第28話 最後の追跡
エルナの墓に、四輪の白い花が供えられていた。
小屋の裏手にある大きな樫の木。その根元に積み上げられた石の前で、ユウキは静かに手を合わせていた。
夜明けの光が森を照らし始めている。
墓を作ったのはバルドとドランだった。トーマは庭から花を摘み、ユウキはエルナが大切にしていた薬草の苗を、石の脇へ植えた。
長い時間をかけて整えた、小さな墓だった。
「エルナさん」
ユウキは目を閉じた。
「あなたが助けてくれた命、絶対に無駄にしません」
返事はない。
ただ、枝葉を揺らす風が頬を撫でていった。
あの優しい声は、もう聞けない。
温かな手で頭を撫でてもらうこともできない。
それでも、ユウキの胸には確かなものが残されていた。
治癒魔法。
そして、誰かを助けるときには自分のことも大切にするという約束。
ユウキはゆっくりと顔を上げた。
泣きたい気持ちは、まだ消えていない。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
「行こうか」
背後から、バルドが声をかけた。
振り返ると、トーマが涙を拭い、ドランが荷物を背負っていた。
ユウキは頷く。
「はい」
四人は最後にもう一度墓へ頭を下げ、森の奥へ歩き始めた。
◇◆◇
エルナの小屋を離れてから、半刻ほどが過ぎた。
木々の間には細い獣道が続き、ところどころで岩が地表へ顔を出している。
ユウキはバルドの肩を借りながら歩いていた。
エルナの治療によって傷は塞がり始めていたものの、身体にはまだ痛みが残っている。血を失った影響も大きく、少し歩くだけで呼吸が荒くなった。
「休むか?」
バルドが尋ねる。
「もう少し進んでからにしたいです」
ユウキは答えたあと、少し考えて付け加えた。
「でも、無理そうだったら、すぐに言います」
バルドは満足そうに頷いた。
「それでいい」
先頭を歩くドランが、地図を広げた。
それはロイドから渡された、古い山道の地図だった。
「この先に分岐がある。北へ進めば山の尾根、西へ進めば旧街道だ」
「国境はどちらですか?」
ユウキが尋ねる。
「アルヴェイン王国との国境は西だ。ただ、旧街道には帝国の関所がある」
トーマが顔をしかめた。
「関所なんて、絶対通れないじゃん」
「ああ。だから別の道を探す必要がある」
ドランは地図の端を指さした。
「北側の尾根を越えれば、国境を流れる川の上流へ出られるらしい。そこから王国側へ渡る古い道があるという話だ」
バルドが眉をひそめた。
「ずいぶん昔の道だな」
「今も通れるかはわからん」
ユウキは地図を見つめた。
最短距離を進めば、帝国兵に見つかる可能性が高い。
遠回りすれば、自分の体力が持たないかもしれない。
どちらにも危険があった。
それでも、選ばなければならない。
「北へ向かいませんか」
三人がユウキを見る。
「どうしてだ?」
ドランが尋ねた。
「帝国兵は、俺が重傷だと知っています。だから、歩きやすい道を探すと思うんです」
ユウキは地図を指さした。
「でも、俺たちにはバルドさんたちがいます。険しい道でも、協力すれば進めるかもしれません」
トーマが頷いた。
「俺も手伝う!」
しかし、ユウキは続けた。
「もちろん、危険すぎる道なら引き返します。今度は無理をして進むつもりはありません」
ドランは少し考えたあと、頷いた。
「わかった。北へ行こう」
バルドも静かに笑った。
「お前の考えを聞こうと思っとったところだ」
ユウキは少し驚いた。
「俺の?」
「ああ。最近のお前は、よく周りを見るようになったからな」
その言葉に、ユウキは胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の自分なら、誰かが決めてくれるのを待っていただろう。
しかし今は、怖くても自分の考えを伝えられる。
その変化が、少しだけ嬉しかった。
◇◆◇
同じ頃。
エルナの小屋では、帝国兵たちが室内を調べていた。
隊長は寝台の上に残された毛布を見つめ、眉をひそめる。
「つい最近まで、誰かがここで治療を受けていたようだな」
兵士の一人が報告する。
「裏庭に新しい墓があります。亡くなったのは、この小屋の治癒師と思われます」
「そうか」
隊長は短く答えた。
そして、テーブルへ視線を向ける。
そこには、使い終わった包帯と水の入った桶が残されていた。
複数人の生活の痕跡。
そして、急いで荷物をまとめた形跡。
「逃亡者がここにいたのは間違いない」
隊長が呟く。
兵士の一人が尋ねた。
「追跡しますか?」
「ああ。ただし、森の奥では隊列を崩すな」
隊長は地図を広げた。
「西の旧街道には関所がある。負傷者を連れた四人が、わざわざ危険な山道を選ぶとは考えにくい」
その言葉に、兵士たちが頷いた。
「ならば、街道を重点的に調べます」
「そうしろ」
しかし、隊長はすぐに続けた。
