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第29話 国境を越えて

 夜明け前の山々は、深い霧に包まれていた。


 谷底を流れる川から白い靄が立ち上り、対岸の森を薄く覆っている。その向こうには、ゼルガ帝国とは異なる国が広がっているはずだった。


 アルヴェイン王国。


 ユウキはその名前を、心の中で繰り返した。


 灰の鉱山から逃げ出した日、国境を越えることなど想像もできなかった。地上へ出られただけで奇跡のように思えたのに、今は帝国の外へ続く道を探している。


 それも、一人ではない。


「寒くないか?」


 隣を歩くバルドが尋ねた。


「少し。でも、大丈夫です」


 ユウキは答え、すぐに付け加えた。


「傷はまだ痛みますけど、歩けなくなるほどじゃありません」


「そうか。無理そうなら、すぐに言えよ」


「はい」


 バルドは満足そうに頷いた。


 エルナの治療を受けたおかげで、ユウキは短い距離なら自分の足で歩けるようになっていた。


 ただし、完全に回復したわけではない。失った血も戻りきっておらず、急な坂を登れば息が切れる。


 治癒魔法を受け継いだ今も、手首の魔封石が魔力の流れを妨げていた。


 身につけた力を試すことすらできない。


 それでも、焦りはなかった。


 今は自分が戦うより、仲間とともに安全な場所へ辿り着くことが大切だった。


「見えてきたぞ」


 先頭を歩くドランが足を止めた。


 木々の向こうに、古い石橋が姿を現した。


 ◇◆◇


 石橋は、谷の両側に突き出た岩場を結んでいた。


 長い年月の間に表面は苔に覆われ、欄干の一部が崩れている。それでも橋の中央には石畳が残り、人が歩いて渡れるだけの幅があった。


 トーマが目を輝かせる。


「本当にあった!」


「声を抑えろ」


 ドランが小声で注意する。


「帝国兵が近くにいないとは限らん」


 トーマは慌てて口を押さえた。


 ユウキは橋を見つめながら、鑑定を使った。


【鑑定結果】


名称:旧国境石橋

状態:老朽化


確認情報:

