第5話 灰の鉱山の住人たち
――カンッ、カンッ、カンッ。
規則正しく響く金属音が、薄暗い牢の静寂を切り裂いていた。
ユウキは冷たい石壁にもたれたまま、鉄格子の向こうをぼんやりと見つめていた。どれほど眠っていたのか、あるいは一睡もできていないのかさえわからない。
天井に窓はなく、外の明かりも届かない。壁に取り付けられた松明だけが、地下の牢獄を頼りなく照らしていた。
身体を少し動かすと、手首と足首を繋ぐ鎖が擦れ合い、不快な金属音を立てる。
「……痛っ」
左肩の傷が疼いた。
森で奴隷商人に斬られた場所だ。血はすでに乾いているものの、傷口の周囲は熱を持ち、制服の布が張りついていた。
腹部にも鈍い痛みが残っている。
父親から受けた暴力の傷が癒えないうちに、魔物との戦闘や奴隷商人との争いが重なったのだから当然だろう。
それでも、ユウキが最も気にしていたのは自分の怪我ではなかった。
「……リナ」
小さく名前を呼んでみる。
しかし、返ってくるのは遠くで鳴り続ける金属音だけだった。
森で出会った、首輪をつけられた少女。
助けを求める声を聞き、見捨てることができずに手を差し伸べた。
初めて会ったばかりなのに、彼女が笑ってくれたことが嬉しかった。
ありがとう、と言われたときには、胸の奥が温かくなった。
それなのに、結局は守りきれなかった。
あの灰色の外套をまとった男の命令で、リナは別の場所へ連れていかれた。
今頃どうしているのだろう。
また酷い扱いを受けてはいないだろうか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
「……俺、何やってるんだろう」
ユウキは膝を抱え、ゆっくりと俯いた。
誰かを守りたいと願っても、現実はそう簡単には変わらない。
力がなければ、大切な人を守ることさえできないのだ。
「……おい、坊主」
不意に隣から声が聞こえた。
顔を上げると、昨夜話しかけてきた白髪の老人が、こちらを見つめていた。
「朝っぱらから死人みてえな顔をするな。こっちまで気が滅入る」
「……すみません」
反射的に謝ると、老人は呆れたように眉をひそめた。
「別に謝れとは言っとらん」
「……あ」
「まったく、妙な坊主だな」
老人は乾いた笑いを漏らすと、膝に置いていた手をゆっくりと動かした。
その指は節くれ立ち、爪の間には黒い汚れが染み込んでいる。長年にわたる労働の痕跡が、手の隅々にまで刻まれていた。
「名前は?」
「……ユウキです。ユウキ・コバヤシ」
「ユウキ、か。聞かん名前だな」
老人はしばらく考えるように顎を撫で、それから自分の胸を軽く叩いた。
「わしはバルド。ここじゃ、ただの老いぼれ鉱夫だ」
「……バルドさん」
「さん付けなんぞいらん。好きに呼べ」
ユウキは小さく頷いた。
その様子を見たバルドは、少しだけ表情を和らげた。
「それで、何をやらかしてここへ来た?」
「……え?」
「盗みか、借金か、それとも貴族の機嫌でも損ねたか?」
ユウキは答えに困った。
自分が何をしたのかと問われても、うまく説明できない。
見知らぬ森で目を覚まし、魔物に襲われ、逃げている途中で奴隷の少女と出会った。
彼女を助けようとして奴隷商人たちと争い、気づけばこの場所に連れてこられていた。
そう説明しても、信じてもらえるだろうか。
「……女の子を、助けようとしたんです」
迷った末、ユウキは正直に答えた。
バルドの眉がわずかに動く。
「女?」
「はい。怪我をして倒れていた子がいて、その子を連れ戻そうとしていた男たちと……」
「喧嘩になったのか?」
「……はい」
老人はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「馬鹿なことをしたもんだ」
その言葉に、ユウキの肩が小さく震えた。
