第43話 旧採石道に潜む影
リーヴェルの東門が開かれたばかりの早朝、ユウキたちは町の外へ続く街道を歩いていた。
夜の冷たさが残る空気には湿った土と草の匂いが混じり、道の両側に広がる草原では、朝露をまとった葉が陽光を受けて淡く輝いている。遠くには緩やかな丘陵と灰色の岩山が連なり、その麓へ向かって一本の道が伸びていた。
今日の目的地は、旧採石道。
かつて石材の運搬に使われていた古い道で、近頃になって魔物の目撃情報が増えているという。
ネクシアが受注したのは、その周辺に生息する魔物の種類と行動範囲を調べ、指定された鉱石試料を持ち帰る調査・採取依頼だった。
基本報酬は銀貨三枚。
決して大きな金額ではないが、今の四人にとっては貴重な収入になる。
何より、これは冒険者ギルドが正式に受け付けた仕事だ。
ユウキは腰に下げたショートソードの柄へ手を添えた。
昨日、ガルドの店で購入した九級の片手剣。
柄の太さや重心は以前借りていた剣と少し異なるものの、何度か構えを確かめたおかげで、ようやく手に馴染み始めていた。
胸には革製の胸当てを装着している。腕を動かすたびに革の縁が服へ触れる感覚があり、何も身につけていなかった頃と比べれば多少の窮屈さを感じるが、それでも身体を守る装備があるという安心感は大きかった。
「ねえ、ユウキ」
隣を歩くトーマが、腰に下げた二本の短剣を軽く叩いた。
「今日こそ、ちゃんと活躍したいな」
「前の迷宮でも、十分活躍してたと思うけど」
「そうかな。でもさ、あのときは動くだけで精一杯だったし、せっかく新しい短剣を買ったんだから、もっと上手く使えるようになりたいんだ」
トーマは笑いながら答えたが、その視線には以前より真剣なものが宿っていた。
灰脈の迷宮で戦った岩穿ち鼠。
そして、撤退を余儀なくされた岩牙獣。
あの経験は、トーマにとっても大きな意味を持っていたのだろう。
「戦闘経験を積むことは大切だが、今日は討伐依頼じゃないからな」
前を歩いていたバルドが、肩越しに振り返った。
左腕には新しく購入した木鉄盾が固定され、胸には鉄板で補強された革製の防具を身につけている。バルドは時折、盾を固定する革帯の位置を確かめながら歩いていた。
「わかってるよ。魔物を見つけても、まずは調査だよね」
「そうだ。戦わずに済むなら、それに越したことはない」
バルドがそう答えると、後ろを歩いていたドランも口を開いた。
「それに、装備を新しくしたばかりだ。実戦で問題がないか確かめる必要はあるが、無理な使い方をするべきではない」
ドランは片手鎚を腰に下げ、背中には採掘道具と探索用品を詰めた革袋を背負っていた。
出発前には四人分の水や保存食、灯り、応急手当用品を確認し、必要な道具がすぐ取り出せるよう荷物の配置まで調整していた。
「……まずは、依頼を達成して無事に帰ることですね」
ユウキが答えると、バルドは穏やかに笑った。
「ああ。それが一番だ」
四人は歩調を合わせ、岩山へ続く道を進んでいった。
◇◆◇
町を出てからしばらく歩くと、道の周囲から草原が減り始め、代わりに大小さまざまな岩が目立つようになった。
道幅も徐々に狭くなり、馬車がすれ違えるほどの広さがあった街道は、やがて荷車一台が通れる程度の古い運搬路へと変わっていく。
分岐の近くには、風雨にさらされて文字が薄れた木製の標識が立っていた。
ドランは足を止め、革袋から地図を取り出す。
「……ここだな。こちらが旧採石道だ。依頼の指定区域は、この先にある古い採石場の周辺までになっている」
ユウキは標識の向こうへ目を向けた。
道の左側には切り立った岩壁が続き、右側には緩やかな斜面が広がっている。岩壁には、かつて人の手で石を切り出したと思われる跡が残っており、ところどころに古い木材が突き出していた。
