第24話 追跡者の影
第24話 追跡者の影
窓の外で、鳥が鳴いていた。
ユウキが目を覚ますと、暖炉にはまだ赤い火が残っていた。木の壁からは朝の光が差し込み、部屋の隅ではトーマが毛布にくるまって眠っている。
鉄格子のない朝。
看守の怒声も、採掘を命じる鐘の音も聞こえない。
それなのに、ユウキはすぐに起き上がることができなかった。
脇腹に走る痛みが、昨日起きたことを思い出させたからだ。
「目が覚めたか」
声のした方を見ると、バルドが椅子に腰を下ろしていた。
膝の上には古い布があり、昨夜ユウキの傷口を覆っていた包帯を洗っている。
「おはようございます」
「ああ。気分はどうだ?」
「昨日よりは、少し……」
言いかけたところで、ユウキは言葉を止めた。
実際には、傷が治ったという感覚はほとんどない。熱を帯びた身体は重く、少し動かすだけで呼吸が乱れる。
「まだ、かなり痛みます」
「そうだろうな」
バルドは頷いた。
「無理に元気なふりをする必要はない。今はわしらに頼れ」
ユウキは小さく笑った。
「ありがとうございます」
自分の弱さを認めること。
それは以前のユウキにとって、何より難しいことだった。
助けを求めれば怒られる。失敗を認めれば責められる。
そんな生活が長く続いたせいで、誰かに頼ることそのものが怖くなっていた。
けれど、バルドたちは違う。
弱っている自分を責めるのではなく、当たり前のように手を差し伸べてくれる。
その優しさに、少しずつ慣れていきたいと思った。
◇◆◇
朝食の準備をしていたロイドが、窓の外へ目を向けた。
その表情が、わずかに険しくなる。
「おかしいな」
ドランが顔を上げた。
「何がだ?」
「朝から街道が騒がしい。普段なら、この時間に馬が何頭も通ることなんてない」
ロイドは窓の隙間から外を確認した。
遠くで、馬の蹄が地面を叩く音が響いている。
やがて、金属の擦れる音とともに、複数の男たちの声が聞こえてきた。
「巡回兵か?」
バルドが尋ねる。
「いや、巡回なら二人か三人だ。今の音はもっと多い」
ロイドは静かに窓を閉めた。
「お前たちを探しているのかもしれん」
部屋の空気が張り詰める。
トーマも物音で目を覚ました。
「何かあったの?」
ユウキは落ち着いた声で答えた。
「帝国兵が近くに来ているみたい」
トーマの顔が青ざめた。
「もう見つかったのか?」
「まだ、ここにいると決まったわけじゃないよ」
ユウキはそう言いながら、窓の外へ意識を向けた。
嗅覚強化では、遠くの人間の位置まではわからない。振動感知も、離れた街道を通る馬の動きを正確に捉えられるほど万能ではなかった。
それでも、追跡者が近づいていることだけは確かだった。
ドランが低い声で言った。
「ロイド、ここに裏口はあるか?」
「ああ。薪置き場の奥から森へ出られる」
「なら、いつでも動けるようにしておこう」
ユウキはその言葉を聞きながら、静かに考えた。
逃げる。
もちろん、それが一番安全な選択かもしれない。
しかし、今の自分はまともに歩けない。
バルドやトーマに支えてもらわなければ、森を進むことすら難しい。
そして何より、ここにはロイドがいる。
自分たちを助けてくれた人まで、危険に巻き込むわけにはいかなかった。
「ロイドさん」
「何だ?」
「もし帝国兵が来たら、俺たちを匿っていることは隠してください」
ロイドが眉をひそめた。
「何を言ってる?」
「俺たちのせいで、ロイドさんまで捕まってほしくないんです」
ユウキは真剣な表情で続けた。
「昨日、助けてもらっただけでも十分です。だから、もし危なくなったら、俺たちのことは知らないと言ってください」
ロイドはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「お前、本当に変わった奴だな」
「そうでしょうか」
「自分が死にそうな怪我をしているのに、他人の心配ばかりしている」
ロイドは苦笑した。
「だが、言いたいことはわかった。俺も自分の命は惜しいし、この小屋を失うわけにはいかん」
ユウキは頷いた。
「はい」
「だからこそ、全員が助かる方法を考えよう」
その言葉に、ユウキは顔を上げた。
ロイドは壁に立てかけられた古い地図を取り出し、テーブルへ広げた。
「この辺りの森なら、俺の方がお前たちより詳しい」
◇◆◇
地図には、細い川と山道、いくつかの小さな集落が描かれていた。
