第19話 見抜く力
冷たい水が、足首を濡らしていた。
暗い排水路を進むユウキの呼吸は浅く、エルヴィンの腕を肩に回したまま一歩踏み出すたび、脇腹に焼けるような痛みが走る。
壁に手をついて身体を支えようにも、手首の枷が邪魔をして思うように動けない。足首の鎖も歩幅を狭め、濡れた石床では何度も転びそうになった。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
エルヴィンは意識を失ったままだった。
応急処置を施した右肩の傷からは、布を通して血が滲んでいる。
「あと少しだけ、頑張ってください」
返事はない。
ユウキはエルヴィンの身体を支え直したが、次の一歩を踏み出そうとした瞬間、視界が暗くなった。
膝が折れる。
二人の身体が、浅い水の中へ崩れ落ちた。
「っ……!」
ユウキは咄嗟にエルヴィンの頭を抱え、水面へ沈まないよう支えた。
心臓が激しく脈打っている。
手足は冷たく、指先にも力が入らない。
昨夜からまともな食事も休息も取っていなかったうえ、岩牙獣との戦闘で受けた傷は深い。
魂盤に表示されたHPは、わずか二。
これ以上無理をすれば、命に関わることは自分でもわかっていた。
ユウキは息を整えながら、暗い通路の奥を見つめた。
このまま進むべきだろうか。
それとも、ここで休むべきか。
今までなら、ただ前へ進もうとしていたかもしれない。
立ち止まることは、諦めることと同じだと思っていたから。
しかし今は違う。
ここで自分が倒れれば、エルヴィンも助けられなくなる。
ユウキは周囲へ目を向けた。
水の流れ。
石壁の亀裂。
天井から垂れ下がる古い鉄管。
そして、少し先の壁にある窪み。
「あそこなら……」
ユウキはエルヴィンを支え、壁際の窪みへ移動した。
そこは排水路の点検用に造られた場所らしく、水が流れ込まないよう床が一段高くなっている。
二人が身体を休めるには、十分な広さだった。
ユウキはエルヴィンを横たえ、壁へ背を預けた。
足を伸ばした途端、全身から力が抜けていく。
それでも、目は閉じなかった。
今眠れば、次に目を覚ませるかわからなかったからだ。
◇◆◇
しばらくして、ユウキは新しく手に入れた技能を思い出した。
鑑定 Lv.2。
エルヴィンから奪った力。
その事実を思い出すたび、胸の奥が重くなる。
けれど、今はその力を使わなければならなかった。
ユウキは目の前のエルヴィンへ意識を向けた。
「鑑定」
視界に淡い文字が浮かぶ。
【鑑定結果】
名前:エルヴィン・クロード
種族:人間
状態:重傷・意識消失
確認できる情報:
右肩に深い損傷
出血による衰弱
魔力消耗
技能情報:一部のみ確認可能
ユウキは表示された内容を見つめた。
傷の深さは、自分が思っていた以上らしい。
しかし、鑑定が教えてくれるのは状態だけだった。
どう処置すればいいのか。
何を使えば助かるのか。
そこまでは表示されない。
「全部わかるわけじゃないんだ……」
ユウキは小さく呟いた。
便利な力ではある。
だが、これだけで誰かを救えるほど万能ではなかった。
ユウキはエルヴィンの傷口を覆う布を確かめた。
強く押さえ続けていたため、出血は少し落ち着いているように見える。
それでも安心はできない。
助けを呼びたい。
しかし、帝国兵に見つかれば、自分は再び拘束されるだろう。
それだけならまだしも、エルヴィンが負傷した原因まで自分に押しつけられる可能性もある。
ユウキは膝を抱え、考え込んだ。
そのとき、壁の奥から微かな振動が伝わってきた。
――コツ、コツ。
足音だった。
ユウキは顔を上げる。
振動感知を使い、意識を床へ集中させた。
足音は複数。
こちらへ近づいている。
兵士だろうか。
ユウキは息を殺した。
◇◆◇
同じ頃、第四坑道の奥では、バルドたちが古い連絡路を進んでいた。
先頭を歩くドランは小さな魔石灯を手に持ち、壁に刻まれた古い印を確認している。
その後ろにはバルド。
最後尾にはトーマがいた。
「本当に、この先に道があるのか?」
トーマが小声で尋ねる。
「昔はな」
ドランが答えた。
「第五坑道の排水設備は、第四坑道の古い運搬路と一部で繋がっていた。崩落後に閉鎖されたが、今朝の地鳴りで塞いでいた岩が動いたらしい」
バルドは周囲を見回した。
「ここを通ったのは、何年ぶりだろうな」
「思い出話なら後にしてくれ。兵士に見つかれば全員終わりだ」
ドランの言葉に、バルドは短く笑った。
