第50話 霧の中で選ぶもの
ポタッ。
天井から落ちた水滴が、岩の窪みに溜まった水を揺らした。
霧石の洞窟に広がる白い靄は、先ほどまでの戦闘などなかったかのように、ゆっくりと流れ続けている。
ユウキはショートソードを構えたまま、広間の奥へ視線を向けていた。
足元には二匹の霧穴トカゲが倒れている。一匹はユウキの剣によって、もう一匹はトーマの短剣によって命を落とした。
戦闘が終わってから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、洞窟の静けさは妙に深く感じられた。
「……もう、いないかな」
トーマが声を潜める。
ユウキは耳を澄ませた。
聴覚強化Lv.1。
森狼から略奪した技能によって、周囲の微かな音を拾うことができる。
しかし、この洞窟では音が何度も反響していた。
右から聞こえた水滴の音が、少し遅れて左から響く。奥の通路から伝わる足音のようなものも、実際には自分たちの装備が擦れる音かもしれない。
「……近くで動いているものは、今のところわからない」
ユウキが答えると、バルドは盾を下ろさずに頷いた。
「なら、まだ安全とは決めつけられんな」
ドランが足元の霧穴トカゲへ視線を落とす。
「素材を持ち帰るにしても、先に周囲を確かめた方がよさそうだ」
四人は一度、広間の入口付近まで後退した。
そこには岩壁に沿って緩やかな段差があり、入口へ戻る通路も見通せる。広間の中央に比べれば、背後を取られる危険が少なかった。
バルドが正面を警戒し、トーマは左側の岩壁を確認する。
ドランは地図を取り出し、現在地を確かめ始めた。
その間、ユウキは倒れた二匹の姿を見つめていた。
霧穴トカゲ。
一匹はレベル4。
もう一匹はレベル2。
どちらも壁面移動と霧中感知を持っていた。
そして、レベル4の個体には噛みつき強化もあった。
ユウキの胸の奥で、あの感覚が静かに目を覚ます。
略奪。
倒した相手から、技能を一つ奪うことのできる固有権能。
使えば、新しい力を手に入れられる。
だが、その代償として魂蝕が進んでしまう。
ユウキは無意識に右手を握った。
森狼から聴覚強化を奪ったときの、冷たい感覚を思い出す。
あれは、魔力を消費したときの疲労とは違った。
自分の内側へ、知らない何かが入り込んでくるような感覚。
それが少しずつ積み重なった先に何があるのか、まだわからない。
けれど。
ユウキは霧の向こうを見つめた。
ここでは、目が頼りにならない。
音も反響する。
今の自分たちに不足しているものを考えれば、霧中感知は魅力的だった。
「……バルドさん」
ユウキが声をかける。
「少しだけ、魔物の状態を確認してきてもいいですか?」
バルドは振り返った。
「素材になる場所を見たいのか?」
「はい。グレンさんに教わったこともあるので」
嘘ではない。
ただ、本当の目的をすべて話しているわけでもなかった。
バルドはしばらく考えたあと、頷いた。
「わかった。ただし、わしらの見える場所から離れるなよ」
「はい」
ユウキは剣を鞘へ収め、倒れた霧穴トカゲへ近づいた。
◇◆◇
二匹の身体を比べると、その違いは明らかだった。
レベル4の個体は全体的に大きく、背中の突起も太い。鱗の表面には細かな傷があり、長く生きてきたことを思わせる。
一方、レベル2の個体は身体が小さく、鱗の色もやや薄かった。
戦闘中の動きにも違いがあった。
大きな個体は岩壁を利用して積極的に襲いかかってきたが、小さな個体は近づく相手を見極めながら動いていた。
同じ種族であっても、まったく同じ生き方をしてきたわけではないのだろう。
ユウキはレベル4の個体のそばへ膝をついた。
仲間たちは少し離れた場所で周囲を確認している。
バルドの視線がこちらへ向くことはあるが、今は盾を構えながら通路を警戒していた。
ユウキは静かに意識を集中する。
――略奪。
視界の奥に、青白い文字が浮かび上がった。
【略奪対象を確認】
対象:霧穴トカゲ
レベル:4
状態:死亡
【取得可能技能】
・壁面移動 Lv.1
・噛みつき強化 Lv.1
・霧中感知 Lv.1
取得可能数:1
ユウキは三つの技能を見つめた。
壁面移動。
岩壁や急な斜面を移動する際に役立つかもしれない。
しかし、人間の身体でも同じように使えるのかはわからない。手足の構造が違えば、効果を十分に発揮できない可能性もある。
噛みつき強化。
これは今の自分には、ほとんど必要ないだろう。
