第26話 命を繋ぐ魔法
朝の光が、薬草の並ぶ庭を照らしていた。
窓辺に腰掛けたユウキは、木々の間から差し込む陽光を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。
森の奥にあるエルナの小屋で迎える、二度目の朝。
傷はまだ痛むものの、呼吸をするたびに脇腹が裂けるようだった頃と比べれば、ずいぶん楽になっている。
それでも、立ち上がろうとすると脚が震えた。
「もう少し休んでおいで」
背後から声がした。
振り返ると、エルナが小さな籠を抱えて立っていた。
「おはようございます、エルナさん」
「おはよう、ユウキ。昨夜は眠れたかい?」
「はい。久しぶりに、ゆっくり眠れました」
「それはよかった」
エルナは微笑み、籠をテーブルへ置いた。
中には、摘みたての薬草が入っている。
「今日は傷の具合を見ながら、少しだけ魔法をかけようかね」
ユウキは頷いたが、エルナの足元へ視線を向けた。
杖を握る手が、わずかに震えている。
昨日も治療のあとに疲れた様子を見せていたことを思い出した。
「エルナさん、無理していませんか?」
その問いに、エルナは小さく笑った。
「心配してくれるのかい?」
「もちろんです」
「優しい子だねえ。でも、今はあなたの方がよっぽど心配さ」
ユウキは少し迷った。
治療してもらえるのはありがたい。
けれど、自分のためにエルナが倒れてしまうのは嫌だった。
「もし疲れているなら、今日は休んでください。俺の傷も、昨日より良くなっていますから」
エルナはしばらく少年を見つめていた。
やがて、穏やかに頷く。
「そうだね。それじゃあ今日は、治療の前に少しお話をしようか」
◇◆◇
エルナが取り出したのは、一冊の古い本だった。
擦り切れた革の表紙には、小さな花の模様が刻まれている。
「これは、私が若い頃から使っていた本なんだよ」
ユウキは興味深そうに覗き込んだ。
「魔法の本ですか?」
「ああ。治癒魔法について、自分で調べたことを書き留めてあるのさ」
ページを開くと、丁寧な文字と簡単な図が並んでいた。
傷を治すための術式。
魔力の流れ。
そして、薬草の使い方。
ユウキには読めない文字も多かったが、何度も書き直された跡から、長い時間をかけて作られたものだとわかった。
「すごいですね。全部、エルナさんが?」
「そうだよ。もっとも、最初から上手に使えたわけじゃないけれどね」
エルナは懐かしそうに笑った。
「昔の私は、魔力を使えば何でも治せると思っていたんだ」
ユウキは顔を上げた。
「違うんですか?」
「違うとも」
エルナは静かに首を振った。
「傷を塞ぐことができても、失った血をすぐに戻せるわけじゃない。病気の原因がわからなければ、魔法を使っても良くならないことがある」
そう言って、ページの一角を指さした。
「それにね、治癒魔法は使う側にも負担があるんだよ。無理をすれば、自分の身体まで弱ってしまう」
ユウキは黙って聞いていた。
エルナは続ける。
「だから私は、魔法だけに頼らないようにしてきた。傷を洗い、清潔な布で覆い、身体を温め、よく眠ってもらう。そんな当たり前のことが、魔法と同じくらい大切なんだ」
ユウキは自分の脇腹へ目を向けた。
エルナの治癒魔法によって傷は塞がり始めている。
しかし、痛みや疲労は残ったままだ。
その理由が、少しだけわかった気がした。
「魔法って、全部を解決してくれるわけじゃないんですね」
「そうだねえ。だからこそ、人の手が必要なのさ」
エルナは優しく微笑んだ。
「魔法は、誰かを助けるための一つの方法。大切なのは、目の前の人をちゃんと見ることなんだよ」
ユウキはその言葉を、心の中で繰り返した。
目の前の人を、ちゃんと見る。
鑑定で情報を調べることとは、きっと少し違う意味なのだろう。
◇◆◇
昼前、ユウキは庭へ出ていた。
バルドに支えられながら、家のすぐ前に置かれた椅子へ腰を下ろす。
トーマは薬草を摘み、ドランは小屋の裏で古い工具を整理していた。
エルナは庭の花を見つめながら、静かに話し始めた。
「この庭はね、夫と一緒に作ったんだよ」
ユウキが顔を上げる。
「旦那さんがいたんですね」
「ああ。もうずいぶん前に亡くなってしまったけれど、優しい人だった」
エルナは足元に咲く白い花へ手を伸ばした。
「夫は木こりでね。私は集落で治癒師をしていた。若い頃は毎日忙しくて、家でゆっくり食事をする時間もなかったものさ」
懐かしむような声だった。
ユウキは静かに耳を傾ける。
「子供もいたんだよ。娘が一人」
「娘さんは、今どこに?」
その問いに、エルナは少しだけ目を細めた。
「遠い街で暮らしているよ。もう何年も会っていないけれど、元気にしているといいねえ」
ユウキは何と答えればいいかわからなかった。
エルナは穏やかに笑った。
「そんな顔をしなくていいよ。人にはそれぞれ、自分の人生があるんだから」
そして、ユウキへ視線を向ける。
