第57話 失われたもの、残されたもの(第一幕~第三幕)
人は、自分を形作ってきたものを失ったとき、何を頼りに立ち続けるのだろう。
地位か、名誉か、それとも長い年月をかけて積み重ねてきた力か。
エルヴィン・クロードには、そのすべてがあった。
二十代半ばにして帝国の研究官に名を連ね、貴族として相応の地位を持ち、優れた氷魔法によって若くして実力者の一人に数えられていた男。
彼は決して、ひとつの才能だけで今の立場を築いたわけではない。
それなのに。
たったひとつの技能を失っただけで、これほどまでに自分という存在が揺らぐとは、思いもしなかった。
◇◆◇
第一幕 氷の魔術師
◇◆◇
ゼルガ帝国領、灰の鉱山。
かつて鉱石の採掘音が絶え間なく響いていた地下通路は、数日前の騒動を境に、その様相を変えていた。
崩れた壁を補修する職人たち。
増員された警備兵。
何度も繰り返される身元確認。
そして、通路の至るところに貼られた立ち入り禁止の通達。
鉱山は稼働を続けていたが、以前の平穏とは程遠かった。
その管理区画の一室で、エルヴィン・クロードは三つの鉱石を見つめていた。
銀灰色の髪が魔導灯の光を受け、机の上へ淡い影を落としている。
整えられた濃紺の外套。
袖口に施されたクロード家の紋章。
研究官としての装いでありながら、そこには貴族としての品格も感じられた。
エルヴィンは、最も手前に置かれた鉱石へ指を伸ばした。
灰色の表面。
細かな結晶。
そして、内部から漏れるごく微かな魔力。
以前なら、これだけで十分だった。
鉱石へ意識を向ける。
鑑定を使用する。
名称や性質を確かめ、必要な情報を記録する。
それだけの作業だった。
「……鑑定」
静かな声が研究室へ響いた。
しかし、何も起こらない。
エルヴィンは眉を寄せ、もう一度意識を集中した。
視界の奥に情報を浮かび上がらせようとする。
長年繰り返してきた、あまりにも自然な動作。
だが、何も現れなかった。
「……っ」
右手が、わずかに震えた。
何度目だろう。
鑑定が失われてから、彼は数え切れないほど同じことを繰り返していた。
朝、研究室へ入ったとき。
鉱石を手にしたとき。
魔導具の状態を確認しようとしたとき。
まるで呼吸するように使っていた技能が、今はどこにも存在しない。
知識を忘れたわけではない。
視力が落ちたわけでもない。
魔力が枯渇したわけでもなかった。
それなのに、確かに何かが欠けている。
その空白へ意識を向けるたび、胸の奥が冷たくなった。
「……ユウキ・コバヤシ」
エルヴィンは、その名を口にした。
灰の鉱山で出会った少年。
異界から来たとされる少年。
そして、自分から鑑定を奪った存在。
あの瞬間の感覚は、今でも鮮明だった。
身体の内側に深く根を張っていた何かが、突然引き抜かれるような感覚。
血が流れたわけではない。
肉が裂けたわけでもない。
だが、あれほど確かな喪失を、エルヴィンは生まれて初めて経験した。
鑑定Lv.2。
長年の研究を支え、彼の視野を広げてくれた技能。
それが、消えた。
ただ使えなくなったのではない。
自分の中から、存在そのものが失われた。
エルヴィンは奥歯を噛み締めた。
恐ろしかった。
自分より強い魔術師と戦ったことはある。
剣を向けられた経験もある。
命の危険を感じたことも、一度や二度ではなかった。
だが、技能そのものを奪う力など知らなかった。
氷で守れば防げたのか。
魔力感知で気づくことはできたのか。
そもそも、あの力に対して何が有効なのか。
何ひとつわからない。
その未知が、エルヴィンの心を静かに蝕んでいた。
彼は深く息を吐き、鉱石から手を離した。
次いで、右の掌を上へ向ける。
魔力を練り上げると、指先を包むように白い冷気が生まれた。
冷気は渦を巻き、小さな氷の結晶へと姿を変える。
透明な六角形の結晶が、掌の上でゆっくりと回転した。
エルヴィンはその形を見つめた。
