第22話 灰の鉱山からの脱出
森の空気は、驚くほど冷たかった。
枝葉の隙間から夜明けの光が差し込み、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。鳥の声さえ聞こえるその景色が、ユウキには現実のものとは思えなかった。
つい先ほどまで、頭上には岩の天井があった。
息苦しい地下坑道を抜け、ようやく辿り着いた地上。
それなのに、自由になれたという実感はまだ湧いてこない。
手首と足首には、魔封石の枷が残っていたからだ。
「ユウキ、もう少し歩けるか?」
バルドが肩を貸しながら尋ねた。
「はい。少しなら」
そう答えたものの、脚は鉛のように重い。
岩牙獣との戦闘で負った傷は深く、脇腹から流れた血が服を固くしている。足を踏み出すたびに視界の端が暗くなり、今にも意識が途切れそうだった。
HPは二。
生きていること自体が、不思議なほどだった。
「無理するなよ」
トーマが心配そうに顔を覗き込む。
「俺、荷物なら全部持てるから」
「ありがとう。でも、トーマも病み上がりだろ?」
「もう熱はないって!」
そう言って胸を張ったトーマは、直後に小さく咳き込んだ。
ユウキは思わず笑いそうになったが、脇腹に痛みが走って顔をしかめる。
「ほら、お前ら二人とも無理しとる」
バルドが呆れたように言うと、先頭を歩いていたドランが振り返った。
「話している暇があるなら足を動かせ。ここはまだ鉱山の管理区域だ」
その言葉に、全員の表情が引き締まる。
ドランは周囲の木々を見渡しながら、低い声で続けた。
「第五坑道の換気口は、昔から使われていない。それでも、帝国が地図を調べれば場所はわかる。追手が来る前に谷を越えたい」
「谷?」
ユウキが尋ねる。
「ああ。この先に細い沢がある。そこを下れば、鉱山から続く古い作業道へ出られるはずだ」
バルドが頷いた。
「昔、資材を運んだ道か」
「覚えていたか」
「忘れるものか。あそこで何度も荷車を引かされた」
二人の会話を聞きながら、ユウキは遠くの森へ目を向けた。
まだ追手の姿は見えない。
しかし、いつまでも隠れ続けられるとは思えなかった。
そのときだった。
――ドン。
地面の奥から、微かな振動が伝わってきた。
ユウキは足を止める。
「待ってください」
バルドが振り返った。
「どうした?」
ユウキは近くの木へ手をつき、意識を集中させた。
振動感知。
まだ使い慣れた技能ではないが、足元の揺れから何かが近づいていることはわかった。
重い足音が複数。
そして、金属がぶつかる小さな振動。
「後ろから、誰か来ています」
ドランの顔が険しくなる。
「兵士か?」
「たぶん。人数までは正確にわかりませんけど、何人もいます」
トーマが青ざめた。
「もう追いつかれたのかよ……」
バルドは森の奥を見つめた。
「走るぞ」
しかし、ユウキは首を振った。
「俺が、この状態で走ったら、たぶん途中で倒れます」
その言葉に、三人が驚いたように顔を向ける。
以前なら、きっと無理をしてでも大丈夫だと言っていただろう。
だが、それでは駄目なのだと、ユウキはようやく理解し始めていた。
自分の限界を隠すことは、仲間を危険に晒すことにもなる。
「ごめんなさい。でも、だからこそ別の方法を考えたいです」
ドランが静かに尋ねた。
「何か考えがあるのか?」
ユウキは周囲を見回した。
左右には背の高い木々。
少し先には、斜面を下る獣道。
そして足元には、柔らかい土が広がっている。
追手は、おそらく足跡を辿ってくる。
ならば、足跡を残しにくい場所へ移動できれば、少しは時間を稼げるかもしれない。
「沢まで、どれくらいですか?」
「歩いて十分ほどだ。お前を支えながらなら、もっとかかる」
「じゃあ、先に沢へ向かいましょう。水の中を歩けば、追跡を遅らせられるかもしれません」
ドランは少し考え、頷いた。
「悪くない。ただ、沢に下りるまでの足跡は残る」