怒られる。
そう思った瞬間、自然と身体が強張った。
しかし、バルドは怒鳴ることも、手を上げることもしなかった。
「……まあ、助けようとしたことまで馬鹿だとは言わんがな」
「……え?」
「この国じゃ、奴隷を連れ戻そうとする商人に逆らえば、厄介なことになる。相手にどれだけ非があろうとな」
バルドは鉄格子の向こうへ視線を向けた。
「ここには、お前みたいな奴が何人もいる。誰かを庇った者もいれば、身に覚えのない罪を押しつけられた者もいる。もちろん、本当に罪を犯した奴だっているがな」
「……そんな」
「珍しいことじゃない」
老人の声は淡々としていた。
それがかえって、ユウキには恐ろしく感じられた。
誰かを助けた結果、自由を奪われる。
何も悪いことをしていなくても、奴隷として働かされる。
そんなことが、当たり前のように起こる世界。
「……この国って、どこなんですか?」
ユウキが尋ねると、バルドは不思議そうに目を細めた。
「お前、どこの生まれだ?」
「……遠いところです」
「遠いところ、ねえ」
老人は疑わしげな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
「ここはアルヴェイン王国の西部辺境だ。正確には王国の管理が行き届かん、帝国との境に近い土地だがな」
「……アルヴェイン王国」
初めて聞く国名だった。
「それじゃあ、帝国っていうのは……?」
「ゼルガ帝国だ。東方に広大な領土を持つ軍事国家で、この辺りじゃ名前を聞くだけで顔をしかめる者も多い」
バルドは周囲を一度見回してから、少しだけ声を落とした。
「表向きは国境の均衡が保たれとるが、裏じゃ小競り合いも珍しくない。奴隷商人の中には、帝国と繋がっている連中もおるらしい」
ユウキは息を呑んだ。
アルヴェイン王国。
ゼルガ帝国。
聞いたことのない国家が存在する、見知らぬ世界。
そして、その世界では人間が商品として売り買いされている。
日本で暮らしていた頃には、想像もできなかった現実だった。
「……逃げることは、できないんですか?」
ユウキが尋ねると、バルドは苦笑した。
「できるなら、とっくに逃げとるわ」
老人は自分の足首を持ち上げた。
そこにはユウキと同じような鉄の枷がはめられており、鎖の付け根には小さな黒い石が埋め込まれていた。
「こいつは魔封石を使った拘束具だ。魔力の流れを乱し、強引に引きちぎろうとすれば警報が鳴る。魔法を使える奴でも簡単には外せん」
「……魔法」
ユウキは思わず呟いた。
バルドが怪訝そうな顔をする。
「なんだ、お前。魔法まで知らんのか?」
「……少しは、知ってます」
ゲームの中だけなら。
心の中でそう付け加えた。
すると、バルドは小さく笑った。
「まあ、世間知らずなのは見りゃわかる。ここで生き残りたいなら、少しずつ覚えることだな」
その言葉には、不思議な温かさがあった。
初めて会った老人が、自分に生き残るための知識を教えようとしてくれている。
それだけのことなのに、ユウキは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
頭を下げると、バルドは気まずそうに顔を背けた。
「礼を言われるようなことはしとらん」
◇◆◇
しばらくして、鉄格子の向こうから重い足音が近づいてきた。
「起きろ、屑ども!」
怒鳴り声とともに現れたのは、革鎧を身につけた大柄な男だった。
腰には短剣、右手には黒ずんだ鞭を持っている。
男は牢の扉を乱暴に開け放つと、中にいる者たちを睨みつけた。
「いつまで寝てやがる! 今日の採掘が始まるぞ!」
その声を聞いた瞬間、ユウキの肩が跳ねた。
胸が苦しくなり、呼吸が浅くなる。
頭ではここが日本の家ではないと理解しているのに、身体は父親の怒鳴り声を聞いたときと同じ反応をしていた。