氷魔法Lv.4。
魔力制御Lv.3。
魔力感知Lv.2。
それらは、今も自分の中にある。
魔力の流れを感じ取ることも、細かな出力の調整も、以前と変わらず行えた。
剣術Lv.4も失われていない。
身体に刻み込んだ技量は、今も確かに残っている。
エルヴィンは掌の氷を細い針へ変え、さらに薄い板へと形を変化させた。
最後に魔力を解くと、氷は微かな水滴となって消えた。
思いどおりに動く。
何も問題はない。
しかし、それを確認しても胸の空白は埋まらなかった。
「……私は、何を恐れている」
彼は自分へ問いかけた。
力を失うことか。
研究者としての評価が下がることか。
それとも、自分の中にあるものさえ奪われるという、どうしようもない無力感か。
答えは出なかった。
◇◆◇
研究室の扉が、控えめに叩かれた。
「クロード卿。失礼いたします」
エルヴィンが入室を許可すると、灰色の制服を着た若い職員が入ってきた。
片手には、数枚の書類。
顔には、どこか緊張した様子が浮かんでいる。
「管理責任者からの通達をお持ちしました」
「……見せてくれ」
エルヴィンは差し出された書類を受け取り、内容へ目を通した。
そして、眉を寄せた。
特殊鉱石の鑑定業務からの一時的な除外。
魔導具の状態確認に関する担当変更。
研究設備への立ち入り権限の一部制限。
代わりに、過去の記録整理と一般設備の検証を担当するよう指示されていた。
「……なるほど」
エルヴィンは書類を机へ置いた。
「これは、私の鑑定が失われたことを理由とするものか」
「はい」
職員は慎重に答えた。
「鑑定技能を必要とする業務について、管理部が再編成を行うことになりました」
「それは理解できる」
エルヴィンの声は、静かだった。
「しかし、鑑定を必要としない研究業務まで制限する理由は何だ」
「……それは」
職員の表情が強張った。
「私の権限では、お答えできません」
エルヴィンは相手を見つめた。
若い職員は、額へ薄く汗を浮かべている。
目の前にいるのは、単なる研究官ではない。
帝国内で一定の影響力を持つクロード家の貴族。
しかも、若くして高い戦闘能力を身につけた氷の魔術師だ。
鑑定を失ったという噂が広がっても、彼の地位や実力まで失われたわけではなかった。
軽々しく扱える人物ではない。
エルヴィンはその緊張を察し、静かに息を吐いた。
「……君を責めているわけではない」
「は、はい」
「管理責任者へ面会を申し込んでくれ。直接説明を聞きたい」
「承知いたしました」
職員は深く頭を下げ、研究室を出ていった。
扉が閉まる。
エルヴィンは書類を見つめた。
研究官としての役割が、少しずつ削られていく。
身分は残っている。
剣も魔術も使える。
それでも、これまで当たり前のように与えられていた仕事が、別の人間へ移されていく。
その事実は、想像していた以上に堪えた。
エルヴィンは椅子へ深く腰かけた。
鑑定がなくなった。
ただ、それだけのこと。
そう言い聞かせても、胸の奥は納得してくれなかった。
◇◆◇
昼過ぎ。
エルヴィンは管理区画の資料室へ向かっていた。
廊下には、修復作業を終えた職人たちが行き交っている。
数日前の騒動で破損した設備は、まだ完全には復旧していなかった。
警備兵の数も増えている。
誰もが忙しそうに動いていたが、その表情には以前とは違う緊張感があった。
エルヴィンが通路を進んでいると、前方から二人の研究員が歩いてきた。
どちらも、彼が以前から知っている人物だった。
二人はエルヴィンの姿に気づくと、すぐに姿勢を正した。
「クロード卿」
「お疲れさまです」
「ああ」
エルヴィンは短く答えた。
そのまま通り過ぎようとしたときだった。
「……本当に鑑定が消えたらしいな」
背後から、小さな声が聞こえた。
「研究官としては、かなり痛いだろう」
「だが、あの人には氷魔法がある。しかもLv.4だぞ」
