第61話 森に刻まれた足跡
夜明け前の東部補給拠点は、冷たい霧に包まれていた。
木柵の向こうでは白い靄が地面を這うように漂い、見張り台の松明も、夜の間に燃え尽きかけている。
ユウキは宿泊棟の扉を開けると、思わず肩をすくめた。
「……寒い」
吐き出した息が白く滲む。
昨日は夕暮れまで荷馬車を護衛し、途中で3体の小鬼と戦った。身体にはまだ疲れが残っていたが、一晩眠ったことで足取りは随分と軽くなっていた。
中庭では、すでにドランが作業を始めていた。
荷馬車の後輪へしゃがみ込み、車軸の周囲を指先で確かめている。
「おはようございます、ドランさん」
「おう、早いな」
「ドランさんの方が早いですよ」
「年寄りは朝が早いんだ」
ドランは笑い、車輪の金具を軽く叩いた。
乾いた音が響く。
「昨日は荷物を満載して走ったからな。見たところ大きな傷みはないが、帰りは別の荷物を積む。重さのかかり方が変わるかもしれん」
「僕にも何かできることはありますか?」
「なら、向こうの車輪をゆっくり回してくれ。変な音がしないか確かめたい」
「わかりました」
ユウキは言われたとおり、木製の車輪へ手を添えた。
ゆっくり押すと、車輪はわずかに軋みながら回転する。
ドランは耳を近づけ、何度か頷いた。
「……よし。問題なさそうだ」
そのとき、背後から大きな欠伸が聞こえた。
「ふぁあ……もう起きてたの?」
振り返ると、トーマが眠そうな目を擦りながら歩いてきた。
腰にはいつもの短剣が2本。
寝癖のついた髪が、朝風に揺れている。
「トーマ、おはよう」
「おはよう。……って、ユウキも作業してるの?」
「うん。出発前の点検を手伝ってたんだ」
「じゃあ僕も何かやろうかな」
その言葉を聞いたドランが、荷馬車の横に置かれた水桶を指差した。
「なら、馬に水をやってきてくれ」
「えっ、そっち?」
「立派な護衛の仕事だぞ」
トーマは少しだけ不満そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「わかったよ!」
水桶を持って馬の方へ歩いていく姿を見送りながら、ユウキは静かに息を吐いた。
今日は帰路につく。
順調に進めば、今回の護衛依頼も終わりに近づくはずだった。
しかし、昨夜聞いた話が、心の片隅に引っかかっていた。
森の奥から街道へ向かう足跡。
小鬼よりも大きな、正体不明の何か。
それが魔物なのかどうかすら、まだわかっていない。
ユウキは荷馬車の向こうに広がる霧を見つめた。
◇◆◇
朝食を終えたあと、ユウキ達は門の詰所を訪れた。
マルクも一緒だった。
扉を開けると、机の上に地図が広げられており、数人の兵士がその周囲へ集まっていた。
そのうちの1人が、ユウキ達に気づいて顔を上げる。
「おお、昨日の護衛隊か」
「はい。昨夜、足跡の話を聞きまして」
ユウキが答えると、兵士は地図へ視線を落とした。
「ちょうど、その話をしていたところだ」
机の上には、東部補給拠点からリーヴェルへ続く道が描かれていた。
中央には整備された街道。
その北側には、昨日ユウキ達が通った迂回路。
南側には森を横切る古い獣道がある。
兵士は南側の森を指差した。
「足跡が見つかったのは、この辺りだ」
ユウキは身を乗り出した。
街道から少し外れた、木々の密集した場所。
昨日通った道とは離れている。
「姿は確認できたんですか?」
「いや。ただ、夜明け前の巡回で新しい痕跡が見つかった」