「……おい、坊主」
隣にいたバルドが小声で呼びかける。
「立て。目をつけられるぞ」
「……は、はい」
ユウキは慌てて立ち上がった。
しかし、傷ついた身体が悲鳴を上げ、足元がふらつく。
壁に手をついて身体を支えたところで、看守の視線がこちらへ向いた。
「なんだ、そのガキは?」
「昨日入った新入りです」
別の看守が答える。
「上からは、しばらく鉱山で働かせろとの命令が出ています」
「ふん。妙な服を着たガキだな」
男はユウキへ近づくと、顎を乱暴に掴んだ。
「おい、坊主。ここじゃお前の都合なんざ関係ねえ。働けと言われたら働く。それだけだ」
「……はい」
「返事が小せえ!」
「は、はい!」
思わず声を張り上げた。
看守は満足したのか、ユウキの顎を突き放した。
「よし、全員出ろ!」
囚人たちが一斉に動き始める。
誰も口を開かず、ただ黙々と牢の外へ歩いていく。
ユウキもその後に続いた。
薄暗い通路を進むにつれて、金属を打ちつける音が大きくなっていった。
やがて、目の前に巨大な空間が広がる。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
そこは、山の内部を丸ごと削り取ったような巨大な採掘場だった。
高い天井からは無数の鍾乳石が垂れ下がり、壁には青白く光る鉱石が点在している。
何十人、いや何百人もの人々が、ツルハシを振るいながら岩壁を掘り進めていた。
大人だけではない。
ユウキと同じくらいの少年もいれば、まだ幼く見える子供の姿もあった。
痩せ細った老人が重い籠を運び、足を引きずる男が岩を砕いている。
誰もが疲れ切った顔をしていた。
「……こんなに、たくさん」
ユウキが呟くと、隣のバルドが低い声で答えた。
「ここは西部辺境でも最大級の採掘場の一つだ。表向きは民間の鉱山だが、実際には複数の商会や有力者が利益を分け合っとる」
「……何を掘ってるんですか?」
「主に魔鉱石だ。魔道具や武器の製造に使われる、価値の高い鉱石さ」
バルドは壁に埋まった青白い石を指さした。
「あれが低純度の魔鉱石だ。もっと奥へ行けば、純度の高いものも採れるらしい」
「……魔鉱石」
ユウキはその言葉を繰り返した。
異世界らしい光景だと思った。
しかし、周囲で働く人々の顔を見ていると、単純に感動することはできなかった。
ここでは、魔法の力を宿した美しい鉱石が、人々の自由と引き換えに掘り出されているのだ。
「おい! そこ、何を突っ立ってる!」
看守の怒声が響いた。
ユウキは慌てて頭を下げる。
「……すみません!」
「新入りなら、さっさと道具を受け取れ!」
男は乱暴にツルハシを投げてよこした。
ユウキは咄嗟に両手で受け止めたが、予想以上の重さに身体がよろめいた。
「……重っ」
「一日中振るうんだ。今のうちに慣れとけ」
バルドが苦笑する。
その笑顔には、長年の苦労が滲んでいた。
◇◆◇
採掘作業は、想像を絶するほど過酷だった。
ユウキは指定された岩壁の前に立ち、ツルハシを振り下ろしていた。
最初の数回は、なんとか持ちこたえた。
しかし、十分も経たないうちに腕が重くなり、掌には水ぶくれができ始める。
傷ついた左肩に鋭い痛みが走るたび、思わず顔をしかめた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
額から汗が流れ落ちる。
地下の空気は湿っていて、少し動くだけでも息苦しかった。
「腕だけで振るうな」
隣で作業していたバルドが声をかけてきた。
「腰を使え。そうすりゃ、少しは楽になる」
「……こう、ですか?」
ユウキは老人の動きを真似しながら、ツルハシを振り下ろした。
金属の先端が岩に当たり、小さな破片が飛び散る。
