第4話 奪う力、守る意志
――ドクン。
心臓が大きく脈打った瞬間、ユウキの視界を赤黒い光が覆った。
目の前では、少女の首に短剣を押し当てた男が、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
少しでも動けば少女を殺す。男の目は、言葉にせずともそう告げていた。
ユウキは握りしめた拳をゆっくりと開き、荒くなった呼吸を整えようとした。しかし胸の奥で暴れる何かが、それを許してくれない。
《固有権能「略奪」に異常な反応を確認》
《対象の技能構造に干渉しています》
《警告:魂蝕値が上昇しています》
青白い文字が次々と浮かび上がり、最後の警告だけが不気味な赤色へと変化した。
「……なんだよ、これ」
ユウキは思わず呟いた。
略奪は、相手が戦闘不能になるか、生命活動を停止した場合にしか使えないはずだった。
それなのに、目の前の男はまだ立っている。
少女を人質に取り、こちらを警戒しながら短剣を握りしめているのだ。
どう考えても、発動条件を満たしているとは思えなかった。
「おい! 何をぶつぶつ言ってやがる!」
男の怒鳴り声が響く。
ユウキの肩が反射的に跳ねた。
その反応を見た男は、ますます愉快そうに口元を歪めた。
「そうだ、動くんじゃねえぞ。そのまま地面に這いつくばれ!」
短剣の刃が、少女の首に押し当てられる。
「ひっ……!」
少女が小さく悲鳴を上げた。
その声を聞いた途端、ユウキの頭から能力への疑問が吹き飛んだ。
「わ、わかりました! だから、その子には何もしないでください!」
ユウキは両手を見せながら、ゆっくりと膝を折った。
少し離れた場所では、先ほど倒した二人の男が地面に横たわっている。一人は意識を失ったままで、もう一人は腕を押さえながら苦しそうに呻いていた。
目の前の男を無力化できれば、少女を連れて逃げられるかもしれない。
しかし、どうやって。
武器は手放してしまった。
身体強化を使用しているとはいえ、残っている魔力も多くないはずだ。
そもそも、相手が少女の首に刃を押し当てている以上、無闇に飛びかかるわけにはいかなかった。
「……ユウキ」
少女が震える声で呼びかけてきた。
ユウキが顔を向けると、彼女は小さく首を横に振っていた。
「もう、いいから……逃げて」
涙を浮かべた瞳には、諦めにも似た感情が宿っている。
自分が捕まることよりも、初めて会った相手が傷つくことを恐れているのだろう。
その表情を見た瞬間、ユウキは胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
どうして、この子が諦めなければならないんだろう。
何も悪いことをしていないはずなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのだろう。
答えの出ない疑問が次々と浮かぶ。
それは、十七年間ずっと抱えてきた疑問と、どこか似ていた。
「……大丈夫だよ」
ユウキはできるだけ優しく微笑んだ。
自分でも無理をしているとわかるほど、ぎこちない笑顔だった。
「まだ、諦めなくていいから」
少女の瞳が揺れる。
そのときだった。
《警告》
《対象の魂に対する強制干渉を検出》
《権能の正常な発動条件を満たしていません》
《干渉を継続した場合、精神への重大な負荷が発生する可能性があります》
赤い文字が視界を埋め尽くした。
ユウキは息を呑んだ。
強制干渉。
つまり、自分の意思とは関係なく、略奪が相手の能力を奪おうとしているということなのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、脳裏に奇妙な感覚が流れ込んできた。
目の前の男が持つ、何かの輪郭。
それは人間の身体を構成する骨や筋肉とは違う、もっと曖昧で、形のないものだった。
触れようと思えば、触れられる。
掴もうと思えば、掴める。
そんな不可解な確信だけが、頭の奥に生まれていた。
――奪え。
突然、誰かの声が聞こえた。
ユウキは目を見開く。
――奪ってしまえばいい。
男の背後に、黒い靄のようなものが見えた気がした。
そこから伸びる無数の細い糸が、男の身体へ絡みついている。
一本を掴めば、その力を奪える。
そんな予感がした。
「……っ!」