兵士は少し間を置いた。
「折れた枝と、地面に残った深い窪みだ。しかも、足跡は古い獣道から北へ向かっていたらしい」
「北……?」
マルクの表情が曇った。
「それじゃ、街道へ近づいているのか?」
「可能性はある。だが、どの道へ出るかまではわからん」
バルドが腕を組んだ。
「足跡の形は?」
「四足の獣に近いそうだ。ただ、かなり大きい。巡回の者によれば、足先の爪が土へ深く食い込んでいたらしい」
トーマが眉を寄せた。
「大型の獣ってこと?」
「そうかもしれんし、魔物かもしれん。今のところ断定はできない」
ユウキは地図を見つめた。
ここで大切なのは、正体のわからない存在を勝手に強い魔物だと決めつけないことだ。
だが、危険を軽く見るわけにもいかない。
「……道を選ぶなら、どこがいいでしょうか」
ユウキが尋ねると、兵士は地図の中央を指した。
「今朝の巡回で、街道の東側には新しい痕跡が見つかっていない。少なくとも、確認できた範囲ではな」
「昨日、僕たちが避けた道ですね」
「ああ。ただし昨日の痕跡が消えたわけじゃない。安全だと保証はできんぞ」
マルクはしばらく考え込んだ。
「……荷馬車のことを考えると、整備された街道の方が走りやすい。昨日の迂回路はかなり揺れたからな」
ドランも頷いた。
「車輪への負担は少ないだろう。道幅もあれば、何かあったとき馬車を動かしやすい」
ユウキは仲間たちを見渡した。
バルドは静かに頷く。
トーマも異論はなさそうだった。
「……では、整備された街道を使いましょう。ただし、見通しの悪い場所では一度止まって、周囲を確認したいです」
「それがいい」
マルクが答えた。
兵士は地図を丸めながら言った。
「無理はするなよ。もし明らかに危険だとわかったら、引き返すことも考えろ」
「はい」
ユウキは頭を下げた。
戦わずに済むなら、それに越したことはない。
今回の目的は、魔物の正体を突き止めることではないのだから。
◇◆◇
朝の霧が薄くなり始めた頃、補給隊は東部補給拠点を出発した。
2台の荷馬車には、リーヴェルへ届けるための資材や空になった容器、補充が必要な道具などが積まれている。
往路より荷物の種類は変わったものの、御者たちの話では重量は大きく変わらないらしい。
木製の車輪がゆっくりと回り始める。
門の兵士が手を上げ、マルクもそれに応えた。
ユウキは先頭の荷馬車から少し離れた位置を歩いた。
そのさらに前を、トーマが警戒しながら進んでいる。
バルドは荷馬車の左側。
ドランは2台目の右側だ。
誰かが敵を追って持ち場を離れても、残る者が荷馬車を守れるようにする。
昨日の戦闘で得た教訓だった。
街道は迂回路に比べて広く、足元もしっかりしていた。
車輪が深い轍へ落ちることも少なく、馬の歩みも安定している。
しかし、道の両側には森が続いていた。
木々の隙間は薄暗く、朝日が差し込む場所とそうでない場所の差が激しい。
ユウキは視線だけでなく、周囲の音にも意識を向けていた。
鳥の声。
葉が擦れる音。
荷馬車の軋み。
馬の蹄が地面を叩く規則的な響き。
その中に、普段とは違う音が混ざっていないか確かめる。
しかし、耳を澄ませ続けるのは思った以上に疲れる。
車輪の音が近いと、それより小さな物音を聞き分けるのは難しかった。
「……ユウキ」
バルドが声をかけた。
「少し肩に力が入っているぞ」
ユウキは自分の姿勢に気づき、苦笑した。
「……そうですね」