「そうだ。力任せに叩くな、割れ目を狙え」
何度か繰り返すうちに、わずかながら動きが安定してきた。
ユウキは驚いた。
老人の動きには無駄が少ない。
筋力では若い自分の方が上かもしれないのに、採掘の速度は比べものにならなかった。
「……すごいですね」
思わず口にすると、バルドは鼻を鳴らした。
「こんなもん、長くやってりゃ誰でも覚える」
「でも、俺には難しいです」
「なら覚えろ。ここじゃ、覚えが悪い奴から倒れていく」
老人の口調は厳しかったが、突き放すような冷たさはなかった。
ユウキは小さく頷き、再びツルハシを握り直した。
そのときだった。
――ピコン。
視界の端に、青白い文字が現れた。
《反復動作による技能習熟を確認》
《技能獲得条件の一部を満たしました》
《採掘技能の習得進行中》
「……え?」
ユウキは思わず手を止めた。
採掘技能。
今まで持っていなかった技能だ。
もしかして、略奪を使わなくても技能を覚えられるのだろうか。
そんな考えが浮かぶ。
しかし、詳しく確認する前に看守の怒声が響いた。
「おい! 手を止めるな!」
「……はい!」
ユウキは慌てて作業を再開した。
胸の奥に、小さな希望が生まれていた。
この世界では、戦闘以外でも成長できるのかもしれない。
ならば、今の自分にできることは何だろう。
魔物を倒す力はない。
剣を扱う技術もない。
それでも、少しずつ何かを覚えることはできる。
ユウキはツルハシを握り直し、目の前の岩壁を見つめた。
今は、できることから始めよう。
そう自分に言い聞かせ、再び腕を動かした。
◇◆◇
昼食と呼べるものが配られたのは、どれほど働いたあとのことだっただろう。
看守の合図で作業を中断した囚人たちは、壁際に座り込んでいった。
ユウキの前にも、木の器が一つ置かれる。
中には薄い灰色の粥が入っており、具らしいものはほとんど見当たらなかった。
「……これが、ご飯?」
思わず呟く。
バルドは隣で器を持ち上げると、慣れた様子で粥を口へ運んだ。
「嫌なら食わんでもいいぞ。ただし、次の食事まで何も出んがな」
「……食べます」
ユウキは慌てて器を手に取った。
口へ運ぶと、ぬるく、ほとんど味がしなかった。
それでも、空腹だった身体にはありがたかった。
日本の家でも、十分な食事を与えられない日はあった。
けれど、ここではそれが当たり前なのだろう。
周囲の囚人たちは誰も文句を言わず、黙々と粥を食べている。
その中に、一人だけ食事へ手をつけない少年がいた。
ユウキよりも二、三歳ほど年下に見える、痩せた少年だった。
少年は壁にもたれたまま、顔を伏せている。
その身体が、小さく震えていた。
「……あの子、大丈夫なんですか?」
ユウキが尋ねると、バルドは少年へ視線を向けた。
「……ああ、あいつか」
老人は小さくため息をついた。
「名前はトーマ。ここへ来て、まだ十日ほどだ」
「……十日?」
「昨日から熱を出しとる。まともに働けんから、看守どもに目をつけられとるんだ」
ユウキは少年を見つめた。
頬は赤く、呼吸も荒い。
明らかに具合が悪そうだった。
「……お医者さんには?」
バルドは首を振った。
「ここで医者に診てもらえるのは、管理者が価値を認めた奴だけだ。普通の奴隷にゃ、そんな贅沢は許されん」
「……そんなの」
ユウキは唇を噛んだ。
目の前で苦しんでいる人がいる。
それなのに、誰も助けようとしない。
いや、助けられないのだ。
周囲の囚人たちも、自分が生き残ることで精一杯なのだろう。
ユウキは自分の器を見つめた。
薄い粥。
これが、今の自分に与えられた唯一の食事。
それを手放せば、次の作業で倒れてしまうかもしれない。
そう考えながらも、ユウキは立ち上がっていた。
「……おい、坊主」
バルドが声をかける。
「何をするつもりだ?」