中央部の石材に亀裂あり。

西側の橋脚は比較的安定。

大きな衝撃や重量の集中に注意。


 ユウキは橋の中央へ視線を向けた。


 苔の下に細い亀裂が走っている。


 見た目には渡れそうだが、全員が一度に進めば危険かもしれない。


「橋は渡れそうです。でも、真ん中が少し弱っています」


 ドランが頷いた。


「なら、一人ずつ渡るか」


「はい。間隔を空けて進みたいです」


 バルドは対岸を見つめた。


「向こうへ渡れば、王国なのか?」


「地図が正しければな」


 ドランは古い地図を広げた。


「川が国境になっている。この橋の西側は、アルヴェイン王国の土地だ」


 ユウキの胸が高鳴った。


 あと少し。


 ほんの数十歩先に、帝国の外がある。


 しかし、そのときだった。


 ――カチリ。


 小さな金属音が聞こえた。


 ユウキは顔を上げた。


 橋の向こうではない。


 背後の森からだった。


「誰か来ます」


 バルドが振り返る。


「追手か?」


「まだ姿は見えません。でも、複数の足音が近づいています」


 ドランの表情が険しくなった。


「こんなところまで追ってきたのか」


 トーマが不安そうに尋ねる。


「どうする?」


 ユウキは橋と森を交互に見つめた。


 戦えば勝てる見込みは薄い。


 かといって、ここで立ち止まれば包囲される。


 橋を渡るしかない。


 ただし、全員が焦って走れば崩落する危険がある。


「まず、トーマが渡ってください」


 ユウキが言った。


 トーマは驚いたように顔を上げた。


「俺が?」


「うん。向こうへ着いたら、周囲を確認してほしい」


 トーマは少し緊張した顔で頷いた。


「わかった!」


「橋の真ん中では立ち止まらないで。左側の石が比較的しっかりしています」


 トーマは深く息を吸い、石橋へ足を踏み出した。


 ◇◆◇


 橋の下では、川が勢いよく流れていた。


 水面まではかなりの高さがある。


 トーマは足元を確かめながら、一歩ずつ進んだ。


 途中で石畳が小さく軋み、思わず足を止める。


「大丈夫か!」


 バルドが声をかけた。


「うん!」


 トーマはそう答え、再び歩き始めた。


 やがて、対岸へ辿り着く。


「渡れた!」


 小さな声が聞こえた。


 ユウキは安堵の息を吐いた。


「次はドランさん、お願いします」


 ドランは頷き、工具袋を背負い直した。


 橋を渡り始める直前、ユウキへ振り返る。


「お前は最後でいいのか?」


「バルドさんに支えてもらいます。先に向こうの安全を確かめてください」


「わかった」


 ドランは慎重に橋を渡った。


 古い石畳を踏みしめ、中央の亀裂を避けながら対岸へ進む。


 やがて、トーマの隣へ辿り着いた。


 残るのは、ユウキとバルド。


 そのとき、背後の森から声が響いた。


「いたぞ!」


 ユウキの背筋が冷たくなる。


 振り返ると、木々の間から帝国兵が姿を現していた。


 人数は五人。


 先頭には、これまで追跡を指揮していた隊長がいる。


「動くな!」


 隊長が剣を抜いた。


「逃亡者ども、そこまでだ!」


 バルドがユウキの肩を支え直す。


「急ぐぞ」


「はい!」


 二人は石橋へ足を踏み出した。


 ◇◆◇


「追え!」


 隊長の命令で、兵士たちが走り出した。


 しかし、橋の手前で一人が足を止める。


「隊長! この橋は危険です!」


「構わん! 逃がすな!」


 兵士たちは剣を握り、橋へ踏み込もうとした。


 その瞬間、ユウキは振り返って叫んだ。


「一度に渡らないでください!」


 隊長が顔をしかめる。


「何だと?」


「橋が壊れかけています! 大勢で乗ったら崩れます!」


 しかし、隊長は聞く耳を持たなかった。


「奴隷の言葉を信じるな!」


 兵士たちが橋へ進む。


 ユウキは唇を噛んだ。


 どうして、逃げるために誰かが死ななければならないのだろう。


 自分たちは、ただ自由になりたいだけなのに。


 その思いを抱えながら、バルドとともに橋の中央へ進む。


 石畳が小さく震えた。


 ――ミシッ。


 足元の亀裂が広がる。


 ユウキは振動感知へ意識を集中させた。


 橋脚から伝わる揺れ。


 背後から迫る兵士たちの足音。


 そして、川の流れが石橋を叩く振動。


 今の橋は、限界に近かった。


「バルドさん、少し左へ!」


 バルドが進路を変える。


 次の瞬間、右側の石畳が崩れ落ちた。


 ――ガラガラッ!


 石片が川へ落ち、水しぶきが上がる。


 兵士たちが足を止めた。


「何だ!?」


「橋が崩れている!」


 隊長が叫ぶ。


「下がれ! いったん下がれ!」


 兵士たちは慌てて後退した。


 しかし、その中の一人が足を滑らせた。


「うわっ!」


 若い兵士だった。


 身体が欄干の外へ傾き、右脚が宙へ投げ出される。


 ユウキは反射的に振り返った。


 助けたい。


 しかし、距離がある。


 自分が戻れば、バルドまで危険に晒してしまう。


 そのとき、隊長が若い兵士の腕を掴んだ。


「馬鹿者! しっかり掴まれ!」


 二人の身体が大きく揺れる。


 欄干の石が欠け、足元が崩れかけた。


 ユウキは息を呑んだ。


 このままでは、二人とも落ちるかもしれない。


「隊長さん!」


 ユウキは叫んだ。


「右じゃなくて、左の石に足を置いてください! そこなら、まだ支えがあります!」


 隊長が驚いたように顔を上げた。


「何……?」


「早く!」


 隊長は一瞬迷ったが、ユウキの言葉に従って足を移した。


 石畳が軋む。


 しかし、崩れなかった。


 ほかの兵士たちが駆け寄り、若い兵士を橋の手前へ引き戻した。


 全員が無事だった。


 ユウキは安堵した。


 しかし、その隙にバルドの足元が揺れた。


 ――ミシッ!