「それなら、途中で道を変えましょう。俺たちがまっすぐ逃げたと思わせられれば……」
そこまで言いかけたところで、バルドが小さく笑った。
「続けろ、坊主」
ユウキは顔を上げる。
「はい。追手を倒すんじゃなくて、見失わせたいんです」
バルドの表情が少し和らいだ。
「そうか。なら、その考えで行こう」
初めてだった。
自分の提案で、全員の進む道が決まったのは。
その重みを感じながら、ユウキは静かに頷いた。
◇◆◇
森を進む四人の背後で、枝を踏み折る音が響いた。
帝国兵たちだった。
先頭を歩く隊長は、地面に残された足跡を見つめている。
「四人だな」
隣の兵士が頷く。
「一人は負傷しているようです。足跡が不規則で、途中から別の者に支えられています」
「なら、遠くへは行けまい」
隊長は剣の柄へ手を置いた。
「上からの命令だ。黒髪の少年は必ず生かして捕らえろ。ほかの奴隷については、抵抗するなら武力を使って構わん」
兵士たちが頷く。
その一人が、遠くの木々を指さした。
「隊長、あちらに動く影が!」
隊長が顔を上げる。
森の奥で、枝が大きく揺れていた。
「追え!」
兵士たちが一斉に走り出す。
しかし、そこには誰もいなかった。
木の枝に引っかけられた古い布が、風に揺れているだけだった。
隊長は足元を見た。
布の下には、踏み荒らされた土。
そして、奥へ続く足跡がある。
「なるほど。こちらへ逃げたか」
兵士たちは、足跡を追って森の奥へ進んだ。
だが、その足跡は数十歩先で途切れていた。
「何だ?」
隊長が周囲を見回す。
そこは、倒木が積み重なった行き止まりだった。
兵士の一人が顔をしかめる。
「戻ったのでしょうか?」
隊長は舌打ちした。
「小細工をしおって……!」
その頃、ユウキたちは斜面を下り、細い沢へ辿り着いていた。
◇◆◇
冷たい水が、足首まで流れていた。
ユウキはバルドに支えられながら、浅い沢へ足を踏み入れる。
水に触れた瞬間、傷口が激しく疼いた。
「っ……!」
「無理するな、坊主」
バルドが支える腕に力を込める。
「少し休むか?」
「大丈夫です。ここまで来たら、もう少しだけ進みたいです」
そう答えたユウキの顔色は悪かった。
ドランは前方を確認しながら言った。
「沢の下流に、岩陰がある。そこなら一度身を隠せる」
トーマが振り返る。
「追手は?」
「まだ見えない。だが、油断するな」
四人は水の流れに沿って歩き始めた。
足元の石は滑りやすく、何度も転びそうになる。そのたびにバルドが身体を支え、トーマも横から手を貸した。
ユウキは申し訳なさを感じながらも、二人の助けを拒まなかった。
今は、自分一人で歩くことよりも、全員で先へ進むことが大切だった。
しばらくすると、沢の先に大きな岩が見えてきた。
ドランが足を止める。
「ここだ」
岩の裏側には、木々に囲まれた小さな空間があった。
外からは見えにくく、風も防げる。
四人はそこへ身を寄せた。
ユウキはようやく腰を下ろしたが、身体を動かした途端、視界が大きく揺れた。
「ユウキ!」
トーマの声が遠く聞こえる。
倒れそうになった身体を、バルドが支えた。
「しっかりしろ!」
ユウキは返事をしようとした。
しかし、声が出ない。
呼吸が浅くなり、指先が冷たくなっていく。
そして、視界の端に青白い文字が浮かんだ。
《警告》
《HPが危険域にあります》
《継続的な活動による生命維持への負荷を検出》
《休息を推奨します》
ユウキは目を閉じた。
身体が、もう限界だった。
◇◆◇
「まずいな」
ドランがユウキの顔を覗き込んだ。
「これ以上歩かせたら、本当に死ぬぞ」
バルドは唇を噛んだ。
額には深い皺が刻まれ、その顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。
「わかっとる。だが、追手が来る」
トーマはユウキの手を握りしめた。
「ユウキ、目を開けてくれよ……」