ユウキは反射的に手を伸ばしかけた。
しかし、すぐに動きを止める。
頭の中に、灰牙狼から技能を奪ったときの記憶が蘇った。
獲物を追う高揚感。
死の間際の恐怖。
そして、先ほど男から身体強化を奪ったときに流れ込んできた、他人を傷つける記憶。
あの感覚は、今でも忘れられない。
もし、このまま無理やり能力を使ってしまったら。
自分は、どうなってしまうのだろう。
「……嫌だ」
ユウキは小さく呟いた。
怖いからではない。
少なくとも、それだけではなかった。
自分の知らない何かに従い、相手のすべてを奪ってしまうことが恐ろしかった。
目の前の男は許せない。
少女を傷つけ、人を物のように扱っている。
それでも、だからといって何をしてもいいわけではないはずだ。
ユウキは奥歯を噛みしめた。
「……俺が決める」
その言葉に、男が眉をひそめる。
「ああ? 何を言ってやがる?」
「……この力を、どう使うかは」
ユウキはゆっくりと顔を上げた。
「俺が、自分で決める」
直後、赤黒い光が大きく揺らいだ。
《強制干渉が中断されました》
《魂蝕値の上昇が停止しました》
《固有権能「略奪」は通常状態へ移行します》
身体を満たしていた不気味な熱が、少しずつ引いていく。
同時に、激しい頭痛が襲ってきた。
「ぐっ……!」
ユウキは思わず地面に手をついた。
視界が歪み、身体から力が抜けていく。
どうやら、何の代償もなく済んだわけではないらしい。
男はその様子を見て、嘲るように笑った。
「なんだ、もう限界かよ。最初から大人しくしてりゃよかったんだ」
男は少女を引き寄せながら、ユウキへ近づいてきた。
その距離が、少しずつ縮まっていく。
五歩。
四歩。
三歩。
ユウキは地面を見つめたまま、必死に考えていた。
力では勝てない。
正面から飛びかかれば、少女が傷つく。
ならば、別の方法を探すしかない。
そのとき、鼻を刺激する強い匂いに気づいた。
汗と革の匂いに混じって、独特の刺激臭が漂っている。
嗅覚強化。
灰牙狼から奪った、最初の技能。
ユウキは意識を集中させた。
男の腰には、小さな革袋がいくつか下がっている。
そのうちの一つから、強い香草のような匂いが漏れていた。
さらに視線を動かすと、少し離れた場所に倒れている男の足元に、棍棒が落ちているのが見えた。
その近くには、乾燥した土と細かな砂利。
使えるものは、それくらいしかなかった。
ユウキは乾いた唇を舐めた。
成功する保証なんてない。
それでも、何もしなければ少女は連れ戻され、自分も殺されるかもしれない。
「……お願いが、あります」
「あ?」
「その子だけは……せめて、殴らないであげてください」
男は呆れたように鼻を鳴らした。
「まだそんなこと言ってんのか。お前、自分の立場がわかってねえだろ」
「……わかってます」
「だったら、余計なことを考えるな」
男の足が、さらに一歩近づいた。
その瞬間、ユウキは少女の目を見た。
少女もまた、こちらを見つめていた。
言葉を交わす余裕はない。
ただ、ユウキは一度だけ小さく頷いた。
そして、地面についていた手で砂を掴んだ。
「……ごめんなさい!」
ユウキは叫びながら、男の顔へ砂を投げつけた。
「うおっ!?」
不意を突かれた男が、反射的に顔を背ける。
目を閉じたその一瞬を、ユウキは逃さなかった。
「今! 逃げて!」
少女が男の腕を振りほどこうとする。
しかし、男の力は強く、簡単には離れなかった。
「この野郎!」
男が怒鳴りながら短剣を振り回す。
ユウキは少女を庇うように飛び込んだ。
鋭い刃が左肩を掠め、焼けるような痛みが走る。
「ぐっ……!」
それでも止まらなかった。
身体強化によって引き出した力を使い、男の短剣を持つ腕へ両手でしがみつく。
「離せ!」
男が暴れる。
ユウキの身体が激しく揺さぶられ、肩の傷がさらに痛んだ。
それでも、ここで手を離すわけにはいかなかった。
少女の首から、刃を遠ざける。
今は、それだけでいい。
「……逃げて!」
ユウキがもう一度叫ぶと、少女はようやく男の腕から抜け出した。
しかし、数歩走ったところで振り返ってしまう。
「ユウキ!」
「いいから、逃げて!」
男がユウキの腹を蹴り上げた。
「がはっ……!」
身体が折れ曲がり、腕の力が緩む。
男はその隙を逃さず、ユウキを地面へ叩きつけた。
