第25話 森の奥の治癒師
温かな光が、暗闇の中に広がっていた。
深い水の底へ沈んでいくような感覚の中、ユウキは誰かが自分の額に触れていることに気づいた。
柔らかな手だった。
その手が額から頬へ移り、次に胸元へ触れると、身体の奥に溜まっていた冷たさが少しずつ薄れていく。
「もう大丈夫だよ。ゆっくりお休み」
知らない声が聞こえた。
穏やかで、どこか懐かしい響きを持つ声。
ユウキは目を開けようとしたが、瞼が重く、身体も思うように動かなかった。
それでも、先ほどまで全身を締めつけていた激しい痛みが、少しだけ和らいでいる。
誰かが助けてくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、ユウキは再び深い眠りへ落ちていった。
◇◆◇
「この子、本当によく生きていたねえ」
小屋の中に、老婆の声が響いた。
ユウキが寝かされた寝台の傍らには、バルドとトーマが立っている。
ドランは部屋の入口から外の様子を確かめ、時折、森の方角へ鋭い視線を向けていた。
老婆はユウキの胸元に手をかざし、淡い緑色の光を灯している。
その光が呼吸に合わせてゆっくりと揺れ、傷ついた身体へ吸い込まれていく。
「助かるのか?」
バルドが尋ねた。
その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
老婆は穏やかに頷いた。
「命は繋ぎ止められそうだよ。ただ、傷が深いね。血もずいぶん失っているし、身体そのものが弱りきっている」
「治癒魔法でも、すぐには治せないのか?」
「魔法は便利だけれど、何でもできるわけじゃないんだよ」
老婆はユウキの脇腹へ視線を落とした。
「傷を塞ぐことはできても、失った血や疲れまで一度に元へ戻せるわけじゃない。何より、この子の身体には休息が必要だね」
バルドは静かに頷いた。
「なら、しばらくここで休ませてもらえないか」
老婆は微笑んだ。
「もちろんさ。こんな状態の子を森へ放り出せるわけがないだろう?」
その言葉に、トーマの目から涙がこぼれた。
「ありがとう……本当に、ありがとう!」
老婆は少し驚いたあと、優しく笑った。
「お礼を言うのは、この子が元気になってからでいいよ。それより、あなたたちもひどい顔をしているねえ」
そう言って、三人を順番に見つめる。
バルドの疲れきった表情。
トーマの痩せた頬。
そして、ドランの手首に残る古い傷跡。
最後に、四人が身につけている拘束具へ目を向けた。
老婆の笑みが、わずかに消える。
「なるほどね」
何かを察したようだった。
しかし、それ以上は尋ねなかった。
「お腹も空いているだろう。台所にスープがあるから、温めて食べなさい」
バルドが顔を上げる。
「だが、わしらは……」
「事情があるんだろう?」
老婆は静かに言った。
「話したくなったときに聞くよ。今は、身体を休めることの方が大事さ」
その言葉に、バルドは深く頭を下げた。
◇◆◇
ユウキが目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
窓の外では小鳥が鳴き、柔らかな日差しが木の床を照らしている。
見知らぬ天井。
薬草の匂い。
そして、暖炉で薪が燃える小さな音。
ユウキはゆっくりと目を開けた。
「ここは……?」
声を出すと、喉がひどく乾いていた。
起き上がろうとして、思わず顔をしかめる。
痛みは残っている。
しかし、昨日までのように身体が引き裂かれる感覚はなかった。
「あら、目が覚めたのかい?」
声の方へ顔を向ける。
そこには、白い髪を後ろで束ねた老婆が立っていた。
深い皺の刻まれた顔。
小さな身体。
片手には木製の杖を持ち、もう片方の手には湯気の立つ器を持っている。
老婆はユウキの傍らへ腰を下ろした。
「気分はどうだい?」
「少し、身体が痛いです」
「そうだろうねえ。あれだけの怪我をしていたんだから」
老婆は器を置き、ユウキの額へ手を当てた。
「熱は少し下がったね。よかった」
ユウキは老婆を見つめた。
「あなたが、助けてくれたんですか?」
「私は傷を治しただけさ。ここまであなたを運んできたのは、お仲間たちだよ」
その言葉に、ユウキは周囲を見回した。
「バルドさんたちは?」