ロイドは指先で森の西側を示した。
「ここから西へ進めば、国境近くの山道へ出られる。ただし、帝国兵もその道は知っている」
ドランが頷く。
「追手を撒くには、別の道が必要だな」
「そうだ」
ロイドは指を少し北へ動かした。
「こっちには古い薬草採りの道がある。今はほとんど使われていないが、森の奥へ続いている」
ユウキは地図を覗き込んだ。
「その先には、何があるんですか?」
「一軒の小屋だ」
「小屋?」
「ああ。昔から、森の奥で一人暮らしをしている婆さんがいる」
ロイドの声が少し柔らかくなった。
「薬草に詳しくてな。怪我人や病人が出ると、よく世話になっていた」
その言葉に、ユウキは思わず顔を上げた。
「治療ができる人なんですか?」
「そうだ。しかも、ただの薬草師じゃない」
ロイドは頷いた。
「治癒魔法を使える」
部屋に短い沈黙が流れた。
バルドが驚いたように尋ねる。
「この辺りに治癒魔法を使える者がいるのか?」
「ああ。ただ、もうかなりの年寄りでな。最近は身体が弱って、集落まで下りてくることもほとんどなくなった」
ロイドは少し寂しそうに笑った。
「それでも、困っている人を放っておけない人だ。俺も子供の頃、何度も助けてもらった」
ユウキの胸に、微かな希望が灯った。
治癒魔法。
もし本当にそんな力があるのなら、今の傷を治せるかもしれない。
しかし、すぐに不安も生まれた。
「その人のところへ行ったら、迷惑になりませんか?」
ロイドは少し考えた。
「帝国兵に追われていると知れば、危険はあるだろうな」
ユウキは俯いた。
また、誰かを巻き込むことになる。
しかし、ロイドは続けた。
「だからこそ、勝手に決めるな。事情を説明して、助けてもらえるかどうかは本人に選んでもらえばいい」
その言葉に、ユウキは顔を上げた。
そうだ。
助けを求めることと、誰かに犠牲を強いることは違う。
相手にも、自分で決める権利がある。
「わかりました」
ユウキは静かに頷いた。
「その人に会ってみたいです」
◇◆◇
その頃、集落の入口には六人の帝国兵が到着していた。
先頭を歩く隊長は、黒い革鎧の上から深緑色の外套を羽織っている。
鋭い目つきの男だった。
「全戸を確認しろ」
隊長が命じる。
「逃亡奴隷は四人。うち一人は黒髪の少年で、重傷を負っている可能性が高い」
兵士たちが頷いた。
「抵抗した場合は?」
「少年以外は必要に応じて拘束しろ。ただし、できる限り生かして連れ戻せ」
隊長は腰の剣へ手を置いた。
「上からの命令だ。異界人の少年だけは、絶対に逃がすな」
兵士たちが集落へ散っていく。
その様子を、少し離れた場所から一人の男が見つめていた。
灰色の外套をまとった、鉱山の監督役だった。
男は隊長へ近づき、低い声で尋ねる。
「見つかりそうか?」
「足跡はこの近くまで続いています。負傷した少年を連れて、そう遠くへは行けないでしょう」
「そうか」
灰色の外套の男は、森の方角へ視線を向けた。
第三坑道から現れた存在。
そして、封印と共鳴する異界人の少年。
どちらも帝都へ報告済みだった。
しかし、帝国上層部から返ってきた命令は、予想以上に厳しいものだった。
『対象の生死を問わず、魂の確保を最優先とせよ』
男はその言葉を思い出し、眉をひそめた。
生きていれば、研究材料として利用できる。
死んだ場合でも、魂を回収する方法があるということなのだろう。
だが、少年を捕らえるだけで事態が収まるとは思えなかった。
封印の奥から現れた黒い影は、今も鉱山の周囲で確認されている。
その存在が口にした言葉。
『奪ったものを、返せ』
男は静かに息を吐いた。
あの影が何を求めているのか。
まだ、誰にもわかっていない。
◇◆◇
ロイドの小屋では、ドランが荷物をまとめていた。
夜明けから時間が経ち、外の気配は次第に慌ただしくなっている。
「もう出た方がいい」
ドランが言った。
「兵士が集落を調べ始めたら、ここも安全じゃない」
バルドは頷き、ユウキの身体を支えた。
「歩けるか?」
「はい。でも、少しゆっくりお願いします」
「ああ。焦らなくていい」
トーマは水筒とわずかな食料を背負い、ロイドから渡された地図を大切そうにしまった。
「道は覚えた?」
ユウキが尋ねる。
「うん。北側の薬草採りの道だろ?」
「そう。途中で迷ったら、ちゃんと確認しよう」
トーマは頷いた。
