第27話 託された祈り
朝になっても、エルナは寝台から起きてこなかった。
いつもなら誰より早く目を覚まし、暖炉へ薪をくべ、庭の薬草を眺めながら朝の支度を始める。
しかし、その日は違った。
ユウキが居間へ出ると、台所にはバルドが立っていた。トーマは鍋の中を覗き込み、ドランは窓際から外を見張っている。
「エルナさんは?」
ユウキが尋ねると、バルドは手を止めた。
「まだ眠っておられる」
「具合が悪いんですか?」
「昨夜から、少し疲れが強いようだ」
ユウキは奥の部屋へ目を向けた。
前日、エルナは治癒魔法について多くのことを教えてくれた。昔の話もしてくれたし、夕食のときにはトーマの冗談に声を上げて笑っていた。
だからこそ、急に起きられなくなったと聞いて、不安が胸に広がった。
「様子を見てきてもいいですか?」
「ああ。ただし、お前も無理はするなよ」
ユウキは頷き、壁に手をつきながら奥の部屋へ向かった。
治療のおかげで歩ける程度には回復していたが、身体を急に動かすと傷が痛む。何度か立ち止まりながら扉の前へ辿り着き、静かに声をかけた。
「エルナさん、ユウキです。入ってもいいですか?」
「おや、ユウキかい。いいよ、お入り」
いつもの優しい声だった。
しかし、少し弱々しく聞こえた。
扉を開けると、エルナは窓際の寝台に横たわっていた。
白い髪が枕へ広がり、顔には深い皺が刻まれている。頬は昨日よりも痩せて見え、呼吸も浅かった。
それでも、ユウキを見ると穏やかに微笑んだ。
「おはよう。もう歩けるようになったんだね」
「はい。エルナさんのおかげです」
「それはよかった」
ユウキは寝台の横へ椅子を寄せた。
「エルナさんは、具合が悪いんですか?」
エルナは少し考え、静かに首を振った。
「痛いところがあるわけじゃないんだよ。ただ、身体がずいぶん重くてねえ」
「治癒魔法では、治せないんですか?」
その問いに、エルナは優しく笑った。
「ユウキ。昨日話したことを覚えているかい?」
「魔法でも、何でも治せるわけじゃないって……」
「そうだよ」
エルナは窓の外へ目を向けた。
「長く生きた身体には、少しずつ終わりが訪れる。傷や病気とは違って、それは治さなければならないものではないんだ」
ユウキは黙り込んだ。
エルナが何を言おうとしているのか、理解したくなかった。
「そんなこと……」
言葉が続かない。
エルナはゆっくりと手を伸ばし、ユウキの指先へ触れた。
「そんな顔をしないでおくれ。私は十分に生きたよ」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「嬉しいことも、悲しいことも、たくさんあった。誰かを救えた日もあれば、どうしても助けられなかった日もある。それでも、悪い人生ではなかったと思っているんだ」
ユウキは俯いた。
出会って、まだ数日しか経っていない。
それなのに、エルナと別れることを考えるだけで、胸が苦しくなった。
「俺、もっとエルナさんと話したいです」
ぽつりと呟く。
「魔法のことも、昔の話も、まだ聞きたいことがたくさんあります」
エルナは目を細めた。
「そうかい。それは嬉しいねえ」
「だから……」
ユウキは顔を上げた。
「まだ、元気でいてほしいです」
エルナはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷いた。
「ありがとう、ユウキ」
その一言が、胸に深く染み込んだ。
◇◆◇
昼過ぎ。
帝国兵たちは、薬草採りの道の入口へ到着していた。
隊長は地面に残された足跡を確認し、木々の奥を見つめる。
「ここで間違いないな」
兵士の一人が頷く。
「複数人の足跡があります。途中から一人を支えて歩いたような跡も」
「逃亡者たちだろう」
隊長は地図を広げた。
道の先には、一軒の小屋が記されている。
高齢の治癒師が暮らしているという場所だった。
「負傷した少年を連れているなら、治癒師を頼るのは自然だ」
兵士たちが剣を確かめる。
しかし、隊長はすぐに制した。
「武器を抜くな。相手は年寄りの治癒師だ。無用な騒ぎを起こせば、周辺の住民まで敵に回すことになる」