「隣の部屋で休んでいるよ。みんな、あなたのことを心配していたからねえ」
胸の奥が温かくなる。
生きている。
仲間たちも無事らしい。
ユウキは深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
老婆は優しく微笑んだ。
「どういたしまして」
そして、湯気の立つ器を差し出した。
「まずはこれを飲みなさい。身体を温める薬草茶だよ」
ユウキは両手で器を受け取った。
手首の枷が小さく鳴る。
老婆の視線が、その鉄輪へ向けられた。
しかし、何も言わなかった。
ユウキは少しずつ薬草茶を口へ運ぶ。
独特の苦味があったが、飲み込むと喉の奥に温かさが広がっていった。
「美味しいです」
思わずそう言うと、老婆は嬉しそうに笑った。
「そうかい。それはよかった」
◇◆◇
しばらくして、バルドたちが部屋へ入ってきた。
「ユウキ!」
真っ先に駆け寄ってきたのはトーマだった。
少年は寝台の横へしゃがみ込み、涙を浮かべながらユウキの顔を覗き込む。
「本当に心配したんだから!」
「ごめん。でも、もう大丈夫だよ」
「昨日も同じこと言って倒れたじゃないか!」
その言葉に、ユウキは返す言葉を失った。
バルドが小さく笑った。
「今回はトーマの言うとおりだな」
ユウキは苦笑した。
「そうですね。もう、無理に大丈夫とは言わないようにします」
その言葉に、バルドは満足そうに頷いた。
ドランも近づき、寝台の脇へ腰を下ろす。
「傷はどうだ?」
「昨日より、ずっと楽です」
「そうか。なら、今はしっかり休め」
ユウキは頷いた。
そして、老婆へ顔を向けた。
「そういえば、まだお名前を聞いていませんでした」
老婆は微笑んだ。
「私かい?」
「はい」
「エルナだよ。エルナ・フィオレ。昔は近くの集落で治癒師をしていたんだ」
ユウキはその名前を繰り返した。
「エルナさん」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。好きなように呼んでおくれ」
エルナは優しく笑った。
「それで、あなたのお名前は?」
「ユウキ・コバヤシです」
「ユウキかい。いい名前だねえ」
その言葉に、ユウキは少し驚いた。
自分の名前を、そんなふうに褒められたことはあまりなかった。
「ありがとうございます」
エルナはユウキの頭をそっと撫でた。
「よく頑張ったね、ユウキ」
その瞬間。
ユウキの胸の奥で、何かが揺れた。
たった一言だった。
けれど、その言葉は、今まで誰にも触れられなかった場所へ届いた。
褒められること。
優しく頭を撫でられること。
頑張ったと認めてもらえること。
そんな当たり前のことが、ユウキにはひどく遠いものだった。
気づけば、目に涙が滲んでいた。
「どうしたんだい?」
エルナが心配そうに尋ねる。
ユウキは慌てて首を振った。
「いえ、何でもないです」
しかし、涙は止まらなかった。
エルナは何も聞かず、ただ静かに背中を撫で続けた。
その優しさに、ユウキは初めて、安心して泣いてもいいのだと思えた。
◇◆◇
昼過ぎ。
エルナはユウキの傷をもう一度確認していた。
寝台の傍らに腰を下ろし、両手をそっと脇腹へかざす。
淡い緑色の光が生まれた。
光はゆっくりと広がり、傷口へ染み込むように消えていく。
ユウキは不思議そうに見つめた。
「すごいですね、治癒魔法って」
エルナは小さく笑った。
「そう見えるかい?」
「はい。あんなに痛かった傷が、少しずつ治っていくので」
「でもね、魔法がすごいんじゃないんだよ」
ユウキは首を傾げた。
「どういうことですか?」
エルナは少し考えてから答えた。
「治癒魔法は、身体が本来持っている力を助けるものなんだ。傷を塞ぐことはできても、失った血や疲れを全部戻せるわけじゃない」
そう言いながら、光を少し弱める。
「それに、使う側にも限界がある。私も若い頃のようにはいかなくてねえ」
ユウキはエルナの手を見つめた。
指先がわずかに震えている。
顔色も、少し青白かった。
「エルナさん、大丈夫ですか?」
「心配してくれるのかい?」
「はい。無理をしてほしくないです」
エルナは驚いたように目を瞬かせた。
そして、穏やかに微笑む。
「優しい子だねえ」
ユウキは少し照れたように俯いた。
「そんなこと、ないです」
