第60話 帰路に潜む影
東部補給拠点の門をくぐると、ユウキの鼻先を温かな食事の匂いがかすめた。
石を積んだ小さな炊事場から白い湯気が立ち上り、その周囲では仕事を終えた兵士たちが木椀を手に談笑している。建物の軒先には乾燥させた薬草や束ねた薪が吊るされ、少し離れた倉庫では荷運びを続ける人々の声が響いていた。
夕暮れの光はすでに薄く、見張り台の上では兵士が松明に火を移している。
決して大きな施設ではない。
それでも、背後で門が閉まった瞬間、ユウキはようやく肩の力が抜けるのを感じた。
「……着いたんだね」
隣でトーマが大きく伸びをした。
「ああ。まずは無事に、だがな」
バルドはそう答えながら、背負っていた盾の位置を直す。棍棒を受け止めた部分には浅い傷が残っていたが、木枠が大きく歪んでいる様子はなかった。
ドランはすでに荷馬車の後輪へしゃがみ込み、車軸の周囲を調べていた。
「ドランさん、まだ確認するんですか?」
ユウキが尋ねると、ドランは顔を上げずに答えた。
「行きで無事だったからといって、帰りも無事とは限らん。こういうものは、止まっている間に見ておくんだ」
指先で車輪の留め具を確かめ、わずかに緩んでいた箇所を工具で締め直す。
その手つきに迷いはない。
戦闘中は鎚を振るっていた大きな手が、今は小さな金具を慎重に扱っていた。
ユウキはその様子を見て、小さく笑った。
剣を振るうことだけが、冒険者の仕事ではない。
今回の護衛依頼では、それを何度も実感していた。
◇◆◇
「本当に助かったよ」
荷下ろしが一段落した頃、マルクが4人のもとへやって来た。
手には小さな木札を持っている。
「これで往路の荷物は全部引き渡せた。明日の朝、こちらで受け取る荷物を積んでからリーヴェルへ戻る予定だ」
「明日の朝ですか?」
ユウキが確認すると、マルクは頷いた。
「ああ。ただ、出発前に少し話しておきたいことがある」
その口調がわずかに硬くなった。
バルドが顔を上げる。
「何か問題でも?」
「いや、荷物には問題ない。ただ……今日、小鬼に襲われただろう?」
「はい」
「ここへ来る途中で、あの手の魔物が出ること自体は珍しくない。だが、最近は少し様子が違うらしい」
マルクは周囲を見回し、声を落とした。
「拠点の兵士から聞いたんだが、ここ数日、街道の近くで魔物の目撃が増えているそうだ」
トーマが眉を寄せた。
「増えてるって、どのくらい?」
「詳しい数までは知らない。ただ、普段は森の奥にいるはずの魔物が、道の近くまで出てきているらしい」
ユウキは昼間の光景を思い出した。
あの3体は、荷馬車へまっすぐ近づいてきた。
食料を狙っていたようにも見えたが、なぜあの場所にいたのかまではわからない。
「……何か原因があるんでしょうか」
「そこまではわからない。だから、明日は警戒して進みたい」
マルクは少し申し訳なさそうに続けた。
「依頼を受けてもらったばかりなのに、厄介な話ですまない」
ユウキは首を横に振った。
「護衛を引き受けたのは僕たちです。危険があるなら、先に教えてもらえた方が助かります」
その答えに、マルクの表情が少し和らいだ。
「ありがとう。明日の出発前に、改めて確認しよう」
マルクが倉庫へ戻っていくと、トーマが腕を組んだ。
「魔物が増えてる、か。今日の小鬼だけでも結構大変だったのに」
「数が増えれば、それだけで危険だな」
バルドが答える。
「小鬼が相手でも、荷馬車を囲まれれば守るのは難しくなる」
「そうですね」
ユウキは頷いた。
自分たちは今日、3体を倒すことができた。
しかし、それは相手の位置を把握し、役割を分担できたからだ。
もし、別の方向からさらに数体現れていたら。
もし、最初から馬を狙われていたら。
無事に切り抜けられた保証はない。
ユウキは拠点の門を振り返った。
松明の光が木柵を照らし、その向こうには夕闇に沈む森が広がっている。
夜の森は、昼間よりもずっと深く見えた。
◇◆◇
夕食は、拠点の兵士たちと同じ炊事場で振る舞われた。
木椀に盛られた豆と野菜の煮込みに、少し硬い黒パン。
決して豪華な食事ではなかったが、長い移動と戦闘を終えた身体には十分だった。
「うまい!」
トーマは煮込みを口へ運ぶなり、嬉しそうに声を上げた。
「お前はいつも、それだな」
ドランが呆れたように笑う。
「だって、本当にうまいんだもん」
「腹が減っておるからだろう」
「それもある!」
トーマが笑うと、バルドも口元を緩めた。
ユウキはその様子を眺めながら、パンを小さくちぎった。
少し前まで、自分が誰かと食卓を囲むことなど想像もできなかった。
灰の鉱山にいた頃は、食事を口へ運ぶことさえ苦痛だった。
いつ終わるかわからない労働。
絶え間なく響く怒声。
そして、いつ誰がいなくなるかわからない恐怖。
あの場所では、明日を考える余裕などなかった。
けれど今は違う。