その様子を見て、ロイドが小さく笑った。
「お前たち、ずいぶん仲がいいんだな」
ユウキは少し照れたように答えた。
「みんなに、助けてもらってばかりですけど」
「それでいいんじゃないか」
ロイドは肩をすくめた。
「誰かに助けてもらったなら、次は自分が誰かを助ければいい。それだけのことだ」
ユウキはその言葉を胸に刻んだ。
そして、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
ロイドは軽く手を振った。
「礼はもう十分だ。無事に逃げ切れよ」
四人は裏口から森へ出た。
朝の光が木々の間を照らし、湿った土の匂いが広がっている。
自由な空気。
しかし、そのすぐ向こうには追跡者がいた。
◇◆◇
森の中を進み始めて間もなく、ユウキは足元から複数の振動を感じ取った。
――コツ、コツ。
規則正しい足音。
それも、かなり近い。
「待ってください」
ユウキが声をかけると、全員が足を止めた。
「どうした?」
ドランが尋ねる。
「前の方に、人がいます」
バルドが目を細めた。
木々の向こうから、微かな金属音が聞こえてくる。
帝国兵だ。
しかも、こちらへ向かっている。
「見つかる前に引き返すぞ」
ドランが言った。
しかし、ユウキは首を振った。
「待ってください。来た道へ戻ると、ロイドさんの小屋に繋がってしまいます」
その言葉に、三人が顔を向けた。
「兵士に足跡を見つけられたら、ロイドさんまで疑われるかもしれません」
バルドは静かに頷いた。
「なるほど。なら、どうする?」
ユウキは周囲を見回した。
左側には急な斜面。
右側には倒木が重なり、その奥へ細い獣道が続いている。
ユウキは獣道へ目を向けた。
「右の道を使いましょう。少し遠回りになるかもしれませんけど、足跡を残しにくい場所がありそうです」
ドランが眉をひそめる。
「その道は、かなり狭いぞ」
「はい。でも、今の俺たちには、速く進むより見つからないことの方が大切だと思います」
バルドが頷いた。
「そのとおりだ」
ドランは少し考え、短く答えた。
「わかった。わしが先頭を行く」
四人は道を変え、倒木の間を進み始めた。
◇◆◇
獣道は想像以上に険しかった。
木の根が地面を覆い、足元には滑りやすい落ち葉が積もっている。
ドランが枝を払いながら先へ進み、バルドはユウキを支える。トーマは最後尾で周囲を警戒していた。
しばらく進むと、前方から水の流れる音が聞こえてきた。
「沢か?」
バルドが尋ねる。
「ああ。地図には載っていないが、この辺りには細い水路がある」
ドランが答える。
ユウキは一度だけ立ち止まり、足元へ意識を集中させた。
振動感知。
近づいてくる足音は、まだ背後にはない。
しかし、森の向こうから金属の擦れる音が聞こえた。
追跡者は、すぐ近くにいる。
ユウキは深く息を吸った。
「沢へ下りましょう」
ドランが顔を向ける。
「水の中を進むつもりか?」
「はい。足跡を消せるかもしれません」
バルドは少しだけ笑った。
「前にも、その方法を使ったな」
「はい。でも、今回は無理をしないようにします」
ユウキはそう答えた。
バルドも頷いた。
「それでいい」
四人は沢へ下り、冷たい水の中を慎重に進み始めた。
◇◆◇
その頃、帝国兵たちは森の分岐点へ到着していた。
隊長は地面に残された足跡を見つめる。
「ここで道が分かれているな」
兵士の一人がしゃがみ込んだ。
「こちらは古い作業道です。もう一方は獣道のようですが」
隊長は少し考えた。
そして、静かに命じる。
「二手に分かれろ」
「承知しました」
「ただし、どちらも深追いするな。少年は重傷だ。無理に追えば、途中で死ぬ可能性がある」
兵士たちが頷く。
そのとき、一人の兵士が遠くを指さした。
「隊長、煙が見えます!」
木々の向こうには、ロイドの小屋から上がる細い煙が見えた。
隊長は目を細めた。
「集落の外れに小屋があるのか」
「はい。炭焼きの男が暮らしていると聞いています」
隊長は少し考え、低い声で言った。
「後で調べろ。逃亡者を匿っている可能性がある」
その言葉に、兵士たちが頷いた。
追跡の手は、確実に近づいていた。
◇◆◇
沢を抜けた頃には、ユウキの呼吸がさらに荒くなっていた。
身体が熱い。
足元がふらつき、視界の端が暗くなる。
「ユウキ?」
トーマが心配そうに声をかける。
「大丈夫?」
ユウキは答えようとした。