 亀裂が、二人のすぐ横まで広がっている。


「ユウキ!」


 バルドが叫ぶ。


「もう振り返るな!」


 ユウキは顔を上げた。


 そうだ。


 助けられる命があっても、すべてを自分一人で救えるわけではない。


 今は、仲間と生き残ることを優先しなければならない。


「はい!」


 二人は足元を確かめながら、橋の西側へ進んだ。


 対岸では、トーマが手を振っている。


「あと少し!」


 ドランも岩場へ身を乗り出した。


「バルド、こっちだ!」


 ユウキは最後の力を振り絞って足を動かした。


 一歩。


 もう一歩。


 そして。


 ――ザッ。


 靴底が、乾いた土を踏みしめた。


 石橋の終わり。


 アルヴェイン王国側の岸だった。


 ユウキは、国境を越えた。


 ◇◆◇


「渡れた……」


 トーマが呟いた。


 その声は震えていた。


 バルドも深く息を吐く。


「本当に、渡ったんだな」


 ドランは対岸を見つめた。


 帝国兵たちは、崩れかけた石橋の手前で足を止めている。


 これ以上進めば、橋そのものが崩落する危険があった。


 隊長はしばらくユウキたちを見つめていた。


 そして、静かに剣を下ろした。


「全員、撤退する」


 兵士の一人が驚いた。


「しかし、逃亡者が!」


「橋を渡れば、こちらまで犠牲者が出る」


 隊長は低い声で答えた。


「それに、向こうはアルヴェイン王国の領土だ。正式な許可なく兵を進めれば、国境問題になる」


 兵士たちは黙り込んだ。


 隊長は最後にもう一度、対岸を見つめた。


 そこには、黒髪の少年が立っている。


 先ほど、自分たちを助けた少年。


 追われる身でありながら、敵の命を守ろうとした少年だった。


 隊長は小さく息を吐いた。


「ユウキ・コバヤシ……か」


 そして、静かに背を向けた。


「本隊へ報告する。追跡は、ここでいったん中止だ」


 帝国兵たちは森の奥へ姿を消していった。


 ◇◆◇


 ユウキは、その様子を見つめていた。


 兵士たちの姿が完全に見えなくなるまで、誰も言葉を発しなかった。


 やがて、トーマが小さく呟く。


「本当に……追ってこない?」


 ドランが頷いた。


「少なくとも、あの橋を渡って追ってくることはできんだろう」


 バルドは大きく息を吐いた。


「ようやく、ここまで来たか」


 ユウキは川の向こうへ視線を向けた。


 ゼルガ帝国。


 そこには、灰の鉱山がある。


 多くの人が今も自由を奪われ、苦しんでいる。


 そして、リナもどこかに囚われているかもしれない。


 逃げ切れた喜びがある一方で、胸の奥には複雑な感情が残った。


「俺たちだけ、逃げてきてしまいましたね」


 思わず呟く。


 バルドが顔を向けた。


「どうした?」


「鉱山には、まだたくさんの人がいます。俺たちは逃げられたけど、みんなを助けられたわけじゃありません」


 バルドは静かに頷いた。


「ああ。そうだな」


 ユウキは俯いた。


「もっと強ければ……」


 その言葉を、バルドが遮った。


「ユウキ」


 ユウキは顔を上げた。


「お前は、今できることをやった」


 バルドは真剣な表情で続ける。


「わしら四人がここに立っている。それは、簡単なことじゃない」


 ユウキは黙っていた。


「すべてを救えなかったからといって、救えた命の価値がなくなるわけじゃない」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 エルナも、似たようなことを言っていた。