そして、霧中感知。
霧や靄の中で周囲を察知するための技能。
この洞窟を探索するうえでは、明らかに役立つ可能性がある。
ユウキは小さく息を吸った。
しかし、すぐには選ばなかった。
略奪を使うたびに、魂蝕は進む。
もしこの先、もっと危険な魔物と遭遇したら。
もし、仲間を守るために別の力が必要になったら。
そのたびに略奪を繰り返していては、いつか自分自身が変わってしまうのではないか。
ユウキは目を閉じた。
力を奪うことはできる。
けれど、奪った力をどう使うかは、自分で決めなければならない。
そして、何を奪わないかも。
そう考えた瞬間、少しだけ気持ちが落ち着いた。
ユウキは目を開く。
今の自分たちにとって、霧中感知は生き残るための助けになる。
それなら。
今回だけは、使おう。
ユウキは静かに選択した。
――霧中感知 Lv.1。
次の瞬間、頭の奥へ鋭い違和感が走った。
「……っ!」
視界が暗くなる。
そして、知らない光景が流れ込んできた。
濡れた岩壁。
白く漂う霧。
暗闇の中で動く小さな影。
四肢で岩へ張りつきながら、周囲の空気の揺らぎを感じ取る感覚。
目で見るのとは違う。
耳で聞くのとも違う。
霧の中に存在するものの動きを、ぼんやりとした輪郭として捉えている。
それは、霧穴トカゲが生きていた世界だった。
ユウキは息を止めた。
自分の身体では経験したことのない感覚。
岩壁へ張りつき、獲物の気配を探る。
霧の濃さによって視界が変わっても、その向こうに何かがいることを感じ取る。
しかし、その記憶は突然途切れた。
視界に文字が浮かび上がる。
【略奪成功】
取得技能:霧中感知 Lv.1
魂蝕値:増加
胸の奥を、冷たいものが通り抜けた。
ユウキは思わず身体を強張らせた。
森狼から技能を奪ったときと同じ感覚。
しかし今回は、知らない感覚が身体の中へ残っているような、不思議な違和感があった。
ユウキはゆっくりと呼吸を整えた。
霧中感知。
新しい技能を手に入れた。
けれど、それと同時に魂蝕も進んでしまった。
それを喜んでいいのか。
ユウキには、まだわからなかった。
「……ユウキ?」
トーマの声が聞こえた。
顔を上げると、彼が少し離れた場所からこちらを見ていた。
「大丈夫? なんか、顔色悪くない?」
「……ううん。大丈夫」
ユウキは立ち上がり、軽く首を振った。
「ちょっと、緊張が抜けただけだと思う」
トーマは心配そうに眉を寄せた。
「無理しないでね」
「うん。ありがとう」
ユウキは小さく笑い、三人のもとへ戻った。
略奪のことは、まだ誰にも話せない。
しかし、隠し続けることが正しいのかどうかも、わからなかった。
◇◆◇
「……そろそろ、採取を始めようか」
ドランが地図を広げながら言った。
今回の依頼は、霧石の洞窟浅層の生息調査と、品質が中以上の霧石三個の採取。
すでに霧穴トカゲを二匹確認し、討伐している。
しかし、霧石については低品質のものを見つけただけで、まだ必要な試料を確保できていなかった。
「この先の広間の壁に、霧石が多く付着しているという記録がある」
ドランは地図の一部を指さした。
「ただし、そこへ行くまでに霧が濃くなる場所があるらしい」
バルドは盾を構え直し、周囲へ視線を向けた。
「無理をして進む必要はない。安全に採取できる場所があれば、そちらを優先しよう」
ユウキは頷いた。
新しく得た霧中感知を、試してみたい気持ちもある。
しかし、それだけを理由に危険へ近づくべきではない。
「……まずは、今いる広間の周囲を調べてみませんか?」
ユウキが提案すると、ドランは頷いた。
「それがいいな。湿った岩壁なら、霧石が付着している可能性がある」
四人は互いの位置を確認しながら、広間の周囲を調べ始めた。
バルドは岩盤の状態を見極め、ドランは採取に使えそうな場所を探す。
トーマは広間の入口付近を警戒し、ユウキは聴覚強化と新たに得た霧中感知を意識していた。
霧中感知は、目で見る感覚とは異なっていた。
白い靄の向こうにあるものすべてがわかるわけではない。
むしろ、最初は何を感じ取っているのかさえ曖昧だった。
しかし、意識を集中すると、霧の中を流れる空気に微かな変化があることに気づく。
足元で水滴が跳ねる。
岩壁の近くでは霧の流れが変わる。
そして、仲間が動くと、その周囲の靄がわずかに揺れる。
ユウキはその感覚を確かめながら、ゆっくりと歩いた。
「……変な感じだな」
