直後に速度が増した。
ユウキは息を呑む。
「……スキルを使った?」
答えはわからない。
だが、そう考えれば説明がつく。
しかも、魔物はただ能力を使っただけではなかった。
ユウキの逃げる方向を見て、進路を修正してきたのだ。
それが偶然ではないとすれば、この相手は自分の能力を理解し、意図的に使っている。
ユウキは剣を握る指へ力を込めた。
強い。
そして、賢い。
単純な力比べで勝てる相手ではなかった。
◇◆◇
一方、街道ではトーマが森の奥を睨んでいた。
「……ユウキ、遅くない?」
声に焦りが混ざる。
ユウキが魔物を引きつけてから、まだ長い時間が経ったわけではない。
しかし、木々の向こうからは枝が折れる音や、地面を叩くような重い響きが断続的に聞こえていた。
そのたびに、トーマの肩が強張る。
「……僕、見に行ってくる」
短剣へ手を伸ばした瞬間、バルドが腕を出した。
「待て」
「でも!」
「ユウキがわしらに何を頼んだか、忘れたのか?」
トーマは言葉を詰まらせた。
荷馬車を守ること。
もし別の魔物が現れたとき、ドランだけでは対応しきれない。
だから、ここに残ってほしい。
ユウキは確かにそう言った。
「……わかってるよ」
トーマは唇を噛んだ。
「でも、あんな魔物を相手に1人で……」
バルドも森へ視線を向けた。
その表情は険しい。
「わしだって心配だ。だが、全員が森へ入れば荷馬車が無防備になる」
ドランが馬の首筋を撫でながら口を開いた。
「それに、あの獣がユウキを追って行ったとはいえ、戻ってこない保証はない」
馬はまだ落ち着かず、耳を左右へ動かしている。
マルクも手綱を握る手に力を込めていた。
「……どうすればいい?」
トーマが尋ねる。
バルドは少し考えた。
「まずは馬車を動かせる状態にしておく。だが、音を立てて走らせるのは危険だ。森からユウキが戻ってきたとき、すぐに乗れるようにする」
「……うん」
「トーマ、お前は前方を見てくれ。わしは森側を警戒する」
トーマは頷きかけた。
しかし、その瞬間。
森の奥から、低い咆哮が響いた。
「グオオオオッ!」
空気が震えるほどの声だった。
木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ。
トーマは反射的に森へ身体を向けた。
「……ユウキ!」
その叫びは、木々の向こうへ吸い込まれていった。
◇◆◇
ユウキは荒い呼吸を繰り返していた。
斜面へ転がった際に肩を強く打ち、左腕を動かすたびに鈍い痛みが走る。
それでも、立てないほどではない。
問題は、目の前の魔物だった。
巨大な獣は、木々の間をゆっくりと歩いている。
その動きには、先ほどまでの荒々しさがなかった。
逃げる相手を追い立てるというより、距離を保ちながら観察しているように見える。
ユウキは一歩後退した。
魔物も一歩進む。
さらに後退すると、魔物は進む方向を変え、ユウキの右側へ回り込んできた。
「……っ」
街道へ戻る方向を塞がれている。
ユウキは背後を確認した。
斜面。
細い木々。
さらに奥には、岩がいくつも露出した場所がある。
あそこなら、相手の巨体を多少は制限できるかもしれない。
しかし、そこへ向かおうとした瞬間だった。
魔物が前脚を地面へ押しつけた。
その周囲に、淡い灰色の光が広がる。
ユウキは息を呑んだ。
今度は赤い光ではない。
別の何かだ。
次の瞬間、魔物が前脚を振り下ろした。
ドゴンッ!