 誰かを救うために、自分を壊してはいけない。


 今は、生き延びること。


 それが、未来へ繋がる。


「はい」


 ユウキは静かに頷いた。


 そして、川の向こうへ深く頭を下げた。


「必ず、また戻ります」


 小さな声だった。


「今度は、誰かを助けられる力をつけて」


 その言葉に、バルドは何も言わなかった。


 ただ、静かに少年の隣へ立った。


 ◇◆◇


 国境を越えてから、四人は森の中を西へ進んだ。


 しばらく歩くと、木々の間に細い街道が見えてきた。


 帝国の道とは違い、道端には小さな石標が立っている。


 その表面には、見慣れない文字と王家の紋章が刻まれていた。


 ドランが近づく。


「アルヴェイン王国の境界標だ」


 トーマが嬉しそうに声を上げた。


「じゃあ、本当に王国なんだ!」


「ああ。もう帝国の領土じゃない」


 ドランは頷いた。


 ユウキも石標を見つめた。


 別の国。


 自分たちを奴隷として扱ってきた帝国とは異なる法律と、人々が暮らす場所。


 もちろん、ここが必ず安全だとは限らない。


 しかし、少なくとも帝国の兵士が自由に動ける土地ではなかった。


 ユウキは小さく息を吐いた。


「ここから、どうしましょうか」


 ドランは地図を広げた。


「近くに辺境の小さな町があるはずだ。街道を西へ進めば辿り着けるだろう」


 バルドが頷いた。


「まずはそこで、休める場所を探そう」


 トーマが手首の枷を持ち上げた。


「でも、このままだと目立つよね」


 その言葉に、全員が黙り込んだ。


 魔封石の枷。


 帝国を離れても、まだ身体に残された拘束具。


 逃亡の証であり、自由を奪われていた証でもある。


 ユウキは手首を見つめた。


「ドランさん」


「何だ?」


「王国に入ったら、この枷を外せる場所を探せませんか?」


 ドランは頷いた。


「ああ。それを考えていた」


 そして、少しだけ笑った。


「ここまで来れば、帝国の認証設備から離れた。だが、枷そのものの術式はまだ生きている。安全に外すには、工具と作業場が必要だ」


 ユウキは頷いた。


「わかりました」


「それに、わしはこういう仕事なら、少しは腕に覚えがある」


 ドランは自分の手を見つめた。


 長年、鉱山で機械や魔封石の装置を修理してきた手。


 奴隷として強制された仕事だった。


 しかし、その経験が今、仲間を助ける力になろうとしている。


「必ず外してやる」


 ドランは静かに言った。


 ユウキは微笑んだ。


「お願いします」


 ◇◆◇


 夕方。


 四人は街道沿いの小さな丘へ辿り着いた。


 そこからは、遠くに町の姿が見えた。


 石造りの建物。


 赤い屋根。


 そして、町を囲む低い城壁。


 門の上には、青い旗が揺れている。


「町だ!」


 トーマが声を上げた。


 バルドも目を細めた。


「ようやく、まともに休める場所が見つかりそうだな」


 ドランは慎重に周囲を確認している。


「ただし、入る前に考えなければならんことがある」


 ユウキが顔を向けた。


「枷のことですか?」


「ああ。王国側にも、身元を調べる兵士はいるだろう。奴隷の枷をつけたまま町へ入れば、面倒になる可能性がある」


 ユウキは頷いた。


 完全な自由には、まだ届いていない。


 国境を越えただけでは、終わらない。


 それでも、希望は見えていた。


「じゃあ、まずは町の外で安全な場所を探しましょう」


 ユウキが言った。


「ドランさんが作業できる場所があれば、そこで枷を外す方法を考えたいです」


 バルドが頷いた。


「そうだな。焦って町へ入る必要はない」


 トーマも笑った。


「俺、手伝えることがあれば何でもする!」


 ドランは少し考えた。


 そして、町の南側を指さした。


「あそこに古い水車小屋が見える。使われているかどうかはわからんが、作業場として使えるかもしれん」


 ユウキは目を向けた。


 確かに、川沿いに小さな建物が見える。


 屋根は一部が傷んでいるが、壁は残っていた。


「行ってみましょう」