思わず呟く。
聴覚強化で聞こえる音と、霧中感知で捉える気配。
その二つが重なることで、以前よりも周囲の状況を判断しやすくなっている。
ただし、すべてが正確にわかるわけではなかった。
霧が薄い場所では感覚が弱くなり、岩壁の奥にあるものまで見通せるわけでもない。
能力には限界がある。
その限界を理解することも、使いこなすためには必要なのだろう。
「……ユウキ、こっちへ来てくれ」
バルドの声が響いた。
ユウキは振り返り、声のする方向へ向かった。
◇◆◇
バルドが見つけたのは、広間の右側にある小さな岩の窪みだった。
そこには地下水が染み出しており、濡れた岩の表面に淡い青白い結晶がいくつも付着している。
「……これ、霧石ですか?」
ユウキが尋ねると、ドランは慎重に頷いた。
「おそらくな。ただ、品質は確かめる必要がある」
ユウキは最も大きな結晶へ鑑定Lv.2を発動した。
【鑑定結果】
名称:霧石
分類:鉱物素材
品質:中
状態:湿潤
備考:
湿度の高い環境で形成される鉱物。
魔導具の素材として利用される場合がある。
「……品質、中です!」
ユウキが声を上げると、トーマの顔が明るくなった。
「やった! これなら依頼に使えるね!」
ドランは結晶へ顔を近づけ、慎重に状態を確認した。
「……確かに、状態は悪くなさそうだ」
バルドも岩盤の周囲を調べた。
「採取するなら、ここだな。ただし、上の岩に亀裂がある。大きく削りすぎないようにしよう」
ユウキは頷いた。
前回の旧採石道でも、バルドの経験によって安全な採取場所を見つけることができた。
今回も、彼の判断が重要になる。
「……俺も手伝います」
ユウキが言うと、バルドは小さく笑った。
「ああ。ただし、焦らずにな」
ドランは採取道具を取り出し、結晶の根元へ細い工具を当てた。
強く叩くのではなく、岩の割れ目を確かめながら少しずつ力を加える。
カチッ。
小さな音とともに、結晶の一部が外れた。
ドランはそれを布の上へ置き、状態を確認した。
「……一つ目だ」
トーマが嬉しそうに笑う。
「あと二つ!」
バルドは周囲を確認し、次の採取場所を示した。
「この辺りなら、同じ地層が続いている」
ユウキは採掘道具を握り、岩の表面へ慎重に当てた。
掘削Lv.2。
灰脈の迷宮で略奪によって得た技能。
しかし、技能を持っているからといって、何も考えずに掘っていいわけではない。
バルドから教わったことを思い出し、力を加える角度を調整する。
岩の表面に細い亀裂が走る。
ユウキは工具を少しずらし、再び力を加えた。
カチッ。
結晶が、岩から外れた。
「……取れた!」
ユウキは思わず笑った。
ドランが結晶を受け取り、鑑定結果を確認する。
品質は中。
これで二つ目。
残りは一つだった。
しかし、そのとき。
――コツン。
広間の奥から、小さな音が響いた。
ユウキは動きを止めた。
聴覚強化が、その音を拾い上げる。
水滴ではない。
岩へ何かが触れたような音。
そして、霧中感知にもわずかな反応があった。
白い靄の向こうで、何かが動いている。
「……みんな」
ユウキは声を潜めた。
「奥に、何かいます」
三人の表情が変わった。
バルドは盾を構え、トーマは短剣へ手を伸ばす。
ドランは採取道具を置き、片手鎚を握った。
霧はゆっくりと流れている。
その奥にある影は、まだはっきりと見えなかった。
ユウキは鑑定Lv.2を発動しようとした。
しかし、対象の姿が曖昧で、うまく捉えられない。
視界に文字が浮かび上がる。
【鑑定失敗】
対象の情報を取得できません。
原因:対象の特定が不十分。
ユウキは眉を寄せた。
鑑定が失敗した。
今までの魔物は、姿を確認できれば詳細なステータスを読み取ることができた。
しかし、今回は違う。
霧の向こうに何かがいることはわかる。
けれど、それが何なのかまでは判断できない。
相手とのレベル差や能力差が大きい場合にも、鑑定は失敗することがある。
今は、単に姿が見えないだけなのか。
それとも、もっと別の理由があるのか。
ユウキにはわからなかった。
「……鑑定できませんでした」
ユウキが小声で伝えると、バルドの表情が引き締まった。
「……なら、無理に近づくな」
ドランも頷いた。
「あと一つで依頼は達成だ。だが、それを採るために危険を冒す必要はない」
トーマは霧の奥を見つめながら、短剣を握り直した。
「……どうする?」
ユウキは深く息を吸った。
あと一つ。