「ですが、逃亡者が抵抗した場合は?」
「そのときは拘束しろ。ただし、黒髪の少年は必ず生かせ」
兵士たちは頷いた。
隊長は森の奥へ視線を向けた。
その表情には、焦りが浮かんでいた。
鉱山から届いた新たな命令。
異界人の少年を最優先で確保せよ。
それだけでなく、第三坑道の異変についても、口外を禁じる通達が出されていた。
何かが起きている。
しかも、通常の逃亡事件とは比べものにならない事態らしい。
「急ぐぞ」
隊長が命じた。
兵士たちは慎重に森の奥へ進み始めた。
◇◆◇
小屋では、ドランが作業台の上に道具を並べていた。
エルナの許可を得て借りた工具と、鉱山から持ち出した小さな解除具の部品。
その前に座っているのは、バルドだった。
「どうだ?」
バルドが尋ねる。
「簡単ではないな」
ドランは眉をひそめた。
バルドの手首にある魔封石の枷を調べながら、固定具の周囲を指先でなぞる。
「お前の枷は旧式だ。解除できる可能性はある。ただし、無理に開けば術式が反応する危険もある」
「ユウキの枷は?」
「移送用の認証がかかっている。今の道具では、手を出さない方がいい」
ドランは作業を止め、深く息を吐いた。
「国境を越えたあと、きちんとした設備を探すしかないかもしれん」
バルドは頷いた。
「なら、今は追手から逃げることを考えよう」
そのとき、トーマが駆け込んできた。
「ドランさん!」
「どうした?」
「森の方に、人がいる!」
ドランの表情が変わった。
「兵士か?」
「鎧みたいなのが見えた。三人か四人……もっといるかもしれない!」
バルドが立ち上がる。
「ついに来たか」
ドランはすぐに道具をまとめた。
「裏の薬草採りの道を使うしかない」
しかし、バルドは奥の部屋へ目を向けた。
ユウキはまだ重傷。
エルナも寝台から起き上がれない。
今すぐ全員で森へ逃げることは難しかった。
「どうする……」
バルドが呟いた。
そのとき、奥の部屋からユウキの声が聞こえた。
「バルドさん」
三人が振り返る。
ユウキは扉の横に立っていた。
顔色はまだ悪いが、瞳には確かな意思が宿っている。
「帝国兵が来たんですよね」
バルドが頷いた。
「ああ。だが、お前はまだ動くな」
「わかっています」
ユウキは静かに答えた。
「だから、まずエルナさんに相談しましょう」
ドランが顔を上げる。
「エルナさんに?」
「はい。ここはエルナさんの家です。勝手に逃げ道を使ったり、兵士を招き入れたりするわけにはいきません」
バルドは少し考え、頷いた。
「そうだな」
四人は、エルナの部屋へ向かった。
◇◆◇
事情を聞いたエルナは、静かに目を閉じた。
「そうかい。とうとう見つかってしまったんだね」
ユウキが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。俺たちのせいで……」
「謝らなくていいよ」
エルナはすぐに答えた。
「私は、自分であなたたちを家へ入れたんだ。誰かに命じられたわけじゃない」
ユウキは顔を上げた。
エルナは穏やかに続けた。
「だから、ここから先も私が決めるよ」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
エルナは窓の外へ視線を向けた。
「裏庭の奥に、昔の薬草保管庫があるのを知っているかい?」
ドランが頷く。
「ああ。小さな石造りの建物だな」
「あそこには、床下の貯蔵室があるんだよ。古いけれど、まだ使えるはずさ」
ユウキは顔を上げた。
「隠れ場所ですか?」
「そうだよ。薬草を乾かしたり、冬の食料を保管したりする場所だったからね。外からは見えにくいんだ」
バルドが頷いた。
「なら、そこへ移動しよう」
しかし、ユウキはすぐに尋ねた。
「エルナさんは?」
エルナは微笑んだ。
「私はここにいるよ」
「でも、兵士が来たら……」
「私はこの森で長く暮らしてきた治癒師だ。訪ねてくる人間も珍しくない」
エルナは静かに続けた。
「それに、今の私を森へ連れ出す方が危険だろう?」
ユウキは唇を噛んだ。
確かに、そのとおりだった。
しかし、エルナを残して隠れることに、強い抵抗があった。
「俺も、ここに残ります」