 四人は頷き、丘を下り始めた。


 ◇◆◇


 夜。


 古い水車小屋には、静かな水音が響いていた。


 ドランは入口の扉を調べ、周囲に人の気配がないことを確認した。


「今は使われていないようだな」


 バルドが中を覗き込む。


 室内には古い木材や壊れた工具が残されていた。


 中央には、長年使われていない作業台がある。


 ドランはその光景を見て、小さく笑った。


「悪くない」


 ユウキが尋ねる。


「ここなら、できますか?」


「まだわからん。だが、道具を整えれば試せることはある」


 ドランは作業台へ手を置いた。


「明日、明るくなったら調べよう」


 ユウキは頷いた。


 そのとき、トーマが窓の外を指さした。


「ねえ、見て!」


 三人が顔を向ける。


 窓の向こうには、町の明かりが広がっていた。


 遠くからは、人々の声が聞こえる。


 笑い声。


 商人の呼び声。


 そして、どこかの家から響く音楽。


 ユウキは、その光景を静かに見つめた。


 人々が、自分の意思で生活している。


 誰かに命令されるのではなく、自分の家へ帰り、食事をして、明日のことを考えている。


 そんな当たり前の生活が、そこにはあった。


「ユウキ」


 バルドが声をかけた。


「どうした?」


 ユウキは振り返り、静かに微笑んだ。


「俺も、いつか……」


 少しだけ言葉を探す。


「こういう場所で、普通に暮らしてみたいです」


 バルドは小さく頷いた。


「ああ。きっとできる」


 トーマが笑った。


「俺も!」


 ドランも静かに頷く。


「そのためにも、まずは枷を外さないとな」


 ユウキは自分の手首を見つめた。


 冷たい鉄輪。


 魔力を抑制する魔封石。


 そして、帝国の支配を示す刻印。


 長い間、自分を縛り続けてきたもの。


 しかし、それも明日で終わるかもしれない。


 ユウキはゆっくりと拳を握った。


「はい」


 そして、静かに言った。


「明日、必ず自由になりましょう」


 ◇◆◇


 同じ頃。


 ゼルガ帝国の国境警備所では、灰色の外套をまとった男が報告書を読んでいた。


 そこには、異界人の少年がアルヴェイン王国へ逃亡したことが記されている。


 男はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに紙を置いた。


「国境を越えたか」


 隣に立つ兵士が尋ねる。


「追跡はどうしますか?」


「軍を越境させるわけにはいかん。ここでいったん打ち切る」


 兵士が頷く。


「承知しました」


 しかし、男は続けた。


「ただし、帝都には詳細を報告しろ。少年は第三坑道の封印と共鳴した唯一の異界人だ」


 その声には、強い警戒が滲んでいた。


「必ず、上層部が動く」


 男は窓の外へ視線を向けた。


 国境の向こうには、アルヴェイン王国が広がっている。


 そして、そのどこかに、ユウキ・コバヤシがいる。


「逃げ切ったと思うなよ」


 男は低く呟いた。


 その言葉は、誰にも届かなかった。


 ◇◆◇


 水車小屋では、四人が静かに眠る準備をしていた。


 ユウキは窓のそばへ腰を下ろし、夜空を見上げた。


 星が輝いている。


 エルナが最後に見つめていたのと、同じ空だった。


「エルナさん」


 ユウキは小さく呟いた。


「俺たち、国境を越えました」


 返事はない。


 それでも、ユウキは続けた。


「あと少しで、完全に自由になれます」


 そして、手首の枷へ触れた。


 明日、この鉄輪が外れたら。


 自分は何をするのだろう。


 何を選び、誰を助け、どんな未来を歩いていくのだろう。


 まだ答えは見つかっていない。


 けれど、一つだけ決めていることがある。


 もう、誰かに自分の人生を奪わせない。


 ユウキは静かに目を閉じた。


 そして、仲間たちの穏やかな寝息を聞きながら、ゆっくりと眠りについた。


――第29話 完。

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