ユウキは薄く目を開いた。
「トーマ……」
「もう無理しなくていいから!」
少年の声は震えていた。
「俺たち、ちゃんと逃げられたんだろ? だから、少し休もうよ!」
その言葉に、ユウキは小さく頷いた。
確かに、ここまで来られた。
鉱山を抜け、森へ出て、追手の足跡を一度は振り切った。
今は、休むべきなのかもしれない。
しかし、まだ完全に安全ではない。
「ドランさん……」
ユウキはかすれた声で呼びかけた。
「何だ?」
「この先に、人が住んでいる場所はありますか?」
ドランは少し考えた。
「昔の作業道を西へ進めば、小さな集落があったはずだ。今も残っているかはわからんがな」
「どれくらいですか?」
「歩ける状態なら、半日ほどだ」
ユウキはゆっくりと息を吐いた。
半日。
今の自分が歩き切れる距離ではない。
それでも、助けを求められる場所があるかもしれない。
「じゃあ……まず、そこで休める場所を探しましょう」
バルドが頷いた。
「ああ。そのためにも、今はお前が休め」
ユウキは目を閉じた。
仲間の声が、少しずつ遠くなっていく。
◇◆◇
その頃、鉱山の地上入口では、帝国兵たちが慌ただしく動いていた。
灰色の外套をまとった男は、森へ向かった追跡隊からの報告を受けている。
「対象の足跡を見失いました」
兵士が頭を下げる。
「沢へ下りた形跡はありますが、その先で追跡が困難になっています」
男は険しい表情で森を見つめた。
「負傷した少年を連れて、そこまで逃げたというのか」
「はい。同行者に鉱夫と思われる者が複数いるようです」
男はしばらく黙っていた。
そして、静かに命じた。
「周辺の街道と集落を監視しろ。少年は重傷のはずだ。食料と治療を求めて、必ず人のいる場所へ向かう」
「承知しました」
兵士が走り去る。
男は深く息を吐いた。
第三坑道の封印は、完全に失われた。
あの奥から現れた存在が何なのかも、まだわかっていない。
そのうえ、異界人の少年まで逃げた。
帝都への報告は、避けられないだろう。
「ユウキ・コバヤシ……」
男は小さく呟いた。
「お前は、どこまでこの帝国を乱すつもりだ」
その背後で、第三坑道の方向から低い地鳴りが響いた。
男は振り返る。
崩れた鉱山の奥。
そこには、赤黒い光が微かに揺らめいていた。
◇◆◇
森の岩陰で、ユウキは静かに眠っていた。
バルドはその隣に座り、少年の呼吸を確かめている。
トーマは少し離れた場所で見張りを続け、ドランは地図の記憶を頼りに、集落へ続く道を考えていた。
誰も、もう鉱山へ戻りたいとは思わなかった。
しかし、ユウキが目を覚まさなければ、先へ進むこともできない。
バルドは少年の顔を見つめた。
最初に出会った頃のユウキは、いつも怯えた表情をしていた。
何かを言おうとしても、すぐに口を閉じる。
自分の考えよりも、相手の機嫌を優先する。
そんな少年だった。
しかし、今は違う。
まだ弱い。
戦う力も、経験も足りない。
それでも、仲間を守るために自分の意思を伝え、危険な状況でも考えることをやめなかった。
バルドは小さく笑った。
「まったく、変わった坊主だ」
トーマが振り返る。
「ユウキのこと?」
「ああ」
バルドは頷いた。
「わしらを助けようとして、何度も無茶をした。だが、最後には自分たち全員が生き残る道を考えた」
トーマはユウキを見つめた。
「俺、ユウキみたいになりたい」
バルドは少し驚いたように顔を上げる。
「ほう?」
「怖くても、ちゃんと考えて、誰かを助けられるようになりたいんだ」
その言葉に、バルドは静かに頷いた。
「なら、まずは自分が生き残ることを覚えろ」
「うん」
「それから、仲間を信じることだ」
トーマはもう一度頷いた。
バルドはユウキの肩へ布をかけ直した。
「この坊主も、ようやくそれを覚え始めたところだからな」
◇◆◇
どれくらい眠っていたのだろう。
ユウキは、頬を撫でる風の冷たさで目を覚ました。