「いいや。私は長いこと生きてきたけれど、人の優しさは案外わかるものさ」
エルナは光を消し、ゆっくりと手を下ろした。
「今日はここまでにしようか。あとは身体を休めておくれ」
ユウキは頷いた。
そして、そっと魂盤を呼び出した。
魂盤【STATUS】
名前:ユウキ・コバヤシ
年齢:17
種族:人間(異界者)
職業:無職
レベル:2
HP:13 / 36
MP:4 / 8
STR(筋力):8
VIT(耐久力):7
AGI(敏捷性):9
MAG(魔力):3
MND(精神力):12
DEX(器用さ):11
【固有権能】
略奪 Lv.1
【習得技能】
嗅覚強化 Lv.2
身体強化 Lv.2
採掘 Lv.1
振動感知 Lv.1
鑑定 Lv.2
【状態】
負傷・疲労
魂蝕値:上昇中
HPは十三まで回復していた。
まだ完全ではないが、危険な状態からは抜け出しつつある。
ユウキは安堵の息を吐いた。
しかし、同時にエルナの様子が気になった。
彼女は治療を終えたあと、少し疲れたように椅子へ身体を預けている。
年齢のせいだろうか。
それとも、治癒魔法を使った反動なのだろうか。
ユウキにはまだ、わからなかった。
◇◆◇
夕方。
小屋の庭では、トーマがエルナに教わりながら薬草を摘んでいた。
「この葉っぱでいいの?」
「そうそう。根元から全部取らずに、上の方だけ摘むんだよ」
トーマは真剣な表情で頷いた。
「どうして?」
「全部取ってしまったら、次に育たなくなってしまうからねえ」
エルナは優しく説明した。
「自然から何かをいただくときは、次に繋がる分を残しておくものさ」
その言葉を、窓際に座っていたユウキは静かに聞いていた。
次に繋がる分を残す。
自分の固有権能とは、正反対の考え方だった。
略奪。
相手から技能を奪い、自分のものにする力。
奪われた相手は、その技能を失ってしまう。
エルヴィンも、そうだった。
命を救ってくれた人から、自分は鑑定を奪った。
あのときは、生き残るために必要だった。
それでも、相手から何かを奪った事実は変わらない。
ユウキは自分の手を見つめた。
この力を、これからどう使えばいいのだろう。
答えはまだ見つからなかった。
◇◆◇
夜。
ユウキが寝台で休んでいると、エルナが温かいスープを持ってきた。
「少しは食べられそうかい?」
「はい。ありがとうございます」
器を受け取ると、野菜の優しい香りが広がった。
ユウキはゆっくりと口へ運ぶ。
温かいスープが喉を通るたび、身体の奥まで熱が届くようだった。
エルナはその様子を見つめながら、静かに口を開いた。
「ユウキ」
「はい?」
「あなた、ずいぶん辛い思いをしてきたんだね」
ユウキの手が止まった。
「どうして、そう思うんですか?」
エルナは穏やかに答えた。
「眠っているとき、何度も謝っていたからさ」
ユウキは息を呑んだ。
「ごめんなさい、許してくださいってね」
その言葉に、胸の奥が締めつけられた。
日本にいた頃の記憶。
父親の怒鳴り声。
母親の冷たい視線。
何かが起きるたびに、自分が悪いのだと思い込んでいた日々。
ユウキは俯いた。
「昔から、そういう癖があって……」
エルナは何も言わなかった。
ただ、ユウキが続きを話すのを待っている。
その静けさが、不思議と心地よかった。
「俺、いつも怖かったんです」
ユウキはゆっくりと話し始めた。
「何かを間違えたら怒られるし、何もしていなくても責められることがあって。だから、先に謝るようになりました」
言葉にするたび、胸の奥にしまい込んでいた記憶が浮かんでくる。
「この世界に来てからも、最初はずっと怖かったです。でも、バルドさんやトーマたちに出会って、少しずつ変われた気がします」
エルナは静かに頷いた。
「そうかい」
ユウキは顔を上げた。
「でも、まだ自信がないんです。誰かを守りたいと思っても、結局みんなに助けてもらってばかりで」
その言葉に、エルナは優しく微笑んだ。
「助けてもらうことは、悪いことじゃないよ」
ユウキは黙って聞いていた。
「人は誰だって、一人では生きられない。若い頃は私も、何でも自分でできると思っていたけれど、年を取るとそうもいかなくなる」
エルナは自分の手を見つめた。
長い年月を重ねた、皺の刻まれた手。