「……ちょっと、行ってきます」
ユウキは器を持ち、トーマのもとへ歩み寄った。
少年は近づいてきたユウキに気づき、怯えたように顔を上げた。
「……な、なんだよ」
「……大丈夫?」
「……ほっといてくれ」
かすれた声だった。
ユウキは少しだけ距離を取り、少年の前にしゃがみ込んだ。
「……熱、あるんだよね」
「……だから、なんだよ」
「これ、食べられる?」
ユウキは自分の器を差し出した。
少年は目を見開いた。
「……え?」
「俺の分だけど、まだ少し残ってるから」
トーマはしばらく器を見つめていたが、やがて警戒するように眉をひそめた。
「……なんで?」
「……なんでって」
「なんで、俺にくれるんだよ」
ユウキは少し考えた。
特別な理由があるわけではなかった。
ただ、目の前で苦しんでいる少年を放っておけなかっただけだ。
「……食べた方が、少しは元気になるかもしれないから」
そう答えると、トーマはますます困惑した表情になった。
「……変なやつ」
「……よく言われる」
ユウキは苦笑した。
少年はしばらく迷っていたが、やがて恐る恐る器を受け取った。
「……ありがと」
小さな声だった。
ユウキは微笑んだ。
「……うん」
そのとき、背後から低い声が聞こえてきた。
「……お人好しも、ほどほどにしとけよ」
振り返ると、バルドが立っていた。
老人は呆れたような顔をしていたが、その目にはわずかな優しさが浮かんでいた。
「自分の飯まで分け与えてたら、お前の方が先に倒れるぞ」
「……でも」
「わかっとる。だから余計に厄介なんだ」
バルドは小さく息を吐くと、自分の器に残っていた粥をユウキへ差し出した。
「……ほれ」
「……え?」
「少し余っとる。食え」
「でも、バルドさんの……」
「年寄りはそんなに食えん。遠慮するな」
ユウキは驚いた。
老人の器には、まだそれなりの量が残っている。
それを自分に渡そうとしているのだ。
「……ありがとうございます」
ユウキが頭を下げると、バルドは気まずそうに顔を背けた。
「……まったく、変な坊主だ」
その言葉を聞いて、ユウキは少しだけ笑った。
この鉱山には、恐ろしい人間ばかりがいるわけではない。
そんな当たり前のことが、今はひどく嬉しかった。
◇◆◇
午後の採掘が始まる頃、鉱山の奥から不気味な振動が伝わってきた。
――ゴゴゴゴ……。
足元の石が微かに揺れる。
天井から細かな砂が落ち、壁に埋まった魔鉱石が淡く明滅した。
「……地震?」
ユウキは思わず手を止めた。
周囲の鉱夫たちも、同じように顔を上げている。
その中で、バルドだけが険しい表情を浮かべていた。
「……またか」
「……また?」
ユウキが尋ねると、老人は周囲を警戒しながら小声で答えた。
「最近、奥の坑道で妙なことが起きとる」
「……妙なこと?」
「夜になると、誰もいないはずの場所から声が聞こえるらしい。それに、奥へ送られた鉱夫が何人も戻ってきとらん」
ユウキの背筋に冷たいものが走った。
「……戻ってこない?」
「ああ。看守どもは事故だと言っとるが、妙な噂もある」
バルドはそこで言葉を切った。
近くを看守が通り過ぎたからだ。
男が離れたのを確認してから、老人はさらに声を落とした。
「……奥の坑道には、魔物が出るって話だ」
「……魔物?」
ユウキの脳裏に、森で戦った灰牙狼の姿が浮かんだ。
鋭い牙。
赤く濁った瞳。
そして、命を奪ったときの生々しい感触。
あれと同じような存在が、この地下にもいるのだろうか。
「……危なくないんですか?」
「危ないに決まっとる。だから皆、奥へ行きたがらん」
バルドは苦々しく笑った。
「だが、命令されりゃ逆らえん。ここじゃ、それが当たり前だ」
ユウキは何も言えなかった。
そして、再び地面が揺れた。
今度は先ほどよりも強い。
――ドンッ!