「わかっている。だからこそ、誰も面と向かって言わないんだ」
二人の声は、廊下の奥へ消えていった。
エルヴィンは足を止めなかった。
聞こえていないふりをして歩き続ける。
だが、胸の奥には冷たいものが広がっていた。
鑑定を失った途端、研究者としての価値を疑われる。
一方で、氷魔法や貴族としての地位があるから、露骨な侮辱は避けられる。
人間の評価とは、随分と都合のいいものだ。
彼は小さく息を吐いた。
そのとき、不意に灰の鉱山で働いていた者たちの姿が浮かんだ。
重い鉱石を運び続ける男。
傷を負っても作業を止められない労働者。
監督官に怒鳴られ、俯いたまま立ち尽くす者。
エルヴィンは、そうした扱いを好んでいたわけではない。
むしろ、不必要な暴力や理不尽な命令には以前から嫌悪感を抱いていた。
負傷した労働者へ治療を手配したこともある。
意味のない処罰を取りやめるよう、管理側へ意見したこともあった。
しかし、それですべてが変わったわけではない。
鉱山の仕組みそのものは続いていた。
そして、自分もその内部にいた。
エルヴィンは眉を寄せた。
今の自分が受けている不遇と、彼らの境遇を同じものとして語ることはできない。
自分には貴族としての保護がある。
仕事を制限されても、自由まで奪われたわけではない。
剣を抜くこともできる。
魔術で身を守ることもできる。
だが、彼らにはそれすら許されなかった。
「……私は、まだ恵まれているのだろうな」
小さく呟いた。
その言葉には、自嘲の響きがあった。
鑑定を失った苦しみは、確かに存在する。
しかし、それを理由に他人の苦しみまで理解したつもりになることは、できなかった。
◇◆◇
管理責任者との面会は、その日の夕方に行われた。
執務室には、灰の鉱山の地図が掛けられている。
机の上には、数日前の騒動に関する報告書が積まれていた。
エルヴィンは椅子へ腰を下ろし、相手をまっすぐ見つめた。
「研究業務の変更について、説明を求めたい」
管理責任者は慎重に頷いた。
「通達のとおりです。鑑定技能の喪失を受け、担当業務を一部変更いたしました」
「それは読んだ」
エルヴィンは書類を机へ置いた。
「私が尋ねているのは、鑑定を必要としない業務まで制限された理由だ」
管理責任者はしばらく黙っていた。
「……クロード卿。今回の件は、通常の技能不調とは異なります」
「わかっている」
「原因不明の能力喪失です。どのような影響が残っているのか、まだ判断できておりません」
エルヴィンは目を細めた。
「私自身を、危険な存在として扱うということか」
「そこまでは申しません」
管理責任者は慎重に答えた。
「ただ、重要設備への関与については、しばらく様子を見る必要があると考えています」
エルヴィンは腕を組んだ。
確かに、説明には一理あった。
技能そのものが失われるという異常事態。
原因がわからない以上、管理側が慎重になるのも理解できる。
しかし、それでも納得できない部分は残る。
「私の氷魔法も、魔力制御も、魔力感知も問題なく使える」
エルヴィンは淡々と告げた。
「剣術も同じだ。鑑定以外の能力に異常は確認されていない」
「承知しております」
「ならば、私に任せられる仕事は残っているはずだ」
管理責任者は視線を落とした。
しばらくして、低い声で答える。
「……正直に申し上げれば、管理部にも戸惑いがあります」
エルヴィンは黙って聞いた。
「これまで、クロード卿の鑑定能力を前提に研究の一部を進めてきました。その技能が失われたことで、業務の再編成が必要になっています」
「……なるほど」
「もちろん、クロード卿の功績を否定するつもりはありません」
管理責任者は続けた。
「貴族としての立場も、優れた魔術師としての実力も理解しています。ただ、研究業務については、少し時間をいただきたいのです」
エルヴィンは静かに息を吐いた。
「……わかった」
管理責任者が顔を上げる。