「あなたも、これから自分の人生を歩いていくんだよ」
ユウキは自分の手首を見た。
そこには、まだ魔封石の枷が残っている。
「そうですね。でも、まだ完全に自由になれたわけじゃなくて……」
「その鎖のことかい?」
「はい」
ユウキは頷いた。
「外したいんですけど、簡単にはいかないみたいです」
エルナはそっと鉄輪へ触れた。
指先が、冷たい魔封石をなぞる。
「ひどいものだねえ」
その声には、静かな怒りが滲んでいた。
「人を縛りつけて働かせるなんて、そんなことが当たり前になっていいはずがない」
ユウキは驚いて顔を上げた。
これまで、帝国の人間たちは奴隷を当然のものとして扱っていた。
しかし、エルナは違う。
目の前の枷を見て、心から悲しんでいる。
「エルナさんは、怖くないんですか?」
「何がだい?」
「俺たちを助けたら、帝国に捕まるかもしれません」
エルナは少し考えたあと、静かに答えた。
「怖くないと言えば嘘になるね」
そして、ユウキの手を包み込んだ。
「でも、怖いからって、苦しんでいる人を見捨てたくはないんだよ」
その言葉に、ユウキは胸が熱くなるのを感じた。
自分と同じ考えを持つ人が、ここにもいた。
けれど、エルナは続けた。
「だからといって、何でも無茶をしていいわけじゃない。助けたい気持ちがあっても、できることとできないことがあるからね」
ユウキは小さく頷いた。
「はい」
エルナは優しく笑った。
「あなたは、それをもう学び始めているみたいだね」
◇◆◇
その日の午後。
小屋の外で作業していたドランが、突然手を止めた。
「バルド!」
声を聞いたバルドが、すぐに立ち上がる。
「どうした?」
「森の南側に、兵士らしき影が見える」
バルドの表情が険しくなった。
ドランは木々の間を指さした。
「まだ距離はあるが、こちらへ向かっているようだ」
ユウキも顔を上げた。
帝国兵。
ついに、この場所まで辿り着いたのだろうか。
トーマが不安そうに呟く。
「どうしよう……」
ユウキは深く息を吸った。
焦るな。
まず、状況を確認する。
「ドランさん、兵士は何人くらいですか?」
「見えたのは三人だ。だが、ほかにもいるかもしれん」
「小屋までは?」
「森の中をまっすぐ来れば、そう時間はかからん」
ユウキは考え込んだ。
自分はまだ、まともに戦える状態ではない。
トーマも病み上がりで、バルドやドランも疲れている。
ここで戦うのは危険だ。
それに、エルナの小屋まで巻き込むわけにはいかなかった。
「エルナさん」
ユウキは静かに呼びかけた。
「俺たち、ここを離れた方がいいかもしれません」
エルナは顔を上げた。
「どうしてだい?」
「帝国兵が近づいています。俺たちがここにいると、エルナさんまで危険になるから」
エルナはしばらく黙っていた。
そして、穏やかに首を振った。
「まだ動いてはいけないよ」
「でも……」
「あなたの傷は、まだ治りきっていない。今無理に歩けば、また倒れてしまう」
ユウキは唇を噛んだ。
それは、自分でもわかっている。
しかし、このままではエルナが危険に晒される。
「だったら、どうすれば……」
そのとき、バルドが口を開いた。
「わしらが小屋の外で様子を見る。兵士が近づいてきたら、先に知らせよう」
ドランも頷く。
「ああ。裏手には古い薬草採りの道がある。逃げる必要が出たときのために、そこを確認しておく」
ユウキは二人を見つめた。
「ありがとうございます」
バルドは小さく笑った。
「礼は後だ。お前はエルナさんの言うとおり休んでおけ」
ユウキは頷いた。
自分が動けないときは、仲間を信じる。
それも、今の自分に必要なことだった。
◇◆◇
日が傾き始めた頃。
エルナは小屋の奥から、小さな木箱を取り出した。
その中には、古い布や薬草、そして一枚の紙が入っている。
「ユウキ、少し話せるかい?」
寝台で休んでいたユウキが顔を上げた。
「はい」
エルナは椅子へ腰を下ろし、木箱を膝の上へ置いた。
「私はね、もう長くは生きられないと思っているんだ」
ユウキの表情が変わった。
「そんな……」
エルナは穏やかに微笑んだ。
「驚かせてしまったね。でも、何か特別な病気があるわけじゃないよ」
そう言いながら、自分の手を見つめる。
「ただ、長い時間を生きてきた。最近は朝起きるのも大変で、庭を歩くにも杖が必要になった。身体が少しずつ、休みたがっているんだろうね」
ユウキは黙って聞いていた。
エルナは続けた。
「人はいつか、必ず死ぬ。そのことを怖いと思う日もあったけれど、今は少し違う」
「違う?」
「ああ。私は十分に生きたよ。好きな人と暮らして、子供を育てて、たくさんの人と出会ってきた。悲しいこともあったけれど、幸せだったと思っている」
エルナの声は、驚くほど穏やかだった。
「だからね、残された時間を誰かのために使えたら、それでいいと思っているんだ」
ユウキは胸の奥が苦しくなった。
まだ出会って間もない人。