「警戒は必要だが、ずっと身構えていては疲れてしまう。何かあったとき動けなくなるぞ」
「はい。気をつけます」
ユウキは深く息を吸い、歩く速さを整えた。
森の奥ばかりに目を向けるのではなく、仲間の位置も確認する。
トーマは前方。
バルドは左。
ドランは後方右側。
御者たちは荷馬車の上。
全員の位置を把握しておくことが、何か起きた際の判断につながるはずだった。
◇◆◇
出発からしばらく経った頃だった。
前方を歩いていたトーマが、突然右手を上げた。
止まれ。
ユウキはすぐに反応した。
「マルクさん、少し止めてください」
御者が手綱を引き、荷馬車がゆっくりと停止する。
車輪の音が消えると、森の静けさが一気に濃くなった。
ユウキは剣の柄へ手を添え、トーマのもとへ向かった。
「どうしたの?」
「……あれ」
トーマは道の左側を指差した。
そこには、折れた枝が落ちていた。
枝そのものは珍しくない。
しかし、周囲の草が同じ方向へ押し倒され、その奥には土がむき出しになった場所があった。
「何か通ったのかな」
「そうかもしれない」
トーマはしゃがみ込み、土の表面を見つめた。
ユウキも隣へ膝をつく。
そこには、奇妙な窪みが残っていた。
人間の足跡ではない。
丸みを帯びた大きな跡の先端から、爪のような細い溝が伸びている。
しかも、土がかなり深く沈んでいた。
「……大きい」
ユウキは呟いた。
自分の靴より幅がある。
隣には、似た形の窪みがもう1つ残っていた。
さらに奥の草むらにも、途切れながら同じような跡が続いている。
トーマが声を落とした。
「昨日、兵士が言ってたのって、これじゃない?」
「……似てるね」
ユウキは慎重に答えた。
足跡だけで同じ個体だとは断定できない。
しかし、形と深さは昨夜聞いた話に近かった。
背後からバルドが近づいてくる。
「何か見つかったか?」
「はい。大きな足跡があります」
バルドは地面へ視線を落とした。
少しの間、無言で観察していたが、やがて眉を寄せた。
「……確かに大きいな」
ドランも荷馬車から離れすぎない位置で様子を見ていた。
「何かわかるか?」
「まだ、わかりません」
ユウキは答えた。
足跡はある。
だが、姿は見えない。
ここで森へ入って確かめに行くのは、護衛の仕事から外れる。
ユウキは立ち上がった。
「……追わない方がいいと思います」
トーマが顔を上げる。
「うん。僕もそう思う」
「ここに何かが通ったのは確かだけど、今も近くにいるとは限らない。まずは荷馬車を守ろう」
バルドが頷いた。
「それでいい」
その瞬間だった。
森の奥から、低い音が響いた。
グルルル……。
ユウキの身体が強張る。
風の音ではない。
獣が喉を鳴らすような、重く濁った響きだった。
トーマが短剣へ手を伸ばす。
「……今の、聞こえた?」
「うん」
ユウキは森を見つめた。
木々の間に、何かがいる。
だが、枝葉が重なっていて姿は見えなかった。
もう一度、低い音が響く。
今度は少し近い。
グルル……。
ユウキは剣を抜いた。
「……バルドさん」
「ああ」
バルドが盾を構える。
「ドランさん、荷馬車をお願いします」
「任せろ」
「トーマは僕の右側に。森へ深入りしないで」
「了解」
ユウキは静かに息を吸った。
姿が見えない以上、鑑定はできない。
相手のランクもレベルも不明だ。
無闇に近づくべきではない。
しかし、その判断をする時間さえ、相手は与えてくれなかった。
◇◆◇
バキッ!