「ご理解いただけますか」
「一時的な措置としてはな」
エルヴィンは言った。
「だが、私の研究者としての能力まで否定されたとは考えない。必要な成果は、別の方法で示す」
管理責任者は深く頷いた。
「……承知いたしました」
エルヴィンは立ち上がった。
そして、机の上に積まれた報告書へ視線を向けた。
「それと、もう一つ」
「何でしょう」
「数日前の騒動について、調査はどこまで進んでいる?」
管理責任者の表情が、わずかに変わった。
「現在も調査中です」
「第三坑道については?」
「封鎖を継続しています」
「……そうか」
エルヴィンは少し考えた。
灰の鉱山で起きた出来事。
崩落。
逃亡者。
そして、第三坑道を巡る不可解な報告。
しかし、彼自身が知っている情報は限られていた。
第三坑道の奥に何が存在するのか。
なぜ厳重に封鎖されているのか。
それらは、研究官であるエルヴィンにも知らされていなかった。
何かが封印されているという話を、確かな情報として聞いたこともない。
あの区画は、単に危険な採掘場所なのかもしれない。
あるいは、帝国の別の部門が管理しているのかもしれない。
今のエルヴィンには、判断できなかった。
さらに、ユウキがこの世界へ来る原因となった召喚儀式についても、彼は詳しく知らない。
異界から人間を呼び出す研究が帝国内で行われているという断片的な話は耳にしていた。
だが、その術式の構造や実行の経緯、関わった人員については知らされていない。
研究官という立場であっても、帝国のすべての秘密へアクセスできるわけではなかった。
エルヴィンは静かに頷いた。
「……今は、確認できることだけを調べる」
そう言って、執務室をあとにした。
◇◆◇
面会を終えたエルヴィンが向かったのは、研究区画の訓練場だった。
すでに夕刻を過ぎており、そこにいる兵士は少ない。
魔導灯が壁を照らし、訓練用の標的がいくつも並んでいる。
エルヴィンは外套を脱ぎ、壁際へ掛けた。
そして、静かに右手を上げた。
魔力を練り上げる。
空気中の水分が、わずかに集まった。
冷気が生まれる。
次の瞬間。
彼の周囲に、五本の氷柱が浮かび上がった。
どれも鋭く、表面には淡い光が走っている。
エルヴィンは標的へ視線を向けた。
「……行け」
短い言葉とともに、一本目の氷柱が放たれる。
ヒュンッ!
鋭い音を残し、標的の中央へ突き刺さった。
続けて二本目。
三本目。
四本目。
五本目。
それぞれが異なる角度から飛び、狙った位置へ正確に突き刺さっていく。
エルヴィンは右手を下ろした。
氷魔法Lv.4。
魔力制御Lv.3。
この二つを組み合わせることで、複数の氷柱を生成し、精度を保ちながら射出することができる。
もちろん、魔力を消費する以上、無制限に使えるわけではない。
だが、彼にとっては長年の鍛錬によって身につけた技術だった。
エルヴィンは次の標的へ目を向けた。
今度は、地面へ右手をかざす。
冷気が足元を走った。
薄い氷の層が地面へ広がり、標的の周囲を囲む。
続けて、氷の突起を形成する。
敵の移動を妨害するための魔法。
単に攻撃するだけではない。
戦場の状況を変え、相手の行動を制限する。
それが、エルヴィンの得意とする戦い方だった。
彼は氷を消し、静かに息を吐いた。
そのとき。
「……見事ですね」
訓練場の入口から声が聞こえた。
振り返ると、鎧を身につけた兵士が立っていた。
年齢は三十代ほど。
何度か訓練で顔を合わせたことのある男だった。
「……見ていたのか」
「はい。少しだけ」
兵士は頭を下げた。
「相変わらず、素晴らしい氷魔法です」
エルヴィンは小さく笑った。
「そうか」
「鑑定を失ったという噂は聞きました」
兵士は慎重に続けた。
「ですが、戦闘能力まで失ったわけではないようですね」
「ああ。氷魔法も剣術も、以前と変わらず使える」
エルヴィンは答えた。
兵士は頷いた。