地面が大きく揺れた。
「うわっ!」
ユウキの足元から土が跳ね、身体が傾く。
地震のような衝撃が、足裏から膝へ突き抜けた。
踏ん張ろうとしたが、地面そのものが揺れている。
足を取られ、片膝が地面へ落ちた。
ユウキは咄嗟に剣を地面へ突き立て、身体を支えた。
その目の前で、魔物が動く。
低く構えた頭。
大きく開いた口。
鋭い牙。
ユウキは直感した。
まずい。
このままでは避けられない。
魔物が地面を蹴る。
ユウキは剣を引き抜き、身体を横へ倒した。
巨大な牙が肩のすぐ横を通過する。
しかし、完全には避けきれなかった。
魔物の肩が、ユウキの右腕へぶつかる。
「ぐあっ!」
身体が横へ弾かれた。
ユウキは地面へ転がり、木の根に背中を打ちつけた。
肺の中の空気が一気に押し出される。
息ができない。
視界の端が白く滲んだ。
それでも、意識は失わなかった。
ユウキは歯を食いしばり、片手を地面へついた。
痛い。
肩も、腕も、背中も。
だが、今ここで動けなくなれば終わりだ。
ユウキは必死に呼吸を整えた。
ふと、自分の能力が頭をよぎった。
略奪。
相手が完全に無力化されていれば、技能を奪える力。
だが、目の前の魔物はまだ健在だ。
むしろ、こちらが追い詰められている。
この状況で使える能力ではない。
「……くそっ」
ユウキは小さく呟いた。
剣を杖代わりにして立ち上がる。
魔物は、追撃してこなかった。
少し離れた場所で立ち止まり、こちらをじっと見つめている。
まるで、どこまで耐えられるか試しているようだった。
ユウキはその視線に、言いようのない不気味さを感じた。
ただ食らいつこうとする獣ではない。
相手の動きを見て、スキルを使い分け、逃げ道を塞いでくる。
しかも、まだ本気で戦っているようには見えなかった。
「……どうすれば」
ユウキは奥歯を噛みしめた。
鑑定は通らない。
正面から戦っても勝ち目が薄い。
逃げれば追いつかれる。
それでも、考えることをやめるわけにはいかなかった。
守るために、ここまで来たのだから。
◇◆◇
魔物が鼻先を上げた。
ユウキはその動きを注意深く見つめた。
耳が左右へ動き、鼻が小刻みに震えている。
何かを探している。
あるいは、確かめている。
そう思った瞬間、魔物の視線がわずかに左へ動いた。
その先には、倒れた木の幹があった。
ユウキは反射的にそちらへ目を向ける。
特に何も見えない。
だが、魔物はもう一度鼻を鳴らした。
グルル……。
そして、ユウキへ視線を戻した。
その目には、奇妙な落ち着きがあった。
ユウキは眉を寄せた。
もしかして。
この魔物は、目だけで相手を追っているわけではないのか。
耳。
鼻。
地面の振動。
そうした感覚を利用して、こちらの位置を把握している可能性がある。
さらに、先ほどの地面を揺らす攻撃。
あれは単なる踏みつけではなかった。
前脚へ灰色の光が集まったあと、地面全体へ衝撃が広がった。
もし、あれもスキルなら。
この魔物は少なくとも、身体能力を高める能力と、地面へ衝撃を伝える能力を使い分けていることになる。
ユウキは周囲を見回した。
足元の土は柔らかい。
衝撃が伝わりやすいのかもしれない。
一方、少し先には大きな岩が露出している。
あそこなら、地面を揺らされても、多少は影響を抑えられる可能性がある。
だが、魔物が追ってくれば、逃げ場は狭くなる。
ユウキは迷った。
しかし、その迷いを見透かしたかのように、魔物が一歩進んだ。
前脚が地面へ沈む。
灰色の光が、再び足元へ集まり始める。
「……また来る!」
ユウキは岩場へ向かって走った。
直後、背後で地面が揺れる。
ドゴンッ!
足裏へ衝撃が伝わる。
しかし、今度は倒れなかった。
ユウキは大きな岩へ片足をかけ、そのまま身体を持ち上げる。
衝撃が岩へ伝わり、足元がわずかに震えた。
だが、柔らかい土の上ほど大きく姿勢を崩さずに済んだ。
「……やっぱり!」
ユウキは息を吐いた。
地面の状態によって、衝撃の伝わり方が違う。
完全に防げるわけではないが、少なくとも対策にはなる。
魔物は岩の手前で立ち止まった。
そして、ゆっくりと頭を上げる。
ユウキは剣を構えた。
次に何をしてくる。
そう考えた瞬間、魔物の背中に赤い光が走った。
また、身体能力を高めるような現象。
ユウキは身構えた。
だが、魔物は突進しなかった。
その場で前脚を踏み込み、身体を大きく捻ったのだ。
尻尾が、鞭のように振り抜かれる。
「……えっ?」
ユウキは目を見開いた。
尻尾の先端が岩の側面へ叩きつけられる。
ガァンッ!