「北側にも斥候を出せ。逃亡者がこちらの予想どおりに動くとは限らん」
兵士たちは敬礼し、森へ散っていった。
◇◆◇
昼過ぎ。
ユウキたちは、岩の多い山道へ差しかかっていた。
傾斜は次第に急になり、足元には細かな石が転がっている。
バルドに支えられていても、歩くだけで体力を奪われた。
「もう少しで尾根だ」
ドランが言った。
「そこからなら、周囲を見渡せるはずだ」
トーマは少し先へ進み、木々の間を覗き込んだ。
「何か見える!」
ユウキが顔を上げる。
遠くには、山々が連なっていた。
その向こうに広がる土地が、アルヴェイン王国なのだろうか。
初めてこの世界へ来たとき、ユウキは自分がどこにいるのかさえわからなかった。
森で魔物に襲われ、捕らえられ、灰の鉱山へ連れていかれた。
そして、長い時間を地下で過ごした。
あの頃は、外へ出られる日が来るなんて思えなかった。
しかし今は、国境が近づいている。
ユウキは深く息を吸った。
そのときだった。
――カチリ。
遠くから、小さな金属音が聞こえた。
ユウキは足を止めた。
嗅覚強化が、風に混じる革と油の匂いを捉える。
さらに、足元へ伝わる微かな振動。
複数の人間が、こちらへ向かっている。
「止まってください」
ユウキが声をかけた。
三人がすぐに足を止める。
「どうした?」
バルドが尋ねる。
「前に、人がいます」
ドランが木々の間を確認した。
しばらくして、顔色が変わる。
「兵士だ」
トーマが息を呑んだ。
「どうして、こんなところに……!」
ユウキは周囲を見回した。
右側には急な崖。
左側には岩壁。
そして、正面には尾根へ続く細い道。
引き返すこともできるが、背後から別の追手が来ていないとは限らない。
ユウキは意識を集中させた。
振動感知。
足音は二人。
少し離れた場所に、もう一人いる。
少なくとも三人。
そのとき、前方から声が響いた。
「そこにいるのは誰だ!」
帝国兵だった。
木々の間から、二人の兵士が姿を現す。
その後方には、弓を持った兵士が立っていた。
「動くな!」
先頭の兵士が叫ぶ。
「手首の枷を見せろ!」
ユウキの背筋が冷たくなった。
逃亡者だと気づかれている。
トーマが小さく後退した。
バルドはユウキを庇うように前へ出る。
しかし、ユウキは静かに声をかけた。
「バルドさん、待ってください」
「どうした?」
「まだ、戦わないでください」
ユウキは兵士たちを見つめた。
相手は三人。
こちらは四人だが、まともに戦える者はほとんどいない。
それでも、周囲の地形を使えば、逃げ道を作れるかもしれない。
ユウキは小さく息を吸った。
◇◆◇
「我々は逃亡者を捜索している!」
兵士が叫ぶ。
「素直に従えば、命までは奪わん!」
ユウキはその言葉を聞きながら、足元へ視線を向けた。
細い山道。
右側の崖へ向かって傾いた地面。
そして、岩壁の上部には大きな石がいくつも露出している。
鑑定を使う。
【鑑定結果】
名称:北部山道・崩落斜面
状態:不安定
確認情報:
表層の岩石が緩んでいる。
強い衝撃により小規模な落石が発生する可能性あり。
ユウキはすぐに顔を上げた。
落石。
使い方を間違えれば、兵士だけでなく仲間まで巻き込む。
しかし、兵士たちの進路を塞ぐだけなら、可能性はある。
「ドランさん」
ユウキは小声で呼びかけた。
「左の岩壁、見えますか?」
ドランが視線を向ける。
「ああ」
「上の石が緩んでいます。あそこを崩せば、道を塞げるかもしれません」
ドランはすぐに首を振った。
「危険だ。崖まで崩れたら、わしらも落ちるぞ」
「わかっています。だから、兵士の方へ落とすんじゃなくて、道の間に落としたいんです」
ユウキは足元の石を指さした。
「俺たちが少し後ろへ下がってから、あの岩壁の端を叩けば……」
ドランは岩の位置を確認した。
そして、低い声で答える。
「できるかもしれん。ただし、一度きりだ」
ユウキは頷いた。
「お願いします」
ドランは工具袋から鉄製の棒を取り出した。
バルドがユウキとトーマを後方へ下がらせる。
しかし、その動きに兵士が気づいた。
「何をしている!」
先頭の兵士が剣を抜く。
「抵抗するつもりか!」
ユウキは大きな声で答えた。
「戦うつもりはありません!」
兵士たちが足を止める。
「ならば、こちらへ来い!」
「でも、俺たちは鉱山へ戻りたくないんです!」
ユウキは必死に声を張った。
「誰かを傷つけたいわけじゃありません。ただ、自由に生きたいだけなんです!」
兵士の一人が顔をしかめた。
「奴隷が自由を語るな!」
その言葉に、ユウキは胸の奥が熱くなるのを感じた。
怒りだった。
しかし、以前のように怯えて黙り込むことはしなかった。
「俺たちだって、人間です!」
山道に、少年の声が響く。
「怖いし、痛いし、死にたくない。誰かと笑って暮らしたいんです!」
兵士たちは一瞬、言葉を失った。
その隙に、ドランが動いた。
――ガンッ!
