↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/81

第62話 獣の知略

 背後から、地面を叩きつけるような足音が迫っていた。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ。


 ユウキは息を切らしながら森の中を走る。


 枝が頬を掠め、足元では湿った落ち葉が滑った。街道から続く細い獣道は緩やかな下り坂になっており、一歩踏み外せば木の根に足を取られそうだった。


 それでも、速度を落とすわけにはいかない。


 背後には、巨大な四足の魔物がいる。


 黒褐色の毛を逆立て、湾曲した牙を剥き出しにした、正体不明の獣。


 その巨体からは想像もできない速度で、ユウキとの距離を縮めていた。


「……っ、速い!」


 ユウキは左手を木の幹へつき、身体の向きを変えた。


 直後、魔物がそのすぐ横を駆け抜ける。


 バキバキッ!


 太い肩が低木を押し倒し、枝が四方へ飛び散った。


 ユウキは反射的に身を伏せる。


 頭上を折れた枝が通り過ぎ、背後の土へ突き刺さった。


 もし、あと少し判断が遅れていたら。


 そう考えただけで、背筋が冷たくなる。


 魔物は数歩先で急停止した。


 太い爪が地面を抉り、湿った土が跳ね上がる。


 そして、ゆっくりと振り返った。


 その目が、ユウキを捉える。


「……グルルル」


 低い唸り声。


 だが、不思議なことに、魔物はすぐには飛びかかってこなかった。


 前脚を開き、頭を低く下げたまま、こちらの動きを観察している。


 ユウキは剣を構え直した。


 何かがおかしい。


 先ほどまでの突進は、獲物を追いかける獣そのものだった。


 しかし、今の魔物は違う。


 逃げ道を確かめるように視線を動かし、ユウキがどちらへ進もうとするかを待っている。


 まるで、次の動きを読もうとしているようだった。


「……ただの獣じゃない」


 ユウキは小さく呟いた。


 鑑定は失敗している。


 相手のランクもレベルも、習得技能もわからない。


 それでも、目の前の存在が危険だということだけは、はっきりしていた。


     ◇◆◇


 ユウキは周囲を見渡した。


 右側には太い木。


 左側は斜面になっており、草の下には石がいくつも覗いている。


 背後には街道へ戻る道があるが、そこへ向かえば魔物を荷馬車の近くへ連れ戻してしまう。


 できるだけ、森の奥へ引き離したい。


 そう考えた瞬間、魔物の耳が動いた。


 次いで、黒褐色の体毛が不自然に逆立つ。


 肩から背中へかけて、毛束の間を淡い赤色の光が走った。


「……え?」


 ユウキは目を見開いた。


 光は一瞬だけだった。


 だが、確かに見えた。


 魔力の流れに似たものが、魔物の身体を包んだのだ。


 魔物が前脚を踏み込む。


 地面が深く沈み、その巨体が低く構えられた。


 次の瞬間。


 ドンッ!


 魔物が爆発的な勢いで飛び出した。


「……っ!」


 先ほどとは、速度が違う。


 ユウキは咄嗟に右へ跳ぼうとした。


 しかし、魔物は真正面から突っ込んでこなかった。


 ユウキが逃げようとした方向へ、身体をわずかに傾けたのだ。


 進路を塞がれる。


 逃げ道が、ない。


 ユウキは反射的に剣を横へ構えた。


 だが、受け止められるはずもない。


 衝突の直前、ユウキは左足を強く蹴り、斜面へ身体を投げ出した。


 直後。


 ゴォッ!