地面には砕けた石が散らばり、雑草の間からは荷車の轍らしい窪みが覗いている。
ユウキは周囲を見渡しながら、灰の鉱山で過ごした日々を思い出した。
岩肌に残る採掘の跡。
乾いた石の匂い。
足元で砕ける小石の感触。
どれも、あの頃を思い起こさせるものだった。
けれど、決定的に違うことがある。
今は鎖に繋がれていない。
誰かに命じられ、無理やり働かされているわけでもない。
自分たちの意思で、この場所へ来ている。
「……ユウキ?」
不意にトーマが声をかけてきた。
「大丈夫? ちょっと顔が怖いよ」
「あ……ごめん。少し昔のことを思い出してた」
ユウキが苦笑すると、トーマは一瞬だけ表情を曇らせた。しかし何も言わずに隣へ並び、軽く肩を叩く。
「……今は、みんな一緒だからね」
その言葉に、ユウキは小さく頷いた。
「うん。ありがとう」
前方ではバルドが岩壁の状態を確認し、ドランが地図を見ながら進行方向を確かめている。
二人の背中を見つめると、自然と胸の奥が温かくなった。
ネクシア。
四人の繋がりを意味する名前。
ユウキはその言葉を胸に刻み、再び歩き始めた。
◇◆◇
「……待て」
しばらく進んだところで、バルドが足を止めた。
その声に、後ろを歩いていた三人もすぐに動きを止める。
バルドは道の脇へしゃがみ込み、地面に散らばる小石を指先で静かに避けた。
「どうしたんですか?」
ユウキが尋ねると、バルドは土の上に残された窪みを指さした。
「足跡だ。人間のものじゃない」
そこには、前方へ向かって続くいくつもの足跡が残っていた。細長い形をした窪みの先端には爪が引っかいたような跡があり、場所によっては地面の表面が新しく削れている。
トーマは腰を落とし、跡を確認した。
「……四本足の動物かな?」
「おそらくな。問題は、これがいつ残されたものかだ」
バルドは土の状態を確かめ、指先で足跡の縁を軽く押した。
「風で崩れた様子が少ない。そう古くはないだろう」
ドランは周囲の地形を確認しながら、足跡が続く方向へ目を向ける。
「この先の岩陰へ向かっているな。獣が休めそうな場所もある」
ユウキは足跡を見つめた。
正確な種類までは判断できない。
そこで意識を集中し、鑑定Lv.2を発動した。
【鑑定結果】
対象:地面に残された足跡
分類:生物痕跡
状態:比較的新しい
推定:
小型から中型の四足歩行生物による痕跡。
備考:
対象の情報が不足しているため、種族の特定には至らない。
「……四本足の生き物みたいです。でも、種類まではわかりません」
「鑑定でも、そこまでは判断できんか」
ドランが呟く。
「はい。相手そのものがいないと、詳しい情報は読み取れないみたいです」
「それでも、手掛かりにはなる」
ドランは足跡の向きを確認すると、地図へ小さな印をつけた。
バルドは地面から立ち上がり、道の先へ視線を向ける。
「まずは様子を見よう。トーマ、あの岩の手前まで行って、向こう側を確認してくれるか?」
前方には、人の背丈を超える大きな岩が突き出していた。その向こう側は、今いる場所からでは見えない。
「わかった」
トーマは短く答え、腰を落として歩き始めた。
足音を立てないよう、転がる小石を避けながら進む。岩の手前まで近づくと、身体を傾け、わずかな隙間から向こう側を覗き込んだ。
数秒後、彼の肩が小さく動いた。
トーマはすぐに身を引き、足音を抑えながら三人のもとへ戻ってくる。
「……いたよ」
声を潜めて告げる。
「何がいた?」
バルドが尋ねた。
「狼みたいな魔物が一匹。何かを食べてる」
ユウキは思わず息を呑んだ。
狼。