「くそガキが!」
背中に衝撃が走る。
呼吸が止まり、視界が白く滲んだ。
次の瞬間、男の足が胸を踏みつけてきた。
「ぐっ……あ……!」
動けない。
身体強化を使用しても、相手の体重を押し返せるほどの力は残っていなかった。
「散々手間かけさせやがって。もう許さねえぞ」
男が短剣を持ち直す。
その刃が、ユウキの顔へ向けられた。
また、あの夜と同じだ。
父親が包丁を振り上げた瞬間の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
逃げられない。
助けてくれる人もいない。
自分には、どうすることもできない。
そんな考えが頭を支配しかけたときだった。
「やめてええっ!」
少女の叫び声が響いた。
直後、男の身体が大きく揺れる。
「ぐあっ!?」
少女が、男の脚に噛みついていた。
必死だったのだろう。
涙を流しながら、男の脚へしがみついている。
「この……奴隷の分際で!」
男は少女を蹴り飛ばそうとした。
その瞬間、ユウキの胸を踏みつけていた足から力が抜けた。
「……っ!」
ユウキは身体を横へ捻り、男の脚を抱え込んだ。
残った力を振り絞って、思い切り引き倒す。
「うおっ!?」
男は体勢を崩し、背中から地面へ倒れ込んだ。
手に持っていた短剣が弾かれ、乾いた音を立てて転がっていく。
ユウキは咄嗟に男の上へ覆いかぶさった。
しかし、拳を振り上げたところで動きが止まる。
目の前には、驚きと怒りを浮かべた男の顔。
今なら殴れる。
何度でも殴れる。
倒した相手を痛めつけることだって、できるかもしれない。
けれど、そうしたくはなかった。
「……もう、やめてください」
ユウキは震える声で言った。
「これ以上、誰も傷つけたくないんです」
男は一瞬だけ動きを止めた。
しかし、その表情はすぐに醜く歪んだ。
「……甘いんだよ、ガキが!」
男の拳が、ユウキの顔へ迫る。
避けることはできなかった。
鈍い衝撃が走り、意識が揺らぐ。
ユウキはそれでも倒れまいと、必死に踏みとどまった。
そして、もう一度拳が振り上げられたとき、少女が落ちていた棍棒を拾い上げた。
「……やめて!」
少女は叫びながら、男の背中へ棍棒を振り下ろした。
「ぐあっ!」
男が苦痛に顔を歪める。
ユウキはその隙に男から離れ、少女の手を掴んだ。
「走って!」
二人は同時に駆け出した。
◇◆◇
木々の間を、二つの影が駆け抜けていく。
ユウキは少女の手を握りながら、必死に足を動かしていた。
身体中が痛む。
左肩からは血が滲み、呼吸をするたびに腹が軋むようだった。
それでも、少女を置いていくという選択肢はなかった。
「……はっ、はっ……!」
少女も苦しそうに息をしている。
何度も転びそうになり、そのたびにユウキが手を引いた。
「……大丈夫?」
「う、うん……!」
少女は小さく頷いた。
しかし、その顔色は悪い。
足元を見ると、少女は靴を履いていなかった。
裸足のまま、石や木の根が散らばる森を走っていたのだ。
「……ごめん、気づかなくて」
ユウキは速度を落とした。
すると少女は、驚いたようにこちらを見上げた。
「……どうして、謝るの?」
「だって、足……痛いでしょ?」
少女は自分の足元を見つめたあと、困惑したように首を傾げた。
「……わたし、奴隷だよ?」
「……うん」
「だから……痛くても、走らないと……」
その言葉に、ユウキは胸を締めつけられた。
少女は、それが当たり前だと思っているのだ。
痛くても我慢すること。
苦しくても逆らわないこと。
自分の気持ちを押し殺し、命令されたことに従うこと。
それが、彼女にとっての日常だったのだろう。
そして、その考え方をユウキはよく知っていた。
「……そんなこと、ないよ」
ユウキは小さく首を振った。
「痛かったら、痛いって言っていいんだよ」
少女は何も答えなかった。
ただ、握られた手を不思議そうに見つめていた。
そのとき、背後から男の怒鳴り声が聞こえた。
「逃がすな! 絶対に捕まえろ!」
ユウキの表情が強張る。
どうやら、先ほどの男たちが追いかけてきたらしい。
「……行こう」
再び走り出そうとした瞬間、少女が小さく呻いた。
「……っ!」
足がもつれ、その場に膝をつく。
「大丈夫!?」
ユウキは慌ててしゃがみ込んだ。