頭上には、木々の隙間から見える青い空が広がっている。
鳥の声が聞こえた。
それは、鉱山の中では決して聞けなかった音だった。
「起きたか」
バルドの声がした。
ユウキはゆっくりと顔を向ける。
「バルドさん……」
「ああ。よく眠っていたぞ」
「どれくらいですか?」
「まだ一時間ほどだ」
ユウキは小さく頷いた。
身体は相変わらず痛む。
しかし、呼吸は少し落ち着いていた。
無理に立ち上がろうとすると、バルドが肩へ手を置いた。
「まだ動くな」
「でも、追手が……」
「わかっとる。だから、ドランが周囲を調べている」
ユウキは顔を上げた。
少し離れた場所では、トーマが見張りを続けている。
仲間たちは、自分が眠っている間も動いてくれていた。
ユウキは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
バルドは小さく笑った。
「礼を言うのは、わしらの方だ」
ユウキは驚いた。
「え?」
「お前がいなければ、わしらはまだ鉱山の中にいただろう」
バルドは遠くの森へ視線を向けた。
「ドランも、トーマも、わしも。もう二度と外の空を見られんと思っとった」
ユウキは黙って聞いていた。
「もちろん、お前一人の力で脱出できたわけじゃない。みんなで力を合わせたからこそ、ここまで来られた」
バルドはユウキへ視線を戻した。
「だが、最初に逃げようと言い出したのは、お前だ」
ユウキは目を見開いた。
バルドは静かに続けた。
「怖がりながらでも、自分の意思で決めた。それが、わしらをここまで連れてきたんだ」
ユウキの胸が熱くなった。
これまで、自分の意思を誰かに認めてもらったことは、ほとんどなかった。
何かを言えば怒鳴られる。
失敗すれば責められる。
だから、いつも黙っていた。
けれど今は、違う。
自分の考えを聞いてくれる人がいる。
間違えたときには、叱ってくれる人もいる。
そして、同じ未来を目指してくれる仲間がいる。
ユウキは目を伏せた。
「俺、まだ何もできませんよ」
「そんなことはない」
バルドは即座に答えた。
「お前は、少しずつできることを増やしとる」
ユウキは静かに息を吐いた。
そして、小さく笑った。
「もっと、強くなりたいです」
バルドは頷く。
「ああ。強くなれ」
その声は、温かかった。
「だが、力だけが強さじゃない。自分の弱さを知り、仲間を頼れることも強さだ」
ユウキは深く頷いた。
その言葉を、忘れないようにしようと思った。
◇◆◇
夕方。
森の奥で、ドランが戻ってきた。
「道を見つけたぞ」
ユウキたちが顔を上げる。
「ここから西へ進めば、古い作業道へ出られる。その先に小さな集落があるはずだ」
バルドが頷いた。
「よし。日が落ちる前に、少しでも進もう」
トーマも立ち上がった。
「俺、ユウキを支える!」
ユウキは小さく笑った。
「ありがとう。でも、無理はしないでね」
「それ、ユウキが言う?」
トーマの言葉に、全員が思わず笑った。
鉱山を出てから初めて、心から笑えた気がした。
ユウキはゆっくりと立ち上がる。
身体は痛む。
傷も治っていない。
手首には、まだ魔封石の枷が残っている。
それでも、もう一人ではなかった。
バルドが肩を貸し、トーマが荷物を持つ。
ドランは先頭を歩き、周囲を警戒している。
四人は、夕暮れの森を進み始めた。
やがて、木々の隙間から赤く染まった空が見えた。
ユウキは足を止め、その景色を見つめた。
自由。
まだ完全に手にしたわけではない。
帝国の追跡も続いている。
リナの居場所もわからない。
そして、第三坑道の奥では、何か恐ろしい存在が目覚めている。
それでも。
ここから先は、自分たちの意思で歩いていける。
ユウキは小さく息を吸った。
「行きましょう」
その声に、三人が頷いた。
灰の鉱山から始まった少年の物語は、今、新たな世界へ踏み出そうとしていた。
――第22話 完。