「それなら安心しました」
「……安心?」
「はい」
兵士は少し照れくさそうに笑った。
「自分は以前、クロード卿に魔術戦の訓練をつけていただきました。あのとき、氷の壁で退路を塞がれ、何もできなくなったことを覚えています」
エルヴィンはその訓練を思い出した。
確かに、そんなことがあった。
相手を傷つけずに制圧するため、氷の障壁を使って動きを封じたのだ。
「……覚えている」
「自分は、あれから随分と鍛錬しました」
兵士は笑った。
「ですが、今でもクロード卿に勝てる気がしません」
エルヴィンは少しだけ目を細めた。
研究部門では、鑑定の喪失によって評価が揺らいでいる。
しかし、この兵士が見ているのは別の部分だった。
氷魔法。
魔力制御。
戦闘での判断力。
そして、積み重ねてきた経験。
それらは、今も自分の中に残っている。
「……ありがとう」
エルヴィンが言うと、兵士は少し驚いたような顔をした。
「いえ。事実を申し上げただけです」
エルヴィンは静かに頷いた。
そのとき、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。
鑑定を失った喪失感は、まだ消えない。
だが、自分のすべてが失われたわけではない。
それを、改めて確かめることができた。
◇◆◇
訓練場をあとにしたエルヴィンは、研究室へ戻った。
机の上には、朝から置かれたままの鉱石が並んでいる。
彼は椅子へ座り、一つを手に取った。
そして、無意識に鑑定を使おうとした。
「……っ」
何も起こらない。
エルヴィンは苦笑した。
「……まだ、慣れんか」
長年の習慣は、簡単には消えない。
それでも、今日の自分は昨日とは少し違っていた。
彼は鉱石を魔導灯へかざした。
表面を観察する。
重さを確かめる。
結晶の形状を確認する。
そして、魔力感知Lv.2によって、鉱石から漏れる魔力の流れを感じ取ろうとした。
鑑定のように名称や性質が直接わかるわけではない。
しかし、魔力が存在するかどうか。
どの程度の反応があるのか。
そうした情報なら、今でも確かめることができた。
エルヴィンは記録用紙へ書き込んだ。
さらに、別の鉱石へ手を伸ばす。
同じように観察する。
比較する。
考える。
以前なら、数秒で終えていた作業だ。
今は何倍もの時間がかかる。
それでも、少しずつ進んでいた。
エルヴィンは筆を置いた。
そして、静かに呟く。
「……私は、まだ研究者だ」
その言葉には、確かな意志があった。
鑑定を失った。
だが、知識も経験も、魔術も剣術も残っている。
それらまで失ったわけではない。
ならば、残された力で前へ進むしかない。
エルヴィンは目を閉じた。
そして、再びユウキの顔を思い出した。
自分から鑑定を奪った少年。
今でも、恐ろしいと思う。
あの力が何なのか、理解できない。
しかし、それと同時に、別の感情もあった。
あの少年は、なぜあのような力を使ったのか。
何を恐れ、何を守ろうとしていたのか。
そのことを、考えずにはいられなかった。
エルヴィンは静かに息を吐いた。
いつか、再び会う日が来るのだろうか。
そのとき、自分は何を言うのだろう。
鑑定を返せと叫ぶのか。
なぜ奪ったのかと問い詰めるのか。
それとも、別の言葉をかけるのか。
答えは、まだ出なかった。
ただ、一つだけ決めている。
自分の人生を、技能の喪失だけで終わらせるつもりはない。
エルヴィンは筆を握り直した。
失ったものは大きい。
だが、残されたものも確かにある。
その両方を抱えながら、彼は前へ進もうとしていた。
◇◆◇
第二幕 閉ざされた部屋の少女
◇◆◇
同じ頃。
ゼルガ帝国領の、とある石造りの建物。
小さな窓から差し込む月明かりが、冷たい床を淡く照らしていた。
部屋の中には木製の寝台と、粗末な机が一つ。
壁際には水の入った桶が置かれ、扉には外側から鍵がかけられている。
その寝台の端に、一人の少女が座っていた。