鉄棒が岩壁の端へ叩き込まれる。
小さな亀裂が走った。
――ミシッ。
ユウキは足元の振動へ意識を集中させた。
まだ崩れない。
「もう一度!」
ドランが鉄棒を振り上げる。
――ガンッ!
今度は岩の一部が欠けた。
兵士が叫ぶ。
「何をしている!」
弓兵が矢をつがえた。
ユウキは顔を上げた。
「伏せて!」
バルドがユウキとトーマを抱えるように身を低くする。
直後、矢が頭上を通り過ぎ、背後の木へ突き刺さった。
――ドスッ!
トーマが悲鳴を上げる。
その瞬間、ドランが三度目の一撃を加えた。
――ガァン!
岩壁が大きく揺れた。
そして。
――ゴゴゴゴッ!
緩んでいた岩が崩れ始めた。
兵士たちが慌てて後退する。
「落石だ!」
大小の岩が山道へ転がり落ち、砂煙が立ち上った。
ユウキは振動感知で地面の揺れを確かめながら叫んだ。
「今です! 右の木の方へ!」
バルドがユウキを支え、トーマが先に走り出す。
ドランも工具を拾い、三人の後を追った。
背後では、落石が道を塞いでいく。
しかし、そのときだった。
「待て!」
砂煙の向こうから、兵士の一人が飛び出してきた。
落石を避け、狭い岩場を回り込んできたのだ。
剣を抜き、ユウキたちへ向かって走ってくる。
バルドが振り返った。
「先に行け!」
ユウキは首を振った。
「駄目です!」
「だが、このままでは追いつかれる!」
兵士との距離は縮まっていた。
ユウキは必死に周囲を見回した。
木々の間。
倒木。
そして、足元には細かな砂利が積もっている。
兵士は勢いよく走っている。
今なら、足場を崩せるかもしれない。
「トーマ!」
ユウキが叫んだ。
「右の倒木の下にある枝、引っ張れる?」
トーマが振り返る。
「これ!?」
「そう!」
少年は迷わず枝を掴んだ。
倒木の下に挟まっていた枝が抜けると、積み重なっていた小石が一斉に崩れ始めた。
――ザザザッ!
兵士の足元へ砂利が流れ込む。
「なっ……!」
男の足が滑った。
剣を振り上げた姿勢のまま、身体が横へ傾く。
兵士は咄嗟に近くの木へ手を伸ばした。
しかし、指先は届かなかった。
「うわあっ!」
男は斜面を転がり落ちた。
ユウキは息を呑んだ。
崖の下には、岩がいくつも突き出している。
このまま落ちれば、命を落とすかもしれない。
反射的に身体が動きかけた。
助けなければ。
しかし、バルドが肩を掴んだ。
「ユウキ!」
ユウキは振り返った。
「でも、あの人が!」
「お前まで落ちるつもりか!」
その言葉に、ユウキは足を止めた。
自分が飛び込んでも、助けられない。
むしろ、仲間まで危険に晒す。
ユウキは奥歯を噛みしめた。
そして、叫んだ。
「木を掴んでください!」
兵士は斜面を滑りながら、必死に腕を伸ばした。
指先が細い木の幹へ引っかかる。
――ガシッ!