昨日、ギルドの掲示板で見た森狼の討伐依頼を思い出す。しかし、まだそうだと決まったわけではない。
「……こっちには気づいてる?」
「今のところは、たぶん。でも、ずっと気づかないとは思わない」
トーマは慎重に答えた。
バルドは岩の位置と周囲の地形を確認した。
左側には岩壁。
右側には斜面。
正面には大きな岩があり、その向こう側に魔物がいる。
もし突然襲われれば、狭い通路で戦うことになってしまう。
「……少し下がろう」
バルドの判断に、四人は頷いた。
◇◆◇
岩から距離を取ったところで、四人は改めて周囲を確認した。
そこは道幅が広く、右側には平らな地面が続いている。左側には低い岩壁があり、背後には町へ戻る道が伸びていた。
「ここなら、さっきより動きやすいな」
ドランが呟く。
「ああ。もし襲われても、後退する余地がある」
バルドは盾を構える位置を確かめながら答えた。
ユウキは魔物のいる岩へ視線を向けた。
まだ姿は見えない。
しかし、時折何かを噛み砕くような音が風に乗って聞こえてくる。
「……どうしますか?」
ユウキが尋ねると、バルドは少し考えた。
「依頼は生息調査だ。魔物の種類と場所を確認できれば、それだけでも成果になる」
「じゃあ、戦わずに戻る?」
トーマが尋ねた。
「それも選択肢だ。ただ、今の場所から安全に観察できるなら、もう少し情報を集めてもいい」
ドランが地図を開いた。
「指定区域は、この先まで続いている。魔物の行動を確認してから、進む道を考えよう」
ユウキは静かに息を吸った。
戦闘経験を積みたい。
剣術を磨き、もっと強くなりたい。
それは本当の気持ちだった。
けれど、そのために仲間を危険へ巻き込むわけにはいかない。
「……俺が鑑定してみます」
ユウキが言うと、バルドは頷いた。
「無理のない距離からな」
四人は岩壁沿いに少しだけ前へ進み、岩の隙間から魔物の姿が見える場所を探した。
やがて、灰色の毛皮が見えた。
四本の脚。
細長い鼻先。
鋭い牙。
狼に似た魔物が、小動物の死骸へ顔を埋めている。
ユウキは息を潜め、鑑定Lv.2を発動した。
【鑑定結果】
名称:森狼
種族:魔獣族・狼型
魔物ランク:1
レベル:3
HP:28 / 28
MP:4 / 4
【能力値】
STR(筋力):11
VIT(耐久):8
AGI(敏捷):14
MAG(魔力):2
MND(精神):5
DEX(器用):10
【習得技能】
嗅覚強化 Lv.1
聴覚強化 Lv.1
【生態情報】
群れを形成することがある。
嗅覚と聴覚に優れ、縄張り内への侵入者に警戒行動を取る。
ユウキは表示された情報を素早く確認した。
鑑定は成功している。
森狼のレベルは3。
今の自分と同じだった。
ただし、能力値を見る限り、敏捷は森狼の方が高い。真正面から速さを競えば、不利になる可能性がある。
さらに気になったのは、嗅覚強化と聴覚強化だった。
どちらも周囲の異変を察知する能力だ。
森狼が食事に夢中になっているからといって、油断することはできない。
「森狼です。ランク1、レベル3。敏捷が高くて、嗅覚と聴覚も強化されています」
ユウキが小声で伝えると、バルドの表情が引き締まった。
「……気づかれる可能性が高いな」
「はい。それに、群れを作ることがあるみたいです」
トーマはすぐに周囲へ視線を向けた。
「……一匹だけとは限らないってこと?」
「うん」
ユウキは岩陰や斜面を見渡した。
別の個体が隠れている可能性もある。
鑑定が成功したからといって、周囲の安全まで保証されたわけではない。
そのときだった。
森狼の耳が、ぴくりと動いた。
口元から離れた鼻先が持ち上がり、空気を嗅ぐように左右へ揺れる。
ユウキは息を止めた。
「……気づかれた?」