リナ。
かつて、ユウキが灰の鉱山で出会った少女だった。
彼女は膝の上で両手を重ね、窓の外を見つめていた。
外には石造りの壁が見える。
その向こうに何があるのかは、わからない。
建物の場所も知らされていなかった。
移送されたときには、外の景色を見ることもできなかったからだ。
リナは小さく息を吐いた。
ここへ連れてこられてから、まだそれほど時間は経っていない。
しかし、毎日がひどく長く感じられた。
同じ部屋。
同じ壁。
同じ扉。
そして、変わらない沈黙。
リナは膝の上で手を握った。
思い浮かぶのは、あの少年の顔だった。
ユウキ。
自分を守ろうとしてくれた少年。
ほんの短い時間しか一緒にいられなかった。
それでも、忘れることはできなかった。
あのとき、彼は怖がっていた。
無敵の英雄などではなかった。
傷つき、迷いながら、それでも自分を守ろうとしていた。
その姿が、今でも胸に残っている。
「……ユウキ」
声に出してみる。
薄暗い部屋の中へ、名前が静かに響いた。
返事はない。
当然だった。
彼が今どこにいるのか、リナにはわからない。
生きているのかどうかも知らない。
ただ、信じたいと思っていた。
あの少年が、まだどこかで生きていることを。
そして、いつかもう一度会えることを。
リナは目を閉じた。
あの日のことを思い出す。
連れ去られる瞬間。
周囲の大人たちの怒鳴り声。
強く掴まれた腕の痛み。
そして、遠ざかっていくユウキの姿。
何度思い返しても、胸が苦しくなる。
自分には、何もできなかった。
助けを求めることしかできなかった。
その記憶が、今でも彼女を苦しめていた。
けれど、少しだけ考えが変わり始めていた。
もし、もう一度ユウキに会えたら。
そのときも、自分はただ助けられるだけなのだろうか。
また、彼にすべてを背負わせるのだろうか。
リナは首を横に振った。
「……それは、嫌だ」
小さな声だった。
だが、その言葉には確かな意思があった。
自分だって、何かをしたい。
誰かに守られるだけではなく、自分の足で歩きたい。
その願いが、少しずつ心の中で大きくなっていた。
◇◆◇
翌朝。
扉の外から足音が聞こえた。
リナは顔を上げた。
金属の擦れる音。
鍵が回る音。
そして、扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、簡素な服を着た女性だった。
年齢は三十代ほど。
手には木製の盆を持ち、その上にはパンと温かいスープが置かれている。
「食事よ」
女性は短く言った。
リナは小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
女性は盆を机へ置いた。
そのまま立ち去ろうとしたが、ふと足を止める。
「……あなた、まだあの子のことを考えているの?」
リナは顔を上げた。
「……え?」
「時々、名前を呼んでいるでしょう」
女性は少し困ったような顔をした。
「……ユウキ、だったかしら」
リナは息を呑んだ。
あの名前を、他の誰かの口から聞くとは思わなかった。
「……はい」
小さく答える。
女性はしばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「忘れた方が楽なこともあるわ」
リナは目を見開いた。
「……どうして?」
「ここに来た人たちは、みんな何かを失っているから」
女性は窓へ視線を向けた。
「家族だったり、故郷だったり、名前だったり。覚えていることが苦しくなる人もいるのよ」
リナは膝の上で手を握った。
確かに、思い出すたびに苦しくなる。
ユウキのことを考えると、会えない現実が胸へ突き刺さる。
それでも。
「……忘れたくありません」
リナははっきりと答えた。
女性が振り返る。
「……そう」
「はい」
リナは顔を上げた。
「あの人が、私を助けようとしてくれたことを」