男の身体が止まった。
しかし、足元は不安定なままだ。
「そのまま動かないで! 仲間が来るまで待ってください!」
ユウキが叫ぶ。
兵士は驚いたように顔を上げた。
自分を追っていた奴隷が、命を助けようとしている。
理解できないという表情だった。
そのとき、砂煙の向こうから別の兵士の声が聞こえた。
「大丈夫か!」
ユウキは顔を上げた。
仲間の兵士たちが近づいている。
「助けが来ました!」
ユウキはそう叫び、バルドへ向き直った。
「行きましょう!」
バルドは頷いた。
「ああ!」
四人は再び森の奥へ走り出した。
◇◆◇
山道を抜けた頃には、日が大きく傾いていた。
ユウキは岩陰へ腰を下ろし、荒い呼吸を繰り返していた。
胸が痛む。
脇腹も、まだ完全には治っていない。
しかし、追手の姿は見えなかった。
ドランが周囲を確認し、静かに頷く。
「ひとまず、振り切ったようだな」
トーマが地面へ座り込んだ。
「もう、駄目かと思った……」
バルドも深く息を吐いた。
「よくやったな、二人とも」
ユウキは首を振った。
「みんなが動いてくれたからです」
その言葉に、バルドは小さく笑った。
「そうだな」
ユウキは自分の手を見つめた。
兵士を倒すことはできなかった。
しかし、殺さずに逃げることはできた。
相手が敵であっても、命を奪わずに済む道を探せた。
それは、エルナが教えてくれたことでもあった。
誰かを救いたいなら、自分のことも大切にする。
そして、目の前の命を軽く扱わない。
ユウキは静かに息を吐いた。
「エルナさん」
小さく呟く。
「俺、少しはできたでしょうか」
返事はなかった。
ただ、森を抜ける風が優しく頬を撫でた。
◇◆◇
夕暮れ。
ドランは岩の上へ立ち、遠くを指さした。
「見ろ」
ユウキたちが顔を上げる。
山々の向こうに、広い川が見えた。
その流れは谷を横切り、夕日に照らされて赤く輝いている。
「あれが……」
ユウキが呟く。
ドランは頷いた。
「アルヴェイン王国との国境を流れる川だ」
トーマの目が輝いた。
「じゃあ、もう少しで帝国から出られるんだ!」
「ああ。ただし、簡単には渡れん」
ドランは地図を広げた。
「上流に、昔使われていた石橋があるらしい。だが、今も残っているかはわからん」
バルドが静かに頷いた。
「確かめるしかないな」
ユウキは遠くの川を見つめた。
あの向こうには、帝国とは違う国がある。
そこへ辿り着けば、少なくとも鉱山の奴隷として働かされる日々からは離れられるかもしれない。
けれど、手首にはまだ枷が残っている。
完全な自由には、あと一歩届いていない。
ユウキは静かに拳を握った。
「必ず、渡りましょう」
三人がユウキを見る。
「誰も置いていかずに」
バルドが笑った。
「ああ。もちろんだ」
トーマも頷く。
「絶対に四人で渡ろう!」
ドランは小さく息を吐いた。
「なら、今夜はここで休む。明日の朝、橋を探すぞ」
ユウキは頷いた。
長い逃亡も、終わりが近づいている。
そう思ったときだった。
胸の奥で、略奪の権能が微かに震えた。
《未知の魂魄反応を検出》
《対象方向:南東》
《固有権能「略奪」との共鳴を確認》
ユウキは息を呑んだ。
南東。
灰の鉱山がある方向だ。
まさか、あの黒い影がまだ自分を追っているのだろうか。
そのとき、頭の奥にかすかな声が響いた。
『ユウキ』
少女の声だった。
ユウキは目を閉じた。
『逃げて』
声は、以前よりも遠く感じられた。
『でも、忘れないで』
ユウキは静かに尋ねた。
「何を?」
しばらく沈黙が続いた。
そして、少女が小さく答えた。
『私たちは、まだ繋がっている』
その言葉を最後に、声は消えた。
ユウキは目を開けた。
夕焼けに染まる国境の川。
その向こうには、まだ知らない世界が広がっている。
しかし、自分の過去も、灰の鉱山で出会った人々も、消えたわけではない。
リナ。
エルヴィン。
そして、第三坑道の少女。
いつか、彼らと向き合う日が来るのだろう。
ユウキは静かに息を吸った。
今は、前へ進もう。
誰かを救うためにも。
自分自身が、生きるためにも。
夜の帳が、ゆっくりと森へ降りていった。
――第28話 完。