「相変わらず口が悪い」
「お前も相変わらず無茶ばかりだ」
二人のやり取りを聞き、トーマは少しだけ緊張を緩めた。
しかし、その直後だった。
通路の向こうから、重い足音が響いた。
ドランが魔石灯を隠す。
「伏せろ」
三人はすぐに岩陰へ身を寄せた。
奥から現れたのは、二人の帝国兵だった。
「第三坑道の崩落地点は確認したのか?」
「ああ。だが、例の移送対象が見つからん」
「魔術師も一人行方不明だそうだ」
トーマの身体が強張った。
ユウキのことだ。
バルドが少年の肩へ手を置き、声を出さないよう合図する。
兵士たちはさらに話を続けた。
「上からは、見つけ次第確保しろとの命令だ。少年は生かして連れ戻せ、だとさ」
「魔術師の方は?」
「可能なら救助しろと聞いている。だが、この状況じゃな」
二人は足を止め、崩れた岩壁を見つめた。
「排水路にも捜索隊を入れるらしい」
「なら、俺たちも急いだ方がいいな」
兵士たちが通り過ぎる。
足音が遠ざかったことを確認してから、ドランが小さく息を吐いた。
「まずいな」
バルドが頷く。
「ああ。ユウキが排水路にいるなら、先に見つけにゃならん」
トーマは拳を握りしめた。
「絶対に、俺たちが先に見つけよう」
三人は再び歩き始めた。
◇◆◇
ユウキは壁際に身を寄せ、近づいてくる足音へ意識を集中させていた。
数は三つ。
いや、もう一つある。
遠くから、さらに重い振動が伝わってくる。
何かを引きずるような、不規則な音だった。
ユウキは眉をひそめた。
兵士の足音とは違う。
魔物かもしれない。
しかし、今の自分に戦う力はほとんど残っていない。
ユウキはエルヴィンを見た。
まだ意識は戻っていない。
ここを離れることも難しかった。
そのとき、天井から小さな石片が落ちてきた。
ユウキは顔を上げる。
頭上には、古い鉄管が通っていた。
その一部が錆び、壁の固定具が外れかけている。
何となく気になり、鑑定を使った。
【鑑定結果】
名称:旧排水路・補助管
状態:老朽化
備考:
第五坑道の排水設備に接続。
一部破損しており、強い振動により脱落する危険あり。
ユウキは息を呑んだ。
危険な設備。
しかし、使い方によっては役に立つかもしれない。
少し考えたあと、ユウキは首を振った。
無理に落とせば、通路が崩れる可能性がある。
しかも、エルヴィンを巻き込むかもしれない。
今は戦うより、隠れることが先だ。
ユウキは周囲を見回し、窪みの奥にある古い板を見つけた。
板を引き寄せ、入口へ斜めに立てかける。
完全に隠れることはできないが、通路から直接見えにくくなった。
そのままエルヴィンの隣へ戻り、じっと息を潜める。
足音が近づいてくる。
――コツ、コツ。
ユウキは耳を澄ませた。
「こっちで合ってるのか?」
聞こえてきた声に、心臓が跳ねた。
知っている声だった。
「古い排水路の印は、この先にもあるはずじゃ」
バルド。
ユウキは思わず立ち上がりかけた。
だが、すぐに動きを止める。
本当に本人だろうか。
ここまで聞こえたのは、二人の声だけ。
まだ姿は見えていない。
ユウキは慎重に耳を澄ませた。
「ドラン、もう少し灯りを落とせ。兵士に見つかったらどうする」
今度は、はっきりとわかった。
バルドの声だった。
「バルドさん……!」
ユウキは小さく呼びかけた。
足音が止まる。
しばらく沈黙が続き、やがて低い声が返ってきた。
「坊主か?」
ユウキの目に涙が浮かんだ。
「はい。俺です!」
次の瞬間、板の向こうから足音が駆け寄ってきた。
「ユウキ!」
トーマが真っ先に顔を覗かせた。
少年はユウキの姿を見ると、泣きそうな顔になった。
「生きてた……!」
ユウキは小さく笑った。
「うん。ただいま」
その直後、バルドが現れる。
老人はユウキの血に汚れた服を見て、表情を変えた。
「ひどい怪我じゃないか!」
「大丈夫です」
「どこが大丈夫だ!」
バルドはすぐに膝をつき、ユウキの肩を支えた。
「まったく、無茶ばかりしおって」
その声には、怒りよりも安堵が滲んでいた。
ユウキは笑おうとしたが、胸の痛みに顔をしかめた。
ドランも窪みへ入ってくる。
そして、倒れているエルヴィンを見て足を止めた。
「おい。こいつは誰だ?」
ユウキはゆっくりと答えた。
「帝国の魔術師です。俺を助けてくれた人で……今は、意識がありません」
ドランの表情が険しくなる。
「帝国の魔術師だと?」
バルドもエルヴィンを見つめた。
「坊主、どういうことだ?」