思わず口にした。
バルドが振り返る。
「ユウキ!」
「エルナさん一人に、危険な役目を任せたくないんです」
その言葉に、エルナは驚いたように目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「ユウキ。それは違うよ」
「え……?」
「あなたがここに残れば、兵士はあなたを捕まえる。そうなれば、私が助けた意味がなくなってしまう」
ユウキは黙り込んだ。
「私があなたたちを守ろうとしているのは、あなたたちに生きてほしいからなんだよ」
エルナは優しく微笑んだ。
「だから、私の願いも少しは聞いておくれ」
ユウキは拳を握りしめた。
誰かを守りたい。
その気持ちは本物だった。
しかし、相手が自分の意思で何かを選んだとき、それを否定することが正しいとは限らない。
エルヴィンのときも、そうだった。
自分の思いだけを押しつけてはいけない。
ユウキは静かに頷いた。
「わかりました」
エルナは安心したように笑った。
「いい子だね」
◇◆◇
日が傾く頃。
小屋の扉が、三度叩かれた。
――コン、コン、コン。
「帝国軍の者だ。少し話を聞きたい」
エルナは寝台からゆっくりと身体を起こし、杖を手に取った。
立ち上がるまでに時間がかかったが、焦る様子はなかった。
扉へ向かう途中、何度か壁へ手をつきながら歩く。
そして、静かに扉を開けた。
「はいはい。こんな森の奥まで、何の用だい?」
外には、帝国兵が四人立っていた。
先頭の隊長が、礼儀正しく頭を下げる。
「突然失礼する。この辺りで逃亡者を捜索している」
「逃亡者?」
「ああ。鉱山から逃げた奴隷が四人いる。黒髪の少年を含む一団だ」
エルナは少し首を傾げた。
「そうかい。物騒な話だねえ」
隊長は小屋の中へ視線を向けた。
「負傷者が治療を求めて訪ねてくる可能性がある。最近、見知らぬ者を診なかったか?」
エルナはしばらく黙っていた。
その間、床下の貯蔵室では、ユウキたちが息を潜めていた。
薄暗い空間。
乾燥した薬草の匂い。
そして、頭上から聞こえる足音。
ユウキは膝を抱え、静かに耳を澄ませていた。
エルナの声が聞こえる。
「この森には、怪我をした人がときどき来るよ」
隊長が尋ねる。
「黒髪の少年は?」
「さてねえ。私は最近、目も悪くなってきているから」
エルナは穏やかに答えた。
「それより、あなたたちもずいぶん疲れているようだね。水くらい飲んでいくかい?」
隊長は一瞬言葉を失った。
しかし、すぐに首を振る。
「結構だ。任務中なのでな」
兵士の一人が小屋の周囲を確認する。
薬草の並ぶ庭。
薪置き場。
そして、裏手の古い保管庫。
兵士は保管庫へ近づこうとした。
そのとき、エルナが声をかけた。
「そちらには、乾燥中の薬草があるよ。踏み荒らさないでおくれ」
兵士が足を止める。
隊長は少し考えたあと、静かに命じた。
「外回りだけ確認しろ。家の中は、本人の許可なく荒らすな」
兵士たちは頷いた。
エルナは穏やかに笑った。
「ありがとう。助かるよ」
隊長はもう一度、エルナを見つめた。
その顔色は悪く、身体も弱っているように見える。
この状態の人間が、逃亡者を遠くへ運んだとは考えにくい。
しかし、疑いが完全に消えたわけではなかった。
「もし何か思い出したら、最寄りの駐屯所へ知らせてほしい」
「覚えておくよ」
エルナは頷いた。
やがて兵士たちは小屋を離れ、森の中へ戻っていった。
◇◆◇
足音が遠ざかったあと、エルナはゆっくりと扉を閉めた。
そして、その場で深く息を吐いた。
杖を握る手が震えている。
足元が少しふらつき、壁へ手をついた。
「ふう……」
緊張が解けたせいだろうか。
身体から力が抜けていく。
エルナはしばらく立ち尽くしたあと、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
その頃、ドランたちは保管庫の床下から外へ出ていた。
周囲に兵士の姿がないことを確かめ、急いで小屋へ戻る。
「エルナさん!」
真っ先に駆け寄ったのはユウキだった。
エルナは椅子に座ったまま、穏やかに微笑んだ。