 魔物の身体が、すぐ横を通過した。


 風圧が背中を叩く。


 ユウキは斜面を転がり、肩から地面へ落ちた。


「ぐっ……!」


 鈍い痛みが走る。


 口の中に土の味が広がった。


 それでも剣だけは手放さなかった。


 ユウキは片膝をつき、急いで立ち上がる。


 すると、魔物はすでにこちらへ向き直っていた。


 速い。


 ただ脚力が強いだけではない。


 突進の直前、明らかに魔力らしき光が走った。


 その直後に速度が増した。


 ユウキは息を呑む。


「……スキルを使った?」


 答えはわからない。


 だが、そう考えれば説明がつく。


 しかも、魔物はただ能力を使っただけではなかった。


 ユウキの逃げる方向を見て、進路を修正してきたのだ。


 それが偶然ではないとすれば、この相手は自分の能力を理解し、意図的に使っている。


 ユウキは剣を握る指へ力を込めた。


 強い。


 そして、賢い。


 単純な力比べで勝てる相手ではなかった。


     ◇◆◇


 一方、街道ではトーマが森の奥を睨んでいた。


「……ユウキ、遅くない?」


 声に焦りが混ざる。


 ユウキが魔物を引きつけてから、まだ長い時間が経ったわけではない。


 しかし、木々の向こうからは枝が折れる音や、地面を叩くような重い響きが断続的に聞こえていた。


 そのたびに、トーマの肩が強張る。


「……僕、見に行ってくる」


 短剣へ手を伸ばした瞬間、バルドが腕を出した。


「待て」


「でも!」


「ユウキがわしらに何を頼んだか、忘れたのか?」


 トーマは言葉を詰まらせた。


 荷馬車を守ること。


 もし別の魔物が現れたとき、ドランだけでは対応しきれない。


 だから、ここに残ってほしい。


 ユウキは確かにそう言った。


「……わかってるよ」


 トーマは唇を噛んだ。


「でも、あんな魔物を相手に1人で……」


 バルドも森へ視線を向けた。


 その表情は険しい。


「わしだって心配だ。だが、全員が森へ入れば荷馬車が無防備になる」


 ドランが馬の首筋を撫でながら口を開いた。


「それに、あの獣がユウキを追って行ったとはいえ、戻ってこない保証はない」


 馬はまだ落ち着かず、耳を左右へ動かしている。


 マルクも手綱を握る手に力を込めていた。


「……どうすればいい?」


 トーマが尋ねる。


 バルドは少し考えた。


「まずは馬車を動かせる状態にしておく。だが、音を立てて走らせるのは危険だ。森からユウキが戻ってきたとき、すぐに乗れるようにする」


「……うん」


「トーマ、お前は前方を見てくれ。わしは森側を警戒する」


 トーマは頷きかけた。


 しかし、その瞬間。


 森の奥から、低い咆哮が響いた。


「グオオオオッ!」


 空気が震えるほどの声だった。


 木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ。


 トーマは反射的に森へ身体を向けた。


「……ユウキ!」


 その叫びは、木々の向こうへ吸い込まれていった。


     ◇◆◇


 ユウキは荒い呼吸を繰り返していた。


 斜面へ転がった際に肩を強く打ち、左腕を動かすたびに鈍い痛みが走る。


 それでも、立てないほどではない。


 問題は、目の前の魔物だった。


 巨大な獣は、木々の間をゆっくりと歩いている。


 その動きには、先ほどまでの荒々しさがなかった。


 逃げる相手を追い立てるというより、距離を保ちながら観察しているように見える。


 ユウキは一歩後退した。


 魔物も一歩進む。


 さらに後退すると、魔物は進む方向を変え、ユウキの右側へ回り込んできた。


「……っ」


 街道へ戻る方向を塞がれている。


 ユウキは背後を確認した。


 斜面。


 細い木々。


 さらに奥には、岩がいくつも露出した場所がある。


 あそこなら、相手の巨体を多少は制限できるかもしれない。


 しかし、そこへ向かおうとした瞬間だった。


 魔物が前脚を地面へ押しつけた。


 その周囲に、淡い灰色の光が広がる。


 ユウキは息を呑んだ。


 今度は赤い光ではない。


 別の何かだ。


 次の瞬間、魔物が前脚を振り下ろした。


 ドゴンッ!