声が少し震えた。
それでも、言葉を続ける。
「私が、もう一度会いたいと思っていることを」
女性は黙って聞いていた。
リナは胸の前で手を握った。
「……忘れたくありません」
長い沈黙が流れた。
やがて、女性は小さく息を吐いた。
「……あなた、強いのね」
リナは首を横に振った。
「……強くありません」
それは本心だった。
怖い。
いつも怖い。
扉が開く音を聞くたびに、次は何を言われるのだろうと身体が強張る。
眠れない夜もある。
故郷のことを思い出して、泣きたくなることもある。
自分が強い人間だとは、とても思えなかった。
「……でも」
リナは続けた。
「怖いからって、全部忘れてしまったら……本当に、何も残らなくなる気がするんです」
女性の表情が、わずかに変わった。
何かを言いかけたようだったが、結局口を閉じる。
そして、扉へ向かった。
「……食事が冷める前に食べなさい」
「はい」
リナは小さく頷いた。
女性は扉の前で、もう一度だけ振り返った。
「……名前を覚えていることは、悪いことじゃないわ」
それだけ言うと、部屋を出ていった。
鍵が回る音が響く。
リナはしばらく扉を見つめていた。
そして、静かに机へ向かった。
◇◆◇
食事を終えたあと、リナは窓の下へ座り込んだ。
部屋の隅には、以前から小さな傷のある石材があった。
壁と床の境目にある、少し欠けた石。
彼女はそこへ指を伸ばした。
これまで、何度か触れてきた場所だった。
最初は、ただ落ち着くためだった。
冷たい石の感触を確かめていると、少しだけ現実へ戻れる気がした。
しかし、今日は少し違っていた。
指先へ、かすかな振動が伝わってきたのだ。
「……?」
リナは眉を寄せた。
もう一度、石へ触れる。
冷たい。
そして、やはり何かが伝わってくる。
それは、石の奥で何かが動いているような感覚だった。
しかし、何なのかはわからない。
ただの建物の振動かもしれない。
誰かが廊下を歩いているだけかもしれない。
リナはそっと手を離した。
「……なんだろう」
小さく呟く。
この建物には、まだ知らないことが多すぎる。
自分がいる場所のことも。
この部屋が何のために使われているのかも。
なぜ自分がここへ連れてこられたのかも。
何も知らされていない。
リナは膝を抱えた。
そのとき、ふと窓の外へ視線を向けた。
細い窓の向こうには、夕暮れの空が見えた。
淡い橙色。
遠くへ伸びる雲。
それを見ていると、ほんの少しだけ外の世界を感じられた。
「……ユウキ」
もう一度、名前を呼ぶ。
会いたい。
ただ、それだけではない。
次に会うときは、ちゃんと伝えたいことがあった。
助けようとしてくれたことへの感謝。
離れ離れになったあの日、言えなかった言葉。
そして、もう一度会いたいと思っていたこと。
それらを、自分の声で伝えたい。
リナは胸の前で手を握った。
「……私も、頑張るから」
小さく呟いた。
誰に聞かせるためでもない。
自分自身へ向けた言葉だった。
◇◆◇
その夜。
リナは、なかなか眠ることができなかった。
部屋の外から聞こえてくる足音が、いつもより多かったからだ。
何人もの人間が廊下を行き来している。
時折、短い会話も聞こえてくる。
しかし、内容まではわからない。
リナは寝台の上で身体を起こした。
何かが起きているのだろうか。
それとも、普段からこんな時間に人が動いているのだろうか。
ここへ来てから、まだ日が浅い。
この建物の日常すら、彼女にはわからなかった。
やがて。
コツン。
小さな音がした。
リナは顔を上げた。
音は、壁の向こうから聞こえたような気がした。
コツン。
もう一度。
リナは息を止めた。
そして、ゆっくりと寝台から降りた。
壁へ近づく。
耳を澄ませる。
しかし、それ以上の音は聞こえなかった。
「……誰か、いるの?」
小さく声をかける。
返事はない。
ただ、遠くで誰かが歩く音が聞こえた。