遠くで何かが崩れるような音が響いた。
「……っ!」
周囲の鉱夫たちがざわめき始める。
看守たちも慌ただしく走り回り、奥の坑道へ向かっていった。
「おい! 第三坑道の封鎖を確認しろ!」
「魔力反応が上昇しています!」
「またか! くそっ!」
怒鳴り声が飛び交う。
ユウキはその様子を呆然と見つめていた。
魔力反応。
第三坑道。
何かが起きている。
それだけはわかった。
そのときだった。
――ドクン。
胸の奥で、突然何かが脈打った。
「……っ!」
ユウキは思わず胸を押さえた。
心臓の鼓動とは違う。
もっと深い場所から、何かが呼びかけてくるような感覚だった。
視界の端に、青白い文字が浮かび上がる。
《固有権能「略奪」に微弱な反応を確認》
《未登録の魂魄反応を検出》
《反応源:地下深部》
「……え?」
ユウキは息を呑んだ。
略奪が反応している。
しかし、周囲に倒れた魔物も人間もいない。
能力の発動条件を満たすような対象は、どこにも見当たらなかった。
《警告》
《反応源の解析に失敗しました》
《干渉は実行されていません》
表示はそれだけ告げると、静かに消えた。
ユウキは震える手を見つめた。
何だったのだろう。
地下深部に、何かがいるのだろうか。
それとも、この鉱山そのものに、何か秘密があるのだろうか。
「……ユウキ?」
バルドが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「……いえ、なんでもないです」
ユウキは慌てて首を振った。
自分の能力については、まだ誰にも話していない。
バルドを信用していないわけではなかったが、略奪という力がどれほど危険なものなのか、ユウキ自身にもわかっていなかった。
不用意に話すべきではない。
そう判断した。
バルドは少しだけ疑わしそうな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
「……まあ、無理はするな。今日はもうすぐ作業が終わる」
「……はい」
ユウキは頷き、再びツルハシを握り直した。
しかし、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
◇◆◇
その夜。
ユウキは牢の片隅で、膝を抱えて座っていた。
昼間の騒ぎは、結局何事もなかったかのように収まった。
看守たちは第三坑道の封鎖を確認したあと、囚人たちを通常どおり牢へ戻したのだ。
けれど、ユウキにはどうしても気になることがあった。
地下深部から感じた、あの奇妙な反応。
略奪という力が、何かを探しているような感覚。
そして、森で少女を助けようとしたときに起きた異常反応。
どちらも、通常の略奪とは明らかに違っていた。
「……なんなんだろう、この力」
ユウキは小さく呟いた。
能力を奪う。
それだけでも十分に恐ろしい。
しかし、この力には自分の知らない何かが隠されている気がした。
それが何なのかは、まだわからない。
今は考えても仕方がないのかもしれなかった。
ユウキはゆっくりと息を吐き、目を閉じようとした。
そのとき、隣にいたバルドが声をかけてきた。
「……坊主」
「……はい?」
「お前、外に出たいか?」
突然の問いかけに、ユウキは目を瞬かせた。
「……外、ですか?」
「ああ。この鉱山から逃げ出して、自由になりたいかと聞いとる」
ユウキは少しだけ考えた。
答えは決まっている。
「……はい」
迷いなく頷いた。
「……俺、ここから出たいです」
バルドは静かに頷いた。
「そうか」
「……それに」
ユウキは小さく拳を握りしめた。
「……探したい人が、いるんです」