トーマが小さく呟く。
次の瞬間、森狼が顔を上げた。
黄色い瞳が、まっすぐこちらを捉える。
低い唸り声が、岩陰から響いた。
「……下がるぞ」
バルドが短く指示する。
四人はゆっくりと後退した。
しかし、森狼は食べかけの獲物から離れ、岩の上へ飛び乗った。
背中の毛が逆立ち、口元から鋭い牙が覗く。
「グルルル……!」
喉の奥から響く威嚇の声が、狭い岩場へ反響した。
ユウキは剣を抜き、半身になって構えた。
森狼との距離は、およそ十歩。
向こうが飛びかかってくれば、すぐに間合いへ入る。
「刺激するな。ゆっくり退く」
バルドが盾を構えながら言った。
しかし、森狼は岩の上で身体を低くすると、四人へ向かって跳び下りた。
「来るぞ!」
バルドの声が響いた。
◇◆◇
森狼は地面へ着地すると、その勢いを殺さず右側へ走り出した。
低い姿勢のまま斜面を駆け、バルドの盾を避けるように回り込もうとしている。
「右だ!」
トーマが叫んだ。
バルドは左腕の盾を構えたまま、足の向きを変える。
しかし、森狼はその動きに反応し、急に進路を左へ切り替えた。
小石が跳ね、爪が地面を削る。
ユウキは剣を構えながら、その動きを追った。
速い。
ロックラットとは違い、森狼は相手の動きを確かめながら進路を変えている。正面から力任せに襲いかかるだけではなく、獲物の隙を探しているようだった。
森狼の視線が、ユウキへ向いた。
次の瞬間、魔物は地面を蹴った。
鋭い牙が迫る。
ユウキは反射的に剣を振ろうとしたが、直前で思いとどまった。
今ここで大きく振れば、避けられたあとに無防備になる。
ガルドの言葉が頭をよぎった。
『武技を使えるからといって、間合いを間違えれば空振りする』
ユウキは剣を振る代わりに、半歩だけ後ろへ退いた。
森狼の前脚が地面を蹴り、身体が浮き上がる。
鋭い牙が、ユウキの肩へ迫った。
ユウキは剣を斜めに構え、魔物の進路を塞ぐように刃を向けた。
森狼は空中で身体を捻り、刃を避けようとする。その動きによって飛びかかる方向がわずかに逸れ、灰色の毛皮がユウキの肩の横をかすめた。
着地した森狼はすぐに振り返り、再び牙を剥いた。
ユウキの心臓が激しく鳴る。
あと少し判断が遅れていれば、噛みつかれていたかもしれない。
「ユウキ、無理に追うな!」
バルドの声が響く。
「はい!」
ユウキは深く息を吸い、剣を構え直した。
森狼は距離を取りながら、四人の周囲を回り始めた。
近づいては離れる。
視線を合わせると、わずかに進路を変える。
その動きには、明らかに獲物を見定めるような慎重さがあった。
トーマが短剣を構えた。
「俺が横から牽制する」
「深追いするなよ」
バルドが声をかける。
「わかってる!」
トーマは腰を落とし、森狼の動きに合わせて右側へ移動した。
攻撃を仕掛けるためではない。森狼が自由に回り込めないよう、位置を調整しているのだ。
その動きを見たバルドが、一歩前へ出る。
盾を構え、身体の正面を守る。
「ドラン、左を頼む」
「ああ」
ドランは片手鎚を握り、岩壁側へ位置を取った。
これで森狼の動ける方向は限られた。
正面にはバルド。
右側にはトーマ。
左側にはドラン。
ユウキは少し後ろから、三人の位置を確認する。
ロックラットとの初戦では、目の前の敵を追うだけで精一杯だった。しかし今回は、仲間がどこにいるのかを考える余裕が少しだけ生まれていた。
◇◆◇
森狼が再び動いた。
今度はトーマへ向かって低く走り込む。
トーマは足を引き、真正面からぶつかることを避けた。
しかし、森狼はその動きに反応して急加速し、牙を剥き出しにして飛びかかった。
「……っ!」
トーマは身体を横へ捻り、右手の短剣を斜めに振った。
ザッ!