それなのに、こんなにも優しくしてくれた。
その人が、いつかいなくなる。
そう考えるだけで、心が痛んだ。
「俺、エルナさんにもっと長く生きてほしいです」
思わず口にすると、エルナは小さく笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで、嬉しいよ」
そして、木箱から古い紙を取り出した。
そこには、治癒魔法の簡単な術式が描かれていた。
「ユウキ。あなたは、治癒魔法に興味があるかい?」
ユウキは顔を上げた。
「はい。すごくあります」
「どうして?」
「誰かを助けられるからです」
迷いのない答えだった。
「俺は今まで、守りたいと思っても、何もできないことが多かったです。だから、もし傷を治せる力があれば、もっと誰かの役に立てるかもしれないと思って」
エルナは静かに頷いた。
「そうかい」
そして、紙をユウキへ差し出した。
「それなら、少しずつ教えてあげよう」
ユウキは驚いた。
「いいんですか?」
「もちろんさ。私が知っていることなら、いくらでも教えるよ」
その言葉に、ユウキは深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
エルナは優しく笑った。
「ただし、一つだけ約束しておくれ」
ユウキが顔を上げる。
「何ですか?」
「この力を、自分を傷つけるために使わないこと」
ユウキは息を呑んだ。
エルナは静かに続けた。
「誰かを助けたい気持ちは大切だよ。でも、そのために自分の命を粗末にしてはいけない」
その言葉は、ユウキの胸へ深く響いた。
自分はこれまで、誰かを守るためなら傷ついても構わないと思っていた。
それが正しいことだと、どこかで信じていた。
しかし、エルナは違うと言っている。
「あなたにも、守られる価値があるんだからね」
ユウキは俯いた。
胸の奥が熱くなる。
そして、ゆっくりと頷いた。
「約束します」
エルナは満足そうに微笑んだ。
◇◆◇
夜。
バルドとドランは小屋の外で交代しながら見張りを続けていた。
帝国兵の姿は、まだ小屋の近くまでは確認されていない。
しかし、森の南側では時折、金属の擦れる音が聞こえてくる。
トーマは庭の薬草を片づけ、いつでも移動できるよう荷物をまとめていた。
一方、ユウキはエルナから渡された術式の紙を見つめている。
そこには、魔力を掌へ集め、傷口へゆっくりと流す方法が記されていた。
ユウキは試しに手をかざしてみた。
しかし、何も起こらない。
魔封石の枷が、魔力の流れを妨げている。
それ以前に、治癒魔法の技能そのものを持っていなかった。
「やっぱり、難しいですね」
ユウキが呟くと、エルナは小さく笑った。
「焦らなくていいよ。魔法は、すぐに使えるようになるものじゃないからね」
ユウキは頷いた。
「はい」
エルナは少年の手を取り、静かに続けた。
「大切なのは、何のために力を使うのかを忘れないことさ」
その言葉に、ユウキは顔を上げた。
エルナは優しく微笑んでいる。
しかし、その表情にはどこか寂しさも混じっていた。
ユウキは胸の奥に、小さな不安を覚えた。
エルナは、自分の命が残り少ないことを受け入れている。
けれど、自分にはまだ、その別れを受け入れる覚悟がなかった。
それでも、今できることはある。
エルナが教えてくれる言葉を、一つずつ覚えていくこと。
そして、その優しさを忘れないこと。
ユウキは術式の紙を大切に畳んだ。
「エルナさん」
「何だい?」
「俺、もっと強くなります」
エルナは静かに頷いた。
「そうだね」
「でも、誰かを守るために、自分まで壊してしまわないようにします」
その言葉に、エルナは嬉しそうに目を細めた。
「それでいいんだよ」
そして、少年の頭をそっと撫でた。
「きっとあなたなら、大丈夫」
◇◆◇
深夜。
小屋の外では、冷たい風が木々を揺らしていた。
エルナは暖炉の前で、静かに目を閉じていた。
膝の上には、長年使ってきた治癒魔法の記録が置かれている。
その表紙を、皺の刻まれた指でゆっくりとなぞった。
「ずいぶん長く、一緒にいたねえ」
誰にともなく呟く。
若い頃から使い続けた魔法。
数えきれないほどの傷を癒やし、多くの人の命を繋いできた。
しかし、もう自分には、その力を十分に使える時間が残されていない。
エルナは静かに息を吐いた。
怖くはなかった。
ただ、少しだけ心残りがある。
あの少年が、これからどんな人生を歩むのか。
それを、もう少し見ていたかった。
エルナは窓の外を見つめた。
森の奥では、月明かりが木々を照らしている。
そして、小さく微笑んだ。
「ユウキ」
その名前を、静かに口にする。
「あなたの未来が、どうか優しいものでありますように」
暖炉の火が、ゆっくりと揺れた。
その光の中で、エルナは長い人生を振り返るように目を閉じた。
そして、静かな夜が更けていった。
――第26話 完。