 地面が大きく揺れた。


「うわっ!」


 ユウキの足元から土が跳ね、身体が傾く。


 地震のような衝撃が、足裏から膝へ突き抜けた。


 踏ん張ろうとしたが、地面そのものが揺れている。


 足を取られ、片膝が地面へ落ちた。


 ユウキは咄嗟に剣を地面へ突き立て、身体を支えた。


 その目の前で、魔物が動く。


 低く構えた頭。


 大きく開いた口。


 鋭い牙。


 ユウキは直感した。


 まずい。


 このままでは避けられない。


 魔物が地面を蹴る。


 ユウキは剣を引き抜き、身体を横へ倒した。


 巨大な牙が肩のすぐ横を通過する。


 しかし、完全には避けきれなかった。


 魔物の肩が、ユウキの右腕へぶつかる。


「ぐあっ!」


 身体が横へ弾かれた。


 ユウキは地面へ転がり、木の根に背中を打ちつけた。


 肺の中の空気が一気に押し出される。


 息ができない。


 視界の端が白く滲んだ。


 それでも、意識は失わなかった。


 ユウキは歯を食いしばり、片手を地面へついた。


 痛い。


 肩も、腕も、背中も。


 だが、今ここで動けなくなれば終わりだ。


 ユウキは必死に呼吸を整えた。


 ふと、自分の能力が頭をよぎった。


 略奪。


 相手が完全に無力化されていれば、技能を奪える力。


 だが、目の前の魔物はまだ健在だ。


 むしろ、こちらが追い詰められている。


 この状況で使える能力ではない。


「……くそっ」


 ユウキは小さく呟いた。


 剣を杖代わりにして立ち上がる。


 魔物は、追撃してこなかった。


 少し離れた場所で立ち止まり、こちらをじっと見つめている。


 まるで、どこまで耐えられるか試しているようだった。


 ユウキはその視線に、言いようのない不気味さを感じた。


 ただ食らいつこうとする獣ではない。


 相手の動きを見て、スキルを使い分け、逃げ道を塞いでくる。


 しかも、まだ本気で戦っているようには見えなかった。


「……どうすれば」


 ユウキは奥歯を噛みしめた。


 鑑定は通らない。


 正面から戦っても勝ち目が薄い。


 逃げれば追いつかれる。


 それでも、考えることをやめるわけにはいかなかった。


 守るために、ここまで来たのだから。


     ◇◆◇


 魔物が鼻先を上げた。


 ユウキはその動きを注意深く見つめた。


 耳が左右へ動き、鼻が小刻みに震えている。


 何かを探している。


 あるいは、確かめている。


 そう思った瞬間、魔物の視線がわずかに左へ動いた。


 その先には、倒れた木の幹があった。


 ユウキは反射的にそちらへ目を向ける。


 特に何も見えない。


 だが、魔物はもう一度鼻を鳴らした。


 グルル……。


 そして、ユウキへ視線を戻した。


 その目には、奇妙な落ち着きがあった。


 ユウキは眉を寄せた。


 もしかして。


 この魔物は、目だけで相手を追っているわけではないのか。


 耳。


 鼻。


 地面の振動。


 そうした感覚を利用して、こちらの位置を把握している可能性がある。


 さらに、先ほどの地面を揺らす攻撃。


 あれは単なる踏みつけではなかった。


 前脚へ灰色の光が集まったあと、地面全体へ衝撃が広がった。


 もし、あれもスキルなら。


 この魔物は少なくとも、身体能力を高める能力と、地面へ衝撃を伝える能力を使い分けていることになる。


 ユウキは周囲を見回した。


 足元の土は柔らかい。


 衝撃が伝わりやすいのかもしれない。


 一方、少し先には大きな岩が露出している。


 あそこなら、地面を揺らされても、多少は影響を抑えられる可能性がある。


 だが、魔物が追ってくれば、逃げ場は狭くなる。


 ユウキは迷った。


 しかし、その迷いを見透かしたかのように、魔物が一歩進んだ。


 前脚が地面へ沈む。


 灰色の光が、再び足元へ集まり始める。


「……また来る!」


 ユウキは岩場へ向かって走った。


 直後、背後で地面が揺れる。


 ドゴンッ!


 足裏へ衝撃が伝わる。


 しかし、今度は倒れなかった。


 ユウキは大きな岩へ片足をかけ、そのまま身体を持ち上げる。


 衝撃が岩へ伝わり、足元がわずかに震えた。


 だが、柔らかい土の上ほど大きく姿勢を崩さずに済んだ。


「……やっぱり!」


 ユウキは息を吐いた。


 地面の状態によって、衝撃の伝わり方が違う。


 完全に防げるわけではないが、少なくとも対策にはなる。


 魔物は岩の手前で立ち止まった。


 そして、ゆっくりと頭を上げる。


 ユウキは剣を構えた。


 次に何をしてくる。


 そう考えた瞬間、魔物の背中に赤い光が走った。


 また、身体能力を高めるような現象。


 ユウキは身構えた。


 だが、魔物は突進しなかった。


 その場で前脚を踏み込み、身体を大きく捻ったのだ。


 尻尾が、鞭のように振り抜かれる。


「……えっ?」


 ユウキは目を見開いた。


 尻尾の先端が岩の側面へ叩きつけられる。


 ガァンッ!