硬い音が響いた。
岩の表面に亀裂が走り、砕けた石片が飛び散る。
「うわっ!」
ユウキは咄嗟に腕で顔を覆った。
小さな石が頬や腕へ当たり、鋭い痛みが走る。
さらに、足元の岩がわずかに崩れた。
ユウキは慌てて後退する。
危うく足を滑らせるところだった。
魔物はその様子を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
まるで、逃げ道を失った獲物を確認するように。
ユウキは唇を噛んだ。
岩場へ移れば安全だと考えた。
だが、魔物はその判断に合わせて攻撃方法を変えてきた。
地面への衝撃が効きにくいなら、岩そのものを壊す。
この相手は、こちらの対策へさらに対策を重ねてくる。
しかも、その判断が速い。
ユウキは胸の奥に、これまでとは違う恐怖を覚えた。
力の差だけではない。
考える速さでも、相手に圧倒されているかもしれない。
◇◆◇
魔物が再び動いた。
今度は岩場の周囲をゆっくりと歩き始める。
ユウキはその動きに合わせて身体を向けた。
正面を外さないよう、剣を構え続ける。
だが、魔物は近づかない。
右へ。
左へ。
一定の距離を保ちながら、ユウキの立ち位置を変えさせようとしていた。
ユウキは気づいた。
自分は、少しずつ岩場の奥へ追い込まれている。
背後には、さらに大きな岩壁。
左右には崩れた石が積み重なっている。
逃げ道が狭い。
魔物は、それを理解しているようだった。
「……まずいな」
ユウキは小さく呟いた。
ここから抜け出さなければ。
しかし、正面には巨大な獣。
左右へ動けば、すぐに反応される。
どうする。
ユウキは剣を握り直した。
そのとき、耳にかすかな音が届いた。
カサッ。
最初は風かと思った。
だが、もう一度。
カサ、カサッ。
岩場の上。
誰かが、小石を踏んだような音だった。
ユウキは一瞬だけ視線を上げた。
岩壁の上には、細い木々が生えている。
その間で、何かが動いたように見えた。
魔物も気づいたのか、耳を立てる。
鼻先が、わずかに上を向いた。
ユウキは息を止めた。
新しい魔物か。
それとも、ただの小動物か。
判断できない。
しかし、その一瞬の隙に、魔物の注意が自分から逸れた。
ユウキは反射的に身体を動かした。
岩場の左側へ駆け出す。
足元の石を蹴り、狭い隙間へ身体を滑り込ませた。
魔物が吠える。
「グオオオッ!」
ユウキは振り返らなかった。
ただ、前へ進む。
岩の間を抜けると、細い道が森の奥へ続いていた。
その先には、わずかに明るい場所が見える。
ユウキは息を切らしながら走った。
しかし、背後からはすぐに重い足音が迫ってきた。
ドンッ、ドンッ。
魔物は追ってきている。
そして、今度は迷いなく距離を詰めてくる。
ユウキは歯を食いしばった。
もう、長くは走れない。
肩の痛みが強くなり、呼吸も苦しい。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
そのとき。
前方の木々の間から、聞き覚えのある声が響いた。
「……ユウキ!」
ユウキは目を見開いた。
トーマの声だった。
「……トーマ!?」
木々の向こうで、人影が動いた。
続いて、別の低い声が聞こえる。
「ユウキ! こちらだ!」
バルド。
ユウキは息を呑んだ。
なぜ、ここに。
荷馬車は。
そう考えた瞬間、背後の魔物が咆哮した。
「グオオオオッ!」
ユウキは振り返る。
巨大な獣が、すぐそこまで迫っていた。
背中には、再び赤い光が走っている。
加速。
あの突進が来る。
「……危ない!」
ユウキは前方へ叫んだ。
しかし、魔物はすでに地面を蹴っていた。
その巨体が、木々の間を一直線に駆け抜ける。
ユウキは咄嗟に身体を横へ投げ出した。
だが、今回は逃げ切れない。
そう思った瞬間。
「堅守!」
低い声が響いた。
バルドが前へ出る。
盾を正面へ構え、両足を大きく開いた。
次の瞬間、巨大な獣の身体が盾へ迫る。
ユウキは目を見開いた。
「バルドさん!」
激しい衝突音が、森へ響き渡った。
――第62話 完。