刃が森狼の肩付近をかすめる。
浅い傷ができたものの、魔物は勢いを失わず、そのままトーマの脇を抜けようとした。
「……しまった!」
トーマの足が小石を踏み、身体がわずかに傾く。
森狼はその隙を逃さず、振り返って牙を向けた。
しかし、次の瞬間。
「堅守!」
バルドが踏み込んだ。
盾術Lv.1の武技。
MPを二消費し、防御姿勢を安定させる。
バルドは盾を斜め前へ構え、飛びかかってきた森狼の身体を受け止めた。
ガンッ!
強い衝撃が左腕へ伝わる。
しかし、足をしっかりと開き、腰を落としていたバルドの姿勢は崩れなかった。
森狼は盾へぶつかった反動で、地面へ落ちる。
「今だ!」
バルドが叫ぶ。
ドランがすでに動いていた。
左側から一歩踏み込み、片手鎚を構える。
狙いは、地面へ着地したばかりの森狼の後脚。
しかし、ドランは武技を使わなかった。
大きく振りかぶれば、魔物に逃げる時間を与えてしまう。今は確実に当てる方が重要だ。
短く鎚を振り下ろす。
ゴッ!
鈍い音が響いた。
「ギャンッ!」
森狼が悲鳴を上げ、後脚を引きずるように身を捻った。
攻撃が命中した。
しかし、魔物はまだ倒れない。
怒りに満ちたような唸り声を上げ、今度はドランへ飛びかかろうとする。
「ドランさん!」
ユウキが叫んだ。
ドランは鎚を引き戻そうとしたが、森狼の動きはそれより速かった。
その瞬間、ユウキは地面を蹴った。
剣を握り、森狼の側面へ回り込む。
今なら間に合う。
しかし、真正面から斬りつければ、ドランを巻き込む危険がある。
ユウキは踏み込みの角度を変え、魔物の右側へ位置を取った。
「こっちだ!」
声を上げ、剣先を森狼へ向ける。
魔物の視線が、一瞬だけユウキへ移った。
そのわずかな隙に、ドランが後退する。
「助かった!」
ドランの声が聞こえた。
ユウキは剣を構え直す。
森狼との距離は、すでに数歩しかない。
次の一撃をどうするか。
考える時間は、ほとんどなかった。
◇◆◇
森狼が低く唸り、ユウキへ向かって地面を蹴った。
鋭い牙。
大きく開かれた口。
身体を低くしたまま、一直線に飛びかかってくる。
ユウキは剣を振ろうとして、直前で動きを止めた。
今、剣を振れば、おそらく相手は避ける。
ならば、まずは動きを止める必要がある。
「トーマ!」
ユウキが叫ぶ。
「右から頼む!」
「わかった!」
トーマはすぐに反応した。
森狼の右側へ走り込み、短剣を前へ突き出す。
しかし、狙いは深い攻撃ではない。魔物が右へ避けられないよう、進路を制限するための牽制だった。
森狼は短剣を警戒し、左へ進路を変える。
そこには、バルドが盾を構えていた。
「逃がさん!」
バルドは通常の防御姿勢で盾を前へ出す。
森狼は咄嗟に止まろうとしたが、勢いを完全には殺せない。
爪が地面を削り、小石が跳ねる。
その瞬間、ドランが背後から鎚を構えた。
「重打!」
魔力が腕へ流れ、鎚を振り下ろす動作が補助される。
消費MPは二。
ドランは狙いを定め、森狼の後脚付近へ打撃を叩き込んだ。
ゴンッ!
先ほどより重い衝撃が響く。
「ギャンッ!」
森狼が大きく体勢を崩した。
前脚が地面を滑り、身体が横へ傾く。
その瞬間だった。
「二段斬り!」
ユウキは踏み込んだ。
剣術Lv.1の武技。
MPが二消費される。
一撃目。
右上から左下へ、斜めに刃を振り下ろす。
ザシュッ!
森狼の肩から脇腹へかけて、剣が深く入り込んだ。
しかし、そこで止まらない。
二撃目。
剣を引き戻し、身体の回転を利用して反対方向へ斬り上げる。
ザンッ!