目の前には、くだらない冗談を言い合う仲間がいる。
自分の帰りを待ってくれる人たちがいる。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
「……ユウキ?」
トーマが顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 食べないの?」
「ううん。食べるよ」
「じゃあ、早く食べないと冷めちゃうよ」
「そうだね」
ユウキは笑い、煮込みを口へ運んだ。
温かな味が喉を通り、冷えていた身体の奥へゆっくりと広がっていく。
その瞬間、不意に1人の少女の顔が浮かんだ。
リナ。
灰の鉱山で出会い、自分とは別の場所へ連れていかれた少女。
彼女が今、どこにいるのかはわからない。
無事なのかどうかも。
ユウキは木椀を握る指に、わずかに力を込めた。
助けたい。
その気持ちは、今も変わっていない。
けれど、ただ気持ちだけが強くても、何もできないことを知っている。
今の自分は、まだ弱い。
今日の小鬼との戦闘でさえ、仲間の力を借りなければ守り切れなかった。
もし、再び帝国の兵士たちと向き合うことになったら。
そのとき、自分は何ができるだろう。
「……ユウキ」
バルドの声がした。
顔を上げると、バルドがこちらを見ていた。
「考え事か?」
「……少しだけ」
「そうか」
バルドはそれ以上、問い詰めなかった。
ただ、ゆっくりと煮込みを口へ運んでから言った。
「先のことを考えるのは悪くない。だが、今夜くらいは休め」
ユウキは小さく笑った。
「……はい」
その言葉が、思っていた以上に心へ染みた。
◇◆◇
夕食を終えたあと、ユウキは拠点の内側を少し歩いた。
見張り台では兵士が交代し、倉庫の前では最後の荷物が運び込まれている。
夜風は冷たく、昼間の汗が乾いた服の隙間へ入り込んできた。
ユウキは肩をすくめ、宿泊用に割り当てられた建物へ戻ろうとした。
その途中だった。
「……また、か」
低い声が聞こえた。
倉庫の裏手。
そこに、兵士らしい男が2人立っていた。
「今朝の巡回でも見つかったらしい」
「何が?」
「足跡だ。森から街道へ向かって、いくつも続いていたそうだ」
「小鬼か?」
「それならまだいい。問題は、その近くに別の跡があったことだ」
ユウキは思わず足を止めた。
盗み聞きをするつもりはなかった。
しかし、魔物に関する話だとわかり、自然と耳が向いてしまう。
「別の跡?」
「ああ。小鬼のものよりずっと大きい。しかも、地面が深く抉れていたらしい」
「大きな獣か?」
「わからん。巡回の連中も、はっきりした姿は見ていないそうだ」
短い沈黙が流れる。
やがて、もう1人の兵士が口を開いた。
「……なら、明日の巡回を増やすべきじゃないか?」
「そうしたいところだが、人手が足りん。拠点の警備も手薄にはできないからな」
ユウキは眉を寄せた。
小鬼より大きな足跡。
地面が深く抉れていたという話。
ただ大型の動物が通っただけかもしれない。
しかし、ここ数日で魔物の目撃が増えているという話と重なると、気になる。
ユウキはしばらく迷ったあと、兵士たちへ声をかけた。
「……すみません」
2人が振り返った。
「何だ?」
「明日、リーヴェルへ戻る補給隊の護衛をしている者です。今の話、少しだけ聞こえてしまって……」
ユウキが頭を下げると、兵士の1人が表情を和らげた。
「ああ、今日来た冒険者か」
「はい。ネクシアのユウキです」
「そうか。明日も街道を通るなら、気になるよな」
兵士は腕を組んだ。
「ただ、確かなことはまだ何もわかっていない。妙な足跡があったというだけだ」
「場所は、どのあたりですか?」
「南側の古い獣道だ。街道から少し離れた場所で見つかったらしい」
ユウキは頭の中で道筋を思い浮かべた。
今日通った迂回路とは、別の場所だろう。
「……魔物の姿は確認されていないんですね」
「ああ。少なくとも、俺たちは報告を受けていない」
兵士はそう答え、少しだけ声を落とした。
「心配なら、明日の出発前に門の詰所へ寄るといい。夜の巡回から新しい報告が入っているかもしれない」
「ありがとうございます」
ユウキは頭を下げた。
まだ、危険が迫っていると決まったわけではない。
それでも、知らないまま出発するよりはいい。
ユウキは宿泊棟へ向かって歩き出した。
◇◆◇
部屋へ戻ると、トーマが寝台の上で短剣を布で拭いていた。
ドランは工具を整理し、バルドは盾の留め具を確認している。
「おかえり、ユウキ」
トーマが顔を上げた。
「どこ行ってたの?」
「少し、拠点の中を歩いてた」
ユウキは答えながら、部屋の中央にある小さな机へ近づいた。
「それで、気になる話を聞いたんだ」
3人の視線が集まる。
ユウキは兵士から聞いた話を伝えた。
最近、街道付近で魔物の目撃が増えていること。