「おや、お帰り」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。少し疲れただけさ」
しかし、その顔色は明らかに悪かった。
ユウキは不安になった。
自分を助けるために、無理をさせてしまったのではないか。
「エルナさん、ごめんなさい……」
思わず謝ると、エルナは静かに首を振った。
「また謝っているねえ」
ユウキは言葉を止めた。
エルナは優しく続けた。
「私は、自分で決めたんだよ。だから、あなたが背負う必要はない」
その言葉に、ユウキは俯いた。
エルナはそっと手を伸ばし、少年の頬へ触れた。
「それにね、私はあなたたちに出会えて嬉しかったんだ」
ユウキは顔を上げた。
「どうしてですか?」
「長いこと、一人で暮らしていたからねえ。久しぶりに家の中が賑やかになって、楽しかったよ」
その声には、嘘がなかった。
トーマが目を潤ませる。
バルドも静かに頷いた。
ドランは何も言わず、エルナが座る椅子の横へ水を置いた。
エルナはそれを一口飲み、穏やかに笑った。
「ありがとうね」
◇◆◇
その夜。
エルナはユウキを自分の部屋へ呼んだ。
寝台の横には、小さな木箱が置かれている。
エルナはその蓋を開け、一冊の古い本を取り出した。
「ユウキ。これを受け取っておくれ」
差し出されたのは、治癒魔法の記録だった。
長い年月をかけて書き込まれた、エルナの人生そのものともいえる一冊。
ユウキは驚いた。
「そんな大切なもの、受け取れません」
エルナは小さく笑った。
「いいんだよ。私が持っていても、もう使う機会は多くないからね」
ユウキは本を見つめた。
その表紙には、何度も触れられた跡が残っている。
「でも……」
「ユウキ」
エルナは静かに名前を呼んだ。
「あなたに、一つ聞いてもいいかい?」
「はい」
「あなたの持っている、特別な力のことだよ」
ユウキの心臓が大きく跳ねた。
エルナは穏やかな表情のまま続けた。
「昨日、あなたが眠っている間に、少し不思議なことを言っていたんだ」
ユウキは息を呑んだ。
「奪った力を、どう使えばいいのかわからないってね」
胸の奥が冷たくなる。
自分の固有権能。
誰にも簡単には話せない秘密。
その一部を、眠っている間に口にしてしまったらしい。
エルナは静かに尋ねた。
「話せる範囲でいい。聞かせてもらえるかい?」
ユウキはしばらく迷った。
しかし、エルナの瞳には疑いや恐れがなかった。
ただ、少年の言葉を待っている。
ユウキはゆっくりと口を開いた。
「俺には、人から技能を奪う力があります」
エルナは黙って聞いていた。
「ただし、誰からでも奪えるわけじゃありません。相手が死んでいるか、完全に動けなくなっているときだけです」
ユウキは拳を握りしめた。
「しかも、奪われた人は、その技能を失ってしまうんです」
エルナは静かに頷いた。
「そうかい」
「怖くないんですか?」
ユウキが尋ねる。
「こんな力を持っているって知って……」
エルナは少し考えた。
そして、穏やかに答えた。
「力そのものは、少し怖いね」
その言葉に、ユウキは俯いた。
しかし、エルナは続けた。
「でも、あなたのことは怖くないよ」
ユウキは顔を上げた。
「どうして……?」
「あなたが、その力を怖がっているからさ」
エルナは静かに微笑んだ。
「自分が誰かを傷つけるかもしれないと悩める人なら、きっと使い方を考えられる」
ユウキは何も言えなかった。
エルナは古い本を撫でながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「ユウキ。もし、私がこの力をあなたに託したいと言ったら、受け取ってくれるかい?」
ユウキの目が大きく開いた。
「え……?」
「私は、もう長くはない」
エルナは静かに答えた。
「今まで多くの人を助けてきたけれど、これから先はあなたのような若い人たちが未来を作っていくんだろうね」
ユウキは首を振った。
「そんなこと、言わないでください」
しかし、エルナは優しく微笑んだ。
「悲しまないでおくれ。私は、十分に幸せだったんだよ」
そして、少年の手を握った。
「もし私の命が終わったら、この治癒魔法を使っておくれ」