太い枝が折れた。
次の瞬間、木々の間から大きな影が飛び出した。
「……っ!」
ユウキは思わず息を呑んだ。
現れたのは、巨大な四足の獣だった。
肩の高さは、ユウキの腰を大きく上回っている。
全身を覆う毛は黒褐色で、背中から肩にかけて硬そうな毛束が逆立っていた。
太い前脚には長い爪。
口元からは湾曲した牙が覗き、荒い呼吸に合わせて白い息が漏れている。
その姿は猪にも似ていたが、鼻先は細長く、脚の関節も通常の獣とは違って見えた。
獣は道へ出ると、前脚を大きく開いて立ち止まった。
地面がわずかに揺れる。
その目が、ユウキ達を捉えた。
ユウキはすぐに鑑定を発動した。
視界に淡い文字が浮かびかける。
しかし、形を結ぶ前に大きく歪んだ。
「……え?」
ユウキは目を見開いた。
もう一度、意識を集中する。
だが、結果は同じだった。
【鑑定結果】
鑑定失敗
対象とのステータス差が大きいため、
情報を取得できません。
ユウキの背筋に冷たいものが走った。
鑑定が、通らない。
小鬼のときとは違う。
相手との能力差が大きすぎるのだ。
どの程度の差なのか。
ランクはいくつなのか。
それすらわからない。
ただ1つ確かなのは、目の前の相手を軽く見てはいけないということだった。
「……みんな、気をつけて」
ユウキは声を落とした。
「鑑定できない。相手の能力が、僕たちよりかなり高い可能性がある」
トーマの表情が強張る。
「……そんなに?」
「うん」
バルドは盾を構えたまま、静かに頷いた。
「なら、無理に戦うべきではないな」
ドランが荷馬車の方へ振り返る。
「マルク! 馬を落ち着かせろ! まだ動かすな!」
「わ、わかった!」
御者が手綱を握り直す。
しかし、馬は目の前の巨大な獣を見て、落ち着きを失い始めていた。
蹄が地面を打ち、鼻息が荒くなる。
ユウキは焦りを抑えながら考えた。
正面には獣。
背後には荷馬車。
左右には森。
ここで戦えば、荷馬車へ被害が及ぶ可能性が高い。
しかし、引き返すには馬車を方向転換させなければならない。
道幅は十分にあるものの、巨大な獣が目の前にいる状況で動かせば、馬が暴走するかもしれない。
ユウキは剣を構え直した。
どうする。
どうすれば、全員を守れる。
そのとき、獣が前脚で地面を掻いた。
土が抉れ、砂が飛び散る。
首を低く下げ、肩の筋肉を大きく盛り上げた。
突進。
その姿勢を見た瞬間、ユウキは叫んだ。
「……来る!」
◇◆◇
巨大な獣が地面を蹴った。
ドンッ!
重い足音が響き、黒褐色の身体が一直線に迫ってくる。
速い。
巨体から想像した以上に、加速が鋭かった。
ユウキは咄嗟に横へ飛び退いた。
獣の身体が、すぐ目の前を通り過ぎる。
風圧が服を叩いた。
その進路の先には、バルドがいた。
「……くっ!」
バルドは盾を構え、身体を低くする。
正面から受け止めれば、押し潰される。
そう判断したのだろう。
バルドは盾の角度を変え、相手の肩へ斜めに当てようとした。
「流盾!」
盾の縁が獣の肩へ触れた。
ガンッ!
重い衝撃が走る。
バルドの身体が横へ押し流された。
靴底が地面を削り、土が大きく舞う。
「バルドさん!」
ユウキが叫んだ。
しかし、バルドは倒れなかった。
盾を傾けながら横へ踏み込み、突進の力を正面から受けずに逃がしていた。
それでも、完全には受け流せない。
獣の巨体がすれ違った瞬間、バルドは片膝をついた。
盾の表面には、爪が擦れたような深い傷が残っている。
「……大丈夫ですか!」
「ああ……だが、重い!」
バルドは荒い息を吐きながら立ち上がった。
「今のを何度も受けるのは無理だ!」
ユウキは頷いた。
獣は数歩先で速度を落とし、身体を大きく回転させていた。
太い前脚が地面を掻き、再びこちらへ顔を向ける。
ユウキは剣を握る手に力を込めた。
もし次の突進が荷馬車へ向かったら。
それだけは、何としても防がなければならない。
「トーマ!」
ユウキが叫ぶ。
「右側から注意を引ける?」
「やってみる!」
「無理に近づかないで!」
「わかってる!」
トーマは道の右側へ走った。
小石を拾い、獣の前方へ投げつける。
石が地面へ跳ねる。