南側の獣道で、小鬼より大きな足跡が発見されたこと。
そして、正体はまだ確認されていないこと。
話を聞き終えると、ドランが顎へ手を当てた。
「……地面が抉れるほどの足跡か」
「はい。ただ、本当に魔物なのかはわからないそうです」
「そこが難しいところだな」
バルドが頷く。
「大きな足跡だけで、強い魔物だとは判断できん。だが、何もいないと決めつけるのも危険だ」
トーマは短剣を鞘へ戻した。
「だったら、明日はどうする?」
ユウキは少し考えた。
今日、小鬼と遭遇したのは、森に近い迂回路だった。
元の街道には魔物の痕跡があり、安全を優先して別の道を選んだ。
しかし、帰路でも同じ判断が正しいとは限らない。
危険は移動する。
今日安全だった場所が、明日も安全である保証はない。
「……明日の朝、まず新しい情報を確認したい」
ユウキは答えた。
「それからマルクさんと相談して、どの道を通るか決めよう」
「そうだな」
バルドが頷いた。
「わしらだけで決めるわけにはいかん。荷馬車の状態や、帰路の荷物も考えねばならんからな」
「うん。あと、もし魔物が出ても、今日みたいに荷馬車を守れる位置で戦えるようにしたい」
トーマは少し考え込み、それから頷いた。
「じゃあ、僕は前の方を見ておくよ。何か変なものがあったら、すぐ知らせる」
「頼むよ」
ユウキが答えると、トーマは笑った。
「任せて!」
そのやり取りを聞いていたドランが、工具袋を閉じた。
「わしは明日の出発前に、もう一度車輪を見ておく。今日の道は思ったより荒れていたからな」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、無事に戻ってからにしろ」
ドランはそう言って、少しだけ口元を緩めた。
ユウキは仲間たちを見渡した。
それぞれが、自分にできることを考えている。
誰かが命令しなければ動かないわけではない。
同じ目的を持ち、自分の役割を見つけようとしている。
そのことが、ユウキには嬉しかった。
◇◆◇
夜が深まる頃、宿泊棟の明かりは次々と消えていった。
トーマはすでに眠っている。
ドランも寝台へ横になり、静かな寝息を立てていた。
バルドは壁際に盾を置き、毛布を肩まで引き上げている。
ユウキは寝台に腰を下ろしたまま、窓の外を眺めていた。
空には薄い雲が広がり、その隙間から淡い月明かりが差し込んでいる。
窓の向こうには、拠点を囲む木柵が見えた。
見張り台の松明が揺れ、時折、兵士の足音が聞こえてくる。
ユウキは自分の手を見下ろした。
今日の戦闘では、鑑定が役に立った。
相手の能力を知ることで、誰がどの敵を受け持つべきか判断できた。
だが、それだけでは足りない。
相手の能力がわかっても、実際の動きまで完全に予測できるわけではない。
短剣持ちの小鬼が荷馬車へ回り込んだとき、自分は一瞬、その姿を見失っていた。
ドランが対応してくれなければ、御者に危険が及んでいたかもしれない。
ユウキはゆっくりと拳を握った。
もっと周囲を見なければ。
もっと早く気づかなければ。
そして、もし仲間が危険に晒されたときには、自分が助けられるようになりたい。
その気持ちは、以前よりもはっきりしていた。
ふと、胸の奥に別の感情が浮かんだ。
リナを助けたいという思い。
帝国のことを知りたいという思い。
あの古剣から聞こえた、かすかな声の正体を確かめたいという思い。
どれも、まだ答えは見つかっていない。
それでも、今の自分には仲間がいる。
少しずつでも、前へ進めている。
「……明日も、頑張ろう」
ユウキは小さく呟いた。
そして、寝台へ横になった。
目を閉じる直前、遠くで見張りの鐘が鳴った。
甲高い音が、夜の空気へ溶けていく。
その響きを聞きながら、ユウキは静かに眠りへ落ちていった。
◇◆◇
一方、その頃。
東部補給拠点から少し離れた森の中では、別の動きが起きていた。
月明かりの届かない木々の間。
湿った土の上に、いくつもの小さな足跡が刻まれている。
小鬼たちのものだった。
しかし、その足跡は途中で途切れていた。
代わりに残されていたのは、深く沈み込んだ大きな窪み。
何かが、重い身体を支えるために地面を踏みしめた跡だった。
近くの木の幹には、荒々しく削られた傷が走っている。
低い枝は折れ、剥がれた樹皮が地面へ散らばっていた。
森の奥から、かすかな物音が響いた。
ガサッ。
しばらくして、もう一度。
ガサ、ガサッ。
闇の中で、大きな影がゆっくりと動いた。
その輪郭は木々に遮られ、はっきりとは見えない。
やがて、何かが鼻を鳴らすような低い音が響いた。
影は一度立ち止まり、遠くの街道がある方向へ顔を向けた。
そして、ゆっくりと歩き始める。
重い足音が、湿った土へ沈んでいった。
その先には、翌朝、補給隊が通るかもしれない道があった。
――第60話 完。