ユウキの胸が締めつけられた。
「でも……」
「あなたが望むなら、でいいんだよ」
エルナは静かに続けた。
「無理に受け取る必要はない。あなた自身が決めなさい」
ユウキは俯いた。
治癒魔法。
誰かを助けられる力。
自分がずっと欲しかったもの。
しかし、それを手に入れるためには、エルナの死を受け入れなければならない。
そのことが、どうしようもなく辛かった。
「俺、エルナさんに生きていてほしいです」
声が震えた。
「治癒魔法が欲しいからって、死んでほしいなんて思いません」
エルナは優しく頷いた。
「ありがとう」
そして、ユウキの手を強く握った。
「だからこそ、あなたに託したいんだよ」
ユウキは顔を上げた。
「もし、私がもうこの力を使えなくなったら、そのときはあなたが誰かを助けておくれ」
エルナの瞳には、穏やかな光が宿っていた。
「奪うことしかできない力だと思っているなら、これからは違う使い方を探してみなさい」
ユウキは涙を堪えながら頷いた。
「……はい」
◇◆◇
深夜。
森は静まり返っていた。
小屋の中では、暖炉の火が小さく揺れている。
エルナは寝台に横たわり、窓の外を見つめていた。
その傍らには、ユウキが座っている。
バルドたちも、少し離れた場所で静かに見守っていた。
エルナの呼吸は、次第に浅くなっていた。
苦しそうな様子はない。
ただ、長い旅を終えようとしている人のように、穏やかな表情をしていた。
「ユウキ」
か細い声が響いた。
「はい」
「一つだけ、覚えておいてほしいことがあるんだ」
ユウキはエルナの手を握った。
「何ですか?」
エルナはゆっくりと微笑んだ。
「誰かを助けるとき、自分のことも大切にしなさい」
その言葉に、ユウキは涙を浮かべた。
「はい」
「あなたにも、幸せになる権利があるんだからね」
ユウキは何度も頷いた。
エルナは満足そうに目を細めた。
「それから……」
少しだけ息を整える。
「あなたが誰かを救えたなら、私にも教えておくれ」
ユウキは顔を上げた。
「どうやって?」
エルナは小さく笑った。
「心の中でいいんだよ」
その言葉に、ユウキの涙がこぼれた。
「わかりました」
エルナは静かに頷いた。
そして、窓の向こうへ視線を向けた。
「今日は、星が綺麗だねえ」
ユウキも窓の外を見た。
夜空には、無数の星が輝いている。
エルナは穏やかに微笑んだ。
「いい夜だ」
その声は、今にも消えそうだった。
ユウキは手を握りしめた。
「エルナさん……」
「ありがとう、ユウキ」
最後に、そう呟いた。
そして、静かに目を閉じた。
呼吸が、ゆっくりと止まる。
長い年月を生き、多くの人を救ってきた一人の治癒師が、穏やかに天寿を全うした。
◇◆◇
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
暖炉の火が、小さく音を立てている。
ユウキはエルナの手を握ったまま、動けずにいた。
温かかった手が、少しずつ冷たくなっていく。
もう、優しい声は聞こえない。
頭を撫でてくれることもない。
ユウキの頬を、涙が伝った。
「エルナさん……」
返事はなかった。
バルドが静かに近づき、少年の肩へ手を置いた。
「ユウキ」
ユウキは顔を上げなかった。
「俺……」
声が震える。
「もっと、話したかったです」
バルドは何も言わず、隣へ腰を下ろした。
トーマは泣きながら、エルナの寝台へ頭を下げている。
ドランも静かに目を閉じた。
しばらくして、ユウキはゆっくりと顔を上げた。
エルナの表情は、眠っているように穏やかだった。
その姿を見つめながら、ユウキは彼女の言葉を思い出した。
『もし私の命が終わったら、この治癒魔法を使っておくれ』
ユウキは震える手を伸ばした。
しかし、すぐには触れられなかった。
力を奪う。
その行為が、彼女との別れを確かなものにしてしまう気がした。
それでも、エルナは願っていた。
自分が誰かを助けることを。
その力を、未来へ繋いでいくことを。
ユウキは涙を拭った。
「エルナさん」
静かに語りかける。
「俺、約束します」
その声は、まだ震えていた。
「この力で、誰かを助けます。でも、自分のことも大切にします」