獣の耳が動き、視線がわずかにトーマへ向いた。
「こっちだ!」
トーマは声を上げた。
だが、近づきすぎない。
獣が身体を向けるたび、距離を保ちながら位置を変える。
ユウキはその隙に、荷馬車の方へ視線を向けた。
馬はまだ怯えている。
マルクが必死に手綱を握り、御者たちへ声をかけていた。
「……ドランさん!」
「わかっておる!」
ドランは荷馬車の側面に立ち、逃げ出そうとする馬を落ち着かせていた。
しかし、ユウキはすぐに気づいた。
このままでは、いつか誰かが動き損ねる。
トーマが注意を引きつけ続けるにも限界がある。
バルドも、次の突進をまともに受ければ危険だ。
そして、自分の剣では、あの巨体を簡単に止められない。
倒すことを考えるな。
守ることを考えろ。
ユウキは息を吸った。
そのとき、視界の端に細い道が見えた。
街道の右側。
木々の間に、獣が通れるほどの隙間がある。
地面は少し下り坂になっていた。
もし、あちらへ誘導できれば。
荷馬車から距離を取らせられるかもしれない。
だが、それは同時に、誰かが危険な役割を引き受けるということでもあった。
ユウキは唇を噛んだ。
◇◆◇
獣が再び低く唸った。
トーマへ向いていた視線が、ゆっくりと荷馬車へ移る。
ユウキはその動きに気づいた。
「……まずい!」
獣が前脚を踏み込む。
首を下げ、身体を低く構えた。
先ほどと同じ姿勢。
突進が来る。
しかも、今度の進路には荷馬車があった。
ユウキは一瞬で判断した。
このままでは間に合わない。
バルドは少し離れている。
トーマも反対側だ。
自分が動くしかない。
「……っ!」
ユウキは地面を蹴った。
獣の正面ではなく、斜め前へ走る。
相手の目を引きつけるように剣を振り、声を張り上げた。
「こっちだ!」
獣の視線が動く。
しかし、勢いは止まらない。
巨体が地面を蹴った。
ドンッ!
ユウキは身体を横へ投げ出した。
獣の牙が、ほんのわずかな距離を通り過ぎる。
袖が強い風に煽られ、身体が地面へ転がった。
痛みが肩から背中へ走る。
だが、止まってはいられない。
ユウキはすぐに片膝をつき、顔を上げた。
獣は進路をわずかに変えていた。
荷馬車の真正面ではない。
しかし、まだ近い。
「……バルドさん!」
ユウキが叫ぶ。
「荷馬車から離してください!」
バルドは盾を構え直した。
「わかった!」
獣の進路へ斜めに入り、盾を前へ突き出す。
ユウキも立ち上がり、剣を握り直した。
この相手に勝てるかどうかは、わからない。
だが、逃げ道を作ることはできるかもしれない。
ユウキは右側の木々へ視線を向けた。
トーマがその意図に気づいたのか、同じ方向を見た。
「……ユウキ、あっち?」
「うん。道から離せるなら、あそこへ誘導したい」
トーマは一瞬だけ迷った。
しかし、すぐに頷いた。
「わかった。僕も動く!」
ユウキは首を横に振った。
「いや、トーマは荷馬車の近くにいて。もし別の魔物が出たら、ドランさんだけじゃ守り切れない」
「でも!」
「……お願い」
ユウキはトーマを見た。
「ここは任せて」
トーマは唇を噛んだ。
そして、小さく頷いた。
「……絶対、無茶しないでよ」
「うん」
ユウキは答えた。
その約束を守れるかどうか、自信はなかった。
けれど、今は動くしかない。
ユウキは剣を握り直し、獣へ向き直った。
獣の口元から、白い息が漏れている。
荒い呼吸。
地面を掻く太い前脚。
鋭い牙。
そのすべてが、圧倒的な力の差を感じさせた。
それでも、ユウキは足を引かなかった。
背後には、守るべき人たちがいる。
そして、仲間たちがいる。
自分がここで逃げれば、誰かが傷つくかもしれない。
だから。
ユウキは静かに息を吸った。
「……来い」
獣が低く唸る。
次の瞬間、その巨体が再び動き出した。
ユウキは剣を構え、右側の木々へ向かって走った。
巨大な影が、その背中を追いかける。
荷馬車から離れていく足音。
揺れる木々。
そして、遠ざかる仲間たちの声。
「ユウキ!」
トーマの叫びが、森へ響いた。
だが、ユウキは振り返らなかった。
今はただ、守るために走るしかなかった。
――第61話 完。