霧石を採れば、依頼の条件を満たせる。
しかし、霧の向こうには正体のわからない何かがいる。
強い魔物かもしれない。
ただの小動物かもしれない。
それでも、わからないものへ無理に近づくべきではない。
「……一度、距離を取りましょう」
ユウキが答えると、バルドは頷いた。
「ああ。それがいい」
四人は採取した霧石を布袋へしまい、ゆっくりと後退した。
霧の奥から聞こえていた音は、しばらく続いていた。
しかし、こちらへ近づいてくる様子はない。
ユウキは何度か振り返りながら、仲間たちとともに広間の入口付近まで戻った。
そこまで来ると、ようやく胸の奥の緊張が少しだけ緩んだ。
新しい技能を得た。
人物レベルも上がった。
それでも、まだ知らないことは多い。
そして、知らないものに対して慎重であることも、冒険者には必要なのだろう。
◇◆◇
広間の入口付近で、四人は短い相談をした。
「……あと一つの霧石をどうするか、だな」
ドランが地図を広げる。
バルドは周囲の岩壁へ視線を向けた。
「さっきの場所と同じ地層が、この辺りまで続いているなら……」
彼は岩壁の一部を指さした。
そこには、小さな青白い結晶が付着している。
遠くからでは気づかなかったほど小さいが、周囲の岩と比べると明らかに色が違っていた。
「……あれは?」
ユウキが尋ねる。
「霧石かもしれん」
バルドが答えた。
ユウキは近づき、鑑定Lv.2を発動した。
【鑑定結果】
名称:霧石
分類:鉱物素材
品質:中
状態:湿潤
「……品質、中です!」
ユウキが声を上げた。
トーマの顔が明るくなる。
「じゃあ、これで最後だ!」
ドランは結晶の状態を確認し、慎重に道具を取り出した。
「……小さいが、条件は満たしていそうだな」
バルドは周囲の岩盤を確認した。
「ここなら、大きく削らずに採れそうだ」
四人は周囲を警戒しながら、最後の採取を始めた。
ユウキは霧中感知を意識し、広間の奥から何かが近づいてこないかを確かめる。
トーマは通路側を見張り、バルドとドランが慎重に結晶を取り外していく。
カチッ。
小さな音が響いた。
結晶が、岩から外れる。
「……よし」
ドランはそれを布へ包み、ほかの二つと並べた。
品質が中以上の霧石。
三つ。
必要な試料が揃った。
「……やった!」
トーマが小さく拳を握った。
ユウキも嬉しそうに笑った。
「これで、依頼の条件は満たせましたね」
バルドは頷いた。
「ああ。あとは無事に帰るだけだ」
四人は荷物をまとめ、洞窟の入口へ向かって歩き始めた。
来た道を戻る。
標識を確認し、地図と照らし合わせる。
滑りやすい場所では歩調を落とし、霧の濃い場所では互いの距離を確かめる。
霧中感知を得たユウキも、油断することなく周囲を警戒した。
やがて、遠くに淡い光が見え始めた。
洞窟の入口。
外から差し込む陽光だった。
「……出口だ!」
トーマが嬉しそうに声を上げた。
その声に、ユウキも顔を上げた。
白い霧の向こうから、明るい光が差し込んでいる。
四人は歩調を少しだけ速めた。
そして。
洞窟の外へ出た瞬間、湿った空気に代わって、草木の匂いを含んだ風が頬を撫でた。
ユウキは大きく息を吸った。
空は青く、木々の葉が陽光を受けて揺れている。
遠くでは鳥の鳴き声が聞こえた。
トーマが両腕を伸ばす。
「……やっぱり、外の空気はいいね!」
ドランも頷いた。
「霧の中に長くいると、外の明るさがありがたく感じるな」
バルドは盾を下ろし、三人の顔を確認した。
「……全員、無事だな」
「はい!」
ユウキが答えると、バルドは穏やかに微笑んだ。
「なら、帰ろう」
四人はリーヴェルへ続く道へ足を向けた。
今回の探索では、二匹の霧穴トカゲを討伐し、必要な霧石を三つ採取した。
ユウキは人物レベル4へ成長し、トーマとドランもレベルアップした。
そして、略奪によって新たな技能を手に入れた。
霧中感知Lv.1。
しかし、それと同時に魂蝕も進んでいる。
ユウキは胸元へ手を添えた。
強くなること。
仲間を守ること。
そのために、どこまで力を求めるべきなのか。
答えは、まだ見つからない。
それでも、今は前へ進むしかなかった。
ユウキは仲間たちの背中を見つめ、静かに歩き始めた。
リーヴェルへ戻れば、また新しい依頼が待っているだろう。
そして、その先には、まだ知らない世界が広がっている。
ユウキ達の冒険は、今日も少しずつ前へ進んでいた。
――第50話 完。