「それでも、今の私にはできることがある。あなたの傷を治すことも、その一つさ」
ユウキは小さく頷いた。
「ユウキ。強い人っていうのはね、誰の助けも借りずに立っている人のことじゃないんだよ」
エルナは静かに続けた。
「助けてもらったことを忘れず、いつか誰かに手を差し伸べられる人のことだと、私は思う」
その言葉に、ユウキの胸が熱くなった。
自分が目指したい強さ。
それは、きっとこういうものなのだろう。
「俺も、そんな人になれますか?」
ユウキが尋ねると、エルナは迷わず頷いた。
「なれるとも」
そして、優しく笑った。
「だってあなたは、もう誰かのために立ち上がれる子じゃないか」
ユウキは何も言えなかった。
ただ、その言葉を忘れないように、胸の奥へ刻み込んだ。
◇◆◇
同じ頃。
森の南側では、帝国の追跡隊が野営の準備を進めていた。
隊長は地図を広げ、周囲の兵士たちへ命令を出している。
「逃亡者は北側の森へ入った可能性が高い」
兵士の一人が尋ねた。
「この先には、古い薬草採りの道がありますが」
隊長が顔を上げる。
「その道の先には何がある?」
「昔、治癒師が暮らしていた小屋があると聞いています」
隊長は目を細めた。
「治癒師……?」
重傷の少年。
そして、森の奥に暮らす治癒魔法の使い手。
繋がりを考えるのは、難しくなかった。
「明朝、そこを調べる」
隊長は静かに命じた。
「ただし、相手は治癒師だ。無用な争いは起こすな。逃亡者を匿っていないか確認するだけでいい」
兵士たちが頷く。
しかし、その背後には、灰色の外套をまとった男が立っていた。
彼はしばらく地図を見つめたあと、低い声で言った。
「少年を見つけたら、すぐに私へ知らせろ」
「承知しました」
「それと、絶対に見失うな」
男の視線は、森の奥へ向けられていた。
その先で少年が新たな力を得ようとしていることなど、まだ誰も知らなかった。
◇◆◇
深夜。
エルナは暖炉の前に腰を下ろしていた。
小さな炎が揺れ、壁に長い影を落としている。
その手には、一冊の古い本があった。
表紙は擦り切れ、何度も読み返された跡が残っている。
エルナはゆっくりとページをめくった。
そこには、治癒魔法についての記録が書かれていた。
傷を癒やす術式。
魔力の流れ。
そして、長い年月をかけて積み重ねてきた経験。
エルナは静かに微笑んだ。
「久しぶりだねえ」
誰にともなく呟く。
かつては、多くの人を治療してきた。
泣きながら運ばれてきた子供。
森で怪我をした木こり。
病に苦しむ家族。
その一人一人の顔を、今でも覚えている。
しかし、最近は身体が思うように動かなくなっていた。
朝起きるだけでも時間がかかり、杖がなければ庭を歩くことも難しい。
治癒魔法を使うたび、以前よりも疲れが残るようになった。
エルナは自分の手を見つめた。
いつか、この力も使えなくなる日が来る。
それは、もう遠い未来の話ではなかった。
そのとき、隣の部屋から小さな寝息が聞こえた。
ユウキだった。
エルナは顔を上げる。
初めて会ったとき、少年は今にも命が消えそうな状態だった。
それでも、目を覚ましてからは、自分のことより仲間の安全を気にしていた。
そして、誰かに助けられることを、ひどく申し訳なさそうにしていた。
優しい子。
けれど、その優しさをどう使えばいいのか、まだ迷っている子。
エルナは静かに本を閉じた。
「もし、あの子がこの力を使えたなら……」
小さく呟く。
しかし、すぐに首を振った。
技能は、簡単に他人へ譲れるものではない。
まして、自分が長い年月をかけて磨いてきた治癒魔法だ。
願っただけで、誰かへ渡せるはずもなかった。
それでも、エルナは思った。
あの少年がいつか、自分のように誰かの痛みを和らげられる日が来ればいい。
奪われたものばかりを数えるのではなく、これから与えられるものを見つけてほしい。
暖炉の火が、静かに揺れる。
エルナは杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
足元が少しふらつき、思わず壁へ手をつく。
「本当に、年を取ったものだねえ」
苦笑しながら、窓の外を見つめた。
夜の森は静かだった。
その静けさが、いつまでも続くわけではないことを、エルナはまだ知らなかった。
――第25話 完。