しかし、唇が上手く動かなかった。
バルドがすぐに肩を抱く。
「坊主!」
ユウキの身体が崩れ落ちる。
バルドは慌てて支えたが、ユウキにはもう立ち上がる力が残っていなかった。
「まずい!」
ドランが駆け寄る。
「身体が熱い。傷が悪化しているかもしれん」
ユウキは薄く目を開いた。
視界が霞んでいる。
呼吸が苦しい。
それでも、誰かに伝えなければならないことがあった。
「ロイドさん……」
バルドが顔を近づける。
「何だ?」
「あの人の小屋、兵士に見つかるかもしれません……」
その言葉に、バルドは息を呑んだ。
ユウキは続けようとしたが、声が出なかった。
今度こそ、意識が遠のいていく。
「ユウキ!」
トーマの叫び声が聞こえた。
しかし、その声も次第に遠ざかっていった。
◇◆◇
暗闇の中で、ユウキは不思議な夢を見ていた。
白い空間。
静かな水面。
そして、遠くに立つ少女の影。
『ユウキ』
少女の声だった。
ユウキは顔を上げる。
「君は……」
『まだ、死んじゃ駄目』
少女は静かに言った。
『あなたには、まだやることがある』
ユウキは小さく首を振った。
「わかってる。でも、身体が動かないんだ」
少女はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
『もうすぐ、会えるよ』
「誰に?」
少女は答えなかった。
ただ、優しく微笑んだ。
『あなたを、助けてくれる人に』
その瞬間、白い空間が淡い光に包まれた。
ユウキは目を閉じる。
そして、意識が現実へ引き戻されていった。
◇◆◇
森の奥。
バルドはユウキを背負い、険しい山道を進んでいた。
額には汗が浮かび、膝も震えている。
それでも、足を止めようとはしなかった。
「バルド、無理するな!」
ドランが声をかける。
「お前まで倒れたら終わりだ!」
「わかっとる!」
バルドは荒い息を吐きながら答えた。
「だが、ここで止まれば、この坊主が死ぬ!」
トーマは泣きそうな顔で後ろを歩いていた。
「ユウキ、お願いだから目を開けてよ……」
そのとき、ドランが足を止めた。
「待て」
バルドが顔を上げる。
「どうした?」
ドランは前方の木々を見つめた。
そこには、細い煙が立ち上っている。
そして、木々の間に小さな屋根が見えた。
「小屋だ……!」
トーマが顔を上げる。
「治癒魔法の人の?」
「おそらくな」
ドランは頷いた。
三人は足を速めた。
やがて、古い木造の小屋が姿を現す。
庭には薬草が植えられ、軒先には乾燥させた植物が吊るされていた。
煙突からは、白い煙が静かに上がっている。
ドランが扉を叩いた。
「誰かいるか!」
返事はない。
もう一度、強く叩く。
「頼む! 怪我人がいるんだ!」
しばらくして、内側からゆっくりと足音が近づいてきた。
――カチャリ。
扉が開く。
そこに立っていたのは、一人の老婆だった。
白い髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔には穏やかな表情が浮かんでいる。
身体は小さく、片手には木製の杖を持っていた。
老婆は三人を見つめたあと、バルドの背中で意識を失っているユウキへ目を向けた。
その表情が変わる。
「あらまあ……ひどい怪我だね」
バルドが深く頭を下げた。
「頼む! この子を助けてくれ!」
老婆は一瞬も迷わなかった。
「もちろんさ」
そして、静かに扉を大きく開けた。
「さあ、早くお入り。話はあとで聞くからね」
バルドたちは顔を見合わせた。
その優しい声に、張り詰めていた緊張が少しだけ緩む。
老婆はユウキの顔を見つめ、そっと手を伸ばした。
皺の刻まれた指先が、少年の額に触れる。
その瞬間、淡い緑色の光が生まれた。
ドランが息を呑む。
「治癒魔法……!」
老婆は小さく頷いた。
「まだ、この程度なら使えるよ」
その声は穏やかだった。
しかし、瞳には確かな意思が宿っていた。
「この子は、ずいぶん無理をしてきたんだね」
ユウキの額から、少しずつ苦痛の色が薄れていく。
老婆は優しく微笑んだ。
「大丈夫。もう少しだけ、頑張っておくれ」
そして、小さく呟いた。
「あなたの旅は、まだ終わっていないんだから」
淡い緑色の光が、ユウキの身体を包み込んだ。
灰の鉱山から続いた長い逃亡の果てに、少年はようやく、新しい出会いを迎えようとしていた。
――第24話 完。