そして、ゆっくりとエルナの手へ触れた。
◇◆◇
ユウキの視界に、青白い文字が浮かんだ。
《固有権能「略奪」》
《対象の生命活動停止を確認》
《技能抽出条件を満たしています》
《対象から取得可能な技能を検出》
【取得可能技能】
・治癒魔法 Lv.3
・薬草知識 Lv.4
・魔力制御 Lv.2
《略奪 Lv.1:取得できる技能は一つのみ》
ユウキは表示された文字を見つめた。
治癒魔法。
エルナが長い年月をかけて、多くの人を助けてきた力。
それを、自分が受け取ってもいいのだろうか。
迷いはあった。
しかし、エルナの言葉が胸の奥に残っている。
『あなたが望むなら、でいいんだよ』
ユウキはゆっくりと目を閉じた。
そして、心の中で答えた。
受け取ります。
あなたが託してくれたものを、無駄にはしません。
《選択技能:治癒魔法 Lv.3》
《固有権能「略奪」を発動します》
手首の魔封石が鈍く熱を帯びた。
抑制された魔力の流れとは別に、胸の奥で何かが動き始める。
しかし、現れた光は一瞬だった。
淡い緑色の粒子が、エルナの身体から静かに浮かび上がる。
それは雪のように舞い、ユウキの胸へ吸い込まれていった。
その瞬間、無数の記憶が流れ込む。
若い頃のエルナ。
初めて治癒魔法で傷を塞いだ日の喜び。
泣いていた子供が笑顔を取り戻した瞬間。
夫と庭に花を植えた日の夕暮れ。
娘を抱き上げたときの温かさ。
救えなかった人を思い、一人で涙を流した夜。
そして、長い年月をかけて積み重ねてきた、数えきれないほどの出会い。
そのすべてが、一度に胸の奥へ流れ込んでくる。
ユウキは息を詰めた。
頭が割れるように痛む。
視界が揺れ、床へ倒れそうになる。
「ユウキ!」
バルドが身体を支えた。
ユウキは歯を食いしばりながら、流れ込む記憶を受け止める。
それは、エルナの人生だった。
奪った技能に刻まれていた、長い時間の欠片。
やがて光が消え、部屋に静寂が戻った。
《技能取得完了》
《治癒魔法 Lv.3を習得しました》
《魂蝕値が上昇しました》
《警告:魂魄記憶の流入による精神負荷を検出》
ユウキは荒い息を吐いた。
身体は重く、頭の奥にはまだエルナの記憶が残っている。
しかし、胸の奥には確かな感覚があった。
新しい力。
誰かの傷を癒やすための魔法。
ユウキはゆっくりと手を開いた。
魔封石の枷が、微かに冷たく光っている。
技能を得たからといって、すぐに自由に魔法を使えるわけではない。
枷は依然として魔力を抑制し、身体も十分には回復していなかった。
それでも、確かに受け取った。
エルナが長い人生をかけて磨き上げた力を。
◇◆◇
夜明け前。
ユウキはエルナの寝台の傍らに座り、静かに古い本を開いていた。
そこには、彼女の丁寧な文字が並んでいる。
治癒魔法の使い方。
薬草の知識。
そして、患者に向き合うときの心構え。
ユウキは一ページずつ、ゆっくりと読み進めた。
やがて、最後のページに短い言葉が書かれていることに気づいた。
『この力が、誰かの明日を繋ぐものでありますように』
ユウキは、その文字を指でなぞった。
涙が一滴、紙の上へ落ちる。
慌てて拭うと、ユウキは本を胸へ抱きしめた。
「エルナさん」
静かに呟く。
「ありがとうございます」
窓の外では、夜が少しずつ明け始めていた。
ユウキは顔を上げた。
エルナはもういない。
それでも、彼女が残してくれた言葉と力は、自分の中にある。
これから先、何度も迷うことがあるだろう。
誰かを助けられない日もあるかもしれない。
それでも、諦めたくなかった。
ユウキは静かに息を吸った。
「俺、ちゃんと生きます」
その言葉を、誰よりも自分自身へ向けて告げた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
バルドたちが待つ居間へ向かう。
次に何をすべきか、考えなければならない。
帝国の追跡は、まだ終わっていない。
エルナが守ってくれた命を、ここで失うわけにはいかなかった。
ユウキは振り返り、最後にもう一度だけ頭を下げた。
「行ってきます」
その声は、小さいながらも確かだった。
――第27話 完。