リナ。
あの少女が今、どこで何をしているのか。
無事でいるのか。
まだ何もわからない。
けれど、もう一度会いたかった。
今度こそ、彼女を助けられる自分になりたかった。
ユウキの言葉を聞いたバルドは、しばらく黙っていた。
そして、周囲の囚人たちが眠っていることを確認すると、さらに声を落とした。
「……なら、一つだけ教えてやる」
「……え?」
「この鉱山にはな、昔から使われとらん古い坑道がある」
ユウキは息を呑んだ。
バルドは続けた。
「今じゃ封鎖されとるが、わしがここへ来た頃には、まだ人が通れた場所だ。詳しいことは知らんが、地上へ繋がっていたという話を聞いたことがある」
「……地上へ?」
「ああ。ただし、そこへ辿り着けた者が本当に外へ出られたのか、わしは知らん」
ユウキの胸が高鳴った。
出口。
この鉱山から逃げ出せるかもしれない、唯一の手掛かり。
しかし、バルドはすぐに表情を険しくした。
「勘違いするなよ。簡単な道じゃない。奥の坑道は危険だし、見つかればただでは済まん」
「……それでも」
ユウキは老人を見つめた。
「……可能性があるなら、知りたいです」
バルドはその瞳をしばらく見つめていた。
やがて、諦めたように小さく笑う。
「……まったく、頑固な坊主だ」
老人は壁にもたれ、静かに目を閉じた。
「なら、まずは生き延びろ。ここで倒れたら、出口も何もあったもんじゃない」
「……はい」
ユウキは深く頷いた。
まだ何も解決していない。
自由を奪われ、鎖に繋がれたまま、明日も過酷な労働が待っている。
それでも、少しだけ希望が見えた気がした。
ユウキは自分の手首にはめられた枷を見つめる。
冷たく重い鉄の輪。
今の自分には、これを壊す力はない。
けれど、いつか必ず。
自分の力で、この場所から抜け出してみせる。
そう心に誓ったときだった。
――ドクン。
再び、胸の奥で何かが脈打った。
昼間よりも、はっきりとした感覚だった。
ユウキは思わず顔を上げる。
周囲の囚人たちは眠っている。
バルドも目を閉じたままだ。
誰も、何も感じていないようだった。
しかし、ユウキには聞こえた。
どこか遠い場所から、誰かが呼んでいる。
『……たすけて……』
かすれた声。
男とも女ともつかない、不思議な声だった。
ユウキの背筋に冷たいものが走る。
聞き覚えがあった。
あの日。
日本で父親に殺されそうになった瞬間、足元に現れた赤い魔法陣。
そのとき聞こえた、数え切れないほどの悲鳴。
あの声に、似ていた。
「……まさか」
ユウキは震える手を握りしめた。
そして、視界の端に青白い文字が浮かび上がる。
《未登録の魂魄反応を検出》
《反応源:第三坑道深部》
《固有権能「略奪」が共鳴しています》
ユウキは息を呑んだ。
地下深くに、何かがある。
それが何なのかは、まだわからない。
しかし、確かなことが一つだけあった。
この鉱山の奥には、単なる魔鉱石や魔物とは違う、何かが眠っている。
そして、その何かが自分を呼んでいるのだ。
ユウキは暗い天井を見上げた。
自由への手掛かりと、正体不明の声。
二つの謎が、同じ地下深部へと繋がっているような気がした。
恐怖がないわけではない。
むしろ、今すぐ耳を塞いでしまいたいほど怖かった。
それでも、あの声を聞いてしまった以上、知らないふりをすることはできなかった。
ユウキはゆっくりと目を閉じる。
いつか必ず、この鉱山から抜け出す。
そして、リナを探し出す。
そのために、まずは明日を生き延びよう。
そう決意しながら、ユウキは冷たい石壁に身体を預けた。
地下深くから聞こえる声は、いつまでも彼の耳に残っていた。
――第5話 完。