 硬い音が響いた。


 岩の表面に亀裂が走り、砕けた石片が飛び散る。


「うわっ!」


 ユウキは咄嗟に腕で顔を覆った。


 小さな石が頬や腕へ当たり、鋭い痛みが走る。


 さらに、足元の岩がわずかに崩れた。


 ユウキは慌てて後退する。


 危うく足を滑らせるところだった。


 魔物はその様子を見つめていた。


 そして、ゆっくりと口を開く。


 まるで、逃げ道を失った獲物を確認するように。


 ユウキは唇を噛んだ。


 岩場へ移れば安全だと考えた。


 だが、魔物はその判断に合わせて攻撃方法を変えてきた。


 地面への衝撃が効きにくいなら、岩そのものを壊す。


 この相手は、こちらの対策へさらに対策を重ねてくる。


 しかも、その判断が速い。


 ユウキは胸の奥に、これまでとは違う恐怖を覚えた。


 力の差だけではない。


 考える速さでも、相手に圧倒されているかもしれない。


     ◇◆◇


 魔物が再び動いた。


 今度は岩場の周囲をゆっくりと歩き始める。


 ユウキはその動きに合わせて身体を向けた。


 正面を外さないよう、剣を構え続ける。


 だが、魔物は近づかない。


 右へ。


 左へ。


 一定の距離を保ちながら、ユウキの立ち位置を変えさせようとしていた。


 ユウキは気づいた。


 自分は、少しずつ岩場の奥へ追い込まれている。


 背後には、さらに大きな岩壁。


 左右には崩れた石が積み重なっている。


 逃げ道が狭い。


 魔物は、それを理解しているようだった。


「……まずいな」


 ユウキは小さく呟いた。


 ここから抜け出さなければ。


 しかし、正面には巨大な獣。


 左右へ動けば、すぐに反応される。


 どうする。


 ユウキは剣を握り直した。


 そのとき、耳にかすかな音が届いた。


 カサッ。


 最初は風かと思った。


 だが、もう一度。


 カサ、カサッ。


 岩場の上。


 誰かが、小石を踏んだような音だった。


 ユウキは一瞬だけ視線を上げた。


 岩壁の上には、細い木々が生えている。


 その間で、何かが動いたように見えた。


 魔物も気づいたのか、耳を立てる。


 鼻先が、わずかに上を向いた。


 ユウキは息を止めた。


 新しい魔物か。


 それとも、ただの小動物か。


 判断できない。


 しかし、その一瞬の隙に、魔物の注意が自分から逸れた。


 ユウキは反射的に身体を動かした。


 岩場の左側へ駆け出す。


 足元の石を蹴り、狭い隙間へ身体を滑り込ませた。


 魔物が吠える。


「グオオオッ!」


 ユウキは振り返らなかった。


 ただ、前へ進む。


 岩の間を抜けると、細い道が森の奥へ続いていた。


 その先には、わずかに明るい場所が見える。


 ユウキは息を切らしながら走った。


 しかし、背後からはすぐに重い足音が迫ってきた。


 ドンッ、ドンッ。


 魔物は追ってきている。


 そして、今度は迷いなく距離を詰めてくる。


 ユウキは歯を食いしばった。


 もう、長くは走れない。


 肩の痛みが強くなり、呼吸も苦しい。


 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。


 そのとき。


 前方の木々の間から、聞き覚えのある声が響いた。


「……ユウキ!」


 ユウキは目を見開いた。


 トーマの声だった。


「……トーマ!?」


 木々の向こうで、人影が動いた。


 続いて、別の低い声が聞こえる。


「ユウキ! こちらだ!」


 バルド。


 ユウキは息を呑んだ。


 なぜ、ここに。


 荷馬車は。


 そう考えた瞬間、背後の魔物が咆哮した。


「グオオオオッ!」


 ユウキは振り返る。


 巨大な獣が、すぐそこまで迫っていた。


 背中には、再び赤い光が走っている。


 加速。


 あの突進が来る。


「……危ない!」


 ユウキは前方へ叫んだ。


 しかし、魔物はすでに地面を蹴っていた。


 その巨体が、木々の間を一直線に駆け抜ける。


 ユウキは咄嗟に身体を横へ投げ出した。


 だが、今回は逃げ切れない。


 そう思った瞬間。


「堅守!」


 低い声が響いた。


 バルドが前へ出る。


 盾を正面へ構え、両足を大きく開いた。


 次の瞬間、巨大な獣の身体が盾へ迫る。


 ユウキは目を見開いた。


「バルドさん!」


 激しい衝突音が、森へ響き渡った。


――第62話 完。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。