リナは慌てて壁から離れた。
胸が、早鐘のように鳴っている。
怖い。
もし、何か危険なことに関わってしまったら。
もし、余計なことをしていると知られてしまったら。
その先に何が待っているのか、想像もできない。
リナは寝台へ戻り、毛布を握り締めた。
今は、何もできない。
けれど、何も知らないままでいることも怖かった。
彼女は目を閉じた。
そして、静かに呟いた。
「……ユウキ」
あの少年なら、どうするだろう。
きっと、怖がる。
迷う。
それでも、何とかしようと考えるのではないだろうか。
リナは小さく息を吐いた。
自分も、少しずつでいい。
何かを考えられるようになりたい。
ただ助けを待つだけではなく、自分の意思で選べるようになりたい。
その願いを胸に、リナはゆっくりと目を閉じた。
◇◆◇
第三幕 それぞれの選択
◇◆◇
灰の鉱山。
エルヴィンは、研究室の机へ向かっていた。
そこには、今日確認した資料が並んでいる。
以前なら、鑑定を使うことで簡単に進められた作業。
今は一つひとつ確認し、時間をかけなければならない。
それでも、エルヴィンは筆を動かし続けていた。
自分の身分が変わったわけではない。
氷魔法も、魔力制御も、魔力感知も、剣術も失われていない。
ただ、研究官としての立場は揺らいでいる。
だからこそ、今まで以上に成果を示す必要があった。
エルヴィンは筆を止め、右手を見つめた。
そして、もう一度だけ意識を集中する。
「……鑑定」
何も起こらない。
わかっていた。
それでも、胸の奥が痛んだ。
エルヴィンは目を閉じた。
失ったものは、大きい。
だが、それが自分のすべてだったわけではない。
そのことを、今日一日で少しだけ理解できた気がした。
彼は再び筆を握った。
知識は残っている。
経験もある。
そして、まだ自分には力がある。
それらを使って、前へ進むしかない。
「……私は、まだ終わっていない」
エルヴィンは静かに呟いた。
その声には、確かな意志が宿っていた。
同じ頃。
リナは、薄暗い部屋の中で毛布を握り締めていた。
壁の向こうから聞こえた音。
その正体は、まだわからない。
自分がどこにいるのかも知らない。
外へ出る方法すら、見つけられていない。
けれど、彼女は今日、ひとつだけ決めていた。
明日から、少しずつ周囲のことを覚えよう。
扉が開く時間。
廊下を歩く足音。
食事を運んでくる女性の表情。
窓から見える光の変化。
小さなことでもいい。
自分にできることを、一つずつ増やしていこう。
リナは目を閉じた。
「……ユウキ」
小さく名前を呼ぶ。
「……また、会いたい」
その言葉は、誰にも届かなかった。
けれど、彼女の中に残った願いだけは、消えなかった。
そして、遠く離れたリーヴェル。
ユウキは、仲間たちとともに新たな夜を迎えていた。
Eランクへ昇格したばかりの彼は、まだ何も知らない。
灰の鉱山でエルヴィンが鑑定を失い、研究官としての立場を揺るがされていることも。
リナが帝国領のどこかに閉じ込められ、それでも自分の名前を覚えていることも。
互いの現在地も、今何を考えているのかも、知ることはできなかった。
それでも、三人の時間は進んでいる。
一人は、失った技能と研究官としての誇りの間で苦しみながら、自分の価値を問い直していた。
一人は、閉ざされた部屋の中で、小さな決意を胸に抱いていた。
そして、一人は、仲間とともに新しい道へ踏み出していた。
それぞれの選択は、まだ交わらない。
だが、失われたものを抱えたまま、それでも前へ進もうとする思いだけは、どこか似ていた。
エルヴィンは筆を動かし続けた。
リナは明日を待った。
そしてユウキは、まだ知らない。
自分が奪った力の喪失が、あの若き貴族の人生へどれほど大きな影響を与えているのかを。
灰の鉱山での出来事は、それぞれの人生に、確かな変化を残していた。
――第57話 完。