少女の足首は赤く腫れ、足の裏にはいくつもの傷ができていた。
このまま走らせれば、さらに悪化してしまうだろう。
「……ごめんなさい」
少女が俯いた。
「わたしのせいで……」
「違うよ」
ユウキはすぐに首を振った。
「君のせいじゃない。無理させた俺が悪いんだ」
少女は何か言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。
ユウキは一瞬迷ったあと、少女の前で背中を向けた。
「……乗って」
「え?」
「背負っていくから」
少女が目を丸くした。
「で、でも……」
「大丈夫。少しは力が強くなったみたいだから」
ユウキはできるだけ明るく言った。
本当は、余裕など少しもなかった。
身体強化の効果はあるものの、戦闘で体力も魔力も消耗している。
少女を背負って走り続けられるかどうかは、自分でもわからない。
それでも、今は少しでも遠くへ逃げる必要があった。
「……ほら、早く」
少女はしばらく戸惑っていたが、やがて恐る恐るユウキの背中へ腕を回した。
その身体は、驚くほど軽かった。
「……ちゃんと、掴まっててね」
「……うん」
ユウキは少女を背負い、再び走り始めた。
木々の間を抜け、少しでも足跡の残りにくい場所を選びながら進んでいく。
しかし、背後から追ってくる男たちの気配は消えなかった。
それどころか、遠くから馬の嘶きまで聞こえてきた。
「……馬?」
ユウキは思わず振り返った。
森の向こうで、複数の人影が動いている。
追手が増えたのだろうか。
もしそうなら、今の自分たちでは逃げ切れないかもしれない。
そんな不安が頭をよぎった瞬間、少女が耳元で小さく呟いた。
「……ユウキ」
「……なに?」
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
ユウキは答えに詰まった。
なぜだろう。
自分でも、うまく説明できなかった。
少女とは今日初めて会ったばかりで、名前すら知らない。
助けたところで、何か見返りがあるわけでもない。
むしろ、関わらなければこんな危険な目に遭わずに済んだかもしれない。
それでも、あのまま置いていくことはできなかった。
「……昔ね」
ユウキは走りながら口を開いた。
「俺も、誰かに助けてほしかったことがあるんだ」
少女は黙って聞いていた。
「でも、誰も来てくれなくて……すごく、怖かった」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
今まで誰にも話したことのない記憶だった。
「だから……同じ思いをしてる人を、放っておけないのかもしれない」
少女の腕に、わずかに力が込められた。
「……ユウキも、奴隷だったの?」
「……違うよ」
ユウキは小さく笑った。
「でも、少しだけ似てるところはあったのかも」
少女はそれ以上、何も聞かなかった。
しばらくの間、二人の間には荒い呼吸と木々のざわめきだけが流れていた。
やがて、少女がぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
ユウキは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……え?」
「……助けてくれて、ありがとう」
背中越しに伝わってくる声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
けれど、その言葉は不思議なくらい温かく、ユウキの胸の奥へ染み込んでいった。
「……うん」
自然と、笑みがこぼれる。
「……どういたしまして」
誰かに感謝されることが、こんなにも嬉しいなんて。
今まで知らなかった。
◇◆◇
その頃、森の別の場所では数人の武装した男たちが集まっていた。
先ほどユウキに倒された奴隷商人の一人が、苛立たしげに地面を蹴りつける。
「くそっ! あのガキ、絶対に許さねえ!」
額に巻かれた布には、血が滲んでいた。
その隣では、棍棒を落とした男が腕を押さえながら不満を漏らしている。
「おい、本当に追うのかよ。たかが奴隷一匹だろ?」
「馬鹿野郎! 商品を逃がしたとなりゃ、俺たちがどんな目に遭うと思ってやがる!」
男は怒鳴ったあと、近くに停められた馬車へ視線を向けた。