刃が森狼の胴体を切り裂いた。
「ギャウッ!」
森狼は短い悲鳴を上げ、地面へ崩れ落ちた。
ユウキは剣を構えたまま、数歩後退する。
倒れた魔物は苦しそうに身体を動かしたが、立ち上がることはできなかった。
やがて、その動きも止まった。
岩の間を吹き抜ける風が、草の葉を静かに揺らしている。
「……終わった?」
トーマが低い声で尋ねた。
ドランは慎重に近づき、森狼の様子を確かめる。
数秒後、顔を上げた。
「ああ。死んでいる」
その言葉を聞いて、ユウキはようやく肩の力を抜いた。
◇◆◇
剣を鞘へ収めたあとも、ユウキの心臓はしばらく速く脈打っていた。
今回の森狼は、ロックラットとは違っていた。
こちらの動きを見て進路を変え、隙を見つけるように攻撃してきた。単純な力任せの相手ではなく、獲物を狙う動物としての狡猾さを備えていたのだ。
「……速かったね」
トーマが呟いた。
その額には汗が浮かんでいる。
「うん。何回か危なかった」
ユウキが答えると、バルドは盾の表面を確かめながら口を開いた。
「それでも、前回より落ち着いて動けていたと思うぞ」
「……本当ですか?」
「ああ。全員が自分の役割を意識していた。トーマが横へ回り、ドランが足を止め、ユウキが攻撃を決めた。わしも盾で進路を塞ぐことができた」
ドランは鎚の柄を布で拭きながら、少しだけ眉を寄せた。
「ただし、反省点は多い。トーマは足場を確認しきれていなかったし、わしも最初の打撃のあと、反撃への備えが遅れた」
その指摘に、トーマは足元へ目を向けた。
「……小石を踏んじゃったんだ。逃げようとした瞬間に」
「ああ。短剣使いは敵との距離だけでなく、次に足を置く場所も考える必要がある」
トーマは悔しそうに唇を噛んだが、やがて真剣な表情で頷いた。
「……次は気をつける」
ユウキも自分の剣へ目を落とした。
最初の飛びかかりに対しては、剣を振ることさえできなかった。
しかし、仲間と連携した最後の攻撃では、相手の動きを止めたあとに武技を使うことができた。
その違いは大きい。
「俺も、もっと剣の間合いを覚えたいです」
ユウキが言うと、バルドは穏やかに笑った。
「少しずつ覚えていけばいい。今日の経験も、無駄にはならんさ」
ユウキは静かに頷いた。
そして、倒れた森狼へ視線を向ける。
その身体からは、すでに生命の気配が失われていた。
黄色い瞳は光を失い、先ほどまで鋭く動いていた四肢も、今は地面へ投げ出されている。
その光景を見つめた瞬間。
ユウキの胸の奥で、奇妙な感覚が生まれた。
……あの感覚だ。
灰の鉱山で初めて略奪を使ったときから、何度か経験してきた、魂の奥を細い爪でなぞられるような感覚。
ユウキは無意識に指先を握り締めた。
森狼を鑑定したときの情報が、頭の中に浮かんでくる。
【習得技能】
嗅覚強化 Lv.1
聴覚強化 Lv.1
嗅覚強化。
それは、すでに自分が持っている技能だった。
しかし、聴覚強化は違う。
今の自分にはない能力だ。
もし聴覚強化を習得できれば、周囲の小さな物音や、近づいてくる魔物の気配にも気づきやすくなるかもしれない。
探索を続けるうえで、役立つ可能性は高い。
だが。
ユウキは胸元へ手を添えた。
略奪には、代償がある。
技能を奪うたびに、魂蝕が進む。
それが何を意味するのか、ユウキはまだ完全には理解していなかった。
ただ、技能を奪う瞬間に流れ込む他者の記憶と、胸の奥に残る不快な感覚だけは、今でもはっきり覚えている。
便利な力だからといって、何も考えずに使っていいものではない。
そう思う一方で、ユウキは先ほどの戦闘を思い出していた。
森狼の足音。
小石を踏む音。
仲間の位置。
もし、もっと早く周囲の動きを察知できていたら。
トーマが足場を崩した瞬間にも、より早く反応できたかもしれない。
ユウキは静かに息を吐いた。