ユウキは少し迷ったが、これまでの出来事を簡潔に説明した。
第三坑道の崩落。
魔物との戦い。
エルヴィンが自分を庇って重傷を負ったこと。
そして、二人で旧排水路へ逃げ込んだこと。
ただし、鑑定を奪ったことはまだ話せなかった。
どう説明すればいいのか、自分でも整理できていなかったからだ。
話を聞いたバルドは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「助けてもらった恩があるのはわかった。だが、こいつを連れて逃げるのか?」
ユウキは頷いた。
「はい」
「帝国の魔術師だぞ」
「わかっています。でも、俺を助けてくれたんです。ここへ置いていったら、死んでしまうかもしれません」
バルドは眉をひそめた。
ドランも難しい表情を浮かべる。
「連れていくなら、相当な危険を背負うことになる。意識が戻れば、わしらの逃亡を帝国へ報告するかもしれん」
ユウキは黙っていた。
それは、自分でも考えていたことだった。
エルヴィンは敵かもしれない。
しかし、命を救ってくれた人でもある。
その二つの事実は、どちらも消えない。
ユウキはゆっくりと口を開いた。
「無理に、みんなを巻き込むつもりはありません」
バルドが顔を上げる。
「俺は助けたいです。でも、それでトーマやバルドさんまで危険になるなら、別の方法を考えたい」
ユウキはエルヴィンへ視線を向けた。
「まず安全な場所まで運んで、そこでどうするか決められませんか?」
老人はしばらくユウキを見つめていた。
以前の少年なら、ただ助けたいという気持ちだけで無茶をしたかもしれない。
しかし今は、自分の意思を伝えながら、仲間の安全についても考えている。
バルドは小さく息を吐いた。
「わかった。まずはここから離れよう」
トーマが頷く。
「俺も手伝う!」
ドランは苦い顔をしながら、エルヴィンの荷物を確認した。
「やれやれ。面倒なことになったな」
そう言いながらも、男はエルヴィンの身体を支え始めた。
ユウキは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分の考えを、仲間が受け止めてくれた。
それが、何より嬉しかった。
◇◆◇
五人は排水路の奥へ進んだ。
先頭はドラン。
その後ろをバルドとトーマがエルヴィンを支えながら歩き、ユウキは最後尾からゆっくりと続く。
しかし、数分もしないうちにユウキの足が止まった。
傷が痛む。
視界が霞み、呼吸も荒くなっていた。
「坊主、無理するな」
バルドが振り返る。
「少し休みましょう」
ユウキは素直に答えた。
以前なら、きっと大丈夫だと言っていた。
だが、今は自分の限界を理解していた。
無理をして倒れれば、仲間の負担が増える。
それは、誰かを守ることにはならない。
五人は少し広い場所で足を止めた。
ドランが魔石灯を壁際へ置く。
その光の中で、ユウキは再び鑑定を使った。
目の前の古い鉄扉へ意識を向ける。
【鑑定結果】
名称:第五坑道・旧排水管理扉
状態:施錠・老朽化
構造:
機械式施錠
魔力認証なし
備考:
保守点検用の扉。
開閉機構の一部が損傷している。
ユウキは目を見開いた。
「ドランさん、この扉……魔法じゃなくて、普通の鍵で開くみたいです」
ドランが顔を上げる。
「何?」
「鍵の仕組みが壊れかけているようです」
ドランは扉へ近づき、錆びた鍵穴を確認した。
「よくわかったな」
ユウキは少しだけ迷った。
そして、静かに答えた。
「新しい技能を手に入れたんです」
バルドとトーマが顔を上げる。
「技能?」
ユウキは頷いた。
「鑑定、という技能です。物の情報を少しだけ調べられます」
ドランの表情が変わった。
「鑑定だと?」
「はい」
男はしばらくユウキを見つめたあと、低い声で言った。
「それは、ずいぶん珍しい技能だぞ」
ユウキは頷いた。
しかし、どうやって手に入れたのかまでは話さなかった。
バルドも、それ以上は尋ねなかった。
今は、扉を開けることが先だったからだ。
ドランは道具箱から細い鉄製の工具を取り出し、鍵穴へ差し込んだ。
「魔力認証がないなら、試せる」
しばらく金属を動かす音が続く。
――カチリ。
小さな音が響いた。
ドランが扉へ手をかける。
重い鉄扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうから、冷たい風が吹き込んでくる。
トーマが歓声を上げかけた。
「やった!」