馬車の側面には、黒い鳥を思わせる紋章が描かれている。
その前に立っていたのは、ほかの男たちとは明らかに雰囲気の異なる人物だった。
灰色の外套をまとい、腰には細身の剣を下げている。
男は騒ぎ立てる奴隷商人たちを冷たい目で見下ろしていた。
「……それで?」
低い声が響く。
「奴隷一人を連れ戻すために、三人もいて失敗したというのか」
「も、申し訳ありません!」
「相手は?」
「見たことのねえ服を着たガキです! 十代の、黒髪の男で……」
そこまで聞いた瞬間、灰色の外套の男の目が細くなった。
「……黒髪?」
「は、はい!」
「服装は?」
「何というか、妙な服でして……上も下も同じような色の、見たことのない作りでした」
男はしばらく考え込んだ。
そして、静かに尋ねる。
「その少年は、何か特殊な能力を使っていなかったか?」
奴隷商人たちは顔を見合わせた。
「そ、そういえば……」
一人が思い出したように口を開く。
「最初は弱っちいガキだったんですが、途中から急に動きが変わりまして……」
「……ほう」
「倒したはずの仲間が持ってた身体強化と、似たような動きをしてやがったんです」
その言葉を聞いた瞬間、灰色の外套の男の表情が変わった。
ほんのわずかな変化だったが、そこには明確な関心が浮かんでいた。
「……少年を見つけたら、殺すな」
「え?」
「生きたまま捕らえろ。多少傷つけても構わんが、命だけは奪うな」
「で、ですが……」
「二度は言わん」
冷たい声に、奴隷商人たちは慌てて頭を下げた。
灰色の外套の男は、懐から一枚の小さな紙を取り出した。
そこには、複雑な魔法文字とともに、帝国の紋章が刻まれていた。
数日前、帝都から密かに届けられた命令書。
その内容を知る者は、極めて限られている。
――異界より現れし者の所在を確認せよ。
――発見した場合は、最優先で身柄を確保せよ。
男は命令書を握りしめた。
「……まさか、こんな辺境にいるとはな」
小さく呟いた声は、誰の耳にも届かなかった。
◇◆◇
「……はぁっ、はぁっ……!」
ユウキは木の根元に膝をついた。
限界だった。
少女を背負ったまま走り続けたことで、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
身体強化の効果も、いつの間にか薄れていた。
目の前には、見慣れた青白い表示が浮かんでいる。
==============
【STATUS】
名前:ユウキ・コバヤシ
種族:人間(異界者)
年齢:17
ジョブ:無職
レベル:1
HP:9 / 32
MP:1 / 8
【能力値】
STR(筋力):7
VIT(耐久):6
AGI(敏捷):9
MAG(魔力):3
MND(精神):12
DEX(器用):11
【固有権能】
略奪 Lv.1
【技能】
嗅覚強化 Lv.2
身体強化 Lv.2
【称号】
異界からの漂流者
空白の魂
【状態異常】
疲労
出血
魔力消耗
【魂蝕】
魂蝕値:微増
==============
「……まずい、な」
ユウキは苦笑した。
HPは残り九。
MPも、ほとんど残っていない。
これ以上戦うことになれば、今度こそ命を落とすかもしれなかった。
「……ユウキ?」
背中から少女の声が聞こえる。
「……大丈夫?」
「……うん。ちょっと疲れただけ」
嘘だった。
立っているだけでも辛い。
けれど、少女を不安にさせたくなかった。
ユウキはなんとか笑顔を作り、少女をゆっくりと地面へ下ろした。
「……少し、休もうか」
少女は頷いたものの、何かを警戒するように周囲を見回していた。
ユウキも耳を澄ませる。
今のところ、追手の声は聞こえない。
どうやら、少しだけ距離を稼ぐことができたらしい。
「……そうだ」
ユウキは少女へ向き直った。
「まだ、名前を聞いてなかったね」
少女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「……名前?」
「うん。俺はユウキって言うけど、君は?」
少女は俯いた。
しばらく何かを迷っている様子だったが、やがて小さく口を開いた。
「……リナ」
「……リナ?」
「……うん。リナ、って呼ばれてた」
その言い方が、ユウキには少し気になった。
呼ばれていた。
まるで、その名前が自分のものではないかのような言い方だった。