力が必要だ。
仲間を守るためにも、自分が生き残るためにも。
しかし、その力を手に入れるために、どこまで代償を支払うべきなのか。
その答えは、まだ見つからなかった。
◇◆◇
「……ちょっと、魔物の様子を確認してきます」
ユウキが声をかけると、バルドは周囲を警戒しながら顔を向けた。
「ああ。ただし、長く留まるなよ。群れが近くにいる可能性もある」
「はい」
ユウキは静かに頷き、森狼のそばへ近づいた。
仲間たちから少し距離を取り、魔物の身体へ膝をつく。
すでに死んでいることは確認されている。
条件は満たされているはずだ。
ユウキは意識を集中した。
自分の魂の奥底へ、静かに手を伸ばすような感覚。
そして、心の中で固有権能の名前を呼んだ。
――略奪。
次の瞬間、視界の奥に青白い文字が浮かび上がった。
【略奪対象を確認】
対象:森狼
状態:死亡
取得可能技能:
・嗅覚強化 Lv.1
・聴覚強化 Lv.1
取得可能数:1
ユウキは表示された二つの技能を見つめた。
嗅覚強化は、すでにLv.2を持っている。
今ここで選ぶ必要はないだろう。
対して、聴覚強化はまだ持っていない技能だ。
周囲の音を敏感に察知できれば、今後の探索で危険を避けやすくなる。
特に、視界の悪いダンジョンでは大きな助けになるかもしれない。
ユウキは小さく息を吸った。
そして、選択する。
――聴覚強化 Lv.1。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
「……っ!」
ユウキは思わず目を閉じた。
視界が暗くなり、そこへ知らない光景が流れ込んでくる。
灰色の岩場。
草の間を走る小さな獣。
遠くから響く足音。
岩陰に身体を伏せ、耳を立てて獲物の動きを追う感覚。
風の向こうから伝わってくる、ごく小さな物音。
それらが断片的な記憶となって、一瞬のうちにユウキの意識へ流れ込んだ。
自分のものではない。
つい先ほどまで、目の前の森狼が感じていた世界だ。
その感覚は、あまりにも生々しかった。
自分が四本の脚で地面を蹴り、岩の間を走っていたかのように錯覚してしまう。
しかし、次の瞬間には記憶が遠ざかり、視界に新たな文字が浮かび上がった。
【略奪成功】
取得技能:聴覚強化 Lv.1
魂蝕値:微増
胸の奥を、冷たいものが撫でたような感覚が走った。
痛みではない。
魔力を消費したときの感覚とも違う。
自分という存在の内側に、何か別のものが少しずつ混ざっていくような、不気味な違和感だった。
ユウキは静かに呼吸を整えた。
これで、新しい技能を一つ手に入れた。
けれど、その力は何の代償もなく得られたものではない。
略奪を使えば使うほど、魂蝕は進んでいく。
その先に何が待っているのか、今はまだわからない。
「……ユウキ?」
少し離れた場所からトーマの声が聞こえた。
顔を上げると、彼は二本の短剣を鞘に収めながら、こちらを見ていた。
「どうしたの? 何かわかった?」
「……うん。もう死んでるみたい」
ユウキはそう答え、ゆっくりと立ち上がった。
略奪のことは、まだ仲間たちには話せない。
胸の奥に残る違和感を押し隠し、三人のもとへ戻る。
その途中だった。
ユウキの耳に、小さな音が届いた。
サラサラと草が擦れ合う音。
岩の隙間を抜ける風。
足元で転がる小石。
そして、仲間たちが装備を動かすたびに生まれる、革や金属の微かな摩擦音。
今までも聞こえていたはずの音が、以前より明確な輪郭を持って感じられる。
ユウキは驚いたように目を見開いた。
……これが、聴覚強化。
世界の音が、少しだけ増えたようだった。
しかし、その変化を喜ぶ気持ちの奥には、拭いきれない不安が残っていた。
自分は、これから先も略奪を使い続けるのだろうか。
もしそうなら、魂はどこまで変わってしまうのだろう。