しかし、バルドがすぐに口元へ指を当てた。
「静かに」
五人は息を潜め、扉の向こうを見つめた。
そこには、古い石造りの階段が続いていた。
階段は、上へ向かっている。
ユウキの胸が高鳴った。
地上へ続いているのだろうか。
それとも、別の坑道へ繋がっているのだろうか。
まだわからない。
しかし、少なくとも前へ進む道は見つかった。
◇◆◇
その頃、第三坑道では帝国兵たちが捜索を続けていた。
崩れた岩を撤去しながら、移送対象の行方を探している。
灰色の外套をまとった男は、魔術師からの報告を受けていた。
「エルヴィン・クロードの魔力反応が、崩落地点の先で途絶えています」
「少年は?」
「依然として不明です」
男は黙って考え込んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「第五坑道を調べろ」
魔術師が驚いた。
「第五坑道ですか?」
「ああ。第三坑道の地下には、古い排水設備が残されている。崩落で通路が開いた可能性がある」
男は冷たい声で続けた。
「もし少年が生きているなら、そこを通ったはずだ」
魔術師は頷いた。
「直ちに捜索隊を向かわせます」
「ただし、少年は殺すな」
男の視線が鋭くなる。
「エルヴィンの生死も確認しろ。あの二人には、まだ調べるべきことがある」
命令を受けた魔術師が走り去る。
灰色の外套の男は、第三坑道の奥を見つめた。
巨大な石の扉は、今も不気味な光を放っている。
「ユウキ・コバヤシ……」
男は静かに呟いた。
「お前は、いったい何を隠している?」
◇◆◇
再び、第五坑道の古い階段。
ユウキたちは、慎重に足を進めていた。
階段の先には、微かな光が見える。
トーマが小声で言った。
「ねえ、あれ……外の光じゃない?」
バルドは目を細めた。
「まだわからん。魔石灯かもしれん」
ドランも頷く。
「焦るな。出口に見える場所ほど、罠があることもある」
ユウキは静かに前を見つめた。
そして、もう一度鑑定を使った。
視界に文字が浮かぶ。
【鑑定結果】
名称:第五坑道・旧換気通路
状態:一部損傷
備考:
外気の流入を確認。
地上との接続可能性あり。
ユウキは息を呑んだ。
「外の空気が入ってきています」
トーマが顔を上げる。
「本当?」
「うん。たぶん、この先に出口がある」
その言葉に、三人の表情が変わった。
長い間、暗い鉱山の中で過ごしてきた。
外の空気。
自由な空。
そんなものは、もう二度と見られないと思っていた。
それが、すぐ近くにあるかもしれない。
ユウキは胸の奥が熱くなるのを感じた。
しかし、そのとき。
足元から、微かな振動が伝わってきた。
――コツ、コツ。
足音。
しかも、複数。
ユウキはすぐに顔を上げた。
「待ってください」
全員が足を止める。
ユウキは床へ手を当て、意識を集中させた。
振動は、階段の上から伝わってくる。
人数は、少なくとも四人。
重い装備を身につけた者たちの足音だった。
ユウキの顔色が変わった。
「上に、誰かいます」
バルドが息を呑んだ。
「兵士か?」
「たぶん……」
ドランはすぐに魔石灯を消した。
階段が暗闇に包まれる。
その直後、上から声が響いた。
「この先だ。足跡が残っている」
帝国兵の声だった。
トーマがユウキの袖を掴む。
「どうする?」
ユウキは周囲を見回した。
後ろには、今通ってきた排水路。
前には、兵士たち。
仲間は負傷し、エルヴィンは意識を失っている。
正面から戦えば、勝ち目はない。
しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかなかった。
ユウキは静かに息を整えた。
今の自分には、鑑定がある。
振動感知もある。
そして、頼れる仲間がいる。
力任せに戦う必要はない。
相手を知り、状況を見極め、全員が生き残れる方法を探す。
それが、今の自分にできることだった。
ユウキは顔を上げた。
「みんな、少しだけ俺の話を聞いてください」
バルドが頷く。
「どうした?」
ユウキは階段の上を見つめた。
「戦わずに抜けられる方法があるかもしれません」
その声には、以前のような迷いはなかった。
トーマも、ドランも、静かに耳を傾ける。
ユウキは深く息を吸った。
そして、自分が考えた作戦を話し始めた。
自由への道は、もう目の前にある。
だが、その最後の一歩を踏み出すためには、もう一つの壁を越えなければならなかった。
――第19話 完。