「……いい名前だね」
ユウキがそう言うと、リナは困惑したように瞬きをした。
「……そう、かな」
「うん。俺は好きだよ」
リナは少しだけ頬を赤くし、俯いた。
その様子に、ユウキは思わず微笑んだ。
初めて見せてくれた、年相応の反応だった。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
――パキッ。
背後から、小枝の折れる音が聞こえた。
ユウキは反射的に振り返った。
木々の向こうに、人影が見える。
一人。
二人。
いや、もっと多い。
「……っ!」
ユウキは立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らない。
膝が折れ、再び地面に手をついてしまう。
「……ユウキ!」
リナが駆け寄ってくる。
その瞬間、茂みの向こうから男たちが姿を現した。
先ほどの奴隷商人たちだった。
しかし、今度は人数が違う。
少なくとも六人。
そして、その後ろには灰色の外套をまとった男が立っていた。
「……見つけたぞ」
奴隷商人の一人が、憎々しげに笑った。
ユウキはリナを庇うように腕を広げた。
「……来ないで、ください」
声が震える。
もう、戦えるだけの力は残っていなかった。
それでも、リナを守ろうとする気持ちだけは消えていなかった。
「……お願いです。この子だけは……」
「黙れ」
灰色の外套の男が、静かに告げた。
その声を聞いた瞬間、ユウキの背筋に冷たいものが走った。
怒鳴られたわけではない。
脅されたわけでもない。
ただ一言。
それだけで、身体が動かなくなるような圧迫感があった。
「……なるほど」
男はユウキを上から下まで眺めた。
「確かに、妙な格好をしているな」
ユウキは何も答えられなかった。
「少年、名前は?」
「……ユウキ」
「ユウキ、か」
男はその名を繰り返し、わずかに口元を緩めた。
「聞きたいことがいくつかある。大人しく同行してもらおう」
「……どこへ?」
「それは、お前が知る必要のないことだ」
男が片手を上げた。
すると、周囲の武装した男たちが一斉に動き出した。
ユウキは逃げようとした。
だが、身体が言うことを聞かない。
あっという間に両腕を掴まれ、地面へ押さえつけられた。
「……ぐっ!」
「ユウキ!」
リナが叫ぶ。
少女もまた別の男に捕まり、腕を後ろへ捻り上げられていた。
「……やめて!」
ユウキは必死に声を上げた。
「その子に、乱暴しないで……!」
灰色の外套の男は、その様子を黙って見下ろしていた。
「……他人の心配をしている場合か?」
男の言葉に、ユウキは顔を上げた。
「お前は今、自分がどんな状況に置かれているのかわかっているのか?」
ユウキは答えられなかった。
わかっている。
逃げられない。
戦えない。
また、誰かの力によって自由を奪われようとしている。
それでも。
「……その子は、悪くないんです」
ユウキは絞り出すように言った。
「だから……せめて、怪我だけはさせないでください」
灰色の外套の男は、しばらくユウキを見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
「……奇妙な少年だ」
男は背を向けた。
「二人とも拘束しろ。少女は元の輸送隊へ戻せ」
「はっ!」
「少年については……」
男は一瞬だけ言葉を止めた。
「まず、鉱山へ送れ。そこで詳しく調べる」
鉱山。
その言葉を聞いたリナの顔から、血の気が引いた。
「……いや」
小さな声だった。
「……鉱山だけは、いや……!」
ユウキはリナを見た。
少女の身体が震えている。
その反応だけで、そこが決して安全な場所ではないとわかった。
「……リナ?」
呼びかけても、少女は答えなかった。
ただ、涙を流しながら首を横に振り続けている。
ユウキは必死に手を伸ばした。
「……大丈夫だから」
拘束された腕が痛む。
それでも、少女へ届くように指先を伸ばす。
「……俺が、なんとかするから」
その言葉に、リナは顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、まっすぐにユウキを見つめる。
しかし、二人の手が触れることはなかった。
男たちによって引き離され、別々の方向へ連れていかれたからだ。