ユウキはその疑問を胸の奥へ押し込み、静かに仲間たちのもとへ戻った。
◇◆◇
「そういえば、昨日グレンさんが話していた素材のことなんだけどさ」
トーマが倒れた森狼へ視線を向けた。
「これ、持って帰れるかな?」
ユウキは顔を上げた。
魔物の牙、皮、爪。
それらは、武器や防具、錬金術の素材として利用されることがある。
今回討伐した森狼にも、価値のある素材が含まれているかもしれない。
「……取れるかもしれないね」
ユウキが答えると、ドランは森狼の身体を慎重に確認した。
「大きさはそれほどでもない。持ち帰ること自体はできそうだ」
しかし、バルドは周囲へ視線を向けたまま、すぐには答えなかった。
「……ここに長く留まるのは危険だ」
森狼は群れを作ることがある。
今の戦闘音や血の匂いに引き寄せられ、別の個体が近づいてくる可能性もあった。
「素材を回収するにしても、まずは周囲の安全を確かめよう」
バルドの提案に、四人は頷いた。
トーマが少し離れた場所から周囲を警戒している間に、ドランは荷物から布と革紐を取り出した。
「……今回は、無理に解体しない方がいいだろうな」
「グレンさんも、運べるならそのまま持ち帰った方がいい場合があるって言ってましたね」
ユウキが答えると、ドランは頷いた。
「ああ。今のわしらには、解体の知識が足りん」
四人は森狼の身体をできるだけ丁寧に包み、荷物へ固定した。
血や体液がほかの道具に付着しないよう、布を重ねて包み、革紐の位置を調整する。
バルドは重さを確かめ、無理なく運べることを確認してから背負った。
「……さて、依頼はまだ終わっていないぞ」
バルドが言った。
ユウキは依頼書を取り出した。
魔物の生息調査。
指定された鉱石試料の採取。
森狼を一匹確認し、討伐した。
しかし、まだ調査区域の一部しか見ていない。
「……もう少し先まで確認したいですね」
ユウキが言うと、ドランは地図を広げた。
「この先に、古い採石場へ続く分岐があるはずだ。指定された試料の採取地点も、その近くだな」
トーマは周囲を見渡し、短剣の柄を握り直した。
「じゃあ、俺が先を見てくる」
「一人で離れすぎるなよ」
バルドが声をかける。
「わかってる!」
トーマは慎重に歩き始めた。
ユウキも剣の位置を確かめ、三人のあとへ続く。
新しい装備。
初めての本格的な調査依頼。
そして、森狼との戦闘。
少しずつではあるが、自分たちは確かに経験を積んでいる。
そのうえ、ユウキは新たな技能を一つ手に入れた。
聴覚強化Lv.1。
自分の意思で使えるようになった、もう一つの力。
しかし、それを得たことで、魂蝕もまた進んだ。
力を得ることと、何かを失うこと。
その二つが結びついているという事実を、ユウキは静かに受け止めていた。
道の先では、風が岩の隙間を抜け、低い音を響かせている。
その音に混じって。
――カリッ。
ユウキの耳へ、微かな音が届いた。
石を引っかくような、乾いた音。
ユウキは思わず足を止めた。
「……今の音」
トーマが振り返る。
「どうしたの?」
「……何か、聞こえた気がする」
ユウキは耳を澄ませた。
新しく手に入れた聴覚強化が、周囲の音を拾い上げる。
風。
草。
小石。
そして、その奥にある、わずかな違和感。
――カリ、カリッ。
もう一度、聞こえた。
今度は、はっきりと。
ユウキは音のする方向へ顔を向けた。
旧採石道の奥。
古い採石場へ続く、岩壁の向こう側。
何かがいる。
確信に近い感覚が、胸の奥へ広がった。
「……みんな」
ユウキは声を潜めた。
「この先に、何かいます」
三人の表情が変わった。
バルドは盾を構え直し、トーマは短剣へ手を伸ばす。
ドランは地図を閉じ、岩壁の向こうへ視線を向けた。
四人の間に、再び緊張が走る。
旧採石道の探索は、まだ終わっていなかった。
――第43話 完。