「……ユウキ!」
「……リナ!」
叫び声が、森に響いた。
そして次の瞬間。
ユウキの後頭部に、強い衝撃が走った。
「……っ!」
視界が大きく揺れる。
膝から力が抜け、身体が崩れ落ちた。
薄れていく意識の中、最後に見えたのは、泣きながら自分の名前を呼ぶ少女の姿だった。
――ごめん。
守るって、言ったのに。
ユウキは心の中で謝った。
そして、意識は暗闇へと沈んでいった。
◇◆◇
目を覚ましたとき、ユウキは冷たい鉄の感触を感じていた。
手首には重い枷。
足首にも、太い鎖が巻かれている。
身体を動かそうとすると、金属が擦れ合う音が響いた。
「……ここは……?」
薄暗い空間。
湿った土の匂い。
遠くから聞こえる、何かを打ちつけるような音。
そして、鼻を刺激する汗と血の匂い。
ユウキはゆっくりと顔を上げた。
そこは、石壁に囲まれた狭い牢のような場所だった。
鉄格子の向こうには、松明の明かりが揺れている。
周囲には、同じように鎖で繋がれた人々がいた。
痩せ細った男。
傷だらけの老人。
虚ろな目で壁を見つめる少年。
誰も、ユウキに話しかけようとはしなかった。
「……リナ」
ユウキは少女の名前を呼んだ。
返事はない。
「……リナ、どこ……?」
周囲を見回す。
しかし、あの少女の姿はどこにもなかった。
胸の奥が冷たくなる。
無事なのだろうか。
怪我をしていないだろうか。
また、あの男たちに酷いことをされていないだろうか。
そんな不安が次々と押し寄せてくる。
そのとき、隣からしゃがれた声が聞こえた。
「……おい、新入り」
ユウキが振り返ると、壁にもたれかかっていた老人がこちらを見ていた。
長く伸びた白髪。
深く刻まれた皺。
痩せ細った身体には、いくつもの古い傷が残されている。
「……はい?」
ユウキが返事をすると、老人は小さく鼻を鳴らした。
「ここに来たばかりか?」
「……たぶん、そうです」
「そうか」
老人はそれだけ言うと、再び目を閉じた。
ユウキは迷った末、恐る恐る尋ねた。
「……あの、ここはどこなんですか?」
老人はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、諦めにも似た暗い光が宿っていた。
「……灰の鉱山だ」
「……灰の、鉱山?」
「ああ。生きて出られる者など、ほとんどいない場所さ」
老人は乾いた笑みを浮かべた。
「ようこそ、坊主」
そして、静かに告げる。
「……ここがお前の、新しい地獄だ」
ユウキは言葉を失った。
日本で過ごした十七年間。
あの家から逃げ出し、ようやく自由になれると思った。
見知らぬ世界に転移し、恐ろしい魔物と戦い、それでも生きることを諦めなかった。
少女を助けたいと願い、初めて自分の意思で誰かに立ち向かった。
その結果が、これなのだろうか。
また、閉じ込められる。
また、自由を奪われる。
また、誰かに怯えながら生きなければならない。
そんな考えが浮かび、ユウキは俯いた。
だが、しばらくして。
ゆっくりと顔を上げた。
手首の枷を見つめる。
冷たく、重い鉄の輪。
今の自分には、これを壊す力はない。
逃げ出す方法もわからない。
けれど。
――まだ、生きている。
ユウキは小さく息を吸った。
どれほど理不尽な目に遭っても、生きてさえいれば、何かを変えられるかもしれない。
今は弱くても、いつか強くなれるかもしれない。
そして、もしもう一度リナに会えたなら。
今度こそ、あの小さな手を離さずにいたい。
「……諦めない」
ユウキは誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
老人が片目を開け、何かを言いかけたが、結局何も言わずに目を閉じた。
薄暗い牢の中、ユウキは自分の手を見つめた。
その手にはまだ、何もない。
けれど、胸の奥にはひとつだけ、確かなものが残っていた。
誰かを守りたいという、幼い頃から失わずにいた願い。
奪う力を手に入れても、その願いだけは変わらなかった。
ユウキは冷たい石壁にもたれ、静かに目を閉じた。
――どんな場所に連れてこられても、俺はもう、自分の人生を諦めたくない。
その決意が、やがて灰の鉱山に眠る秘密を揺るがす最初の一歩になることを、このときのユウキはまだ知らなかった。
――第4話 完。




